豹か縞馬かダルメシアンか 

November 05 [Wed], 2008, 14:10
恐れるな、突き進め、砦を壊して禁忌を犯せ。
全く、好き放題言ってくれる。
気持ちを音楽に託すのは結構だが、
昨今の歌は何故こうも薄っぺらい攻撃性に満ち満ちているのか。
どんなに言葉を変えても、どんなに旋律をいじくっても、
着飾って踊る連中が言いたいことは皆、同じだ。

Just do what you wanna do!

ほぅら、これだってもうどこかで必ず聞いたことのある文句だ。
どこにも逃げ場のないこの街で救いを求めるとしたら、
自由への妄想以外に方法はない。
自由。いい言葉だ。
私には一体どんな自由があるというのだろう。
考えてみる、私が自由に動かせる物事を。
しかし考えてみたところで想像は行き詰まり、
入れ替わりに現実が帰って来る。
所詮私の自由などたかが知れているのだ。
そして自由を意識した途端、その行為は自由ではなくなってしまう。
レオパード?ゼブラ?それともダルメシアン?
3種類のファーコートを指でつつきながら、
私は私に与えられたささやかな選択権と、
それらの動物たちの失われた自由に思いを馳せた。

薔薇の天使降臨☆ 

October 05 [Sun], 2008, 22:50
遅くなりましたが、不肖このわたくし、薔薇の天使めが感想なぞを述べさせて頂きまする。
どうぞよしなに☆

(無題) 

October 02 [Thu], 2008, 17:24
なにを話すにも気負わない柔軟性が必要なのだろう。自分を口に出そうとする途端に、少しずつ記憶がづれてかみ合わなくなってしまう。大切な固有名詞がその合間に落ちて、ひずんだ大地に投げ出されたような感じ。寄る辺にする木陰もない…

私はこの人のなかに潜り込んで、見知らぬ生き物や植物を目にしたいと思いはするものの、相手は実にあいまいな、余りにあいまいな笑顔を浮かべて車窓の外を眺めているのだった。

今上野にフェルメールが来ているみたいですね、とその人は中吊り広告を見上げる。ご覧になりましたか?
いえまだなんです、行きたいとは思っているのですけれど…と私はつぶやいているが、そのことにさえ無性に羞恥を感じるのだ。
彼は風景画がいいですね、ほとんど描いていないけれど。デルフトの展望…ご存知ですか?今回はおそらく来ていないでしょうねぇ…

ポスターの絵をみると、印刷だからか女性のスカートの赤がいやに毒々しく、私はそのことに奇妙な違和感を感じる。室内にさす光にしてはその赤はあからさまだった。

二年前に画家のアトリエが来たことがありましたね。思っていたよりずっと小さいように思って…
それはよくありますね、ブータンなどもこんなですね、とノートのサイズくらいを指でかこってみせる。

戦後アヴァンギャルドと安部公房――『壁』「S・カルマ氏の犯罪」 

October 02 [Thu], 2008, 1:43
戦後アヴァンギャルドと安部公房――『壁』「S・カルマ氏の犯罪」

★戦後アヴァンギャルド

一九二〇年代に入り、文学・美術において輸入されたavantgarde・「前衛」の語は、プロレタリア文学・芸術運動を中心に、戦前非常に多義的に用いられた。大きくは、共産主義的理念をさす政治的側面と、革新的な芸術運動をさす側面との二つに分けられ、さらに、満州政策を国策の先鋭として「前衛」と呼ばれる場合もあった。その詳細な区分、変遷については、今回はおきたい。本稿においては、戦後のアヴァンギャルド運動に着目し、それが、戦前用いられた語義をある面では引き継ぎつつも、敗戦後という社会的状況を踏まえ、新たに規定しなおされた概念として見ていく。

 戦後、政治・芸術の二つの「前衛」の流れが新たに勃興し始める。

滝口修造「二つの前衛美術」/「読売新聞」昭和二十二年五月六日
前衛美術の動きがぽつぽつ報ぜられるようになった。たとえば戦前から自由美術家協会あたりとならんで、前衛派の代表公募団体と目されていた美術文化協会が分かれて新たに前衛美術会が誕生するとかまだ発表の機にいたらないが諸団体とは別に批評家の招待の形式で前衛作家展が計画させているといつた動きがそれである。こゝで注意すべきは、さきの場合は主に左翼的傾向の作家の分離を意味するようだし、あとの場合は特に超現実派、抽象派的な傾向の作家を意味している。

