自分を生きながら調和して在る

February 20 [Mon], 2012, 17:56


おかげさまで、昨日は素晴らしいバースデーライブとカレーパーティーになりました。

本当に好きなことを妥協なく、力をいれて行うと必ずサポートされます。
楽しんで、採算とか考えずにやってるときほど、きちんとよい結果につながる。
本当にありがたいです。
幸ちゃんと大介くんの歌も、歌ったり踊ったりしてくれたたくさんの友達も、みんなのおかげで、温かくてとても優しい素敵な節目の日になりました。

これからの僕にできることで、受け取ったたくさんのものを、皆と宇宙に返していきたいと思います。
本当にありがとうございました。

今後のイベント企画もいくつか昨日決まってきたし、さー、誕生日越えたら本格的に忙しくなりそう。
心は亡くさないように、毎日感謝して楽しんでいこう。

今日は明け方、真っ赤な朝日と共に目が覚めて、体を動かしたり観想書いたりしていました。
朝早くから活動すると、やはり素晴らしい充実感がある。
朝一の活元運動と瞑想と書きものは習慣にしたい。
できるだけ続けていきたいです。

ありがとう。



さて以下が今日の観想(テオリア)。
今朝起きる前に鮮烈に感じていたこと。

妥協しないで生きる。
自分の中に、僅かでも不合意があれば、それはしない。
自分を生きながら、調和してあるにはどうしたらいいか。

そんなことがテーマです。


〜・〜・〜・〜・〜・〜


(自分を生きながら、調和してあるにはどうしたらいいか。)



おはよう。今朝は早起きだね。
朝は無限のリソースにつながる最もクリエイティブな時間だ。
ぜひ活用するといい。

この時間帯は心身のバランスを取るのに最適だ。
ヨーガや呼吸法等を用いた瞑想をお勧めするよ。
君は一度、体系だった手法をきちんと学ぶといいだろう。
自己流で行うよりももっと早く、自らの内なる気付きに至る助けになる。
呼吸法は朝日と共に行うのがいい。
新鮮なプラーナ(気)を体に取り入れ、生命の根を宇宙へ再接続し直すことができる。


さて、自分を生きながら調和してあるにはどうしたらよいかだったね。

自分の真実を生きるものは、他のあらゆる葛藤から自由になれる。
もはや生きるためのあらゆる妥協から、自分自身を解放して在ることができる。

あなたはあなたの思うように生きていい。
生きるために、自分の真実を曲げる必要はない。
それではあなたの人生の純粋性を損なう。

生命の権利として、生命はそれ自身を生きることを許されている。
ただしそれは保証されているということではない。

勘違いされがちなことだが、生命はこの世に存在する権利なのだ。
そしてそこであらゆる出来事を体験する。そこに良い悪いは存在しない。
それは価値判断であって、出来事とは無関係だ。

価値はあなた方の作り上げた枠組みの基準にすぎない。
それはその中にあって、それに従って振る舞えば、比較的安全に人生を過ごせるという目安にすぎない。

保証がないということは、是非を超えてあらゆる体験を経験する上で不可欠な要素だ。
本来それはスピリットの目的を果たす上で、重要な約束事であり、ギフトだ。
あらゆるすべてを体験することを保証する。それが宇宙の公平さであり愛だ。

だがそれは、安定と不変を望むエゴにとっては残念ながら不安材料でしかない。
だから人々は枠組みを作り上げた。
自分たちが安全に、ある程度の保証を得て人生を過ごすための枠組みだ。

生き残ることが最上の目的だった時代に比べれば現代は格段に過ごしやすい。
それは偉大な先人たちの業績だ。
あなた方はその助けの上に、現在の生の体験を積み上げることができる。
社会的、思想的インフラの力は大きい。

だがそれが目的地ではない。
それは手段だ。何の? 魂の。
この場合の魂とは、より本質的なあなたの肉体を超えた生と、自己の個性を保つ枠組みのことだ。
では魂の目的とは何か。

体験を通して味わい、生を通して交流すること。
そして自分自身が何者であるかを知り、それを宇宙へ表現すること。
そのときあなたの生命は宇宙の一部として、この宇宙の豊かさの一部となっている。
それを自分自身を通して、自覚的に味わうことこそ魂の喜びに他ならない。

自覚的に生きるということの意味を、本当にきちんと感じたことがあるだろうか。
言葉通りの意味だが、実際にそれを真に生きるものは、この惑星のこの時代ではまだ少ない。

あなた方が先駆けだ。
どの時代、どの場所にもそれらの役割を担う存在はある程度いたが、今この時代ほどそれらが求められている時はない。

誰かに役割をゆだねるのではなく、あなた方がそれぞれそうなることが必要だ。
本当に必要なのだ。

自覚とは、あなた方がより本質的に生きるということを意味している。
自分自身の本質を理解し、それを損なわず、かつ全体と調和を保ち、全体の一部としての自己の役割を担っている。
それが自覚的に生きるということの意味だ。

あなたは全体の一部であることから切り離されてはいられない。
だから、自分の本質に気が付けば、調和を損なうことは有り得ない。

ではなぜ、自分らしく生きようとすると、生きづらく感じることがあるのだろう。
まずそれは自分の本質と、自分の性質をごっちゃにしている場合に起きやすい。

自分の性質は、本質の一部ではあるがすべてではない。
虹の赤の一色が、光の本質のすべてを示すものではないように。

自分のある性質に固執し、それが自分自身そのものであると囚われ、押し通そうとする場合に調和を損なう。

どんな場合にも、あなたが自分自身の枠組みを決めている。
あなたのどの面を表現するのか、あなたは常に選ぶことができる。

過去の体験とパターンから反応していることに自覚がないと、人は自分が選択しているという自覚を失う。
すると、自己の反応パターンを自分自身だと思い込む。
たとえばそれは性格だから仕方がないだとか。
だがそれは、あなたの性質の一部でしかない。

今ここに、プレゼンスを持って生きることが重要だと言われてきたのはそのためだ。
今、ここで、感じていることをきちんと感じてみる。
判断するのではなく、ただ感じる。
そうすれば、自分が何に反応し、どういうパターンを持っているかが分かる。
それは今ここにあるものではないからだ。

さらに感じていくと、自分の本当の望みが分かる。

繰り返すが、感じるということは、頭で考えることではない。
主にはハートで感情を感じとることができるが、それもすべてではない。
細胞のひとつひとつ、肉体とエネルギー体、感情体、あなたの自己の総体、存在のすべてで、今ここを味わうことだ。

瞑想とは、今ここを100パーセント、ジャッジなく感じきろうとする試みだ。
それはとてもパワフルな覚醒をもたらし得る。
自覚的に生きようとするものには、プレゼンスを身につけるよい訓練になる。
そしてプレゼンスを持って生きることが瞑想なら、それは特別なことではなく、人生のあらゆる側面の中にある。

深く今ここにあるものを感じ、自分の本当の望みを感じとることができたら、それが少なくとも今ここにあるあなたの本質だ。
それにしたがって生きることが、自覚的に生きるということだ。

そのために行う、自分自身の率直な感覚の表現が、誰かにとって、意に沿わないものであるかもしれない。
だけどあなたは、自らの人生に妥協せず、忠実に生きるためには、時にはそこに向き合わなければならないだろう。

人は自分の見るように相手もものを見るだろうと考える。
だから、あなたが人生を生きるためには妥協や我慢が必要だと信じていれば、あなたは自分自身の本質を生きることの正当性を疑う。
そしてその負い目故に、自分の真実を曲げることも仕方ないと諦める。
事実、とても多くの人が、自分自身の真の人生を生きることを半ば諦めてきた。

だがあなたが自覚的に生きることを選べば、自分の素直で率直な感覚を、相手に伝えることに大きな躊躇いを覚えずに、真実を伝えることができるようになる。
相手もまた、そうできる可能性を持つと信じられるようになるからだ。
そしてその方が、自分たちの命とスピリットにとって、真に価値ある生き方だと本当に思えるからだ。

自分自身の真実を生きることをどうか怖れないでほしい。
生きることは、こなすべき作業ではなく、体験すべき神秘だ。
すべてを知り得ず、結末が決まっていないからこそ、挑戦し、味わう価値のある冒険なのだ。
そのシナリオは、あなたが心の真実から選択したように創造される。
それが宇宙の約束であり、ギフトだ。

この対話の最初に伝えた言葉をもう一度繰り返そうか。

自分の真実を生きるものは、他のあらゆる葛藤から自由になれる。
もはや生きるためのあらゆる妥協から、自分自身を解放して在ることができる。
あなたはあなたの思うように生きていい。
生きるために、自分の真実を曲げる必要はない。

私の伝えたことの意味を、受け取ってもらえただろうか。
あなたが真にそのようであることを、選んでくれることを信じている。


ありがとう。
愛しているよ。









 

自分の本質とは?

