神門の改修

September 04 [Tue], 2012, 12:44


5年前の京都八坂神社。

神門の改修の為、足場を組んでいる様子。

昔ながらの檜の足場に歴史を感じホッとしますね。

藤原為家卿

April 05 [Thu], 2012, 15:30
藤原為家卿は、鎌倉時代の御公家さん。

優秀な歌人で後に出家する。中院禅師といわれる。

『続後撰和歌集』などの作品があります。

京都で散歩をしていたら、たまたまお墓を見つけました。

今は住宅ですが、かつては【中院山荘】という庵があり、





その裏が公園となっており、為家卿の墓所がありました。





為家卿の墓は、恐らく小さい宝筺院塔だったのかもしれません。

手を合わせ、歴史上の人物に会えて感謝。


大山へゆく

April 01 [Sun], 2012, 17:35


相模国(神奈川県)・大山の山頂にある阿夫利神社の本社。



大山は、古代より信仰の山で雨降山大山寺があり、大山修験の

神仏習合であった時、本社に石尊大権現が祭られていました。

奥社に大天狗、前社に小天狗が祭られていました、

この天狗を大山伯耆坊といいます。


ほかで『天狗』を祭る御山は、愛宕山太郎坊、筑波山法印坊、

鞍馬山僧正坊、比叡山法性坊、英彦山豊前坊、富士山太郎坊、

秋葉山三尺坊、妙義山日光坊、熊野大峯菊丈坊、その他。



大山寺は、明治元年に神仏分離令が出され、本堂伽藍は破壊され、

その跡に大山阿夫利神社の下社が建てられました。

現在は、下社から下った所に大山寺はあります。



一説によると、新政府から神仏分離令が発布された時、

新政府の考えは、神職が寺に居たり、坊さんが神社に居たり

神道と仏教の宗教教義が曖昧な状況を憂いて、それゆえに

『神道と仏教が千年以上の時を経て融合してしまって、

本来の姿に戻す為に神道と仏教を分離する。』

ということでしたが、民衆が勘違いして過剰に反応してしまい

廃仏毀釈(仏教を弾圧すること)をしたらしい。

それが全国的に広まってしまいました。

奈良の興福寺と春日大社は、ひとつの御山だったが、

興福寺の坊さんも勘違いして春日大社の神職に転職してしまい、

古来からある興福寺の仏像を燃やしたり破壊してしまったそうです。

又、ある村では、村民がお堂に祀られていた、仏像を引きずりだし

お堂もろとも燃やしてしまった・・・という。

神仏習合の宗教思想は別として、新政府が発布した法令を

民衆が勘違いし噂を呼び、全国に広まってしまい、

本来の目的であった考えが別の方向に行ってしまったという

残念な出来事がありました。



大山という信仰の御山を登る事が出来て、心が落ち着きました。

山道を急いでのぼったから、大山の頂上に到達した時、ちょっと

酸欠気味な感じでした。頂上には、大山阿夫利神社の本社があり

参拝いたしました。江戸時代には、御神体である石尊大権現の

霊石があったという事でしたけど、確認は出来ませんでした。

本社の中に安置されているのでしょうか・・・。

頭がボーっとしていたせいか大山の頂上で見た景色は

透明感を帯びていました。



ダライ・ラマの言葉

March 06 [Tue], 2012, 13:00
ダライ・ラマは、チベットでは『観世音菩薩』の化身と

信じられているそうです。

ダライ・ラマの言葉
『(本当の友だちとは)

お金や権力を持っている時に寄ってくる友だちは、

本当の友だちではなく、お金や権力の友だちです。

なぜなら、お金や権力が無くなるとすぐ、この人たちも

バイバイ、サヨナラと言うつもりなのです。

こういう人たちは頼りにならないとわかってください。

心からの友だちはいつも悲しみや重荷を分かち合ってくれて

成功している時であろうが、運が向いていない時であろうが

いつも来てくれます。』(「夜明けの言葉」ダライ・ラマ14世著)





