祝福をもたらす祝福 

2005年06月14日(火) 18時13分
「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」半月ぶりにこの聖書ブログをさわる時間が与えられ、感謝しています。アブラハムへの祝福というのは、神の民イスラエルの父祖(始めの人)であるアブラハムへの神の祝福です。アブラハムは信仰によって神に義と認められ、神の祝福で満たされるようになりました。しかし、アブラハムへの神の祝福は自己中心なものではなく、神の祝福を世界にもたらす祝福です。たとえば、ある人が美味しいお菓子をヨーロッパで見つけたとします。それだけでも祝福ですが、その情報を日本に帰ってきてみんなに伝えたり、そのお菓子を日本で売る仕事をするなら、もっと大きな喜びで満たされるはずです。それに似ています。キリストを救い主と信じるなら、アブラハムのように、神の祝福を周りの人にもたらす人となるのです。

義人は信仰によって生きる 

2005年05月27日(金) 19時43分
「というのは、律法の行いによる人々は、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、全てのことを堅く守って実行しなければ、だれでも、みなのろわれる。』ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、誰もいないのは明らかです。『義人は信仰によって生きる』のだからです。」(ガラテヤ3:10-11)信仰によって生きるのは、神の恵みを信頼して、自分の行いに頼るのをやめてしまう人生です。自分なんかハナからあてにならない。実にいい加減な人間だと認めてしまうことです。現代社会の持つ一つの神話の中に、完全主義というのがあります。これは100点とらなければならない、さもなければ満足できないというものです。この神話の中では、不良品は0でなければならないのです。しかし、それはあくまでも神話であって、現実ではありません。たとえ機械によってそれが可能であっても、人間には不可能です。工場のラインであっても、全工程が完璧に流れることを想定していたら、たちどころに製造計画が破綻するでしょう。人生には、一生懸命やっていてもうまくいかないこともあります。完璧をめざしていても、いつも完璧であるとは限りません。だから、問題はいかにすれば完全になれるかであって、完全でないことを責めても完全にはなりません。完全に近づくために必要なのは、そのための様々な力です。聖書の神は、私たちがキリストを信じるときに本当は不合格である私たちを合格とし、私たちがあくまでも信仰によって生きる時、キリストと似ても似つかない私たちをキリストに似たものに変革する力を与えるのです。そのはじめの第一歩は、自分のありのままの姿を認めて、自分の力に頼るのをやめてしまうことなのです。

律法以前 

2005年05月26日(木) 7時06分
「聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、『あなたによって全ての国民が祝福される』と前もって福音を告げたのです。」(ガラテヤ3:8)異邦人はユダヤ人以外の民族のことで、旧約聖書の律法を持っていない人たちのことです。アブラハムはユダヤ民族の父祖ですが、まだ具体的な律法は与えられていませんでした。しかし、アブラハムは神の約束のことば(福音)を聞いてそれを信じたので、神は彼を義と認めたのです。やがてモーセの時に与えられる律法は、イスラエルの人々が神の民であることのしるしであり、あくまでも、既に神の民とされた人たちが守るべき事柄であって、決して異邦人が神の民となるための条件ではないのです。それは、異邦人にとっては、(たとえ具体的な律法は持たなくても)自分の良心の声に聞き従うこと(ローマ2:14−15)なのですが、わたしたちの良心は神から離れ、神の性質を完全に反映させることが出来なくなっているのです。しかし、イエス・キリストの十字架の死と復活にあらわされた福音を信じるとき、神はわたしたちを義と認め、その結果として聖霊が与えてくださるのです。この聖霊が完全な律法としてわたしたちの良心をきよめるのです。そのとき、わたしたちは神のことばに聞き従い、神の民としてふさわしく生きるように変えられていくのです。それは、神の似姿としての人間の姿を回復させられることなのです。

ニセモノの愛 

2005年05月19日(木) 23時25分
「あなたがたがあれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。」(ガラテヤ3:4)キリスト者と呼ばれる人たちも、洗礼を受けて数年たって、全く信仰と関係のない生活をする人がいます。それも例外ではなく、たくさんいます。いったいこれはどういう了見なのでしょうか。洗礼はウソだったということになります。牧師になる前はあんまり気にも留めませんでしたが、自分が洗礼を授けた人が特に理由もなく礼拝に来ることを止めてしまった時、いったいこれはどういうことなのかと悩みました。「オレはだまされた!」そう思いました。「そんなに簡単にイエス様を裏切るなんて許せない。」そうも思いました。しかし、いずれにしても、そんな簡単なウソも見抜けなかった自分のせいだ。そうも思いました。しかし、それにしても、ウソの洗礼に何の意味があるんだろう?そう考えると、そのときはそのときでウソじゃなかったけれど、結果的にウソをついたことになってしまったというのが本当なのかもしれません。しかし、その本質的な問題は、主イエスに対する愛であり、その愛が人間の愛であるなら、所詮長続きはしないものです。神が与えてくださった愛に対する応答でない限り、その愛はニセモノです。ということは、結局は主イエスの愛を知っているかどうかであり、主イエスの愛を知るためには、自分の罪を知り、自分のために十字架で身代わりになって死んでくださった主イエスと出会うしかないのです。自分のために命懸けで愛してくださった方の愛を受け入れる時、その愛は永遠に失われることがないからです。

