牧師のエッセイ

February 18 [Sun], 2018, 15:37
       始めに産みの苦しみありき
 聖書に、たくさんの聖徒たちが登場する。当然のことながら、彼らの人生は十人十色、百人百色である。しかし大きく見ると、不思議なほど約束のものを受ける前に苦しみを経験するという共通点があることが分かった。パウロなどは、はっきりと「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(ガラテヤ4:19)。と告白する。信仰の始祖アブラハムが、約束の子イサクを得るまで、どれほど試みられたか。私たちの想像を超える。旧約の救世主と言われたモーセは、白分の出自がヘブル人だと知って、献身してからどれほど苦労したことか!ヘブル書の著者は聖霊に導かれて次のように証している。信仰によって、モーセば成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを運び取りました。彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。(11:24〜26)また、ダビデのことを思い見よ。彼は晩年、神の恵みを回顧して、まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追って来るでしょう。(詩23:6)と詠ったが、そうなる前の若き日のダビデは、サウロ王に命を狙われ、首の皮一枚でつながっていた命だった。敵国ペリシテ人の地に亡命したときは、その苦しみの頂点とも言えた。さらに、息子アブサロムにクーデターを起こされ、息子との戦いを避けられず、息子が死んだときの彼の悲しみは、誰がはかることができたか。聖書は証言する。王は身を震わせ、門の屋上に上リ、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子、アブサロム。わが子アブサロムよ。ああ、わたしがお前に代わって死ねばよかったのに。アブサロム、わが手よ、わが子よ。(Uサムエ18:33)。極めつけは、主イエス様であろうか。彼の苦しみは半端ではない。旧約の預言者イザヤはそれを、こう預言しておられる。彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する(55:11)。主はこのとき、極限の苦痛と大満足の両極を同時に体験し、地上を去られた。あの時の心境をもし聞かせていただけるなら、御国でお聞きしたいと願っている。
 結局、それは“産みの苦しみ”だったのだ。そのルーツは創世記3:16にある。こう書い亡ある。女にはこう言われた。「・・・あなたは苦しんで子を産む。」子を産むという最大事のために苦しむ。何か大切なことが生み出されるために、必ずと言ってもよいほどに苦しみがある。小生もいま、教会を生み出すために“産みの苦しみ”の現在進行形である。主の僕たちに共通した苦しみを知ったとき、小生は納得した。そして大いに励まされた。“産みの苦しみ”の後に、“追いかけて来る恵み”が続く。彼らは喜びながら、苦しみに耐えた。小生も然り。喜びながら、苦しみを忍んでいる。ハレルヤ。
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点訳と、庭のバラの手入れを楽しんでいる姥すずめです。
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