February 10 [Fri], 2012, 17:23

 
 
徐々に春の足音が近づいてくる感じ。
遠くから、隠れながら、まだその姿は見えないけれど。

球根から育てたヒヤシンスの花が満開になりました。とても綺麗。
ヒヤシンスの香りはすごく春をイメージさせます。
部屋の中にいても、何かを後押しされる力強い意思の強い香り。
たおやかで優しく強い花です。

最近は日々内観しながら何かを練り上げている感じ。今は外ではなく内側から。
やがて、蕾が枝を破り、その内から花が芽吹くように。春待つ冬の陽だまりのような日々。

今日の観想(テオリア)です。お付き合いください。

ありがとう。



〜・〜・〜・〜・〜・〜

120209 自分の本質とは?


(前回の話しで、自分の深い部分につながって話しなさいっていうのがありましたが、自分の本質を生きるということに関して、どうしたらいいのか教えてください。)


そうだね。自分の中心に繋がるということに関して少し話そう。

まずあなたは自分をもっと信頼しなければならない。
あなた自身にあらゆる力と権限を与え、それを信頼することだ。

人はあまりに自分自身を批判し、自らの力を否定することに慣れすぎている。
あなた自身の価値を、他者に決めさせることにあまりに無抵抗だ。
他者はあなたの信じる程あなたのことを理解しているわけではない。
あなた自身でさえ気が付いていない価値、可能性が山ほどある。

自分を愛しなさいと、歴史の始まりから説かれているのはそのためだ。
自分の価値を決めるのは自分自身なのだ。他者ではない。
それを信じることができたときに、あなたはそれを文字通り実現するだろう。

あなた自身を措いて他に、だれもあなたが誰であるのかを知る者はいない。
それはつまりあなた自身があなたのあり方を決めているということに他ならない。

あなたが望むように生きていいのだ。
常に調和に意識を保って生きれば、我侭ではなく自由に生きるということの意味を本当に体験できる。
そのときあなたは、自身の持つ可能性を思う存分試し味わうだろう。
あなたの喜びに従い、魂がふるえる方向へと踏み出せばいい。それがあなたの目指すべき方向だ。

人には本来その力が備わっている。
あなた方の知覚は、今此処という現実をあらゆる尺度で捉えることが出来る。
人がなんの判断も評価も持たずに存在することを選ぶとしたら、そこで体験し得るのは、純粋なエネルギーと共にあるマトリクス(存在の母体)だ。
そこには純粋に意識とエネルギーだけが存在している。
あなたは自分自身の枠組みさえ解け出してしまう至福と愛と調和の世界(涅槃)の中にその身をおいている。

その中で自己という枠組みを保っているために、過去現在未来、此処と其処、あなたと私という境界を生み出した。
それが3次元的な時間と空間であり、それを人は主に左脳で処理して認知することで、このエネルギーの大海に融けだしてしまわないように自己と世界の枠組みとを形作っている。

だが仮に、自分の意識をひろげ、自己の領域の一番外側を感じ、さらにそれを越えてみる。
すると限界は実際にはないことに気が付くだろう。
つまり自己とは、自分自身の設定した、その時々の枠組みの幅のことだ。

だからあなたは常に有限で、なお無限の潜在力を持つ存在なのだ。

自己の幅が小さく感じ始めたら、それを拡げてみることに、恐れやためらいを感じる必要はない。
あなたの設定した自己イメージを拡げてみればいい。

あまりにも長く、かつての自己のイメージに囚われていると、その枠組みは選べないのではないかと思うかもしれない。
だが、自己の枠組みは常に変化が可能だ。自分の本質を思い出し、選び直すことだ。

あなたは自らの存在しているレイヤーを選ぶことが出来る。
意識の焦点をどこに当てるかによって、愛であることも、自らを知ることも、それを見失うことも自分で選んでいる。

あなたは常に何者にもなれる。どのようにあるかを選ぶ。
それが人や物質やあらゆる生命が、自己と他者として分かれて存在しているように見える理由だ。それは進化と成長のプロセスでもある。

生命は意志を持っている。それは宇宙の方向性だ。
生命は宇宙の意志の分け御霊である。
だからそれらがそれぞれの意志を持っているのは、宇宙の構造の一部だ。

そしてそれらのあり方を、生命はそれ自身で選んでいる。
自由意志ということの本当の意味が分かったかな?

あなたは常に何者にもなれる。
それは生命に与えられた本質的なパワーだ。

目覚めて生きるとはそういうことだ。
自分自身が何者であるか、常に意識的に創造して生きるということだ。

あなたが誰であるのかを知りなさい。
そしてそれを意識的に創造しなさい。


愛しているよ。
ありがとう




〜・〜・〜・〜・〜・〜


追加
悦月さんのブログで紹介されていた動画。
人間の、自らの力とその可能性についての本当のお話。
すごいな、これは。人間て本当にすごい。
諦めなければ、本当にどんなことでも可能になるのだと教わりました。ありがとうございます。


(一つ目は音声なし字幕のみ。二つ目は音楽と映像のみのイメージ動画です)













 

伝えるということ

February 09 [Thu], 2012, 0:01

 
今日は森のテラスを借り切って、一人書斎代わりに使う。
読書と創作。飽きたらグランドピアノで遊び、お茶を飲む。
ゆっくり落ちる冬の陽。火のはぜる薪ストーブ。横で眠る黒猫。
贅沢な一日。

今日の観想(テオリア)


120208 伝えるということ



先日からこの対話をできるだけ残すようにしていこうという試みをしているわけですが。


「君の方からたくさん話しかけてくれて嬉しいよ。さて、今日は何について話そうか」


いくつか訊いてみたいことがありまして。


「ほう、ケルビン・ヘルムホルツ不安定性のことかな?それともシュヴァルツシルト重力半径?あるいはシュレーディンガーの猫について?」


難しいことを知っていますね。


「いや、君の頭の中のボキャブラリーから難しそうなのを並べてみただけさ」


趣味が悪いですよ。


「私は君の母体だからね」


まったく…。まぁ、今日はそのことについてです。


「本当に?」


いや。どうしたら難しい言葉を使わずに物事を説明できるかとか、そういうことです。


「なるほど。確かにそれは君の課題だね」


僕の課題ですか?


