中世の嵯峨と天龍寺の論旨 

January 18 [Fri], 2008, 22:57
 中世後期の仏教を考えるにあたって禅宗、特に臨済宗の隆盛を無視することができない。禅宗をめぐっては、まだまだ十分な研究が進められているとは言えない。他宗寺院の展開との比較といったことがおろそかになりがちである。今回は、禅宗寺院と地域社会について考えたい。洛外嵯峨に偉容を誇った天龍寺に注目し、中世後期の寺社権門としての五山の様相を明らかにしていきたい。また、嵯峨の存在を考えていく。
 「亀山殿近辺指図」は、この地に臨川寺・天龍寺といった禅院が建ち並ぶ以前の様相を描いている。亀山殿・芹河殿跡・河端殿御所・萱殿や金剛院や薬草院・如来寿量院・浄金剛院の位置が確認できる。また、武家方の勢力が、嵯峨の地に大覚寺統と対峙するかのように位置しており、この地図はまさに鎌倉時代最末の様相を描いているとも言える。「大井郷界畔絵図」は、「亀山殿近辺指図」よりも描かれた区域は広がり、地域の様相が一変している。臨川寺の寺領が広範囲になっていたり、大井神社や安倍晴明の墓も見られる。川に面したこの地域は、人々が生活する場であったと考えられる。「鈞命絵図」は、応永三三年に足利義持の命で製作され、天龍寺や臨川寺の繁栄を目の当たりにするものであり、五山の最盛期の様相をうかがうことができる。「大井郷界畔絵図」と比較すると臨川寺の東に宝憧寺が建立され禅院の領域がさらに東進している。このように、絵図を読み解くと嵯峨の変遷が明らかになる。この地は、さまざまな人が集住し、都市としての賑わいをみせていたのである。
 中世の洛中洛外に数多くの土倉・酒屋が展開していた。臨川寺境内にも数多くあり、臨川寺の保護を受けていたのであった。こうした関係から禅院と土倉・酒屋は密接な関係にあったのである。そして、禅院と関係をもつことが土倉・酒屋にとっても有利であることは間違いなかった。この地の利を生かし嵯峨の土倉・酒屋は巧みに諸権門との関係をとり結びながら発展したのである。
 臨川寺・天龍寺の創建により大覚寺の嵯峨における影響力は著しく後退したのである。また、大堰川に沿った地は、河川交通の港として繁栄した。多くの水運に関わる人々もまた居住したのである。こうして、天龍寺門前にはさまざまな人々が居住し禅院と密接に結びついていたのである。
 京都において、天龍寺は金融資本の一大センターであり河川交通を通じて大陸への窓口でもあった。こうして、当時洛中洛外において最大の都市として嵯峨は繁栄したのである。天龍寺はこのような都市的空間を基盤にその勢力を誇ったのであった。




こちらの方も遅れてすいません。

地誌編さんと民衆の歴史意識の論旨 

January 13 [Sun], 2008, 14:16
 これまでの郷土の歴史・地域の歴史に関するさまざまな叙述に注目し、どのような歴史像が描かれてきたか追跡し意味を考える。江戸時代から明治という、民衆が他の地域や都の歴史を意識しつつ、自ら郷土の歴史をとらえようとした時代にかけての広島周辺地域の地誌類を求める。
 広島市の南方約30メートルに位置する倉橋島から考察する。この島は、江戸時代以来造船業で栄えたところである。遣唐使船建造という伝説があり、その生成・発展の過程をたどる。この島にはさまざまな伝承が残っているが本来、この島に伝えられ、語られた伝承は姿を消し、むしろ後になって付加された説明が定着してしまうのである。これら一連の過程は、島の歴史と日本の歴史と関わらせ、そのなかでも、少しでも古く、意義らしめたいとう方向性で一貫しており自分たちのアイデンティティーを確立しようとする焦燥さえ似ている。
 この島の歴史一般がどのように描かれてきたか、民衆の「歴史」との出会いの様相を検討する。18世紀初頭では、さまざまな伝説残されている。それは、島の暮らしを守るための武者が、他国から迎えられたことが繰り返し語られている。そこに伝説の原形がある。これは、歴史の真実を伝えているようにもみえるが、むしろ島民の永遠の願望であったのかもしれない。18世紀中頃では、僧が、自分の見解を加えた郷土の歴史・風土を記述している。
 「芸備国郡志」は広島藩からの視点では、この地域に関する歴史を実証的精神で叙述した最初のものである。ここから地域民衆の歴史が日本の歴史に結び付けられていくのである。
 19世紀前半には、村は独自に伝えてきた歴史を失い、「大きな歴史」のなかに包摂されてひとつの地方となるが、日本人である意識を歴史を共有することによって明確にするものである。20世紀初頭では、いかに日本の歴史・都の文化と強く結びついていて価値があるかを無理に強調するため、歪められた地域のアイデンティティーの肥大が問題になる。価値の基準がよそにある限り、その「歴史」から疎外され続けざるをえないのである。
 現在では、「郷土の歴史」「地方の歴史」そのものが喪われ、「教科書に書かれた歴史」だけしかない時代を迎えているのかもしれない。「地域史」なる概念をより空虚にする可能性がある。