一九四七年には、この滝口を中心に、福沢一郎、戦地から復員した岡本太郎らが、「日本アヴァンギャルド美術クラブ」を結成している。この動きは、美術の領域のみならず、文学等他芸術へも波及していく。それは、アヴァンギャルドが精神の形式として認識され、「既存の芸術家に共有される時代精神の破壊と再構築という命題が、戦後における文化再建の機運と深く結びついていた」 ためであった。

関根弘「現代史に於ける知識人の任務――アヴァンギャルド」/『個性』一九四八年十二月
個人の熟練を排除し労働力の平均的質の高さを要求する大工業生産の資本主義的発展を前提条件としているが、このメカニズムのなかで自らを訓練し、組織する労働階級が意図的に生産の社会化を図る革命的事業を決行する闘いの過程においてはじめて可能な実現となる。さしあたつてここにアヴァンギャルドと大衆の関係が生れなければならない。(中略)アヴァンギャルドは伝統の内部からでなく、伝統の外部から直接、労働階級に結びつく。問題は芸術運動にのみ限らないのだ。

 アヴァンギャルドの精神は、岡本・花田らによっても社会変革・革命の精神として、芸術論と一体となって論じられるようになる。一九四七年六月には、「綜合文化協会」が花田を中心に設立され、『綜合文化』が発行される。一九四八年に結集された「夜の会」は花田清輝、岡本太郎を理論的な指導者とし野間宏、埴谷雄高、佐々木基一、梅崎春生、椎名麟三らが参加した。「近代主義をこえる世界観と、リアリズムを超える方法意識の追求」 が目指されたが、この会への参入をきっかけに、安部の活動が開始された。さらに、                                                   一九五〇年には「夜の会」の若手、安部公房・上野光平・小林明・関根弘・中田耕治・宮本治らを中心に「世紀の会」が結成されるなど、五〇年前後に相次いで、戦後アヴァンギャルドの基盤が確立されていくのである。
 では、アヴァンギャルドの精神とは如何なるものであるかみておく。

武井昭夫「政治のアヴァンギャルドと芸術のヴァンギャルド」/『美術批評』一九五六年三月
わたしたちは、いま、資本主義体制の機器の深化と植民地体制の腐食という二重の外圧のもとで、解体され物質化される人間疎外の悲劇を、冷酷に凝視する内部認識の眼と、それを描きだしうる方法の探求・確立をなしとげようとしている。しかし、わたしは、そうした芸術のアヴァンギャルドこそ、さらにすすんで、こうした内部現実に対応する外部世界の政治をも、正確に把握・認識する方法の探求・確立にむかうべきではないかと思う。(中略)そのときはじめて、解体された人間像の再構成への道が具体的に開始されるのである。

花田清輝『アヴァンギャルド芸術』未来社/一九五四年
「ユーモレスク」
ガルゲンフモールの雰囲気の濛々と漂っているところ、そこには痛烈な自己批判があり、おのれの前提と正反対の極点に立ち、テーゼとアンチ・テーゼとの対立を、対立のまま、統一しようとする、するどい理知の操作があるが(中略)
わたしたちのいわゆる戦後文学のなかには、さまざまな異質の要素を――崇高なものと野卑なもの、精神的なものと肉体的なもの、美しいものと醜いもの等々を、すでに感覚的には明瞭にとらえ、みごとな効果をあげいている作品もあり、それらの諸要素は、感覚の世界にとどまっているため、まだ雑然といりまじったまま、並置されているにすぎないが、もしもそういうもろもろの相反するものが、弁証法的にきびしく追及され、対立物の闘争として、はっきり知的にとらえられるなら、当然、そこから、その闘争の最も尖鋭な表現として、ガルゲンフモールがうまれてくるはずであると考えたからであって(後略)
「林檎に関する一考察」
あるがままの林檎は、本能的な林檎と同様、われわれの理知を超越しており、いまだかつて誰からも、あますところなくその正体をとらえられたことはないにもかかわらず、今日、そのすがたを執拗に思い描いてみようというひとのほとんどいないのは、まったく不可解というほかはない。もっとも、かくいえばとて、わたしは自然主義へ帰れ、というのではない。あるがままの林檎のすがたに肉迫するためには、セザンヌの林檎やダリの林檎もまた、大いに参考になろう。要するに、わたしは、内部の世界と外部の世界との関係を、その差別性と統一性においてとらえたうえで、これまで内部の現実を形象化するためにつかわれてきた、アヴァンギャルド芸術の方法を、外部の現実を形象化するために、あらためてとりあげるべきではないかと思うのである。さもなければ、わたしには、あるがままの林檎のすがたがわれわれの眼にふれる機会など、永久にこないかもしれないという気がするのだ。