「君の課題だろう。それは君の相手に対する距離感と受容性の問題だからだ」


そう、それなんですよ。その「距離感」とか「受容性」とかって、たとえばもっと子どもとかにも分かるように伝えられないかなと思っているんです。
多分抽象的な表現だけだと、まっすぐに受け止めたり届けたりしにくいんじゃないかなと思って。
きちんと上辺だけでない、ものの本質を伝える言葉って、それが本当に本質なら決して難しくなく伝えられると思うんです。


「なるほど。子どもにも分かるように。よい着眼だね。
君は子どもに対しても、決して子ども扱いしないで話すね。
そのようにまず、まっすぐに相手を見ることだ。
相手の中の子どもに話すように、相手をきちんと受け止めてから語りかけるのだよ。
それが距離感と受容性の意味だ。あなたが相手を受け止め、あなたの奥にある部分から語りかければ、それは相手の同じ深さまで届くのだ。
君の言いたい分かりやすい言葉とはこういうことではないかな?」


そう、そんな感じです。とても伝わってきました。以後その感じでお願いします。
なるべく難しい言葉を使わずにやりたいんです。


「わかった。やってみよう。

分かりやすさとはつまり、あなたの府に落ちる言葉だ。
あなたが感じる一番受け取りやすい言葉で語ることだ。
それは誰かの目線に合わせることではなく、相手を見くびるのでも、子ども扱いするのでもない。
あなたがあなたの心の芯に添った言葉を用いているか、そこにどれだけ正直で誠実であるかが重要なのだ。

あなたを通して何かが伝えられる以上、あなたの言葉がどれだけ、その伝えるべきものの純粋性を損なわずに、忠実にその性質を伝えられるかが重要だ。
それは自分というフィルターがどれだけ透明で明晰であるかということ。
言い換えれば、あなたがどれだけ自身の奥深くにある、あなたの真実、あるいはあなた自身のより大きな自己(ハイアーセルフ・真我)と一致していられるのかということだ。
なぜなら、そこがあなたの一番純粋な部分だからだ。

そして情報、伝えたい事柄を丁寧に扱い、そしてそれをできるだけ率直に伝えることだ。

理想的なキャッチボールを思い描いてごらん。
力も経験も豊富な大人が、小さな子供に向かって、球を放るとき、何に注意しているかをよく観察してごらん。
大事なのはその球を正確にまっすぐに相手の手のなかへ届けることで、強い球や速い球を、自分の力を示すために投げつけることではない。
誰にでも受け取りやすい球の軌道はおそらく限られているが、その軌道に正確に沿わせて理想的な球を放るには、あらゆる経験と技術が必要だ。

優れた指導者、話し手とは、それこそが自分たちの役割であり、技術はそのように使うために磨かれてきたのだと知っている者だ。
科学者や教師や芸術家の本来の仕事は、世界に隠されている理を紐解いて、誰にでも分かる形に加工し、それを智慧として応用し、誰にでも役に立つ形で紡ぎなおすことだ。
自然の繊維や蚕の糸から仕立てた居心地のいい衣服が、誰かの心身を温め、守るように、優れた智慧はその真理ゆえに、誰かの魂を守り養う。

だからどんなときもあなたの言葉で語りなさい。
あなたがあなたの深い部分につながり、そこから語るとき、その言葉は純粋さと真理を持つ。
いつもできるだけそこに誠実に、率直でありなさい。
伝えたいことはあなたの心に問いなさい。
なにも引かず、付け加えず、そこにあるものだけを伝えなさい。

誰かの求めやニーズの中に、伝えるべきことを探そうとすれば、あなたは迷うだろう。
たとえば自分がどう思われるかなどを気にして言葉を選んでいれば、あなたは自分を見失う。
それは鏡の中に実体を求めるようなものだ。
あなたに返るのは、問いを発した自身の姿だけで、答えは得られない。

だからどんなときも自分に誠実でいなさい。
たとえその時、あなたの言葉が相手に届かなかったとしても、あなたの真実から出た言葉はいつか必ず伝わる。
人は真実を無視し続けることはできないからだ。

そしてコミュニケーションは、自分から投げ始めたときに、初めて責任を持って受けとれるようになる。
自分が放り投げている球が、どんな球なのかに常に注意していなさい。
それがあなたの受け取るものの質を決めている。

意思と責任を持って自分から始めなさい。
そうすればあなたは結果に対して、責任を持って、恐れずまっすぐに受け取ることができるようになる。

それがつまり、自分の住んでいる、あるいは自分の受け取っている世界の質を決定しているのだということに気付いていなさい。
あなたの発しているものが、あなたの受け取るものになる。

だからこそ丁寧に生き、丁寧に紡ぎ、与えなさい。
あなたの受け取るものは、いつかあなたの中から生まれ、発せられた思考と言葉、行為と習慣、ものの見方とその偏りに起因している。
自分で発するものに責任を負うなら、あなたはそれに翻弄されることなく、その反応や結果を受け止められるだろう。

丁寧に自分に問い、自己と他者に対して誠実にそれを分かちあいなさい。
それが最も分かりやすく、あなたを表現することになる。
それがシンプルにあなたの真実を生きることにつながる。

あなたが自分と他者に向き合うには、自分の真ん中に降りていってそこから受け取り、語るしかない。
そうすればあなたは、世界を曇りない目で見ることができる。
嘘や葛藤を持たずに生きられるようになる。

純粋なあなたの表現は美しい。
そこに制限や評価を与えているのは常に自分自身だ。
何者かであろうとするのでなく、ただ一つの生命として生きなさい。
一輪の花のように、ありのまま世界に立ち、怖れずに交流しなさい。

あなたが、ただあなたでいてくれて嬉しい。


ありがとう。
愛しているよ









 

自分で考えるということ

February 06 [Mon], 2012, 21:29


120206 自分で考えるということ


昨晩散歩に出たときに、ふと有機バナナを買ってみた。
今朝それを食べながらぼんやり考えていたことがある。

なんで有機の方が安全でおいしいのに、値段が高いのだろう。
みんなこっちの方がいいと思わないのかな。
みんなが選べば流通量が多くなるんだから安くなるはずだよね。
有機、オーガニックなものの市場は、まだスケールメリット(たくさん買えば安くなる)を使えるほど成熟していないっていうことか。

あーそうか、ちゃんと選んでないんだ。反射で買っているとか。
あるいは安いという理由が、他の価値よりも優先されているのか。
でもそれって極論、生命よりお金の方が大切っていう価値観だよね。
え、本当にみんなそう思ってるの…?
人と話す実際の実感としてはそうも思えないけど。
でも表現される行動は、その価値観が前提に見える。んー。

でも二つ並んでいると、つい安い方を選んじゃうのはなんでかな。
お金は有限で、自分の扱える量が決まっていて、足らなくなると生活できなくなって、生きることが出来なくなるっていう不安があるっていうこと?
不安と不足を前提にした選択だから、安い方がいい。ふむ。

でも不安を前提にしているっていうことは、自分の生命を守りたいっていうことだよね。
それなのに、心身によくない毒物、添加物、ケミカル、放射性物質を、安いという理由で選択して身体に蓄積していく。なんでだ?
ゆっくり死ぬなら怖くない?みんなもやっているから大丈夫?
あー、そうか。不安を自分で考えて感じとることを放棄しているんだ。

毎日、考えなくても目の前にやってくる提供されるものを、そのままさほど判断もせず受け取っているのか。
それって国やシステムに対するすごい信頼だな。
でもすごい不自然。なんだろうこの違和感。

なんというか、生き物として正しくない気がする。
身体で感じたら拒否するはずのものを、頭が優位になってぼんやりしていることで素通りさせている、なにかとてつもない見落とし感。
それで当面の安定は得られるとしても、果たしてそれは幸福なのか?

