【塚原卜伝・補2 玉造常陸介について】

March 07 [Thu], 2013, 19:56
【塚原卜伝・補2 玉造常陸介について】

 ドラマ『塚原卜伝』のBS放送時において、登場する玉造常陸介という人物について色々思うことがありましたが、まとめるタイミングを逸しておりましたのでこの地上波最終回の日に改めて投稿します。前半は『鹿島治乱記』を中心とする考察、後半はドラマの感想文まじりの内容です。


 さて、この玉造常陸介というキャラクターの元になったのは『鹿島治乱記』中の玉造源三なる人物です。まずは、彼の登場箇所や行状を『治乱記』本文中からすべて抜き出してみましょう。読みやすい文章ではないので、ここは『文化財だより5号』(※1)掲載の矢作幸雄氏による現代語訳の力をお借りしたいと思います。そちらは本文下の()内に引いてあります。


■『鹿島治乱記』(※1)

・爰ニ玉造源三ト云者、侵非法事無道。蔑仁義貴利牢人。盗跖隋遂義幹撩乱諸事古語曰。善人同居則日々聞嘉訓。悪人従遊則生邪情。故鳳凰ハ与鸞雀不同群。

(・ここに玉造源三という者がいた。ひねくれ者で、非道なことや、無道なこと、金になることはするが、仁を行うことや、義に生きることはさげすむような牢人であった。
 この玉造源三が、義幹の性質を見抜いて義幹に取り入り、乱筆をかまえることになる。要するに、善人と同居して日々善い訓えを聞けば善くなるが、悪人に従えば遊びや邪道に浮き身をやつすと同じ事で、昔から鳳凰は雀とは同じ群に入らない。類は類を呼ぶと同じことだ)


・或日源三対義幹云。当家代代ノ所領。君御幼年故家中面々私領之外ヲ押領。当時隣国近郷之贈答追年繁多也。領郷所務之土貢如先代有公納。面々不可有違背云。

(・或る日、源三は義幹にいった。
「鹿島家は代々の所領を、義幹が幼少の頃家中の面々が私に領し、またその外を押領した。当時、隣国、近郡より贈答品が羊を追って多くなっており、それは領郷を司どる主君の物として先代までは公納していたのに、今は違背していますよ」)


・天作災可避。自作災不可迯ト各覚悟。玉造逢時ハ拱手敬礼。源三益奮権勢剰鹿島領公私代々除所屋敷等ニ入検地。

(・天の作る災は避けるべきだが、自ら作った災逃れることができないと各々覚悟をきめ、玉造源三に逢う時は、礼を厚くしよく敬って、これ以上ひどくならないようにしようとした。
 ところが、源三は家臣が恐れ入ったと見て益々権勢をふるい、あまつさえ鹿島領では、公私共に代々除いている屋敷にも税をかえようと方々の屋敷に入って検地し、貢献を増加した。)



・或時件之姦臣対義幹談話ス。当方は霊社之地。(中略)日本国中之貴賎老若参詣。以其次而城内無見物。然草邸見苦舗為御一身之耻。近年満貢米庫蔵領内豊穣也。此時尋常之屋形経営可然之由半日精談。

(・或る時、例の姦臣である源三が義幹にいった。
「この鹿島は、威霊ある鹿島神宮の鎮まる地で(中略)日本国中の老若をとわず参詣に来ます。そしてついでにこの城を見ない者はいないでしょう。しかるに、この見苦しい城はどうです。これは貴君御一身の恥ではありませんか。
 この近年は貢米が蔵々に満ち、領内は豊穣であります。この折にこそ、鹿島城らしい城を経営しようではありませんか」とこのようなことを半日にわたって精しく述べたてた。)



・松本右馬ト云社家ヲ以窃通島崎左金吾之曰。源三邪佞成故ニ得玉造城主之勘気立退候。姦人ヲ鹿島抱置事不可然大平ヲ以密ニ及諷諌。反而絶音問起災鹿島行方隣郡同祖也。亡之事可痛事也。

(・そして、松本右馬という社家を通じて、島崎左金吾に聞くと、玉造源三は邪佞の徒なり故に玉造城主の勘気を得て立ち退いた者であるという。そのような姦人を鹿島へ抱置くことはよくないことだ。音信が絶えては反って災を起しやすい。鹿島行方の隣郡は唇と歯のように同祖からでている。どちらが亡んでも痛事といえよう。)