「機械と薔薇」
 外部の世界から内部の世界へはいってゆく過程においても、内部の世界から外部の世界へ出てゆく過程においても、二つの世界のあいだに成立している対応をとらえながら、い歩、一歩、すすんでゆくために、論理的思考にではなく、音楽的思考や絵画的思考にたよらなければならないのである。音楽的思考は外部の世界を内部の世界へみちびきいれ、空間を時間化し、量を質化するに適している。(中略)絵画的思考は、音楽的思考の正反対であり、内部の世界を外部の世界へみちびきだし、時間を空間化し、質を量化するのに適している。(中略)とはいえ、音楽的思考や絵画的思考だけでは、不十分であり、真に帰納し、かつ、演繹しうるためには、それらの二つの思考を弁証法的に統一した、映画的思考の所有者にならなければならないことはいうまでもあるまい。

→外部と内部・二つの対立物の弁証法的統一

花田『アヴァンギャルド芸術』」については、さらに以下のような指摘がある。
討論会「アヴァンギャルドとリアリズム」 /『美術批評』一九五五年二月
針生:アヴァンギャルド芸術のなかの正しい核、方法としての中核をとりだし、それは潜在的に一貫してリアリズムの方向に向かって進んでいるということを説明している。(中略)二十世紀前半の芸術派、内部の世界と外部の世界の対立を意識するところから始まっている。

★リアリズムと変革の文学
埴谷雄高「安部公房のこと」/『近代文学』昭和二十六年八月
恐らく、花田清輝はアヴァンガルドの方法を説く殆んど唯一の理論的指導者であつたが、また、その指導をまともに受けいれた殆んど唯一の人物が安部君だつたといえる。

→花田が主張した新たなリアリズムの必要を、安部はさらに自らの文学を模索する方向性として論じるようになる。安部におけるアヴァンギャルド、及びあたらしいリアリズムの問題をみていく。

「アヴァンギャルド文学の課題」/『希望』一九五二年七・八月
強調しなければならないのは、本来的にアヴァンギャルドはリアリズムであるということ。自然主義には反対するが、それは自然主義がもはや今日のリアリズムではないためなのです。(中略)
文学が社会的な矛盾を自然主義的にうけとる以上、その矛盾を克服することは出来ない(中略)文学が現実に対決してゆく限り政治的にも前衛でなければならない。政治と云っても政党のカケヒキと云ったようなケチな政治ではなく、大きな意味での政治、つまり大衆が今の現実に置かれて何を要求しているか、その現実にふれてそれをつかみ、大衆の要求に従って現実を変革すること。(中略)アヴァンギャルドはある条件におけるリアリストの立場であり、その克服の方向も、必然的にリアリズムを追求する方向であり、それこそもっとも今日的な要求に応えうる実践的なものだということです。

「政治・文学」/『三田文学』一九五二年八月
自然主義は本来的に物質変革の意志をもっていない。したがって保守的であり、社会を動くものとしてはとらえ得ず、安定した視点による固定した意識形態を現実とすりかえてしまう。(中略)ぼくの考えているリアリズムは、もう政治も科学も恐れない、むしろ共通のエネルギーをくみとっていく、実践的で楽天的なものだ。それにはなによりも言葉を、文体を、理論的に訓練しなければならないと思う。乾いた激しい物質に肉迫できる表現がほしい。政治もレジスタンスも、そこから始まるのだと思う。