あー、でも、そういう幸福も確かにあるか。
物質的充足=幸福の定義なら、そのインフラは機能している。
そのプロセスは抜けて、精神、スピリットの充足とは何かを問えるようになったってことか。
実際そのインフラを造るために尽力した先人達のおかげで、平和で安全に見える世の中を生きることができる。

でも、とてもぼんやりした幸福に似たものを与えられて麻痺させられているような、そういう何か気持ち悪い感じは拭えない。
麻痺させられている?あれ、与えられることが前提なのっておかしくないか?
あー、だからだ。この違和感。

与えられて当然っていう、その在り方がすでに自然じゃないんだ。
潔くも美しくもない。自分の人生と生命なのに、自分で生きている感じがしない。
謙虚に、天と大地に生かされていますっていうのとは違う、何かに依存して、生命として自立していない、その感じが気持ち悪いんだ。

うわー、いやなもの想像しちゃった。
後ろの扉は開いているんだけど、毎日餌が流れてくるから、その厩舎から出られないブロイラーとか豚みたいだ。
たしかにいきなり野生じゃ生きられないけど、それはすでに生きる意味を消失している。

自分で感じて、自分で選んで生きるってどういうことだろう?

「頭とハートと身体とスピリットが一致して、感じることに素直にありのままあること」

え、ここであなた(ハイアーセルフ)が口を挟んじゃうのって、ルール違反じゃありませんか?いい流れだったんですけど。

「そろそろまとめに入った方がいいかと思ってね」

おいしいところを持っていきますね。ずるい。

「わたしが話したところで、君の話すのとたいして変わらないだろう」

自分で立てそうなところを、最後持ち上げられちゃって、達成感を奪われた子どもみたいな気持ちなんですよ。

「それは失礼した、すまない。
では問おう。具体的には自分で選んで生きるとはどういうことかな?」

おっと、意外な返し。
そうですね。多分一つ一つの行動の結果をイメージして、それに責任を持つということですか?
たとえば、有機オーガニックなものとか、地産池消の野菜とかを選んで買えば、それに賛成しているっていう意思表示になって、その積み重ねの結果それが次の世界の在り方として根付いていくというか。

「確かに想像力は大切だ。世界は想像の結果、創造される。他には?」

んー、自分が何を好きで、何を愛するのかを知っているっていうこと?
そうでなければ、何に賛成したいのか感じられないから選べない。

「君が愛するものを知っているということ。それをどのように感じたらいい?」

味わうこと?居心地のよさとか手触りとか味とか、そのものを心から触れて受け止めて交流してみるとか。

「いいね。それは愛だね。味わったらそれでどうしたらいい?」

愛すること?あー、そうか、愛することなんだ。
結局自分が大切にしたいものを愛すれば、それが自分で生きたい生命のあり方を選ぶっていうことなんだ。なるほど。

「その通り。ほら、自分で辿り着いた。私が話すよりもスムーズだったよ」

インスピレーションの導きがあったからですよ。それは天からもたらされたものでしょう?

「では、天と自分の違いは何かな?自分とは何かな?」

自分とは?


「あなたが受け取るということは、あなたもまた天の一部なのだよ。私があなたの一部であり、あなたが私の一部であるように。
あなたが自分だと思っているものは、実は自分を越えた枠組みの中に組み込まれている、一時的な存在のあり方、座標、表現の表れに過ぎない。

人は時空を越えたつながりの中の一時的な表れとして、一時的な時間、空間、肉体、関係性、の中に自らを表現する。それが今のあなたの人生だ。
しかしあなたの存在は、永遠性と普遍性の中にその本質を有しているから、決して損なわれることはない。
従って、世界が不足と不安を前提にして成り立っているという、あなた方の信念は幻想だ。
あなたがどんなにそこにリアリティーを持っていたとしても、実際にはあなた方は損なわれることはない存在だ。

話を戻そうか。
人が不安と不足を人生の前提にして選択するから、長期的な未来への展望ではなく、より安いもの(一時的な安定)を選ぶのだとあなたは考えた。
その恐れが、世界をよい方向へ進むのを、押し留めている原因であるとも。

あなた方が損なわれることのない、普遍的で無限の存在の顕れだとするならば、その前提は覆る。
問題はどのようにして、人々がそれを新たな信念として自覚するかだ。

有限な自分自身という自己イメージを、より本質的普遍的な自己に連続するものと捉え直し、不安と不足の怖れに左右されない生き方をどのように実現するか。
それが真に自分で感じ、自分で選んで生きるということの意味だ。

実際のところ、あなたが不足を前提としない在り方を選ぶなら、あなたに不足はなくなる。
あなたの問題は足りないという事実ではなく、足らないという思いだからだ。
自身の本質に添って、自分とそれに連なる大いなるものを信頼して生きれば、現実的な豊かさももたらされるだろう。

あなた方が真に、自己が誰であるかを知ることが、この世界の進化には必要だ。
それがこの時代において、霊性の自覚が必要とされていることの意味だ。

それをしに来たのだろう?

あなたが誰であるのかを知り、それを表現しなさい。
あなたの大切にしたいものを愛し、自分のありたい生命のあり方を選び、あなたの真の喜びを地上に表現しなさい。
自分のスピリットに、常にベストを尽くして生きなさい。
歓びを燃やし、生命を燃やし、できるだけ生命と魂に純粋でありなさい。
もう言い訳も妥協も先送りも出来ない世界になるのだと自覚しなさい。
あなたが選んだ自分があなたになる。それが宇宙の仕組みだ。

それを見て、他の誰かも、自分自身が誰なのかに気付いていくだろう。
変化は内側から、きっかけは他者からもたらされる。
あなた方の背中と表現によって、世界に変化を促しなさい。

あなたが描きたいヴィジョンは何か?
あなたはどのような存在として生きたいのか?
あなたの人生が世界に残したいものは何か?
選びなさい。

あなたが書きたいのなら、怖れずに書きなさい。
歌いたいのなら歌いなさい。あなたの仕事に残しなさい。
表現しなさい。伝えなさい。与えなさい。余さずに。
あなたの本質は無限であっても、あなたに今与えられた時間は有限だ。
それを無駄なく使い切りなさい。決して悔いのないように。

あなたは孤独ではない。
インスピレーションは天からもたらされる。
天はあなたの一部であり、あなたは天の一部だ。

自分自身の本質に従えば、そこにより大きな意図が見えるだろう。
そのときあなたは天を自らの内に持って生きる。
あなたが誰であるのかを見失わなければ、人は不安になることはない。
宇宙と生命の本質に不足はないからだ。
そしてそれがあなたの本質だからだ。

いつもあなたの望むとき、宇宙はあなたと一つだ。
私達が一体であるとき、あなたは”孤独”ではなく”一つ”となる。


愛しているよ









 

今日の観想(theōria)

December 31 [Sat], 2011, 11:23

 
年末の挨拶したのになぁ。
朝の瞑想をしていたら、言葉が降りてきたので、今日の観想(テオリア)載せておきますね。
来年からできるだけ毎朝瞑想して、言葉を書きとめておくというのをやろうと思って、フライング気味に開始。

写真は今朝のサボテン先生。
白い小さな蕾がいっぱい。もうすぐ花が咲きます。



〜・〜・〜・〜・〜・〜

20111231


世界が変わろうとしているときに、抵抗するのはやめなさい。
どんなときも恐れを抱かずに、自分の芯にあるものに従い、真に自分自身で在り続けなさい。

真の自分自身が分からないときは、心を澄ませて、濁った水が清んでいくのをただ見守るように、自分の心を眺め、そこに留まり、感じ続けなさい。
そうすれば、あなたはあなた自身を必ず思い出すだろう。

あなたがあなた自身でなかったことなど、今もこれからも一度たりとも有り得ない。
だから安心してここにいて、自分が世界に存在していることを許しなさい。

あなたは安心してここにいていい。
あなたは望んでここに生まれ、すでに望まれて世界に受け入れられている。
それを自分に許せていないのだとしたら、自分がそれを許していないからだ。

あなたの価値を決めるのは他者ではない。
他者はあなたから受け取ることができるが、あなたの本当の価値はまだ知らない。
あなた自身さえも、その価値の全てなど未だ知ったことはない。