 本文中、玉造源三が登場する箇所は以上です。このように、『鹿島治乱記』にはどこにも玉造常陸介なる呼称はなく、玉造源三はこの名前か「姦臣」という蔑称でしか現れることはありません。そしてその姿や行状は一貫して虎の威を借り、主君をそそのかす奸臣そのものです。『治乱記』の作者「漂泊隠士」なる人物の正体は判然としませんが、暗愚な君主に成長してしまった義幹にさえどこか同情的で、

・有義幹歌道之数奇故不脱具足拍子曰。七珍満宝ハ不足惜。栄雅自筆古今集為取忘。言下ニ近臣井河源六鎧ノ引合ヨリ取出即献之。為若輩之身ト艶振舞ト諸人是ヲ称美ス。

(・その(脱出して東の城に籠城した)折に具足を脱がないうち拍手をとっていうには、
「七珍万宝は惜しむに足らずも、栄雅自筆の古今集を持って出るのを忘れた」
義幹は歌道の趣味があったからである。すると、いい終わると同時に、近臣の井河源六という者が鎧の引合いよう、その古今集を取出して即座に献じたので
「ああ若い者ながら美わしい振舞よ」
と居合わせた諸々が褒めたたえた。)



というように、宝物を惜しまず風雅を何よりも愛しているという彼の美点と言える面と、その大切な歌集を言われずとも持ってきていた若党の主従愛の描写さえ載せています。物語の最後を飾るのも義幹側の烟田永源という人物が、


・烟田永源ハ追懸ル敵斬払。一町計落延ビ。義幹被討給ト聞。肌ノ守ヲ引切老母ヘ記念ニ届ヨト歩卒ニ渡シ。馬引返シ三尺八寸ノ太刀当鏡向。戦場ヘ斬入テ主君ノ尋死骸同所討死。源平之合戦ニモ類稀成振舞ト挙諸人感見ル。


落ち延びたにも関わらず、主君の死を知るや戦場に舞い戻り、それに殉じる形で討死して忠義を示すところで終わります。このような語り方を見る限り、漂泊隠士なる人物は義幹の側にいた人間であるように思えます。そんな義幹に対する相当なシンパシーを感じさせる作者にさえ、まったく救いのない悪人呼ばわりされる玉造源三という人物は、よくよく人徳、人望に欠けた人物であったのだろうと推測することができます。そして、『治乱記』には塚原卜伝は登場しないので、当然この奸臣と卜伝との関わりなど見られるはずがありません。

 では、今度はドラマ『卜伝』で採用された「玉造常陸介」の人名がどういった文献に現れるのか見てみましょう。


■『天真正伝新当流兵法伝脈』(※2)

・玉造常陸介、林三河守、青山中務少輔、塚原掃部助、佐野天徳等(寺の誤写?)、今川氏実、川嶋卜平、中居、秀幹等、卜伝の伝を継げり。


 新当流の伝系を綴った伝書の卜伝の弟子が並べられていく箇所に玉造常陸介という人物の名がありました。先入観を排して見る限り、玉造・林・塚原・中居などは常陸国内の領主格の人々だと思われます。それだけでなく、佐野天徳寺・今川氏真らという他国の名門の当主クラスの人物の名が確認できるパートです。ここになぜ、『鹿島治乱記』の奸臣の名が並んでいるということになっているのでしょうか?これは恐らく考証家の綿谷雪氏の仕事が原因だと思われます。


■『考証武芸者列伝』(※3)

・鹿島景幹には子が無く、弟の義幹を養子として相続させたが、幼少のため臣下に人望がなく、新規に召抱えた浪人玉造常陸介源三(塚原卜伝の門人)が専横をふるって悪政を布いた。


 綿谷氏はここにおいて、玉造源三と常陸介を合体させたような玉造常陸介源三なる人名を作り出し、源三を卜伝弟子と断じてしまいました。綿谷氏は素晴らしい仕事を多く残された反面、少々即断癖が強い方でして、この玉造源三を玉造常陸介と同一人と決めた点でも特に根拠を示されておりません。桜井霞之助第三回において氏の桜井大炊頭出奔説が誤りである点を指摘したように、残念ながら綿谷氏の仕事には地域の歴史を踏まえず短絡的に出したととしか思えない説もあります。今回の件に関しても、例によって同時代の鹿島に関わる玉造という名字の人間だから源三と常陸介は同一人であるに違いない、といういい加減な結論である感がどうにも強いのです。

