第48回「流山」B―「加納君、お久しぶりです」―
2005年12月26日(月) 1時48分
・・・大事なシーンを残してしまった。
新政府軍陣地における追及。「死ぬ気で嘘を吐き通す」近藤。
そこに、円錐形の帽子をかぶった歩兵姿の加納鷲雄が登場する。
鷲「失礼します」
見つめる二人。加納は何も言わない。
有馬は事の成り行きを見守るだけ。
ふと音楽が変わる。天上から鳴り響くような女性コーラスのテーマ音楽。
ずっと挑むような目をしていた近藤の顔がすいと緩む。
勇「加納君、お久しぶりです」
立っていた加納が正座し、勇に深くお辞儀をする。
驚愕の表情を見せる有馬。
鷲「ご無沙汰しております。局長」
そして満足したような、救われたような、しかし悲しげな瞳の笑顔を浮かべる勇。
しかしふと遠くを見遣る。
「流山」の珠玉のシーン。宗教的とも言われた。キリストのようである、と、ここから言われ始めた。
【空洞化の終わり】
甲州勝沼の時に書いたことですが、二条城での主戦論以来私は近藤さんを「空洞化」していると呼んできました。自分の存在以上に巨大な姿にされて薩長の憎しみの的にされている。そして一度被った以上、その面を剥がす事はできない。
有馬との論戦の時も、「義を重んじるものにとっては、薩長を認めるわけにはいかなかった。戦では負けましたが、勝敗は時の運。悔いはない。今でもはっきりと言えます。正義は我らにある。これから何度生まれ変わっても戦い続けます」と、大きなセリフを言った。それが虚飾だとか言うわけではないが、試衛館以来ずっと近藤さんを見ている我々には少し辛くはないでしょうか。
だって、近藤さんは、柔らかくて優しい、そして心の広い人でしたから。源さんが言うように。
薩長のしたことは、やり方が汚かったし、愛する隊士達をなくし、容保公を絶望させたのだから、許すことはできない。そう思って、ずっと勝の前でも突っ張ってきた。
でも、本来はヒューマニズムの人。桂さんや龍馬とも親交が深く、真木和泉の死にも衝撃を受けていた。「薩長土は許せない」「薩長には義がない」・・・なんか大河の近藤さんには似合わない。土佐の郷士が裸足で歩かされていることも知っていたし、異人であるヒュースケンのことも理解し、地球儀を眺めて目を丸くしていた。
新政府軍陣地における追及。「死ぬ気で嘘を吐き通す」近藤。
そこに、円錐形の帽子をかぶった歩兵姿の加納鷲雄が登場する。
鷲「失礼します」
見つめる二人。加納は何も言わない。
有馬は事の成り行きを見守るだけ。
ふと音楽が変わる。天上から鳴り響くような女性コーラスのテーマ音楽。
ずっと挑むような目をしていた近藤の顔がすいと緩む。
勇「加納君、お久しぶりです」
立っていた加納が正座し、勇に深くお辞儀をする。
驚愕の表情を見せる有馬。
鷲「ご無沙汰しております。局長」
そして満足したような、救われたような、しかし悲しげな瞳の笑顔を浮かべる勇。
しかしふと遠くを見遣る。
「流山」の珠玉のシーン。宗教的とも言われた。キリストのようである、と、ここから言われ始めた。
【空洞化の終わり】
甲州勝沼の時に書いたことですが、二条城での主戦論以来私は近藤さんを「空洞化」していると呼んできました。自分の存在以上に巨大な姿にされて薩長の憎しみの的にされている。そして一度被った以上、その面を剥がす事はできない。
有馬との論戦の時も、「義を重んじるものにとっては、薩長を認めるわけにはいかなかった。戦では負けましたが、勝敗は時の運。悔いはない。今でもはっきりと言えます。正義は我らにある。これから何度生まれ変わっても戦い続けます」と、大きなセリフを言った。それが虚飾だとか言うわけではないが、試衛館以来ずっと近藤さんを見ている我々には少し辛くはないでしょうか。
だって、近藤さんは、柔らかくて優しい、そして心の広い人でしたから。源さんが言うように。
薩長のしたことは、やり方が汚かったし、愛する隊士達をなくし、容保公を絶望させたのだから、許すことはできない。そう思って、ずっと勝の前でも突っ張ってきた。