価値とは可能性のこと。あなたの存在のあり方、その純粋さのことだ。
それを決めるのは、今ここに有るものではない。
今ここでどう在るか、何をしているか、何をしようとしているかだ。
何かであろうとする必要はない。ただ自分の自然を生きればいい。

あなたの現在の種の中に、未来の大樹を描き、ただその方向へと、まっすぐに成長させなさい。
それを押し留めてはいけない。
まっすぐに進めさせないように見える障害物の多くは、自分自身が想像し、創造した恐れの影に過ぎない。

何が起こっているかと、それにどんな意味を与えるかは別のことだ。

花の茎や、大樹の苗が風に倒されても、彼らは風のせいにはしない。
そこに意味、無意味を与えず、その是非を問わない。
ただ起こってしまった事実として受け取る。
常にそこから見える最良のものから目を逸らさず、今自分にできる最善の方向へ、もう一度立ち上がる。

花は常に希望を知っている。植物は自分を疑わない。怖れない。
陽の光と自然の恵み、宇宙の理を信頼し、自分の生命の力に従い、ただ生きる。
自ずから在るように在らしめること。自ずから然り。それが自然に生命(イノチ)を生きるということ。

あなたの生命が純粋に燃える時、あなたの生命が輝く。
それが生きる意味であり、あなたの本当の価値となる。

濁りなく在りなさい。
自分の生命(イノチ)の純粋さに従いなさい。

澱みなく在ることができるようになったときに、花が世界を見ているように、周りの世界を見るようになるだろう。
あなた自身が、一輪の花であったことに気が付くだろう。

そして強い意志と個性を持ったまま、もう一度この星と、宇宙の一部に戻る。
己の役割を知り、自然の一部として生きるようになる。

それが真にあなた自身を生きるということだ。
あなたは、つながりを失った存在としては生きられない。
個の存在は、全体の中でこそ、その意味と役割を持つ。
全体もまた、あなた自身なのだ。

それに気が付けば、慈しみ、全体性を持った自分として、自らを開放できるようになるだろう。
宇宙とそこにあるものを抱擁し、ハートを開いたまま偽りなく生きるようになるだろう。

大丈夫。あなたはすでにそういう存在だ。それが生命だ。

それが自然の生命(イノチ)として生きるということ。
それが頭ではなく、ハートに従って生きるということ。
自分が誰であるかを知っているということ。

それが自分自身で在る(I am)ということだ。


ありがとう。
愛しているよ。


〜・〜・〜・〜・〜・〜







 

愛するには

November 19 [Sat], 2011, 2:47


なんか秋っぽい映画が観たくなって、「Sweet November」を取り寄せて観た。泣いた。

いろんなテーマが散りばめられていた。愛ってなんなのかとか、人生を生きる意味だとか、そういうことのシンプルではっきりした何かが伝わってくるいい作品だと思う。
ただ、救いのない現実に救いを与えてあげられるのがフィクションの役割だとするなら、一人の人間としての泥臭い気持ちに従って、もっと最後まで足掻いてほしいと思った。
そこから見えるものや、開かれていく別の未来、そこまで見たいと願う。
綺麗な終わり方よりも、傷ついたとしても繋がっていく未来への希望にこそ、本当の価値があるのだと私は信じていたい。

「あなたには 幸せな 私を覚えててほしいから」という言葉が印象に残る。
人の生きる意味は、ひょっとしたら自分の人生にではなく、誰かの中に残り、生き続ける事にあるのだろうか。
一生の終わりに残るものが、自分の満足だけだとしたら、多分やり残したことを思うだろう。
誰かの中に、どれだけのものを残せたかが生きた証で、そうやって与え合い、受け取りあった交流こそが、生きる意味なのだとしたら、多分それは愛と同じものだ。
そんなことを思い、深く響いた。
受け取った人に優しい気持ちを残せるのなら、それは十分価値あることだと思う。
そんな言葉や、交流や、何かの足跡を、日々自分も残せたらと思った。

ありがとう。



ただ寝るのが惜しくて、暗い部屋で祈るように瞑想していたら、
例のごとく言葉が降りてきたのでメモしておく。

〜・〜・〜・〜・〜・〜


神様、どうしたらもっと深く愛せるようになりますか?


あなたの闇を相手に投影するのをやめて、本当の彼等自身を見てあげなさい。
あなたが真に彼等を曇りなく見るとき、そこには美しかあり得ない。
生命は等しく輝きを放ち、どれも代えがたくユニークで素晴らしい存在だ。


なぜ私はそれを忘れずに見続けていられないのでしょうか?


あなたが彼等の中に自分の見たいものを見ようとしているからだ。
彼等はあなたと同じように自由な存在なのだから、あなたの期待で相手を枠にはめて見ることを手放しなさい。

川の魚にあるべきを問わぬように、飛ぶ鳥に行方を訊かぬように。
未だ開かぬ蕾の、花の色形を指示したところで、その意図に沿わぬは花の落ち度ではない。

ありのままを見て、それをありのまま受けとめなさい。
あなたが期待を手放して見るとき、そこに現れる存在は常に新鮮で新しい。
己を枠にはめこまなければ、それを相手に求めることもない。
好みやコントロールを他の御霊(生命)に押し付けることで、不自由になるのは己自身だ。

愛であるということは、あるべきを問わないということだ。
相手の中に”べき”を問うのは、己がそこに縛られているからだ。
なにものからも自由でありなさい。
心を開いて愛するというのは、そういうことだ。

自分自身もまた、常に新しく新鮮でありなさい。
過去の経験に従うのではなく、常に今だけに立ち、
未知を友とし、幼子のように世界を味わい、遊びなさい。
そうすればあなたは世界の素晴らしさを知るだろう。
そこに映る己を知るだろう。それを愛するようになるだろう。

自分自身の制限から自由になるとき、あなたは期待や制限なく人を愛する者になる。
怖れないで開いていなさい。あなたが傷つくのは、他者によってではない。
あなた自身が、宇宙から自分を閉ざして切り離すためだ。
自分を罰することを手放しなさい。自分の価値をきちんと受け取りなさい。
何者もあなたより素晴らしい存在はない。
それを理解すれば、同等を外側に見るだろう。

内も外もなく、あなたと私の境もなくなる。それが愛だ。
相手を想うことと、自分の喜びが同じものになることだ。
生命(イノチ)の本質は歓びだ。
だから相手の歓びを感じることは、生命の本質的な交流である。
それをして人は、生を真に生きることを味わう。

それをしにきたのではなかったのか?

忘れずにいなさい。あなたは愛だ。何者にもまして価値ある存在だ。
あなたが素晴らしいのは、あなたが独特で、創造的で、自由な存在だからだ。
ありのままの自分を受容すればいい。
そうすれば、他者のありのままを見ることができる。
本当の彼等を知ることが出来さえすれば、あなたは彼等を愛さずにはいられない。

自分を愛から切り離してはいけない。世界から己を閉ざさぬように。
怖れと無知が、愛を遠ざけ、あなたを孤立させる。
受け取りなさい、宇宙があなたに与えるものを。
心を開いて、そのありのままを見なさい。

闇の中の小さな自分には価値がないと、誰が言おう。
それを言うのもあなた自身だ。
あなたが誰であろうとそれが、そのありのままがあなた自身だ。
そしてそれを受け止めたその時から、あなたは動きだす。
あなたは、あなた自身を生き始める。

愛と感謝と許しが内側から始まるとき、人は生きることの意味を真に知るだろう。
真の交流、真の人生の体験は、実際のところ、そこからしか生まれない。

もう頃合だろう?
待っているよ。


love my son.
愛する子供達へ


〜・〜・〜・〜・〜・〜







 