 そもそも玉造氏は治承年間(1177〜80)に、鹿島氏と同じ常陸大掾氏流の行方景幹の子・幹政が玉造に土着して生まれた一族であり、『鹿島治乱記』中にも「鹿島行方隣郡同祖也」とあるようにその存在自体がもともと鹿島氏とは縁浅からぬものです。一族の歴史の長さでいうと同じ大掾氏流だと真壁氏などと同程度の歴史を持つ名家の一つであります。『天真正伝新当流兵法伝脈』の例の箇所には林・中居といったやはり同じく大掾氏一門の人々の名前が並んでいるわけですが、例の箇所は卜伝が常陸国内の大掾流氏族や他国の名家の当主らに自分の流儀を弘流したことを示すパートとなっているわけです。そうした中に、一族から追放された評判の悪い奸臣・玉造源三の名も並ぶというのもなんとも収まりの悪いことになります。そのような人物をいくら考証家が断じているからと言って、卜伝弟子に数えられる人物と同一人物扱いにしていいものかこれは疑問です。これはやはり特に鹿島氏との関連の深い人物ではなくとも、玉造家中にいた卜伝弟子を並べたと考えるほうが自然でしょう。

 一方、弟子として並ぶ中居秀幹も大掾氏流の中居氏の当主であるようなので、玉造常陸介もあるいは玉造氏の当主クラス相当の人物であるのかもしれません。ただ、『玉造町史』(※4)の引く『行方玉造系図』によると戦国時代の玉造氏歴代当主は右京大夫という官途を世襲しており、永録年間のものと思われる足利義氏からの文書には「玉造右京亮殿」宛てとなっているなど、残念ながら卜伝同時代の玉造氏当主は常陸介という受領名を名乗っていたわけではないようです。綿谷氏のするように玉造常陸介を『治乱記』の源三と同一人物とする根拠は何一つないが、かといって玉造常陸介という人物が何者であるのかも判然としない、わかっていることを最低限まとめると、ちょっとすっきりしませんが今はこんなところでしょうか。行方氏関連の諸伝は調べつくしてはいないので、機会を見て調査に取り掛かり、玉造常陸介の正体を明らかにできればと思います。


 さて、考証に関してうるさく言うのはこの辺りでやめておきましょう。そうした点に関しては細かいことを言いたい一方、やはりドラマはドラマとして楽しむべきだという考えも私にもあります。実際、ドラマ『卜伝』中の玉造常陸介は松田悟志氏の好演もあって深い印象を残すキャラクターとなっていました。初登場のときは特撮番組や朝ドラなどでお見かけすることのあった松田氏が、『治乱記』にあるようなステレオタイプな奸臣像を演じる姿は正直言ってあまり見たくはないと思っていたのですが、ドラマ『卜伝』は物語終盤、見事にその認識を裏切り、違った形に昇華された玉造源三=常陸介像を示してくれました。

 確かに、奸臣であるという情報やその行状から受ける悪印象をやや強引に排除して『治乱記』の玉造源三の行為自体をポジティブにのみ捉えて見てみると、一門の棟梁に権力を集中させる、税収を増加させる、主城の守りを強固にする、という点で中世的国人領主から脱皮させ、鹿島家中を戦乱の時代を乗り切ることができる形態へと移行させる、ある種の改革を行おうとしたのだと解釈できないこともありません。一方で、『治乱記』中の宿老サイドはその義幹主従を追放するため、虎視眈々と鹿島領への進出を狙っている江戸氏の力を借りることを選び、

・鹿島郡内安房。徳宿飯名。柏隈。勝下。鉾田ヲ但馬守(江戸但馬守)殿割渡。其上故仁山ノ息女通泰殿姪君ヲ預置。府中忠幹公之御舎弟次郎殿ヲ請取奉為夫婦。

・府中忠幹公之御舎弟次郎殿ヲ請取。請江戸但馬守通泰一字号鹿嶋次郎通幹。


 その見返りとしてこのような領地の割譲を行った上、府中(現在の石岡市)大掾氏から迎えた鹿島の新当主の名に江戸氏の通字である「通(みち)」をつけさせる結果となりました。これでは領内を強固にするどころか、外部の影響力を強めてしまうばかりです。『治乱記』は成立が早いとは言え、どこまでが史実か判然としない軍記物ですが、史料として確かな『烟田旧記』を見ても『治乱記』の後の時代には、江戸氏が再三に渡って鹿島の内紛に介入し、また政情の安定しない鹿島家中は家臣と当主が殺し合うような悲惨な事態さえ引き起こしているのが確認できます。家中を一枚岩にできなかった鹿島氏は、『治乱記』の時代の後、脆弱な体質を保ったまま内訌を繰り返すという凄惨な歴史を歩むのです。