「新しいリアリズムのために――ルポタージュの意義」/『理論』一九五二年八月
スターリンが「弁証法的及び史的唯物論」のなかできわめて簡明に語っているように、客観的現実とは物質であり、それは意識の外にある。意識は物質の産物であり反映だが、それ自身は物質ではない。この物質的現実と意識の関係をはっきり見きわめることなしに、新しいリアリズムを論ずることはほとんど無意味に等しい。(中略)客観的な現実である物質そのもの、具体的な物質とは、われわれの肉体の行動を通じて現れる無意味な((中略))――無意味であるのみならず、固有で特殊で不安定な、そして非常識的な、あるいは反常識的な空間的体験、要素的であって決して全体的たりえないものなのである。(中略)物質は見られるものではなく動かされるべきもの、実践する目は眺める目ではなくて動かす目だということ。そこで古いタイプのリアリストたち、プロレタリア文学派からシュール・リアリストまでをふくめて、彼らの共通した偏向は観察者(政治的には行動者であっても)であったということだ。彼らは意識と物質のこの緊張した関係を無視して、意識を固定したまま物質を追求しようとしたり、逆に物質を常識のワクで固定したまま意識を変えようとしたりした。ここからはもはや新しいリアリズムが生まれえないこと、今日の発展した現実を把握することが不可能なこと、理論的に明白である。(中略)意識の構造自体もある程度独自の運動によって発展しうるが、発展のエネルギーはあくまでも物質自体の中にあり、意識は物質のエネルギーを変革によって解放することで運動の可能性をあたえられているのだから、むしろまずこの非道徳的な物質を第一義的にとりあげることで、変革をのぞむリアリストの立場に立つことができるのである。

「文学における理論と実践」/『文学における理論と実践』一九五四年六月
サルトルも指摘しているように、理想的な散文の言葉は、やはりできるだけ透明なほうがいいのである。(サルトル「文学とはなにか」)美文が軽蔑され、単純な、そして乾いた表現が尊重されるのは、散文の世界ではいまや常識なのである。表現で説得するのではなく、表現された内容で説得するのである。(中略)
芸術的認識は、直接的な観照を(むろんそのままではなく、そのままなら、ペンと書くかわりに、実際のペンを活字のあいだにはめこまねばなるまい)感性的表現のたすけをかりて典型化し、その主体的法則をより深く完全に把握するものである。
いわゆるリアリティとか実感とかいうのは、この場合、芸術的抽象のたしかさのことであり、それが普遍性にまで達したときに、典型になるのである。
また典型と類型との相違は、単に量的なものではない。類型をつくりだす、その千倍の要素を集めて平均すれば典型になるというようなものではない。典型は科学的認識における定式に対応すべきものであって、平均値とは質的にちがった普遍性をもつものである。
リアリズム芸術においては、この典型の把握こそ、目標だといえるのである。(中略)
主体的法則の経験(魂についての直接経験)はまず感性的認識として形成され、ついで理性的認識をつくりあげ、その理性的認識が、感性に逆作用して、感性の深化と整理をたすけ、この交互作用で、典型がうまれるのである。

★『壁』「S・カルマ氏の犯罪」

『壁』第一部「s・カルマ氏の犯罪」は、一九五一年二月『近代文学』に発表され、同年七月に、石川利光と共に、芥川賞を受賞した 。

「選後評」/『文芸春秋』一九五一年十月
瀧井孝作「架空の小説」
この人の本物で、ある事が分りました。これは、このやうな寓話風刺の作品にふさはしい文体がちやんと出来てゐるからです。文体文章がちやんと確かりしてゐるから、どんな事が書いてあつても、読ませるので、筆に力があるのです。自分のスタイルを持つてゐる。これはよい作家だと思ひました。
舟橋聖一「公平といふこと」
安部公房の「壁」は新しい観念的な文章に特徴があり、実証精神の否定を構図とする抽象主義の芸術作品である。よく、力を統一して、書きこなしてゐる。また、作者の自由で健康な批評精神が躍如としてゐる点で、新しい小説の典型を示唆してゐる。
川端康成「「壁」を推す」
「壁」のやうな作品の現はれることに、私は今日の必然を感じ、その意味での興味を持つからである。(中略)二つとも作者の目的も作品の傾向も明白であつて、このやうな道に出るのは新作家のそれぞれの方向であらう。
宇野浩二「銓衡難」
『壁』はおなじやうな事が書かれてあつても、写実的なところなどは、ほとんど、まつたく、ない。一と口にいふと、『壁』は物ありげに見えて、何にもない、バカげたところさへある小説である。

安部は一九五四年六月三日「リアリズムの仮面」 のなかで、「わたしの書いたものを反リアリズムの作品だという人がいる。腹をたてて、よく読みかえしてみると、必ずしも悪口のつもりではないらしい。しかし、私は自分をリアリストだと思っているから、一向に腹立ちはおさまらない。」と述べているが、この選後評も、反リアリズムとして捉えられている部分が強く、その枠を出ない。埴谷雄高は「安部公房『壁』」 において、「安部公房は正当に理解されていない。その作品の位置が、吾国の批評家にはのみこめないからである。」とのべ、

