無駄な買い物してしまったのです。アロマキャンドル
なので、当面、電気を消して、ろうそくのみで過ごしてやろうと思います。物産です。
教文の短編演劇祭、終わったみたいですねぇ。私は、時間的都合がどうしてもつかず、結局予選1日目しか見れなかったのですが...どうやら、優勝はイレブンナインさんだったようで。予選2日目の登場団体なので、全く作品観てないです。
たみー皇子、残念でしたね…。
久しぶりに、思いつくままに書く、本当の意味での徒然日記でも書こうと思います。
札幌では夏に、教文主催で演劇フェスティバルをやっているので、ワークショップやら、演劇公演やら、演劇に触れる機会が多くなります。(秋に向かい、アートステージ等もあるので、触れる機会はさらに増えますね)
最近は演劇活動お休み中の物産ですが、相変わらず観劇はしているし、ときどきワークショップなんかも参加していて、どうも、考えていることが溢れ気味です。
先日のこと
動きや声のトーン等、諸々を抑えた芝居をした後で「普段はめちゃくちゃ動くから、こういう芝居をするとフラストレーションが溜まる」というような内容のことを言っていた人がいました。ディティールは覚えていなくて、もしかしたら曲解しているかもしれませんが。おおむねそのようなニュアンスのことを。
私は、舞台上でバタバタ動き回ることを「演技」だとは思いません。
溢れる感情や思いは
身体を動かすことで、声に出すことで、何かしら発散されてしまうものだと思います。
ストレスが溜まったときや不安なとき、無意識に声を出したり、身体のどこかを動かしたりするもので。そうやって、少しでも自分を居心地よくさせるように、カラダは、ココロは、できているのだと思うのです。
こんな私でも、かれこれ6年もお芝居をやったり、観たりしているので、さすがに、見えてくることもあります。
舞台上にいる、板に立つ。
ただそれだけで、役者はとっても不安で、心細くて…手がブラブラ動いたり、喋るときに頭がぐらぐらしたり、黙って立っていられなくて、もぞもぞしたり…しがち、だなぁと思います。
表現したいことがあったとき、逃がさずに、出したいと思った方向(手をブラブラさせてしまうとか、身体がブレるとか、すぐにしゃべっちゃうとか)では無い方法論で表現できること、を、「演じる」ことと言うのだと私は考えています。
それは、時には、身体の動きであったり、セリフの言い方だったりはするけれど、少なくとも、終始舞台上で動き続けている、ということとは違うと思うのです。
舞台上で常に何かが起こっていないと不安なのは、役者自身が(または演出家が)不安であるだけで、観客は、その張り詰めた「間」や空気を楽しめる余裕を持っているし、それを楽しむのが「演劇」なんじゃないのかなぁ?なんて考えていたりします。
身体動かしたいなら、踊ってりゃいい。
一見意味不明な身体表現が、実は象徴的であることも、もちろんあります。
でも、無意味な身体の動き・ポーズをつけながらのセリフって……私は、なんだか違和感あるんですよねぇ……。
演劇を観る機会の少ない友人曰く「たとえばテレビの時代劇で演技が大げさなのと同じで、演劇というのはそういうものなんだ、と思って観ている」そうですが。
あの大げさなカラダの動きとかって、映像のナチュラルな演技に慣れた、演劇観たこと無い人たちがヒいてしまう要素の1つだと私は思うのですが…。
だって、小劇場なんて、キャパせいぜい100人。わざわざ身体表現を大げさにしなくても、最後列からでも充分に見えるし、伝わるはずなのです。
あくまでも、個人的見解ですが。
でも、こないだ参加したワークショップでも、「観客に伝えることに集中するのではなく、まずは自分(役者自身)が信じている物を表現することに集中すること。自分に見えていれば、観客には自然に伝わる」ということを散々教わったのです。
私は、自分のことを役者というカテゴリーよりは観客側なんだと思ってるし、だからこそ、自分で演るときは、自分が観たいものをやりたいと思っています。
その代わり、動くということへのベクトルでバリエーションがとっても少ないし、動くことに対して臆病になっている自覚もあります。
身体を動かしての表現は好きだし、たとえばTAPを踊ることがめちゃくちゃ楽しいです。
逆に、一瞬の動きに封じられる写真の活動も好き。1枚の写真から広がる物語・イメージというものは、ある意味無限ですしね。
喋れない
動けない(まばたきできないとか、何か無理な体勢をキープするとかも含めて)
何かしらの制約があったときのほうが、表現の幅は、絶対に広がると思うのです。
なんだか、こうして書いてみたら異常に当たり前のことばかりですね(苦笑)

