パートナーシップ

March 28 [Fri], 2014, 16:09
ふつうの精神病のタームをお披露目したカンヌの集会で軸になった三つのテーマのうちの二つは精神分析においてこれまで一般的だった神経症のケースとは異なる身体症状および転移の現れかたに関するものだった。転換ヒステリーに典型的に見られたように、神経症の身体症状は抑圧された欲望のメタファーであり、それゆえその意味を解読することができたのにたいし、ふつうの精神病に見られる身体症状は、むしろ心身症的身体化に近く、解読すべき意味を欠いているように見える。また、神経症の主体の転移は、分析家に想定される知をめぐって形成されるのにたいし、自分が我知らず話したことのほんとうの意味を分析家が知っていると思うからこそ、主体は分析家を愛する、もしくは信頼するようになる、ふつうの精神病ではこうした知が想定されても転移の引き金にならないか、あるいは知を媒介にしたのではないパートナーシップ、それも、主体にとってそれ自体が支えになっている症状をさらに支えるようなパートナーシップが築かれる。こうした違いがもたらす臨床的な手応えの変化こそが、ECFの分析家たちにふつうの精神病の概念を必要とさせたのである。
今時の若者の考え方






直線的で機械的

March 23 [Sun], 2014, 19:20
フェティシズムを支える倒錯的固着は、誰もが次の項を予期できるほど一般化された既成のメトニミーに依存している。とすれば、私たちはそこから一歩進んで、こう指摘することもできる。連鎖を中断するとしないとにかかわらず、およそ既成のメトニミーに依存し、それをふりかざす態度は倒錯的であると。ラカンは、倒錯者の振舞いがおうおうにして自己の欲望の特異な在り方を証明する性格をもつことを指摘している。その際に倒錯者が依拠するのが、しばしば、aならばbというたぐいの既成のメトニミーであることは偶然ではない。今日の私たちの文化のなかに、この種のメトニミーがどれほど氾濫していることか。ある種の人格障害を見れば、必ずや過去に幼児虐待の経験があると信じて疑わぬ臨床家がいる。大事件を起こした個人の生育歴や内面には、その事件を説明する決定的な要因が存在していると決めてかかる言説もあとを絶たない。因果性は、ヒュームとカント以来、それを措定する主観の関与を抜きにしていかなる意味でも成り立たないと考えられてきたにもかかわらず、今日の一部の科学的言説が、客観性の名のもとに、それを直線的で機械的な刺激・反応図式に還元して障らないのは驚くべきことだ。


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