Amazing Grace

November 03 [Thu], 2011, 2:18


一日何かを読んでいた日。

起きるまで夢だと気が付かなかった、とても居心地のいい世界の明晰夢から醒めて、こちらの世界を生きている自分の現実に戻された。そんな朝の始まり。

そういえば昨夜は自分の中で、なんだかとても腑に落ちる気付きを得た日だった。
今朝あの世界に夢でつながっていたのは、ひょっとしたらそれが関係していたのかもしれない。

それはなんか当たり前すぎて、わざわざ口に出す必要もないようなものだったのだけど、多分僕が受け取る必要のあるものの中でも、とても重要なものなのだと思う。
私が揺れて振り回されてきた自分の中の感情や、葛藤や傾向(パターン)みたいなものが、なぜそこに存在していたのか唐突に分かったのだ。
言葉にすると薄れてしまう気がしてうまく説明しづらい上、あまりに個人の感覚に依存する体感なので、おそらく十分な理解は得られないかもしれないが、敢えて書いてみる。

それはすべてはこの魂があの源につながっている自分として、同時にここに在ることに気付くために存在したブレ(焦点を合わせるまでの)というか揺らぎ(一時的な忘却と離脱)のようなもので、感情体やメンタル体等、肉体により近い層の感受性に引きずられずに、同時にここに、より拡がった存在として、どれだけ自分として深く在るあり方を選べるかということだったのだ。
それは魂や精神の成長や自立と関係している。

あまりにも幼い自身の感情を、どうにも持て余してしまうときに、それがどのようにすれば満たされるのかにきちんと向き合うと、必要のあるプロセスを得て、人は変わり、成長していく。
それはスピリットの成長にもきっと同じことなのだろうと感じる。それをありのまま欲し、ただ受け止めていけばいいのだと分かった。
きちんと愛されていることを受け止められた子供が、もう甘える必要のない自信を得て、自然と自立していくように、スピリットはありのままを受け止められることを望んでいる。
その人と人、人と宇宙の無条件の交流を、何と呼んでも構わないが、きっとそれが愛なのだろうと思う。

夜遅く終電で帰ってきて、なんだか夕涼みしたくなって一つ前の駅で降りて、まだ若い三日月と、明るく透き通った冬の一等星を見上げながらてくてく歩いていたら、とても澄んだ、あの懐かしい感情がふいにやってきた。
肌寒いけれど清々しい風が頬に触れ、吹き抜けて、とてもいい夜だと思った。
秋の夜には時折、こういう心を清ますような風が触れる。
それは決まって、夜気の底でたった一人で居るときにだけ来るのだ。

それを味わっていたら、それに侵され揺さぶられることのない、自分の芯のスピリットの存在と、それに連なる大きな源を意識した。
個でありながら全である事は矛盾しない。それは個が全の一部だとか、全は個の集合だとかいう事ではなく、個と全は「同時」に、そして矛盾せず確かに今ここにある。
これを保ち、かつ同時に個の感じている喜びと意思、願い、愛、情熱に従って、より純粋に生きることが、己の魂をありのまま生き、表現することだ。
自分の中の矛盾や不理解や稚拙を含めて、少しずつでも、もうそれを認めていかなければならない。いずれにせよ今は他の道は見つからない。

スタートには立てたか?間に合ったのか?
空を見上げても、たくさんの出会いと計らい、その恵みと恩寵にただ感謝するほかない。

Amazing Grace.(いと深き、神の恩寵)



そんなわけで、内観の夜と夢の朝を越えた、オフの一日。
どこに出るともなく、ほとんど動くこともなく、ひたすら活字を読んだ日。
漫画、雑誌、実用書、ネット私小説もろもろ5冊分くらい吸収し、感動を蓄積し、修養する。いずれも良作、名作。とても満足した。

そして先ほど、先日書いたメモ日記「10/22 葛藤は何のためにあるのか」に対して、昨年ご縁を頂いたあるクライアントの方から、とても詳細なご自身の理解とシェアを頂いた。
6000字を越える、とても的を得たテキスト。こちらもすごい文才。

こんな私の何かでも、誰かの中にそれぞれの源につながった気付きを促せるものがあるなら、日々ふいに降りてきたりする些細な気付きでも、なるべくアウトプットしていきたいなという励みになる。感謝です。

先日シャワーを浴びてたら降りてきたメモがあったので、せっかくなので載せておくことにする。
なぜかインスピレーションはシャワー中に降りてくることが多い。
記憶や意識の情報は、エネルギーボディの層に蓄積されたり送受信されたりするから、それが水浴びで禊がれて余分がクリアになって、空いたところに入って来やすいのか?興味深い。


*-*-*-*-*

神というものがあるとしたら、なぜ世界の悪や悲惨な現象を許すのかということについて降りてきた気付き。

神(宇宙)の愛は無条件である。
無条件であるということはジャッジや判断がない。
したがって、神というものがあるとしたら、それは現象の善悪を問わない。

個々のスピリットは、その存在のあらゆる側面を体験したいという願いに基づいて生命として生まれてくる。
したがって神の愛は、その存在や現象のあらゆる側面が体現されることを許すという意味でも、無条件の愛である。

重要なのは、個々のスピリットがあらゆる可能性の選択を許された状況の中で、それぞれの意思として何を選ぶかである。
その結果の集積が、我々の体験する世界のあり方のベースを構築している。

故に、世界がどうあるか、私達が何を体験するかは、それぞれ自身の思考と意思と選択の結果である。
そしてそれが、選択の結果である以上、我々はそれぞれの体験する世界も、状況として現れる世界も創造することができる。

*-*-*-*-*


なるほどねぇ。だから自覚的に目醒めて生きるということが、これほど重要だと説かれてきたのね。
この世界のおかれている現在の状態からすればなおさらか。

別に神だのなんだのいつも考えているわけではないけど、他にそれを表す適切な言葉がないし、普遍的なのでつい使ってしまう。もともと宗教的なドグマは持っていない。
たくさんのものの見方があるなら、それぞれ好みのものを使えばいい。
それでも宇宙には人の二元性の持つマインドを越えた理解の仕方や理が、確かにあるのだと思う。
それを解き明かして受け取りたくて、こんなことを20年もやっている。

本当のことと、それを完全には理解し得ないことで生まれるバランスが、人間の生を面白くしているのは確かだろうなぁ。
それでも私は我侭なので、すべて知った上で選びたいのだ。

だんだん生きるって楽しいと思えるようになってきた。
こんなことを考えていることの利点は、日々に埋没して巻き込まれそうになる俗事の中にあっても、人間で居られることの、その体験の貴重さを忘れず思い出せることだ。
見落としがちな日々の中の感動を、一つとして取りこぼすことなく受け取ることが出来たら、この宇宙には、感謝や感動なんて言葉では到底足らない豊かさが溢れている。
ただそれを忘れないための、つまらない理屈なんだ。

だとしたら理屈がいらなくなったときに、本当に受け取れるのかな。
それも楽しみだ。


ありがとう。







 

イノベーション

July 20 [Wed], 2011, 22:51

  
めずらしく早起きだった朝。
まだ外は台風で、雨と風が周期的なリズムで吹きつけている。
早起きはいい。精神と魂が健やかになる。

雨だったので、今日は読書して過ごすことにした。
午後になって緊急連絡が入る。
週末の空気清浄機作りワークショップ用に発注していた圧縮ポンプが手違いでいくつか間に合わない。
ふーむ、なかなかゆったりした休日にはならない。

もう日がないので、不確実な口約束では危険だと感じたので、そのままホームセンターに探しに出る。
最低でも現物を必要数手元に揃えて、WS開催ができるよう保険をかけておこう。