彼の特徴は、自然主義的な人間観にも、理想主義的な人間観にもわずらわされていないことである。私が仮りに前衛絵画的物質観と名づけているもののみが彼の前にあった。(中略)空間の造形的表現が、彼の小説の方法論となった。(中略)安部公房のその後の仕事はこの最前線をうんと踏み出てみようとする冒険的な試みとなった。そして同時的、多面的、動的な観察を許す空間のなかで物体のリアリティを追求しようとする前衛絵画の方法論を、あくまで人間に適用しつづけることによって、彼はついに、一つの見事な作品を得たのであった。『壁』である。

と評する。絵画的な物質の「運動」として、この作品を見るべきことを主張するが、その読みは、おそらく安部自身の作意とも合致する。ところで、この作品を“絵画的”にみせているのは、作品の内部に多義的に織り込まれた《視覚》の効果なのではないか。この作品においては、「物質」の存在と本質とが拮抗するが、それを感じ取らせるのは、身体的な感覚ではなく《視覚》による部分が非常に強いと考えられる。中園英助は「安部公房著『壁』」 において、

「S・カルマ氏の犯罪」においても、「バベルの塔の狸」においても、作者は《壁》の対立物として《目玉》を設定する。《目玉》は、それ自身が精神の窓であつて自由に一切を吸収し、或いは排泄する。《目玉》はいわばオールマイティの可能性を賦与されている。

と指摘するが、この《目玉》は、語り手の「ぼく」のものであり、他の登場人物(?)のものであり、読者のものでもあって、見るもの←→見られるものの関係は無限に交錯していくのであるが、この《視覚》とは何を明らかにするのか。《視覚》を中心に、物質と表現・言葉との関係を読んでいきたい。

*引用は新潮文庫の貢数による。

(1)名前の喪失と文字としての名前
「ぼく」が朝目覚め、それと同時に、奇妙な違和感を感じるところから物語は始まっていく。違和感とは「ぼく」が名前の喪失したことによるものであることが、明らかになっいくのであるが、その過程は、名前を視覚化する行為(名前を書く、名前の書かれてあるはずのものを確認しようとする)の反復によって、暴かれ、強調されていく。また、視覚的な事態の認識が、名前を喪失した事実を感情的なものに転換していく。
 
・目 を覚ましました。(十二貢)
・サインをしようとして、ぼくはふと何かためらいました。(十三貢)
・おもむろに名刺入れを取出しました。ところがあいにくなことに名刺は一枚も入っていないのでした。裏をかえして、身分証明書を見てみました。すると妙なことに、名前の部分だけが消えてしまっているのです。上着の裏の縫取りを見ました。それも消えていました。そろそろ不安になって・・・(後略)(十三貢)
・部屋に帰ると、机の引出を全部しらべてみました。新しく刷ったばかりの名刺の箱はからっぽでした。(中略)その部分が消えうせているのです。
ドアのガラスにぼくの顔が映りました。その顔がただならぬ驚きの表情をうかべているので、これはすこし考えてみなければなるまいと思いました。(十四貢)
・ラッシュアワー・の街はたいそう狂暴な未知のものに見えました。自分が名前を持っていないということが急にたよりなく思われはじめました。(十五貢)
 「ぼく」は名前を失った状態で目覚める。しかし、この名前を失ったという事態は、単に自分の名前を忘れた、ということではなく、自己の存在を規定するものとしての名前を喪失したという状態であり、文字としての名前を探す行為はその解決として直接には結びつかないはずのものである。そのために、
・事務所でぼくがまず第一にしたことは、受附の名札を見ることでした。(中略)ぼくの名前のようではありませんでしたが、やはりぼくの名前らしくもありました。(十五貢)
ということになるのであるが、名前の文字的側面が強調され、かつ、事態の認識が視覚によって進められてきたことが、「名刺」が「ぼく」の分身としてあらわれる最大の契機となっている。
 