 そしてやがては鹿島氏や玉造氏を含む南方三十三舘の領主たち、更には鹿島氏を脅かし続けた江戸氏さえ、早い段階で一族の棟梁に権力が集中する形態の戦国大名としての新生を果たしていた佐竹氏に最終的にはすりつぶされるようにして滅亡させられることとなります。そうした時代経過を見ながら少々深読みをしてみると、大局的な視点で見た場合、最終的に正しかったのは果たして旧態依然とした体制を維持するために外部の力を借りた宿老サイドなのか、(意図はどうあれ)義幹に権力を集約させようとした玉造源三なのか、という問題も出てくることになるのです。

 ドラマ『卜伝』において、卜伝がどちらにも与することなく、また義幹・常陸介主従を愚昧な主君と奸臣、という定型で描かなかったことは恐らくこれらの問題を踏まえてのことだと察します。作中の常陸介というキャラクターの背景を『治乱記』の玉造源三の情報を加味して推測してみると、彼はその明敏な頭脳で戦国の世の進む方向を予見し、中世的な国人領主であった玉造一族中において改革を断行しようとしたもののその強引さと、不正を排さない姿勢、そこからくる人徳のなさ故に反発を受けて追放され、今また鹿島氏において自分の信じることを行おうとしていた、という感じでしょうか。

 作中において彼の内面や行動理由に関する踏み込んだ描写はあまり見られず、自らのことを語るところもそれほど多くなかったことは、最終的に常陸介を決して悪人ではなく彼なりの正義があってその信じるところを実行しようとする人物(ただし人望の集まるタイプではない)であるように見せていました。これも含めてドラマ『卜伝』には、視聴者の想像に委ねることにより、深い印象を残す場面が多かったように思えます。言葉少なで無愛想ではあるが、信念を持って行動する人物を演じることできる松田氏はまさに適任のキャストであったと、私は最後になって第一印象を見事に撤回させられることになったわけです。

 ここまでは単に「玉造源三」としても十分に描き得る範囲であり、新解釈の玉造源三像であるのですが、卜伝とまったく関わり合いのない奸臣「玉造源三」ではなく卜伝の弟子に数えられる「玉造常陸介」の名が使われたことで、彼はドラマ中の卜伝との深く関わりを持つことができるキャラクターとなっていきます。そしてその関わりが最終的に卜伝を本来いるべきはずの宿老サイドではないニュートラルな立場へと導くという理由の一つとなっている点で、実は玉造常陸介は物語の終局においてかなり重要なキャラクターであり、それは彼が「源三」ではなく「常陸介」でなくてはありえない展開であったのです。


 以上。今回は前半で綿谷氏説に異を唱えながら、後半でドラマ『卜伝』を絶賛するという分裂気味の内容に思われたかもしれません。綿谷氏の説は根拠不十分だという認識はもちろん変わりませんが、ドラマはドラマとして面白かった上、玉造常陸介の造型にも唸らされたのが正直な気持ちです。綿谷氏説自体はともかく、それを巧みに取り入れ、『治乱記』の奸臣・玉造源三をこのようなキャラクターに生まれ変わらせ、結果、作品自体にも深みを与えたドラマ『卜伝』制作サイドの方々、脚本家の方の見事さには、ドラマを大いに楽しませてもらってことと合わせて、改めて拍手を送りたいと思います。


余談:

玉造氏の本拠であった行方市玉造近辺は田園風景の中に奈良時代の『常陸国風土記』に記載されたヤマトタケルノミコトの伝説や夜刀神の伝説を残す地域でもあります。歴史を求めて鹿島地域を来られた方は、もう少し遠出をしてこちらの玉造地域も訪ねられるのもいいかもしれません。参考までに。

●ヤマトタケルが勾玉を落とした泉だという玉清井

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●大和朝廷の開発と土着の神々の抵抗の逸話を残す夜刀神社(緑矢印)

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今回の参考文献:

1: 鹿島町文化財愛護協会・編 『文化財だより 5号』(鹿島町文化財愛護協会)
2:今村嘉雄・編 『日本武道全集2』(人物往来社)
3:綿谷雪・著 『考証武芸者列伝』(三樹書房)
4:玉造町史編さん委員会・編 『玉造町史』(玉造町役場)