信仰の自己矛盾 

2005年05月19日(木) 7時25分
「ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰を持って聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成させられるというのですか。」(ガラテヤ3:2)ここで「肉」というのは人間の生まれながらの性質であり、神から離れている人間が決して神を喜ばすことが出来ない存在であることを示します。なぜ「肉」というのかといえば、それが、人間の「行い」によって神に認められようとする性質であるからです。神を喜ばせるために、または神に認められるために何を行うべきかということは、それぞれの文化や宗教が決めており、パウロをはじめとする初代のキリスト者の背景にあるユダヤ教にはユダヤ教の「律法」があって、それを行うことで神が認めてくれると考えるわけです。キリスト教は、この「肉の行い」と呼ばれる人間の宗教的な行為によって神に認められることを全て否定します。人間は神に認められるような行いを絶対にすることはできない、罪人として理解されるからです。罪人でありながら神を喜ばせることが出来ると考えてそうしようとすることこそが「肉」であって、そこにとどまっている限りキリスト者ではないわけです。キリスト者とは、信仰によって自分の「肉」をキリストと共に十字架につけてしまった人のことです。だから、自分の行いなんかに頼ったりはしません。かえって、自分の弱さ、罪、不完全さ、汚れを告白します。そして、頼るべきは自分の内に住んでいる神の御霊であり、このいける神の御霊がこんな罪人でさえもきよめて神に従う力を与えてくださると信じるのです。ですから、キリスト者にとって行いは信仰の結果、神が与えてくださる賜物であり、決して神に認められる手段ではないのです。

ポイントカードからフリーパスへ 

2005年05月13日(金) 6時54分
「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとするとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(ガラテヤ2:21)世の中には無駄というものがたくさんあります。しかし、ある意味で宗教ほど無駄なものもありません。宗教は、無限の神のみこころを人間が推し量って、自分勝手な儀礼や戒律や教理を作り上げて、それをことごとく守ることで神に受け入れられようとする人間共通の試みです。しかし、様々な宗教を混合したり、統合したり、昇華したりしても、有限な人間がそ無限の神のお考えを勝手に決めることそのものが無茶というものです。パウロの言う「義」というのは、神の前に「合格」することであり、ここで「律法」は人間の宗教的行為です。パウロは、人間の側の宗教が神の目に合格することはないといっているのです。そんなことを求めることは全くの見当違いであり、無駄以外の何ものでもありません。キリストの福音は、神の恵みを信仰によって受け入れることを私たちに求めます。それは宗教による救いを否定するものです。神の恵みはイエス・キリストの十字架の死です。神のひとり子がいのちを与えてくださった。もし私たちが自分の身代わりにイエスが死んでくださっと信じるなら、イエスの与えたいのちが私のうちに与えられて、新しく生まれ変わるのです。この新生がなければ、あらゆる宗教行為は無駄そのものなのです。神の前に合格するのはポイントを稼ぐことによっては不可能です。福音はポイントカードではなくフリーパスなのです。そのフリーパスの代金はすでにイエスが支払ってくださいました。私たちはそれを受け取って、エンジョイするだけなのです。神の前のポイント稼ぎは無駄な行為。ポイントカードを捨てて、フリーパスをもらいましょう。

キリストに生かされる人生 

2005年05月07日(土) 19時24分
「わたしはキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)パウロはこの手紙を書いた時まだ生きていたので、もちろん、キリストとともに十字架で死んだわけではありません。しかし、彼の中では、彼自身はキリストとともに死んでおり、もはや自分が生きているというよりは、命懸けで自分愛してくださった方が自分のうちで生きてくださっているからこそ、自分は生きることが出来ているというのです。自分で生きているときには自分の働きに頼っていたパウロは、キリストによって生かされるようになって、自分の働きに頼るのを止めてしまったのです。ただひたすらキリストを求め、キリストに従い、キリストを宣べ伝える人生を生きる時、パウロの内に自分が生きているよりもっと確かに自分を生かしてくださる方を見出すのです。キリスト者はこの生きている方を日曜ごとに礼拝します。それは、キリストが日曜の朝早く死者の中から復活したからです。自分のうちにキリストが生きているのは、キリストが復活されたからであって、キリストが死に打ち勝ったように、もし私たちがキリストと共に死ぬならば、この肉体は滅びても、キリストと共に永遠に生き続ける存在とされるのです。