(2)「ぼく」と「名刺」の分裂
「ぼく」と「名刺」との分裂も、まず視覚的なものとしてあらわれてくる。

・射すくめられる想いで小使の視線を見返し、相手がまったくぼくを識別しない横柄な態度なのに、すっかりへどもどして、幾度も頭を下げながら答えました。(十七貢)
・ぼくは急速に右の眼と左の眼を交互に閉じてみて、この二重の影像の理由をつきとめました。右の眼では、はっきり鏡にうつしたようなぼく自身のうつし絵でしたが、左の眼には、まぎれもない一枚の紙片にすぎないのでした。(十八貢)
・同僚たちのあまり親しくない二、三の視線がぼくの上にとまっていましたが、それは偶然な意味のないもので、やはりぼくを見ているのではないのでした。名刺の正態を見破らないのも奇妙だと思いました。(十九貢)
ここでは、「名刺」をみる「ぼく」の視覚と、「ぼく」と「名刺」を見る会社の社員(他者)の視覚とが描かれているが、まず、前者は、あくまで「名刺」と「ぼく」の影絵との二重性を見ているだけで、「S・カルマ」の名前で統括される自己存在を見ているわけではない。しかし、会社の社員は、「S・カルマ」の外見だけでなく、その本質も、そこに見ていることになる。「ぼく」は、そこでさらに不安を深めていくのであるが、この「ぼく」と社員との認識のずれは、視覚の差異(「ぼく」の左眼には「名刺」が見え、社員には見えない)の問題として、表層的に通過されてしまう。本来「ぼく」と「名刺」とはそっくり同じ分身として社員の前に現れているはずであり、それだけで、非常に奇妙な事態である。「S・カルマ」という人物を他者が判定する場合に最大の要因となる外見的特徴は、ここでは、あいまいに忘れ去られているのである。これは、語りの構造をとして、(1)であげたように、事態の進行が視覚によって見つめられてきたのに対し、「ぼく」そのものは完全な死角にあったことと関っている。また、「ぼく」は、「名刺」は「ぼく」の名前を“視覚的に”所有していることで、「ぼく」の社会的位置・「S・カルマ」に表象される存在規定をも奪ってしまったと感じるのである。

・なにしろこちらは名前をなくしてしまっているのですから、万事にわたって不利です。すくなくも、法律は、名刺の味方なのではないでしょうか。それも、盗まれたのではなく、名前のほうで自発的に逃出してしまったのですから・・・・・・。(二十二貢)
 
 「ぼく」は名前を奪われたことで、主体的に行動することができなくなり、自信を喪失する。だが、名前を奪われることの何が一体問題なのか。「ぼく」の不安に対し、読者は理解はしても共感することはおそらくないのではないか。ではこの事態はどのように描かれているだろうか。
 名前の喪失という極めて精神的な問題を、ここでは「胸がからっぽになったような感じ」「胸の空虚感」として、さらには、「空の手桶を打ったようなその虚ろなひびき」「陰圧」「巨大な空洞、グロッセ・カヴェルネの形成」として、極めて物理的な問題にすり替えていく、物理的現象にともなう感覚として表現されていくことになるのであるが、それは、医者が反射鏡やレントゲンで視覚的に確認できるものとしてあらわれてくることで、一層決定的になる。
 名前の喪失という事態の解決は、胸の物理的な空洞を満たすことによって解決されるのでは当然ないが、「ぼく」の目と胸はそのように動き始める。結果として、「ぼく」は名前ばかりか、主体性や人権をも失うことになる。

・同時に二人がぼくにおどりかかり、左右からしっかりおさえて窓際にひきたて、力をあわせて後ろからぼくをつきとばしました。頭からぼくはコンクリートの歩道にころげ落ち、痛みとまぶしさで涙が頬を濡らしました。(三十一貢)
・法はたしかに被告を裁くことができぬが、同時に被告は法に対して自己の権利を主張することもできぬ。法と権利は名前に対してのみ関係するものである。よって現状維持のほかはなく、裁判は続行される。被告が名前を見つけだし、判決可能となるまで、永遠にでも裁判はつづけられなければならない。(五十九貢)
・あなたにとってこの裁判が不利なのは、その期間中、言いかえれば永久にあなたは法律の保護がないという点です。なにしろ人権というのも、つまりは名前に関するものですからね。(一〇〇貢)

 つまり、名前、とくに紙上に文字化されうる名前が、人間の尊厳や権利、人権をすべて保障するという認識がここで示されているのであるが、このような発想を「ぼく」自身において内化しているのが、「ぼく」自身の視覚に偏向した認識のあり方なのである。