台風の日の外出は億劫だが、豪雨に打たれるのは楽しい。
「ショーシャンクの空に」という大好きな映画の、感動的な解放シーンを思い出す。

買い物ついでに夕食を食べに出たら、カサが風に煽られて裏返った。
続けてきた第二波で決定的に大破した。
なかなかありそうでめったにないことだ。今日はラッキーに違いない。

台風のエネルギーは好きだ。人を変革させるのは常に大きな渦と波だ。

タイミングよく蕎麦屋でジョブスの語録を読んだ。(そのまま読破した)
今思えばそれが計らいとギフトだった。
人間安定していてはだめだと思った。もっと追い込んで飛び込んでいかなければ。

唐突だけど、今日からリズムを変えることにした。今決めた。だから今からやる。
不意に見つけたスティーブ・ジョブス(アップルコンピュータ・NEXT・PIXER等の創始者)の語録を読んでいて初心を思い出したのだ。

彼の言葉にはとてもシンパシーを感じる。とても止まったままではいられない。
いかんね。今まで腐っていた。だからギアを変えていくことにする。

モットーは「有能な怠け者」でよしとしてきたが、それではイノベーションなど望めない。
お前は地球に何をしに来たんだ。

「最善を尽くせ 且つ一流であれ」
学生時代を通して得たものの中で、唯一今まで持ち続けてきた初心に返ろう。
勉強は生き様を学ぶことだ。知識と経験は自分で積まねばならない。

多分ここ数年怠けていたのだ。道理で動きが少ないはずだ。

よし、殺してしまおう。
お前(エゴ)の甘ったれた言い訳などに耳を貸すのはやめよう。


お前はなんのためにここにいる。
お前は誰だ。(Who are You?)

お前はスピリット(魂)だろう。(YES I AM!)

お前(魂)の望みはなんだ。

「イノベーション 意識とライフスタイルの転換 新しい地球の再創造」

それでここで何をしている。最善を尽くしたか?

(………)

今すべきことは何だ?

(今から始めること)

そうだ、あがけ、模索しろ、最善を尽くせ、あきらめるな。


間髪いれずにジョブズの言葉が後を押す。

「すぐれた仕事をできないのは、そう期待されていないからだ」

(「人がすぐれた仕事をできないのは、たいていの場合、彼らがそう期待されていないからだ。誰も本気で彼らのがんばりを期待していないし、『これがここのやり方なんだ』と言ってくれる人もいない。でも、そのお膳立てさえしてやれば、みんな自分で思ってた限界を上回る仕事ができるんだよ。歴史に残るような、本当に素晴らしい仕事がね」)


その通りだ。
だが、少なくとも私は自分自身に期待していたか?

本当に出来ると信じているか。
理想と現実から目を逸らさずにいるか。
言い訳を求めて、他人や状況のせいにしていないか。

そんなお前を見せていて、他の誰がお前に期待する?
誰かに支えられることを望む前に、お前自身の甘えを払拭しろ。

たった一人でも求め続ける者に、味方はついてくる。


さしあたり時間の使い方を刷新しよう。
できるのにしていなかったことがあるはずだ。

早朝起きれば午前中に時間が取れる。まず歩こう。
ニーチェだったかがたしか、「歩かずに得られた智慧を信用するな」と言っていた。
そこで得たものを午前中にアウトプットできれば、午後に仕事を入れても十分間に合う。

自分と地球に残された時間が惜しいので、もう口だけでないものを残していかなければ。
他の人はどうあれ、まず自分から始めよう。
足跡はいつか辿り着く遠くじゃなくて、常に今ある足の下から生まれる。
今は先が見えなくても、辿り着くには歩きだすしかない。

やれやれ、そうそうこの感覚。久しぶりだ。背筋が伸びる。
常にチャレンジャーだった。錆付いていなければいいが。
まずはこれを維持していこう。

台風すばらしいね。
自分を越えた大きなものに掻き回されて、揺さぶられることは時に必要だ。

ショーシャンクの主人公が、自由を求め続けて、嵐の夜に解放されたように、変化は意思と継続と天の計らいの結果だ。
そして計らいは、求め続ける者を押し上げる。

時計を毎朝5時に鳴るようにセットしなおした。
今日はもう少し、昨日の続きの本を読んで寝よう。

この部屋は朝、暑くて寝苦しいので助かる。
起こされたときに起きてしまうことにしよう。

毎日なにか快い変化がある。
体験こそが、この地球で得られる最大のギフトなのだから、自分から取りに行かなければ。


ありがとう。






イノベーション(innovation)
物事の「新機軸」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」(を創造する行為)のこと。新しい技術の発明だけではなく、新しいアイデアから社会的意義のある新たな価値を創造し、社会的に大きな変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い変革である。つまり、それまでのモノ、仕組みなどに対して、全く新しい技術や考え方を取り入れて新たな価値を生み出し、社会的に大きな変化を起こすことを指す。










 

滝にうたれて

June 12 [Sun], 2011, 19:56

 
夏至前、上半期の大祓えの禊ぎに、滝に打たれてきました。
毎年行ってる個人的な聖地です。

雨が降ると言われていたのを覆し、程よい薄曇りで気持ちのいい日でした。
さっき家に着く直前あたりからパラパラ来始めたので、待っていてくれてのかも。

今日はわりと一日、自然な心持ちで過ごせました。
この感じが維持できるといいなぁ。

今年は痣にもならず、すべてが清々しく優しかった。[去年の様子]




しかし昨夜の雨で水量もあり、目の前の滝はなかなか壮観。
まだ季節が浅いからか、生きものの気配は少なめだったけれど、
その場所はいつも時の止まっているように、とても深く澄んでいた。

聖地とはきっと、本当は場所のことではない。
受け取り手の中にそれをリスペクトし、受容するための場所があり、そして時間と空間と何者かの意思、その全ての軸がある一点でかみ合ったときに開かれる、神聖な「体験」のことなのだと思う。

山とそこにあるすべてのもの、気配、生命、意思、時間、すべてに心を開いて敬い、明け渡すと、自分の中に何かが入ってくる場所が生まれる。
それは同時に、すべてのものと自分が対等であるという感覚。

敬い、畏れるからこそ、人は自然の中で対等でいられる。
逆らわないこと。流れに身をゆだねること。

滝の流れには、逆らっても決して勝てない。
勝つのではなくただゆだねること、ただ一体であること。

人はなにものでもない。


いつのまにか合掌していた手もほどけて、ただ体の表面を猛烈な水流が流れていくのにまかせていた。
自分の大きな呼吸だけが聞こえる。

この星のために働けますように、私のすべてを使ってください、と昨年は願った気がする。
しかしそうではないということが分かった。

何かのために働くのではない。ただ大きな自然の一部として生きればいい。
自分が偉大な宇宙、自然の一部であることを、ただ受け入れるということ。
何者でもないけれど、全ての一部であるということ。

そうしたらきっと、誰かのキズを庇うことは、自分の痛みを庇うように自然でいられる。
それがきっと心を開くということだ。

手は手だけれど、身体の一部であることをやめられはしない。
人は考えすぎて、きっと離れすぎただけだ。
手先しか見えなくなって、自分がどこから来たのかを忘れてしまった。
本当の身体は目に見えなくて、そして大きすぎるから。

水中の足が冷えて、今朝ぶつけて出来たばかりの足先の傷が疼いた。
その傷は私の傷で、しかし、より大きな自然の一部でもある傷。
それは今、大きな自然に包まれていて、互いが互いを感じている。

なんだかたくさん優しくしてもらった。
深く深く、頭を垂れてお礼をした。
自分に何もできることがなく、とても感謝が深いとき、
人はただ頭を垂れることしかできない。

顔を上げると、少しだけ明るくなっていた。
「またおいで」といわれた気がした。

同じだけ、誰かに優しくありたいと思った。
自然を見るように、囚われも期待もない眼差しで、ありのまま、誰かと向き合えたらいい。
自分のことではなく、自分と相手の間にあるすべてを同時に感じながら、ただ体験し、味わえばいい。