律法は恵み 

2005年05月06日(金) 14時02分
「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです。」(ガラテヤ2:19−20)神の律法を行うことによって神の前に義と認められようとするならば、全ての人は失敗します。生まれながらの人間はだれも神の前に死んでいて、完全に神の律法に従う能力を持っておらず、律法を基準とするとき、人は必ず罪に定められる存在だからです。しかし、神の前に死んでいる人間は、神の恵みがわからず、神の律法を行って自分の力で神に義と認められようとするのです。しかし、人間の行いがいつも不完全である以上、神に認められるために宗教行為を行うことは無駄(あるいは単なる気休めもしくは自己満足)であるということになります。人間が神の前に義と認められるためには、必ず別の方法が必要です。それは、律法を行わないで、恵みとして受け取るということです。律法を恵みとして受け取るためには、律法を行って神に義と認められようとする「神の前に死んでいる私」を殺して、「神の前に生きている私」となる必要があるのです。この神の前に死んでいる私が、キリストとともに十字架につけられて殺されたと信じるとき、その人のうちに死者の中から復活したキリストの新しいいのちが与えられるのです。キリストがうちに生きている私は、神の前に生きている私であり、律法を行おうとせず、律法を行えない自分を告白し、祈りによってキリストのいのちで満たされるように求めます。そのとき、内に住んでいるキリストが私を満たし、神の前に義とされたものとしてふさわしく生きるように力を与え、変えてくださるのです。

無力な人間の宗教 

2005年05月04日(水) 7時30分
「しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。」(ガラテヤ2:17)ユダヤ主義者は、律法を行うユダヤ人は義人で、それ以外の異邦人は罪人であると考えました。ですから、もしユダヤ人もキリストを信じることで義と認められるのなら、パウロを含めた、「私たち」ユダヤ人は義人ではなくなり、罪人であるということになってしまいます。ということは、キリストは罪人を生み出すことになるじゃないかというのがユダヤ主義者の主張です。ここで問題なのは、ユダヤ人が全て義人であるという前提です。もし律法の行いによって義と認められようとすれば、イエスが律法の本質を教えたように、姦淫を犯さないのではなく、心の中で情欲を持って女(または他人の妻)を見ることさえ罪となります。人を殺さないばかりでなく、憎しみを持ってもいけなくなります。ユダヤ主義では、律法は人間が守りやすいレベルに変えられていて、表面的に律法を守ることは比較的簡単だったのです。たとえば、姦淫を犯さないように、律法を拡大解釈して、合法的に離婚する方法を考え出して、姦淫を犯したい相手と結婚しました。この方法だと、確かに、離婚している以上、それは表面的には姦淫ではありません。しかし、律法を行っているかといえばそれは違います。本質的に神が制定した結婚を侮っているからです。それは神を侮ることです。つまり、このようなユダヤ主義は人間が作り出した勝手な言い伝えであり、伝統宗教に過ぎません。たとえば、子孫が供養すれば先祖の霊が慰められる、極楽(天国)に行くとか、このお札を買えば病気から守られる、というようなものと同じように、何の根拠もない、人間が考え出した宗教的な気休めに過ぎないのです。しかし、律法の本質から言えば、神の前には、イエスが教えたレベルで律法を守らなければ義とされないのです。いいかえれば、イエスのように生きて、死ななくてはならなくなります。それは不可能です。ですから、イエスは「罪の助成者」ではなく、私たちが律法の行いで義と認められることが不可能であると認めさせる方なのです。この人間の無力な状態が罪のために神の前に死んでいる人間の姿なのです。ユダヤ主義をはじめ全ての宗教はその無力な人間の悪あがきです。

ごく当たり前のこと 

2005年05月02日(月) 23時28分
「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ2:16)律法というのは何かというと、神が人間に与えてくださっている、人間のあるべき姿です。義というのは、神の前に合格しているということです。つまり、人間のあるべき姿に生きているということです。本来、人間が神の愛に心から応答して神を愛する時、信仰によってそのあるべき姿を与えられます。しかし、それを行いによって達成するものであると考えてしまうところに人間の愚かさがあります。人間が神から離れて、神が定めた人間のあるべき姿に生きることが出来るはずがありません。人間にとって大切なのは、神との愛の関係を回復させられることなのです。イエス・キリストは私たちに対する神の愛の最大のメッセージです。その愛を受け入れて、神が与えてくださる恵みを受け入れる時、人間は神との愛の関係を回復し、無条件に義と認められるのです。
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