【武芸の里探訪 第四回】桜川市真壁地区

February 22 [Fri], 2013, 20:05
【武芸の里探訪 第四回】桜川市真壁地区

 久幹・氏幹ら真壁一族が治め、その家臣である桜井大隅守・霞之助らも暮らしてきた桜川市真壁町地域。今回は特に彼らと関わりの深い場所を訪ねる。

 この真壁地域は2月から3月にかけて風情ある町並みを舞台とした「真壁のひなまつり」で賑わうが、戦国時代の歴史や武芸と関連する遺構・事件の舞台などの中には、ひなまつりが開催されている市街地中心から少し足を伸ばすだけで行くことができる所もある。今回紹介する中でも真壁城・桜井不動堂は手軽な距離なので、武芸関係に興味のある方は足を運ばれたし。


●真壁城跡●

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 平成六年に国指定文化財となった広大な平城跡。県道からすぐ脇に入った体育館が本丸部分で、はるか向こうに見える鹿島神社でさえ「Wの堀」「北外張」に守られる城の縄張りの内である。復元された土塁の角のくっきりとした形が目立つが、鹿島神社の裏手などにところどころ古い遺構も残っているのが確認できる。



 城内には「神道霞流剣術発祥之聖地」という木票も立つ。ただし、この種の流名には疑問も出されている。


■ 『天真正伝神道夢想流杖術』(※1)

・また、桜井家文書においては巷間に言われるような「霞流」「霞神道流」という表現はなく、巷間の説には論拠がないと考える。


 自分の調査でも維新以前の文献に真壁道無が「霞流」やそれに類する流名を名乗ったという根拠は、逸話レベルでさえ未だに見つけることができていない。参考までに。



●桜井不動堂●

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■『新編常陸国誌』(※2)
「故蹟」「斎藤伝鬼墓」

・真壁郡桜井村不動院ノ境内不動堂ノ前ニアリ、モト松樹アリシト云、今ハ枯テ一小祠アルノミナリ、



 真壁地区中心部から続く、趣きのある構えの家々が並ぶ通りを少し歩くと辿りつく地域のコミュニティセンターである桜井会館脇に斎藤伝鬼房襲撃事件の舞台であるという不動堂が今も立つ。そしてその傍らには確かに「斎藤伝鬼坊之碑」と書かれた石碑があった。



 『新編常陸国誌』はここに伝鬼房の墓があったと記すが、『真壁町の民俗』(※3)によるとこの石碑は昭和三十二年に桜井青年団によって建てられたものだという。事件に関する考察は桜井霞之助第二回を参照。


●道夢様用かいぼり●

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注:赤のマークではなく緑色矢印が写真の地点

 久幹=道無が作らせた堀の跡が伊佐々集落に現存している。『中世東国の内海世界』(※4)収録、宇留野主税氏の『戦国期における真壁城と周辺の景観』の地図(124ページ)を頼りに三星神社から少し西に進み、南方向へ進む農道のような細道に入ると、『真壁町の城館』(※5)44ページにある写真の地点に出ることができた。伊佐々集落を東西に横切る道路は古代の官道以来の当時の基幹道であり、この要害施設は交通の要衝を抑える意味合いがあったものと推定されている。



参考:
■『戦国期における真壁城と周辺の景観』(※4)

・元禄十年(一六九七)の伊佐々村差出帳に「一池田空地中ついしくれ切場 長サ九拾三間」とあり、長大な「ついしくれ」が「南堀内横三間北堀内横三間、南ついし長サ右同断、北ついし同断」の規模を有し、「尤先年真壁道夢様用かい堀リニ御座候、古堀立之堀御座候」という真壁氏の「堀」付近に存在した[真壁町史 一九八五]。堀は真壁道無(久幹)の「要害堀」を意味し、集落西側、幅六m前後の男女川が該当すると思われる。
 「ついしくれ」が「築地塊=土塁」とすれば、堀の内側幅六m前後の土塁を土取り場にしたと考えられ、酒寄良庵の『真壁由緒記』には「真壁城御家中」として「吹 民部 伊佐々村ニ」とあり、土塁を備えた集落内に真壁氏家臣が居住した可能性がある。