(3)局部的な対象の認識

「ぼく」が遭遇するさまざまなものについても、多くが、特殊な視覚的なイメージを持ってあらわれる。例えば、医者の助手は最初、窓口からのぞく「とがった唇」としてあらわれ、次に「金魚の目玉」として、それぞれ身体の断片的な、しかもその断片が非常に特殊な様相をもってあらわれ、その断片が助手の存在全体を表象するものとして語られる。特に、「金魚の目玉」という視覚的イメージをともなう呼称によって、(あたかも、巨大な「金魚の目玉」が活動しているようにイメージされる。)真黒な「ドクトル」、彼が浮かべる眉間の深いしわや、「ぼく」を追い回すグリーンの服の「大男」など、視覚的なイメージをともなうものの、単一の固定的なイメージが反復されるのである。
また、裁判のシーンでは、局部的に見覚えのある面々が登場する。

入ってきたのは全部見憶えのある顔ぶればかりでした。最初に入って来たのは、鼻は誰、眼は誰、唇は誰、頭の格好は誰と、別々には想出せるが全体としては誰かははっきりしない寄木細工のような連中でした。(中略)彼らのもう一つの特徴はそろって眼鏡をかけていることでした。眼鏡は三種類で、金縁が二人、縁無しが二人、残りの一人が鉄縁でした。金縁が法学者、縁無しが哲学者、鉄縁が数学者であることが、なぜかぼくにもすぐに分りました。(四十一貢)
 法学者・哲学者・数学者は、個別的な外見を所有しておらず、眼鏡の縁で、法学者か哲学者か数学者に分類されるにすぎない。しかし、いずれにせよ彼らは、法学者・哲学者・数学者としてデフォルメされた性質しか持たず、眼鏡の縁以上の外見的分類は必要とされない。むしろ、彼らは視覚的イメージをともなわない存在として描かれているといえる。それは、「Y子」や「パパ」にもいえることである。二人の外見的な特徴が描かれることはない。外見的な特徴をもつ存在として、「せむし」が登場するが、かれも、「はらむし」からやがて「ロール・パン氏」になり、最終的には消滅してしまう。
 結局、この物語に登場するのは局部が全体を覆ってしまう視覚イメージをもつ者か、もしくは視覚イメージを持たない者でしかなく、一人前の人間としての、複雑な外見を有しているものは一人もいないということになるのではないか。そうしたとき、「ぼく」が社会的に「ぼく」であると認知される最大の要素である外見的特徴への視線は、無化されていくことがわかる。

(4)挿絵の効果
 この小説は、挿絵を物語進行の不可欠の要素として、つまり、語りの一部として織り込んでいるところにも大きな特徴がある。月曜書房版においては、現在の新潮文庫版にプラス七つの挿絵が挿入されていた。
名刺・動物園の看板・ポスターなど、これは「ぼく」が目にしたものと極めて近いものとして視覚化されている。(*写真・実物でないので、同一ではない)従って、読者は、この挿絵を眺める瞬間、「ぼく」の視線と限りなく同一化している。
また、挿絵によって、地の文を“読む”行為も、視覚的に相対化されるのである。

(5)空間の多重性・ねじれ
雑誌・動物園・映画はいずれも、“見る”快楽を前提として作られたものでありながら、「胸の空虚感」と、それを満たすために、魅せられたものを吸い取ってしまう「目」によって、それぞれ広がりのある空間として、「ぼく」の身体と直接かかわりを持とうとする。
雑誌の写真である曠野を“見て”いたはずであるのに、その風景の中にいつの間にか入り込んでいる。そして、その空間をいつの間にか、自分の胸の中に取り込んでしまっている。その「胸の空虚感」を満たすために吸い取ったはずの曠野が、今度は逆に「空虚感」を持ち始める。

・ 「獣たちはぼくの胸の中の曠野をかぎつけたのではなかろうか?」それから、特にぼくに関心をよせた獣たちの名をつぎつぎとあげてみました。(三十六貢)

また、「ぼく」は世界の果ての映画のクライマックスで、自分の部屋を映したスクリーンに飛び込んでいく。
 このように、この物語においては、空間が多重性をおび、またねじれていくが、そこで距離のある視覚から身体性をもって関る空間へと繰り返し反転していくことが分る。そこで、世界の果てとしての壁が現れてくるが、