でも、本来はヒューマニズムの人。桂さんや龍馬とも親交が深く、真木和泉の死にも衝撃を受けていた。「薩長土は許せない」「薩長には義がない」・・・なんか大河の近藤さんには似合わない。土佐の郷士が裸足で歩かされていることも知っていたし、異人であるヒュースケンのことも理解し、地球儀を眺めて目を丸くしていた。
むしろ、近藤さんの人生においては、「出自によって差別されること」への戦いのほうが目を引きませんか?すると、相手はいつも「徳川幕府」のお偉いさんです。講武所応募の時の屈辱に始まり、「内山様のような方がいる限り、徳川幕府に明日はない!」とか「我らが命賭けて戦ってきたこの五年、御手前方は何をした!」とか、たまには啖呵まで切って戦ってます。伊東さんにも、「私はだからこそ新選組を、身分を問わず誰でも入れるようなものにしたかった」と言ってます。
流山で正体を見破られ、身一つで取調べを受ける身になり、荷物がなくなった。
いや、歳との約束がある。死ぬ気で嘘をつき、生きて帰らねばならない。
【これも謎】
その時現れた加納の姿、近藤さんにはどう映り、なにが「加納君、お久しぶりです」を言わせたのだろう。
・・・・実は良くわからない。
どうして急に突っ張る気持ちがなくなったのか。
○加納を見たとき、自分達が油小路でしたことを思い出したのか。義などなかったと。
○同志だった加納に、己の生殺与奪を握らせると言う残酷に、耐えられないものを感じたのか。
○薩長だ幕府だといってみても、所詮は同じ日本人、争うことが馬鹿馬鹿しくなったのか。
○それとも、いずれにせよもはやつきとおせる嘘ではない、と言うことを、勇はこの瞬間見切ったのか。
○多分、歳も勇も、嘘を吐き通して帰ってこれるなんて、始めから思っていなかったのだろう。
ここまで苦しい嘘をついてくれた勇は、最大限歳に付き合ってくれたのかも。しかし最後は、自分の「わがまま」を通したのか。「正々堂々と名乗り、義を知る武士として死にたい」
41回の「すまんな、わがままな局長で」「今に始まったことじゃないだろ」を思い出す。そういう勇を、もちろん歳もわかっていた。それでもなお、自分の元に戻ってくるというわずかの希望を捨てたくなかった。勇を苦しめることになるとはわかっていても。
○それとも、もっと大きなもののために、勇は身を捧げたのか・・・?幕府への恨みを一身に背負い、自らを犠牲とすることで、多くの者を助けようとしたのか・・・。(勝の思惑通りだが、勇の本望でもあろう)
とにかく、やめた。
その瞬間、歳三との約束を捨てた。歳三の手を離した。
自分が処刑されることで、薩長からの幕府への恨みは大分晴らされるだろう。
自分一個の命を捨てるのに、これほど捨て甲斐のあるところはない。ようやく、自分の道が見えた。それは決して、暗くも悲惨でもない。
「近藤勇、一世一代の大勝負」は、これからだ・・・・。
天上からのような音楽が、突然降り注ぐ。それでよかったのだ。と、誰かが言ってくれているかのようだ。
【水魚さまよりの引用:供犠説】
ごく最近、水魚さまが自分のブログの中でこのシーンの「宗教的な感じ」について考察しておられ、すごく心を動かされました。一部だけでも紹介させてください。
>そして、加納君との再会。
絶妙の間の後、一瞬逡巡する加納君に近藤の方から声をかけ、そこに女声コーラスが天上の音楽のように降ってくるのですが、なぜあそこに宗教的なニュアンスが必要なのでしょうか。 それはあの瞬間、近藤が声をかけることによって自らを供犠として差し出したからではないでしょうか。
>それまで、彼は頑強に近藤勇ではないと言い張り、自分を偽っています。
それもまた決して彼個人の延命のためではなく、土方のため、土方の言う「オレ達のため」ではあるのですが、自分を偽っている彼に供犠としての資格はありません。
>だからこそ眼前で自ら供犠に変質した近藤を、加納君はもはや高みから告発することなどできないのです。身をかがめ「捧げられる者」としての近藤を拝するよりないのです。