弘文天皇陵

February 02 [Thu], 2012, 19:00
近江国(滋賀県)の大津をあてもなく散歩をしていたら、

天皇陵を見つけて、参拝いたしました。





被葬者は、大友皇子。

天智天皇が崩御し、皇位継承をめぐって叔父である大海人皇子と争う、

これを壬申の乱(西暦672年)といいます。

大友皇子は敗れて悲壮な最期を遂げる。行年25歳。

明治時代になり、第39代・弘文天皇と追号されました。

天皇陵の名は『長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)』といいます。


天満宮、道真そして秀頼

January 19 [Thu], 2012, 18:52
京都の北野天満宮、
御祭神は、菅原道真公
垂迹:天満大自在天神 
本地:十一面観世音菩薩
別称:日本太政威徳天

道真公は、無実の罪で大宰府に配流されてしまい亡くなりました。

その為か京の都で落雷が頻繁に起こり、災害などがおこりました。

道真公を大宰府に追いやった藤原時平卿は、

5年後に39歳の若さで急死する。

この様な一連の出来事を見て朝廷や民衆の間で

菅原道真公が怨霊となり、天変地異を起こしていると噂が広まる。

朝廷は、怨霊となった道真公を祀り奉る為に天暦元年(947年)

京都の北野の地に社殿を造営しました。



現在の社殿は、慶長十二年(1607年)に豊臣秀頼公が造営した社殿です。


 秀頼公は、豊臣秀吉の子供で

各地の寺社仏閣を造営修繕をし神仏を敬い奉りました。

しかし、時は徳川の時代が幕開けとなる時期で、徳川家は、豊臣家の

影響力を削ぎたい為に無理難題を突きつけていき最後には、秀頼公が

造った、方広寺の梵鐘の銘文に言いがかりをつけ大坂を攻める、

大坂夏の陣で秀頼公は、23歳の若さで自刃します。




秀頼公が亡くなった、翌年、大坂を攻め秀頼公を死に追いやった

徳川家康公も病気になり亡くなります。

家康公は、戦(いくさ)をするくらい健康でしたが、大坂夏の陣の

8ヶ月後に鷹狩に出て突然倒れ、その3ヶ月後に死去しました。


豊臣秀頼公は、北野天満宮をはじめ、

金峯山寺蔵王堂、石清水八幡宮、四天王寺、竹生島弁才天堂、

醍醐寺当山派修験・三宝院金堂・五大堂・開山堂・如意輪堂、

伊勢神宮の橋、清涼寺釈迦堂、法隆寺、紀伊熊野坐神社など、

約85箇所に及ぶ寺社仏閣を造営修繕及び再興しました。

その多くは現在、国宝や世界遺産になっているものもあり、

秀頼公の神仏への思いは今現在においても

形として残っています。


北野天満宮を参拝しに行った時、

夕方にぎりぎりで本殿を参拝し、本殿の前の中門が

17時に閉まった後に、周りにある、ものすごい数の摂社を

ひとつひとつ参拝したのを憶えています。



秀頼公が造営した天満宮本殿。
ここに道真公の神霊がおわします。





東照宮の灯篭・・・弐

June 01 [Mon], 2009, 20:28

薩摩藩の島津家久公が寄進した鋳造の灯篭。


『薩摩宰相藤原家久』と刻まれていました

光秀公首塚

May 29 [Fri], 2009, 20:45

京都の住宅のなかに
明智光秀公の首塚という場所があります。
かつて別の場所にあった塚の石塔を子孫の方が
自宅に移して祀ったそうです。

その後、時を経て今の場所に安置されました。
この場所には、祠と小さい多層塔がありました。
恐らく、この多層塔がその石塔だと思います。

また、京都の別の場所にも光秀公の塚があります。


光秀公の墓所は、他にも数箇所あります。
その場所の塚や墓には、色々な言い伝えがあって・・・


・・・遺骨が埋葬されている墓は、

今になっては、もうわかりません

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プロフィール
名前: 賢ざむらい
趣味1: 写真の撮影
趣味2: 史跡を見ること
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