欠如の地位

May 12 [Mon], 2014, 16:55
ラカンのテクストにおいて、記号が持つ意味は時がたつにつれてしばしば著しく変化している。他者のなかの欠如あるいは他者の欲望のシニフィアンを指し示すものから、最初の喪失のシニフィアンを指し示すものへと移行している。この移行は、ラカンの仕事によくあることだが、象徴的なものから現実的なものへの領域の変化と対応している。男のもとに見いだされるすべての要素は象徴的なものと関係しており、女のもとに見いだされるすべての要素は現実的なものと関係している。この最初の喪失は、きわめて様々な仕方で理解することができる。それは象徴的なものと現実的なものとの境界線上で、最初のシニフィアンの喪失として理解することができるだろう。原抑圧が生じるのはそのときである。その最初のシニフィアンの消失は、シニフィアンの秩序そのものを創設するのに不可欠である。他の何かが生じるためには、ひとつの除外がなければならない。その最初に除外されたシニフィアンの地位は、他のシニフィアンのそれとは明らかに異なっており、象徴的なものと現実的なものとの境界現象そのものであり、主体の起源における原初的な喪失あるいは欠如の地位にきわめて似ている。

何かを欲している

May 11 [Sun], 2014, 23:01
ファルスを超える領域の現実存在を否定しながらも、その外存在は決して否定しない。それゆえ女は、とにもかくにも、少なくとも男と同じくらいには完全である。なぜなら男はファルス関数との関係においてのみ全体であるからだ。女はファルス関数の観点から考えられる場合を除けば男に劣らず全体なのである。女が未規定ないし不確定なのは、ファルス関数との関係において考えられる場合を除けば、男と同じ程度にすぎない。ラカンがつけ加えるのは、女は概して私たちの文化のなかでは、男あるいは男の審級を媒介にして、すなわち男という精神分析的なカテゴリーに属す者を媒介にして、欲望のシニフィアンにアクセスする、という考えである。何かが何かに対して外存在するなら、それはまさに、それらが対にはなっておらず、もしこのような造語を使ってよければ、三対になっているからです。女が一方ではファルスと対になっているが、他方では他者のなかの欠如あるいは穴のシニフィアンと密接に結びつくことで三対になってもいるということが分かる。その欠如とは、単に言語が欲望に苛まれているということを示すような、そして他者のアバターとしての母あるいは父は完全ではなく、それゆえ何かを欲しているということを示すような欠如のことではない。

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