特定の歴史的な瞬間

May 16 [Fri], 2014, 17:57
精神分析の理論と教育はヒステリー者のディスクールを用いる。これもまた最良の場合においてであり、それはしばしば答えられないすべての問いに対して言い逃れをする教条主義的な企てにすぎないものとなる。社会的政治的な制度としての様々な精神分析の協会は多様なディスクールを用いるかもしれない。ラカンは明らかに精神分析の協会は特定の仕方で機能すべきであると考えていた。しかし精神分析の協会がラカンにしたがえば理想的にはどのようなディスクールを用いるべきなのか、そして実際にはどのようなディスクールを用いているのかに関する議論は別の機会に譲りたい。分析家たちが用いるディスクールの多様性は驚くべきものではない。なぜなら他のプラクシスにおいても同様だからである。医師は臨床的な実践において、それが患者を健康へと復帰させるのであれば、暗示、脅し、気休めの薬や言葉、高い料金、罪のない嘘など、どのような手段であれ用いるだろう。より理論的な試みにおいては特定の歴史的な瞬間において受け入れられている科学のディスクールを用いるかもしれない。

ある言語の真理

May 14 [Wed], 2014, 15:35
ラカンが新たな仕方で性的差異を定式化することができたのは、少なくとも部分的には、ほとんどの精神分析家にとってはやや珍しい研究領域におけるラカンの取り組みのおかげだと言うことができるだろう。ラカンによる性的差異を表す新たな隠喩は新たな症状を構成する。性的差異を理解するためのこの新たな方法は、それ以前の方法とまったく同様に、それ自体ひとつの症状なのである。症状はつねに人にあるものを見させ、他のものを見ないようにさせる。このような症候論的な観点を形存するならば、ゲーデル的構造主義と呼びたくなるかもしれない。というのも、それは構造の必然的な不完全性と、そのうちでなされる一定の言明が持つ根本的な決定不可能性を絶えず指し示しながらも、構造としての地位を維持しているからである。ゲーデルは、あらゆる有意味な形式的体系にはいくらかの決定不可能な言明が含まれており、ある言語の真理を、その同じ言語のなかで決定することはできないと考えた。ラカンは明らかにこのようなゲーデルの考えを採用している。

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