生きるって、解釈することではなく味わうことだ。

味わったら、それを分かち合えば、互いのことがもっとよく分かりあえる。
お互いに感じているものは、お互いを通して感じているもの。
それもまた一つの自然、より大きな存在としての、同じ一つの体験。


帰りのバスと電車でとても眠くなった。
疲れたらしい。人が自分である日常を保ちながら、より大きな自然と交流することが、もっと当たり前になれたらいいのに。
しかし非日常の中だからこそ、見えてくるものもあるのかな。
都市の中でしか体験できないことって、あとどのくらいあるのだろう。

価値観がシフトしていけば、ライフスタイルや人のあり方も変わっていくだろう。
多分、次に自分のやりたいことは、新しいライフスタイルモデルの提示と表現になると思う。

人が自然や宇宙につながって、自分自身として矛盾なく生きるということを、どうやって現実的に調和したライフスタイルの中で実現していくのか。
そのためにはそのインフラになる社会変革や、社会通念に対する革新みたいなものも必要になっていくだろう。

さて何から始めたら楽しいか。
背負い込むつもりはないけれど、私は宇宙の一部としての自分の自然に従っていくだけ。
もうぶれないでいよう。結局従うものは一つしかない。

今日も一日ありがとう。
天と地と、自然と友人達と私自身に、心から


ありがとう。







 

未来を選ぶ

May 14 [Sat], 2011, 7:47


朝起きると窓を叩くものがある。
見覚えのない、一畳ほどの巨大なビニールのぷちぷちが、ベランダで風とダンスをしている。

朝から不思議な来客。夜の間に迷い込んだのだろうか。
未来はいつも未知に満ちている…。


Yesterday is history.
Tomorrow is a mystery.
Today is a gift.
That's why it is called the present.
(Alice Morse Earle)

[意訳:昨日は歴史、明日は謎、今日という日は贈り物
    だから「今」この時を、「プレゼント」と呼ぶ]


結局、未知なる未来を迎えるためには、今を生きるしかない。

人が死ぬ直前の後悔の殆どは、「あれをやっておけばよかった」だそうだ。
「やらなければよかった」と思うことは、実際は殆どない。
だとすれば、悔いのない人生を生きるためには、結局は出来る限り進むしかない。
「これをやっていいのだろうか」なんて言っている暇はない。

進む方向は最初から決まっている。ただ喜びの方へ。
魂の願いは喜びが導くから。生命の力とは喜びの力だから。

最初の生命がこの星に生まれて、「生きる」という体験をしたとき、その歓喜の爆発が呼吸となり、原始の海に酸素を生んだ。

今、地上に生きる全ての生き物は、等しく最初の生命の歓びの上に立っている。
そして生命の意図と願いは、その歓びを可能な限り宇宙に遍く拡げていくこと。

では私の喜びはなんだろう。

生きることを味わうこと。
その中で、より歓びのある体験を選んでいくこと。
自分の生きたいあり方、場所を創造していくこと。

それらはつながって、やがて一つの大きな形を創りだす。
この星を廻り、交わり、たくさんの意図と思いが、次の世界を形作るだろう。

誰もがそこに参加している。
今はたとえ、取るに足らない小さな者だと信じていたとしても。

では何を目指せばいい?
どのようにして為せばいい?

尋ねなさい、あなた自身に。
尋ねなさい、すでに知っている者に。

心地良い風、深呼吸できる空気、美しい水、樹々、木漏れ日、音楽、笑い、仲間、家族、愛する人達、つながり、不安のない世界、明日に希望のある毎日、自立、智慧、尊敬、分かち合い、満ちていて、ただ呼吸するだけで完全に静寂と平穏に満ちた幸せな時間…  最初の生命がかつてそうあったように。

私は居心地のいい世界を創りたい。
それを皆と分かち合いたい。

その方法はすでにある。
いくつもの言葉と多くの口を借りて、すでに語られている。

探し、受け取り、始めなさい。
歩き出せば、進みだす。
あなたが始めれば、その創造にもう一つ力が加わる。

小さな始原の生命が、その歓びからこの星を美しい星に創り変えたように。
喜びに導かせて、それぞれが小さな力のままに、大きなことを為しなさい。

生きることの体験は、それを越えてより大きな生命の目的につながる。
そのときに、お前は自分の生まれた理由を知るだろう。


愛してるよ。
ありがとう。



〜・〜・〜・〜・〜・〜



あれ、いつのまにハイアーセルフにつながって、観想(テオリア)になってた。

そういえば先月、上のような疑問に答えるチャネリング交流会@逗子を行った。とても密度の濃い時間。

この交流会は、上の文中で言うと、「何を目指せばいい?」の部分を掘り下げる作業に当たる。 (What,Where,Why)

このWhat(何を)の答えは、自分で見つけなければいけない。
そしてこの部分をサポートするのが、今の自分の仕事だと思っている。

これらの問いは、自分のハートとスピリットに尋ねれば、喜びをその標として導きと理解を得られる。
そしてそれだけは自分で受け止めなくてはいけない。

対して、現実的に未来を創る方法としては、例えばその夜に伺った田中優さんのお話会が「どのようにして為せばいい?」(How)に答える部分。

[参考] 動画【田中優さん緊急講演会】 ブログ【田中優の'持続する志'


「尋ねなさい、すでに知っている者に」
そう、How(どのように)の問いには、求めれば多くの場合、すでに適切な答えがある。

だから私達は焦らなくていい。それほど怖れなくていい。
ただ求めること、手を伸ばすこと。自分の内と外に。

そうすれば求めるところに辿り着ける。
それは内にも外にも、すでに在るのだから。

たくさんの迷いや疑問の中で、自分のもっとも大きな喜びを見つけられたら、そうあるように、そこを目指すように生きたらいい。
でもそれが見つけられないときは、自分の真ん中に降りていくこと。

自分の真ん中は、宇宙の中心につながっているから。
宇宙の源は、それぞれのスピリットを通して叡智を共有している。

私達はそれぞれの心を覗くことで、それを窓として叡智を受け取れる。
より大きな意識の自分が知っていること、受け取っていることの大きさを知れば、人は恐れる必要はなくなる。

人間はとても大きな可能性を秘めている。
人々が自覚して、未来を選ぶようになったら、どんな未来も創造できる。

そのためには動機が重要だ。
恐れではなく、自らの中の最も大きな喜びに従うとき、人は最良のヴィジョンを創造できる。

自分の真ん中にあるものが何かを知ろう。
それを皆と分かち合おう。

皆がそれを分かち合うとき、この星は喜びのネットで網の目のように包まれる。
生命のエネルギーは歓びのエネルギーだ。
始原の生命が歓びでこの星を包んだように、人間の意識は今つながろうとしている。

命の力、意識の力、魂の力が、自覚されて活用されるとき、最良の創造に向かうとき、人類の意識は目覚める。
そしてそれが惑星の意識と同調するとき、この星の夜が明ける。

さて、どのように(How)それを為す?
まずは知り、集めていこう。一つずつ。



〜・〜・〜・〜・〜・〜



ところで前回、地震と原発事故のために実現しなかった幻の企画が、
お蔭様でこの度日の目を見ました。
おそらくこういったことを話すのではないかと思われます。

 5/28(土) 地球・交流会〜2011

葉山にある、海の見える素敵なお部屋を貸してもらえることになりました。
大きく動く世界の中で、ますますハードルは高くなった感じですが、精一杯楽しんでやってきます。
よろしくおねがいします。


ありがとう。







 
プロフィール
  • ニックネーム:りゅー
  • 誕生日:1977年2月21日
  • 現住所:東京都
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