1556年 長良川の戦い
2008.08.09 [Sat] 04:32

4月の出来事カレンダー
1871, 長良川の戦い 【美濃のマムシは二人いた】 東京⇔大阪間で郵便制度と切手の発売 【通信記念日】. 21, 720 1583, 舎人親王らによって日本書紀が完成 【日本書紀を奏上】 賤ヶ岳の戦い 【勝家VS秀吉・賤ヶ岳の合戦】 ...(続きを読む)

明智光秀年表(南光坊天海年表追記)
1546 天文十五年 <随風、会津高田の龍興寺で住職舜幸の得度を受け、名を随風、無心と号す> 1549 天文十八年 <随風、比叡山に入山する> 1553 天文二十二年 妻木広忠の娘熙子と婚姻する。(『明智軍記』) 1556 弘治二年 《4月20日斉藤道三が長良川の戦い ...(続きを読む)

国盗りクイズ
1556年長良川の戦いで斎籐道三と斎籐義龍が激突したのは現在のどこ? 岐阜市.(続きを読む)

美濃のマムシは二人いた
弘治二年(1556年)4月20日は、『長良川の戦い』のあった日です。 この戦いは、あの「美濃のマムシ」と呼ばれた斉藤道三と、長男・義龍との戦いで、道三はこの合戦で討死していますので、今日は斉藤道三のご命日でもあるわけです。 ...(続きを読む)

[:ぎょ:] おそろしい記事を目にしました [:はうー:][:汗:] <夜中に ...
全てが必然でこういうことが起こるとしたら・・・[:ねずみ:] この場所 この時間 左のこめかみに刺さり深さ5cmで脳にまで達してたらしい ◇◇◇ 長良川の戦いで夜襲を掛けられ、放たれた矢がこめかみに刺さったのか・・・ の光景がみえました。 ...(続きを読む)

[国盗り合戦クイズコーナー]1556年の「長良川の戦い」で、斎藤道三と ...
岐阜県美濃市 三重県桑名市 愛知県愛西市 岐阜県岐阜市 A.岐阜県岐阜市.(続きを読む)

斎藤道三、長男・義竜との戦いで敗死/弘治2(1556)年4月20日
美濃の斎藤道三が、長男の義竜との長良川畔での戦いに破れ、死亡しました。 道三は2年前に義竜に家督を譲り隠居していましたが、意に反して家臣団からの支持を失ったのを不満とし、再起を図って挙兵しました。 しかし、道三の軍勢は約3千、義竜方は1万7千 ...(続きを読む)


関ヶ原の合戦前に、福島・池田らの東軍は岐阜城などを陥落させ赤坂に布陣します。....
関ヶ原の合戦前に、福島・池田らの東軍は岐阜城などを陥落させ赤坂に布陣します。その頃、家康が江戸をいつ出陣するのか不明でであり、赤坂まで一気に進出し布陣するのは危険ではないでしょうか揖斐川以東を制圧したといえ大垣周辺の西軍の兵力が増加した際は非常なリスクを持つと考えますが・・・(続きを読む)

愛知・岐阜・三重付近の航空写真を見ていると関ヶ原の合戦での西軍の戦略に疑問が....
愛知・岐阜・三重付近の航空写真を見ていると関ヶ原の合戦での西軍の戦略に疑問があります。確かに、伊勢路・北国の東軍加担の城を制圧するのは正当なことだと思いますが、せっかく岐阜において織田秀信など多くの大名を味方につけたのに何故、清洲城を攻略しなかったのか?伊勢路の重要性はわかりますが、先手必勝を考えると・・・三成ら西軍は、東軍の動きをどのように認識し、決戦から集結までどう考えていたのでしょうか?(続きを読む)

関ヶ原合戦において、東海道筋の重要拠点であった清洲城主は福島正則でしたが大坂....
関ヶ原合戦において、東海道筋の重要拠点であった清洲城主は福島正則でしたが大坂への進軍が最終目標の東軍にとっての最前線であったといえますよね?と、いうことは西軍が挙兵し江濃まで勢力が伸びてきたとの情報を得たときはどんな心境だったのでしょうか?西軍が絶対盤石でありそうなら西軍につこうかな?くらいは考えたのでしょうか・・・。三成と対立していることは知ってますが。心中はどうだったのでしょうか。(続きを読む)

「鉄砲」は、、、
「鉄砲」は、、、織田信長が一番最初に戦いで使ったのでしょうか?(´・ω・`)(続きを読む)

関ヶ原合戦の折り、三成西軍は兵站を維持し続ける問題について御教授お願い致しま...
関ヶ原合戦の折り、三成西軍は兵站を維持し続ける問題について御教授お願い致します。(続きを読む)

慶長5年の争乱で、8月23日美濃の岐阜城が陥落し福島正則ら東軍約4万は合渡、....
慶長5年の争乱で、8月23日美濃の岐阜城が陥落し福島正則ら東軍約4万は合渡、呂久の渡しで西軍を撃破。赤坂に着陣したことに江戸の家康は愁眉を開き、西上の途につきますがそれまで家康はこの戦いについてどう思案していたのでしょうか?東軍赤坂着陣まで江戸にいた家康の、この全国規模の合戦に対する考えについてご教授お願い致します。(続きを読む)

慶長5年の争乱、関ヶ原に至る前までの質問後編です。岐阜城の織田秀信を味方につ....
慶長5年の争乱、関ヶ原に至る前までの質問後編です。岐阜城の織田秀信を味方につけていた三成ら西軍は、大垣城−岐阜城−犬山城−竹ヶ鼻城−高須城で迎撃ラインを築いています。8月13日に東軍先手衆約3万5千が清洲城に入城しますが、西軍各城と清洲城の位置関係を見ると、濃尾戦線は三成ら西軍が優位に見えます。西軍の兵力不足と、福島らが清洲に着陣した時点で矢作川での東軍迎撃予定がこの線まで後退しますが(桐野氏著、関ヶ原)、三成ら西軍はこの濃尾平野迎撃線をどのよう戦略、軍略で考えていたのでしょうか?御教授御願い致します。(続きを読む)

徳川秀忠は、関ヶ原の合戦時に上杉を牽制しつつ中山道を進み、家康の命により濃尾....
徳川秀忠は、関ヶ原の合戦時に上杉を牽制しつつ中山道を進み、家康の命により濃尾へと向かいます。三成西軍の当初の理想的な軍略として清洲を落とし岡崎まで進出。矢作川付近で東軍と決戦を指向します。推論をお願いしたいのは、その際は果たして秀忠軍3万は中山道より濃尾へ進出しようとするのか、また西軍としては迎え撃つにどの地点で待つのか?(続きを読む)


 
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