 現地にも男女川(みなのがわ)の表示はあった。この堀は古今集の歌にも詠まれた川の一部を真壁久幹が整備・利用して作った軍事施設ということになるのだろうか。




●山田、酒寄、大島●

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 久幹は永禄十二年石岡市(旧八郷町域)小幡付近で行われた手這坂の戦いに際して、「小備シテ敵ヲ偽引ヨセ別手ヲ以筑波山ヲ廻シ前後ヨリ撃之ヲト常蛇ノ陣法ヲ儲ク(『当家大系図』(※6)十七代久幹の項より)」という自分たちの本隊を囮とした挟撃作戦を以て臨んだが、そのときの別働隊はこれらの地域を駆け抜けて筑波を南周りしたという。


■『手這合戦記』(※6)

・(真壁方は)柿岡ノ方エ人数ヲ少出、筑波山ヲマハリ、山田、坂入、大嶋ヲ通リ、北条エ敵人数ヲマハシ、アトサキヨリ責申サンハカリ事ト覚タリ、早々人数ヲアケサセ可ト色々(小田の家臣が氏治=天庵に)申上候ヘ共、天庵用不給、

・サテ天庵敗北ハ、真壁七頭ニ在郷一騎、町一騎、寺一騎ヲ合テ、千百廿三騎ノ人々、酒寄、大嶋ヲ通リ、小田ヘノ道ニ、筑波ノ西ヲ廻リ、南ヘヲシマワス、手ハイハ筑波ノ東ヲマワリ、手バイへヨセ合戦ナリ、天庵ヨリ坂入、大嶋ニイヌヲ付、其イヌ帰テ、真壁ノ人数大勢ミテ、坂入、大嶋ヲ通リ参ルヨシヲ申ニヨツテ、手ハイ二ツ舘ノ合戦敗北也、


■『手這山合戦ノ事』(※7)

・敵人(小田方)怺(コラエ)ラレズシ崩色ナル処ヘ、氏治カ坂入・大島ニ付置タル間者走リ帰リテ、敵大勢筑波ヲ回リ既ニ近寄候トノノシリケレバ、イヨイヨ驚キサワギ、暫クモ踏止マル事叶ズシテ、両方ノ谷底ヘ押落サレ、徒ラに死ヲナス者多シ、


 小田の家臣がその辺りを別働隊が抜けて筑波を回る作戦を見抜いていて氏治に進言したが受け入れられなかったという記述もあれば、酒寄・大嶋のあたりに置いた小田の間者の「敵大勢来襲」の報が既に崩れかけていた小田勢に一層の恐慌をもたらし、大敗に繋がったという記述もある。

 さて、筑波を南回りした別働隊の中には更に小田の本城に先んじて攻め行った者たちもいたが、

■『佐竹旧記』(※6)
「小田合戦事」

・一、道無七騎六百人、小田天庵三千人ト手這坂ニテ闘間ニ、真壁千人築波ノ南ヲ廻、小田勢ノ後ヲサヘキル中ニ、小田ノ本城ニ先懸シテ、町郭ニ放火シテ攻入人数、池田、亀熊、柴山、大山、江木戸、飯塚、仁平、中原、一村、河田、白井、板(坂)本、横山、小見、豊島、桜井、古宇田、落合、潮田、友常、猪瀬、久下、谷中、大島、長岡、柴田、
 此外覚無し



というように大隅守吉勝かその一族を指している者と思われる「桜井」の名も数えられている。真壁からつくばに向かっての県道41号線がまさにその山田から大島にかけてのルートである。功名に燃えながらここを駆けたであろう戦国人に思いを馳せながらこの道を走ってみるのも一興。



●真壁城主累代墓地及び墓碑群●

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 県道7号線を山に向かって少し上った山尾地区遍照院の本堂脇の高所にある。石塔の数は四十基以上。石塔の一つ一つは事前に写真で見てイメージしていたよりも大きな印象があり、それらがずらっと並ぶ様は当地を長年に渡って治めていた真壁一族の権勢を実感させるものがあった。


今回の参考文献:

1:松井健二・編著 『天真正伝神道夢想流杖術』(壮神社)
2:中山信名・原著 栗田寛・補 『新編常陸国誌(影印版)』(崙書房)
3:茨城民俗学会・編 『真壁町の民俗』(茨城民俗学会)
4:市村高男・監修 茨城県立歴史館・編 『中世東国の内海世界』(高志書院)
5:真壁町歴史民族資料館・編 『真壁町の城館』(真壁町歴史民俗資料館)
6:真壁町史編さん委員会・編 『真壁町史料中世編4』(真壁町)
7:鈴木常光・編 『真壁氏文書集』(真壁町史研究会)
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