かなり時間がたちました・・・ 

2005年08月13日(土) 13時35分
原爆が投下された事で終わりましたね。親戚も誰もその日の事は話してくれませんでした「沈黙」それが、親族の答え、そして父もまた同じでした。ただ・・・まだ私自身・「原爆ドーム」すら、観光地でしたから。初めての恐れは、父のおばからいきなり・上半身裸になられて。しばらくは、口が聞けませんでした「体半分のケロイド・半分は白い綺麗な肌です」どうしたらこのような、火傷・・・そっと触りました。「是が、証拠や、覚えといてな、忘れたらあかんで。」・・・いつ亡くなったのか、もはや記憶はありません。どう表現したら良いのか?丁度、海で半身だけ日焼けした漢字、線が引いてあるような、感じですおばは、ご主人を見送っていた、時、いきなり記憶がないそうです。半身が丁度「ひさし」の中、その部分だけが・大火傷です。一体どんな火力ならそうなるのか、私には解りません。「語らない」叔父達・半身を見せただけのおば達、まだ「原爆の記憶は封印されています」誰も語らない。確かに、語ることも出来ない大きな「闇」・・・

放射能の恐ろしさ・・・ 

2005年08月05日(金) 15時26分
父は、広島県人でした。腎臓機能不全で、39歳で死亡私は、3歳で「腎臓機能不全」深紅の尿でした。2年入院。私と父がなぜ?初めは、何も父は語らず。後日13歳の或る日「すまない。もしかしたら、俺のせいかもしれない。多分原爆投下のその日、親戚を探しに・・・」当時父は、入退院を繰り返していました。大阪で働いていたのです。帰郷時の出来事でした。それでも意味はわかりません。出された本が「黒い雨」でしたいまだに、納得できません。何が原因か解らない。現実は「黒い雨」に触れた父放射能の恐怖解るには時間がかかりました。父の記憶・8・4日大阪から、朝方広島着、そのまま親戚の家に。話し込んで「泊まって行きなさい」振り切って、最後の舟で、島に帰ったのです。最後の言葉は「ゆきさん、帰りにまたなあ」・・・もう24時間もありません・・・明日は60回目の「折鶴の日」

はじめまして・・・ 

2005年08月04日(木) 7時45分
なぜ???自分自身にも、ためらいはあります。でも、書かねばいけない想いもあります。 1949年に生まれました。今を見つめながら、時の流れを、たどってみたいと、 田舎の、小さな工場の社員宿舎で生まれた日からの記憶。どこまで続くか・・・?生まれた時の記憶はなし・・・山で囲まれて、池で泳ぎ、田んぼには「鷺」が飛び・タニシをついばんでいました。そう小さな流れには「可愛いめだかが泳いで」今でもある、自然一杯のところです。でも、柱に、ムシロを囲んで、屋根は、トタンの小屋。人が住んでいるのです。考えられますか?私のクラスにも二人いました。まだ50年も経っていないのですよ。なれないので、今日はここまで・・・
2005年08月
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