彼は部屋の中をぐるっと見まわしました。そして思い掛けない激しさで、「壁がある!」ふと涙ぐんだのも思いがけないことでした。「壁がある。」もう一度小声で繰返すと、目の前の壁がもやもや霧のように胸いっぱいにひろがるのでした。それは郷愁にも似た深い感動のようでした。彼はじっと壁を見つめました。
彼は飽かずにじっと壁を見つづけました。(中略)壁は慰めるように限りない広さで彼の前に立っていました。
壁、それは古い人間のいとなみであると彼は思いました。それから、壁は実証精神と懐疑精神の母胎であると考えました。

視覚を断絶する「壁」が、ある意味では圧倒的な視覚として、視界を覆うことが、「ぼく」にとっての救いとなっているのである。名前の喪失という事態を進攻させた認識のあり方そのものの消滅に他ならないからである。さらに、「ぼく」自身が「壁」になっていくのが、クライマックスである。

彼はすぐに、それが胸の中の曠野で成長している壁のせいだと気づきました。壁が大きくなって、体の中いっぱいになっているにちがいありませんでした。
首をもたげると、窓ガラスに自分の姿が映って見えました。もう人間の姿ではなく、厚手の板に手足と首がばらばらに、勝手な方向に向ってつき出されているのでした。(中略)
見渡す限りの曠野です。
その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです。

ここでは、見る主体からの解放とともに、明確な可視的物体へと化してゆく「ぼく」の姿がある。そして、これが「ぼく」にとっての救いであるように描かれている(少なくとも、「胸の空虚感」や不安は解決されている)ことが重要である。

 この物語においては、視覚認識のあり方を一つの軸に、人間の自己認識、及び社会的認識を、物語の構造として問題にしたものである。
 意識と物質の関係、リアリズムと典型の関係などとどのように結び付けられるのか、今後考察が必要であるが、構造として描くことによって、人間の認識や社会・政治の問題を文学が如何に描くことができるか、探っていきたい。







たまご色の冷蔵庫 

September 21 [Sun], 2008, 23:20
「それ」を見て、私は一瞬息を止めた。
(・・・指だ。指。人間の指)
「それ」の名を心の中で3度繰り返し、そしてようやく息を吐く。

(無題) 

September 21 [Sun], 2008, 10:27
私が見ている世界はいかにも小さい。
ひょっとするとこのマンションの部屋一杯に満たないかもしれない。人生はマンションの一部屋にしかない、としたらなんと惨めだろうか。
こんななかで、絶望したり眠ったりしているなんてなんてくだらないことなんだ!

モーツァルトのレクイエムで部屋を満たしてみる。(訪ねてきた友人がプレーヤーに入れていったものだ。)
すると音は私の頭蓋骨や部屋のすみずみの淀みを嵐のように吹き払っていく。そして嵐はまどから外に荒々しく溢れ出していくのだ。
私は不意にやってきた波をだって確実に捕まえなければいけない。やってきた嵐に飲まれ流されてみなければいけない。

試験室 

September 20 [Sat], 2008, 12:45
「失礼します」
と僕が試験室に入っていくと、部屋には端が見えない長机がずっと遠くまで続いていて、その両脇には試験管たちがやはりずっと奥まで席についていた。
試験管たちは皆同じ色の濃い灰色のスーツを着、皆同じ身長、同じ顔であった。もっとも、顔については全員なんとなく長方形の板に目と口の三つの点を打っただけのような顔をしていたが、どこか曖昧でよくわからなかった。
僕を案内してきた男が僕に続いて部屋に入ってき、一つだけ空いていた一番手前の左側の席について、
「では初めましょう、よろしくお願いします。」と言って首をかくんと折った瞬間、机の両脇についた試験管たちが一斉にカタカタカタカタカタカタと首を傾げた。その音はまるで竹でできた風鈴がたてるような無機質な音だった。
僕は一礼すると黙って目の前の椅子に着席した。

眠気は花びらのように 

September 20 [Sat], 2008, 2:44
眠気は花びらのように、だれも知らない間に柔らかく降り積もってゆきます。頭のどこかからかはらりはらりとこぼれ落ちて、いつのまにか部屋にいっぱい、あなたは花びらの海に今にも溺れそうになるのです。
けれど決して苦しくはありません、なにしろその花は芥子なので、溺れるというより溶けるというに近い。
あなたは芥子の花びらの海に溶けて混じりあい、後にはかぐわしい濃い香りが残るばかりです。

ああ、わたしももう溺れてゆく…
P R
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