不安を引き起こすこと

April 21 [Mon], 2014, 20:33
疎外は本質的に強いられた選択によって特徴づけられるのだが、その選択は主体にとっての存在を不可能にし、その代わりに象徴的秩序を創設し、主体をその秩序に場を占める者としての単なる現実存在へと格下げする。他方で分離は存在を生じさせるのだが、しかしその存在は著しくはかなく、とらえどころこのない類のものである。疎外がきわめて非対称などちらかという選択にもとづいているのに対して、分離はどちらでもないという選択にもとづいている。分離は、主体と他者の両方が除外される状況を意味する。それゆえ主体の存在は、ある意味で外側から、主体や他者ではない他の何かから、厳密にどちらでもない何かからやってくるのでなければならない。分離に関する本質的な考えのひとつは、二つの欠如の並置、重なり、一致というものである。これは欠如の欠如、すなわち欠如がない状況と混同されてはならない。何が不安を引き起こすのでしょうか。人々が言うのとは反対に、それは母の現前不在のリズムでも交代でもありません。子どもが現前不在のゲームの繰り返しに没頭するという事実がこのことを証明しています。

頭を悩ました議論

April 17 [Thu], 2014, 12:18
ある公理体系は、その公理体系を構成する定義や公理を用いることでその公理体系のなかで形式的に表現されうる一定の命題の妥当性を決定することはできない、という定理である。したがって、そのような体系は、すべてのシニフィアンの集合は存在しないという理由でラカンの考える言語がそうであるように、構造的に全体化不可能なのである。様々な領域を公理化しようとする試みは、ふつう、それら諸領域のなかでつくられうるすべての可能な命題を説明するために行われる。ここでのラカンの立場は、何か例外的なものがつねに言語のなかに現れるというものである。不可解で説明不可能なもの、すなわちひとつのアポリアが現れるのである。これらのアポリアが指示しているのは、象徴的なもののなかの現実的なものの現前、あるいは象徴的なものに対する現実的なものの影響である。これらを、象徴的秩序の欠陥と呼ぼう。20世紀初頭にパートランドラッセルが頭を悩ました議論が、そのようなアポリアを構成している。彼は、自分自身を掲載物として含まないカタログをすべて含んだカタログの地位について考察しようとした。

プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:あゆみん
読者になる
2014年04月
« 前の月  |  次の月 »
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
最新コメント
ヤプミー!一覧
読者になる
P R
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
http://yaplog.jp/valjgaie/index1_0.rdf