(無題) 

2006年11月23日(木) 0時31分
人間の職務における忠實と服従、並びに運命に對する服従と人間の行為における自己忘却は、絶對的で必然的なもののために虚栄心、自惚、利己心を放棄することを根本條件とする。
説明。職務は普遍的なものであり、必然的なものであって、人間の共同生活の一面をなしている。従って人間の全事業の一部分である。人間は職務をもつとき、普遍的なものに参與することになる。人間はそれによって客観的なものとなる。職務はもとよりそれぞれ限られた領域ではあるが、それにもかかわらず全體の必然的な一項を形成するものであり、またそれ自身一個の全體でもある。人間がものになるためには、自分を制限することを知らねばならない。すなわち、自分の職務を全く自分の事とせねばならない。すると、職務は彼にとって何の拘束でもなくなる。その時には人間は自分自身と、その外面性、すなわちその職域と一體になる。ここでは職務はすなわち普遍的なものであり、全體である。人間が――空虚なもの、すなわち非本質的なもの、無価値なものを自分の目的にする時には、事柄そのものに對する關心でなく、自分のこと〔事柄〕についての關心が元になる。空虚なものは何らそれ自身で存在するものではなくて、主觀によって支えられているものにすぎない。人間はそこではただ自分自身を見るのみである。例えば、人間が一般に自分の行為において自分の卓越さを意識するとき、従って事柄についてではなくて、むしろ自身に關心をもつときのように、道徳的な虚栄もあり得る。―― 一寸した仕事を忠實に果す人間は更に大きな仕事に對しても能力のあることが分る。と云うのは、それで彼の従順の精神が分り、自分の願望とか傾向とか妄念を捨てるものであることが分るからである。Hegel

ガス形態 

2006年11月23日(木) 0時05分
神のいない教会での神の=語り口=ヒューマニスム。神との脈をつなぐにそれだけではいけない。信仰必要。ガス形体のようなものに審理されている。關與してくるのは身の潔白性。独我論に身を包めばもはや本来の宗教としての實現は厳しくなる。向かうべき。ガス形体は登るまで待っているが、その前に寿命が尽きてはいけない。

逢着する 

2006年11月22日(水) 1時08分
当たり前のものを当たり前と認知できなければ、機能障害となる。宗教はその当たり前の認知から始まる。哲学の場合は主に懐疑や否定から始まる。もちろん最終的には同じところに逢着するが。ただ誤った信仰・自負があると長引く。

(無題) 

2006年11月19日(日) 21時44分
ろじんづうがわかれば批評家の存在意義もわかるだろう
人は毀損とか盲信しかしないのだから

(無題) 

2006年11月18日(土) 23時08分
何もせずに高まることはない。いやらしい言葉が自己にまつわるように。

(無題) 

2006年11月17日(金) 14時21分
一度しかない人生
一度しかない青春

(無題) 

2006年11月16日(木) 15時37分
あの世でまた会おうね
といえばあの世でもうまく会える、が、当然この世のようには会えない、しかし、そういう意識がないからこそ、崩れずに会えるのである
それを純粋自然な信仰[=交点]だという

(無題) 

2006年11月15日(水) 19時02分
それを「宗とする教え」とすればそれは宗教になる。基本的には感情的・嘲笑的になる時点で無宗教はありえないだろう。アルツハイマー以外は濃かれ薄かれ宗教を持っているものである。灰色の人にとっては松坂の入札額も宗教と映るだろう。「宗教は全てカルトである」と見做しても普遍的ではない。宗教とはすべて、カルト化する要素を孕んでいるというものである。経済の教えでは「神は商品で宗教団体はシステムである」。心理学の教えでは「神は心の支え」。それは自分を保護する役割もあるが、思考基盤の硬直化が進めば、神や宗教をそのように見なさない思想をタブーとして異質排除することにもなる。それが反社会的な攻撃性に至ったときに、破壞カルトと呼ばれることとなる。また、仏教とか神道など、ほとんどの宗教の本質が思考基盤をより普遍的なものに移行さすもの,または思考基盤を抜けようとする反宗教的なものなのだが、宗教を音楽のように「語り得ぬもの」と捉えることをしないのはなぜだろう。心の支えになると知って信仰しないのはなぜだろう。保身だろうか。単にアニミズム的な傾向に基づくところであろうか。自己矛盾でもありメビウスの輪なところでもある。

(無題) 

2006年11月13日(月) 15時16分
マグネパン

(無題) 

2006年11月09日(木) 10時27分
昨日の夢は面白かったなぁ。クリスチャンの怨念を買ったのか知らないが、もののけ姫を痛烈に批判していた。Chopinの子犬のワルツに団体意識を感じるのは日本人ぐらいらしい。Tchaikovskyのくるみ割り人形がBGMに使われていて、それに団体意識を感じることを馬鹿にしていた。その表現は「滑稽さ」ではないのか?と思うのであった。