すいません。遅れました。

宇津戸 

December 07 [Fri], 2007, 13:29

宇津戸について 

December 07 [Fri], 2007, 0:51


宇津戸地区は、現在は広島県世羅郡世羅町に属している。世羅町は、18000人の小さな田舎町である。平成16年に平成の大合併により誕生した町である。


◎宇津戸は、元々石見大森銀山からの街道の宿駅であったところである。当時は、ここからさらに南下し御調を経て尾道の港へ運ばれていた。




現在の宇津戸の町並みである。当時の面影として、大柄な商家の連続する家並や一本道に沿い細長く伸びる街道集落の形が今でも崩されず保たれているという点がある。
町筋は中央部で直角に折れ、その位置に観音寺がある。江戸期の街道は、ここで吉舎などを経て石見地方に向う石州街道と、天領であった上下を経由し庄原・西城を経由し出雲に向う道への追分であった。
この宿駅にも銀や中国山地の砂鉄を運ぶ馬や、年貢米を紀州高野山に納めるための往来が絶えず、ここで一時の休息を取っていたようだ。国道から外れ静まり返ったこの旧街道は、今でも「市筋」と呼ばれ、当時より商店が多く栄えていたことを示している。



◎宇津戸には、町無形文化財の「宇津戸神祇」が江戸時代から伝わってる。享保年間に大干ばつに見舞われ、困窮の果てに竜王社に祈祷したところ、雨が降り出し、稲が枯れることなく収穫できた。お礼に神祇踊りを奉納したのが始まりと伝えられている。今では、隔年で夏に行われている。
 この神祇踊りは、領家八幡神社と地頭八幡神社の二つに奉納するのであるが、鎌倉時代には、その領家と地頭の領地争いが絶えず、白鹿が駆け抜けたところを境にして争いを収めたという「白鹿伝説」が残っている。(下地中分)当時の境石が、現在でも残っているのは全国でもめずらしいようだ。


今まで、300年の間続けられている大変伝統をもったものである。


このように、宇津戸は歴史と伝統に守られた地域なのである。

エクスカーションまとめ 

November 09 [Fri], 2007, 0:39



11月4日のエクスカーションについてのまとめ

・桂川
現在は、ダムの影響によって水面の高さが低下している。ここは、天竜寺船が通った場所であり大型船が通れるほどの大きな川であった。
橋は、現在中ノ島からかかっているがかつてはもっと川幅の狭い場所からかけられていた。橋のかけられていた場所は、多くの人が集まるため商業が発展していた。このように、昔の人にとって橋は重要なものであった。この橋は、松尾大社によって管理されていた。

・天竜寺
足利尊氏が、後醍醐天皇のために創建したものである。そのため、各所に宗教的なものが多く見られた。庭園は、遠くに見える愛宕山が効果的に使われている。さまざまな植物が、植えられておりコケの一つ一つがきれいに手入れされていた。

・六尊坊
昔の墓地である。現在は、地名のみが残っている。現在は、一般の人の墓地になっている。

・清涼寺
1710年に再建された寺である。本堂横には、豊臣秀頼の首塚がある。本堂の中心と道の中心をずらしたり、さまざまな部分に宗教的工夫が見られる。

・天下竜門
現在は、住宅地になっており現存していない。

・鹿王院
足利義満が建てた寺である。応永鈞命図写本がある。応永鈞命図写本は、約タテ260センチ、ヨコ310センチある。細かい部分まで丁寧に書かれ、現在でも色がはっきりしてた。当時の技術力から考えるとかなりの高い技術が必要だったと考えられる。

・角倉了以墓、清明墓
現在でも残っている。きれいに手入れさせている。


●感想
応永鈞命図写本と現在の町並みではかなりの違いが感じられた。住宅地になっている場所が多く、現存していない寺が多かった。地名が残っているだけの場所もあった。現存している場所は、草刈りが行われていたり、地域住民によって守られているという印象を受けた。やはり、現存させるには地域住民の協力が必要であると思う。今後、今の状態で残していくためにみんなが協力しかけがえのないものを失わないようにしていくべきであると思う。

地球の自転 

October 29 [Mon], 2007, 12:01

京都 

October 19 [Fri], 2007, 17:27
遅れてすいません。

ロンドン地図 

September 21 [Fri], 2007, 18:25
うまくできないんですけど、どこが間違ってますか?

空中写真合成 

June 08 [Fri], 2007, 15:09
頑張りました。

大阪町絵図 

April 20 [Fri], 2007, 14:11
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