なので、当面、電気を消して、ろうそくのみで過ごしてやろうと思います。物産です。
教文の短編演劇祭、終わったみたいですねぇ。私は、時間的都合がどうしてもつかず、結局予選1日目しか見れなかったのですが...どうやら、優勝はイレブンナインさんだったようで。予選2日目の登場団体なので、全く作品観てないです。
たみー皇子、残念でしたね…。
久しぶりに、思いつくままに書く、本当の意味での徒然日記でも書こうと思います。
札幌では夏に、教文主催で演劇フェスティバルをやっているので、ワークショップやら、演劇公演やら、演劇に触れる機会が多くなります。(秋に向かい、アートステージ等もあるので、触れる機会はさらに増えますね)
最近は演劇活動お休み中の物産ですが、相変わらず観劇はしているし、ときどきワークショップなんかも参加していて、どうも、考えていることが溢れ気味です。
先日のこと
動きや声のトーン等、諸々を抑えた芝居をした後で「普段はめちゃくちゃ動くから、こういう芝居をするとフラストレーションが溜まる」というような内容のことを言っていた人がいました。ディティールは覚えていなくて、もしかしたら曲解しているかもしれませんが。おおむねそのようなニュアンスのことを。
私は、舞台上でバタバタ動き回ることを「演技」だとは思いません。
溢れる感情や思いは
身体を動かすことで、声に出すことで、何かしら発散されてしまうものだと思います。
ストレスが溜まったときや不安なとき、無意識に声を出したり、身体のどこかを動かしたりするもので。そうやって、少しでも自分を居心地よくさせるように、カラダは、ココロは、できているのだと思うのです。
こんな私でも、かれこれ6年もお芝居をやったり、観たりしているので、さすがに、見えてくることもあります。
舞台上にいる、板に立つ。
ただそれだけで、役者はとっても不安で、心細くて…手がブラブラ動いたり、喋るときに頭がぐらぐらしたり、黙って立っていられなくて、もぞもぞしたり…しがち、だなぁと思います。
表現したいことがあったとき、逃がさずに、出したいと思った方向(手をブラブラさせてしまうとか、身体がブレるとか、すぐにしゃべっちゃうとか)では無い方法論で表現できること、を、「演じる」ことと言うのだと私は考えています。
それは、時には、身体の動きであったり、セリフの言い方だったりはするけれど、少なくとも、終始舞台上で動き続けている、ということとは違うと思うのです。
舞台上で常に何かが起こっていないと不安なのは、役者自身が(または演出家が)不安であるだけで、観客は、その張り詰めた「間」や空気を楽しめる余裕を持っているし、それを楽しむのが「演劇」なんじゃないのかなぁ?なんて考えていたりします。
身体動かしたいなら、踊ってりゃいい。
一見意味不明な身体表現が、実は象徴的であることも、もちろんあります。
でも、無意味な身体の動き・ポーズをつけながらのセリフって……私は、なんだか違和感あるんですよねぇ……。
演劇を観る機会の少ない友人曰く「たとえばテレビの時代劇で演技が大げさなのと同じで、演劇というのはそういうものなんだ、と思って観ている」そうですが。
あの大げさなカラダの動きとかって、映像のナチュラルな演技に慣れた、演劇観たこと無い人たちがヒいてしまう要素の1つだと私は思うのですが…。
だって、小劇場なんて、キャパせいぜい100人。わざわざ身体表現を大げさにしなくても、最後列からでも充分に見えるし、伝わるはずなのです。
あくまでも、個人的見解ですが。
でも、こないだ参加したワークショップでも、「観客に伝えることに集中するのではなく、まずは自分(役者自身)が信じている物を表現することに集中すること。自分に見えていれば、観客には自然に伝わる」ということを散々教わったのです。
私は、自分のことを役者というカテゴリーよりは観客側なんだと思ってるし、だからこそ、自分で演るときは、自分が観たいものをやりたいと思っています。
その代わり、動くということへのベクトルでバリエーションがとっても少ないし、動くことに対して臆病になっている自覚もあります。
身体を動かしての表現は好きだし、たとえばTAPを踊ることがめちゃくちゃ楽しいです。
逆に、一瞬の動きに封じられる写真の活動も好き。1枚の写真から広がる物語・イメージというものは、ある意味無限ですしね。
喋れない
動けない(まばたきできないとか、何か無理な体勢をキープするとかも含めて)
何かしらの制約があったときのほうが、表現の幅は、絶対に広がると思うのです。
なんだか、こうして書いてみたら異常に当たり前のことばかりですね(苦笑)
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