>供犠となった近藤のやはり聖性を帯びたような微笑は、彼がまた「自らを供犠として差し出す者」の運命を知っているからではないでしょうか。
実は水魚さまは、ブログを開設して程ない頃から「近藤は祭りの供犠(にえ)」という文章を書いておられ、今回はその集大成かなとも思います。
このシーンを「ひかり絵」と名づけていたのも、とても印象に残っています。
流山で正体を見破られ、身一つで取調べを受ける身になり、荷物がなくなった。
いや、歳との約束がある。死ぬ気で嘘をつき、生きて帰らねばならない。
【これも謎】
その時現れた加納の姿、近藤さんにはどう映り、なにが「加納君、お久しぶりです」を言わせたのだろう。
・・・・実は良くわからない。
どうして急に突っ張る気持ちがなくなったのか。
○加納を見たとき、自分達が油小路でしたことを思い出したのか。義などなかったと。
○同志だった加納に、己の生殺与奪を握らせると言う残酷に、耐えられないものを感じたのか。
○薩長だ幕府だといってみても、所詮は同じ日本人、争うことが馬鹿馬鹿しくなったのか。
○それとも、いずれにせよもはやつきとおせる嘘ではない、と言うことを、勇はこの瞬間見切ったのか。
○多分、歳も勇も、嘘を吐き通して帰ってこれるなんて、始めから思っていなかったのだろう。
ここまで苦しい嘘をついてくれた勇は、最大限歳に付き合ってくれたのかも。しかし最後は、自分の「わがまま」を通したのか。「正々堂々と名乗り、義を知る武士として死にたい」
41回の「すまんな、わがままな局長で」「今に始まったことじゃないだろ」を思い出す。そういう勇を、もちろん歳もわかっていた。それでもなお、自分の元に戻ってくるというわずかの希望を捨てたくなかった。勇を苦しめることになるとはわかっていても。
○それとも、もっと大きなもののために、勇は身を捧げたのか・・・?幕府への恨みを一身に背負い、自らを犠牲とすることで、多くの者を助けようとしたのか・・・。(勝の思惑通りだが、勇の本望でもあろう)
とにかく、やめた。
その瞬間、歳三との約束を捨てた。歳三の手を離した。
自分が処刑されることで、薩長からの幕府への恨みは大分晴らされるだろう。
自分一個の命を捨てるのに、これほど捨て甲斐のあるところはない。ようやく、自分の道が見えた。それは決して、暗くも悲惨でもない。
「近藤勇、一世一代の大勝負」は、これからだ・・・・。
天上からのような音楽が、突然降り注ぐ。それでよかったのだ。と、誰かが言ってくれているかのようだ。
【水魚さまよりの引用:供犠説】
ごく最近、水魚さまが自分のブログの中でこのシーンの「宗教的な感じ」について考察しておられ、すごく心を動かされました。一部だけでも紹介させてください。
>そして、加納君との再会。絶妙の間の後、一瞬逡巡する加納君に近藤の方から声をかけ、そこに女声コーラスが天上の音楽のように降ってくるのですが、なぜあそこに宗教的なニュアンスが必要なのでしょうか。 それはあの瞬間、近藤が声をかけることによって自らを供犠として差し出したからではないでしょうか。
>それまで、彼は頑強に近藤勇ではないと言い張り、自分を偽っています。
それもまた決して彼個人の延命のためではなく、土方のため、土方の言う「オレ達のため」ではあるのですが、自分を偽っている彼に供犠としての資格はありません。
>だからこそ眼前で自ら供犠に変質した近藤を、加納君はもはや高みから告発することなどできないのです。身をかがめ「捧げられる者」としての近藤を拝するよりないのです。
>供犠となった近藤のやはり聖性を帯びたような微笑は、彼がまた「自らを供犠として差し出す者」の運命を知っているからではないでしょうか。
実は水魚さまは、ブログを開設して程ない頃から「近藤は祭りの供犠(にえ)」という文章を書いておられ、今回はその集大成かなとも思います。
このシーンを「ひかり絵」と名づけていたのも、とても印象に残っています。
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