ワイン社長最新コメント

2010年09月16日(木) 0時03分
ワイン社長より、旬なネタのコメントをいただきました。
社長、早速掲載させていただきます。ごっつあんです!

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トビウオ殿

トビウオブログも面白くなっているから見てます。

小職は小沢支持派・・・歴代総理で田中、中曽根以外は
あんまり感想ないです・・・
義父(→筆者注:ワイン社長の叔父上は元自民党青嵐会の首領)が
総務庁長官就任後亡くなったのは残念で、生存してれば総理確実?とまで・・・
総じて政治家はダーティなんです。
日本人をだませない人間は世界に通じないのです。
悪事?に長けている小沢こそどうせなら
デフレ崩壊の目があると思っていました。

TV解説みてもどこも同じ論調です。
原口総務大臣は退陣だからといっても、TV番組ではよく出演してた。
・・・正々堂々とした武士的であり、将来には役立つ人だと思う。

今年度は猛暑、デフレなど中小企業はギリギリまで頑張ったが、
年末は当社含めバタバタ倒産するでしょう。
円高ストップは80円代か?政府介入か・・・
もはや韓国、中国などには勝てない市場経済・・・
90円代回復には2年かかる・・・
35〜45兆円の政府介入かはTV解説で高校生でも解る。
⇒民間経済は悪い:産業鋼構造の変換など・・・
あちこちで同じ中小企業を取材している。

党員サポータ票なんて都知事や田中真紀子が言うように僅差だ・・・
現職総理だからよらば大樹の陰であってだ…
小沢の怖さを知らない議員票だ。
堂々とした誰も言わない論点での田中真紀子は政治家だ。

政治家は媚を売るのはこれからも一緒・・・
日本のクリーンな政治家を謳っている政治家など
言動不一致なマスターベーションであり、大国に勝てるはずもない。
こんな非常識がデフレを招いている。
小企業としては、来年度は最悪だ・・・

本日、相撲を見た・・・国技ではなかった。

中国、台湾、韓国などという金持ちが市場を買いあさる。

中小企業を見学するのは良いが教育、福祉、年金、総じてGDP
どう巻き返すか・・・大学での過去の政経学部の解釈は無用となる。

生粋の日本人はそもそもいなかったんだということですかね。
今回のコメントでもよいですが、
関係することについてご意見頂きたいです。

ps:
写真は思い出の日立沖でのアイナメ56cmの釣果・・・

(↑ワイン社長の勇姿!)

北海道を除きアイナメではNo.1のサイズです。
先日の茨城県高萩市のログハウスですが、
問題なのは、トイレ設置がないのです。
ログハウスは当方いつでも使えるのですが、当方としては
トイレ設置工事費の一部負担はしたいと考えております。
12月からヒラメ釣り解禁です・・・
想像してください、竿がひん曲がります。
寿司屋で食っているヒラメは当地では「そげ」つまり40cm以下です。

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ワイン社長、コメント投稿有難うございました!
スゲー大物を釣り上げましたね!!天晴れ!

ところで、コメント中にちょっと気になる記述が・・・
年末に倒産する・・?弱気はいけませんよ、社長!
ファイト!!気合で巻き返しましょう!
応援しております。

ワイン社長からのレター

2010年09月11日(土) 0時05分
人生の師匠・ワイン社長からレターをいただいた。
清涼感のある一筆なので、ブログに掲載させていただくことにした。
ワイン社長、時々またエッセイなどお寄せくださいまし。

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トビウオ殿

元気で諸事こなしているようですね。

先日、
茨城県高萩市の旧衛星通信所に勤務していた知人の
ところに遊びにいきました。
2月に大腸ガンやら目の手術から退院し、見舞やらなど
で伺いましたが体調は、酒が飲めるほど元気でした。

本人は、茨城衛星通信所の地元採用の守衛でしたけれども
小職は、釣りや山菜とりなどでいつも一緒だったことから、
長男の仲人や3男の主賓などなどで本人とは親戚関係です:
茨城県人は一度信頼を得ると親戚以上です。

2泊3日の滞在でしたが、据え膳上げ膳の接待で夜は地元の
スナックで大暴れ?でした。

悠々自適という概念は、都会人にはわからないでしょうが、
マイナスイオンの空気、清涼な自然水、山や海の自然食、
温泉風呂、こうした地での生活こそ理想郷です。

都会なら一戸建てという広さのログハウスも完成してましたが、
上下水道が未整備なのが難点です:
水は近くの石清水で十分ですが、トイレがないので設置が急務です。

ログハウスで商売するつもりなく、小職に使ってください
とのことです。

トビウオ殿、カナダとは違いますがログハウス11月頃行きましょう。

いなかのスナック席巻するもよし自然に浸るのもよし
心が洗われますよ・・・山に行ったつもりなら不便などなしです。

大津港、小名浜港などで魚釣りして、
これからはキノコ狩などした収穫物を土間で鍋なら貴君の味覚も
満足するし、精神的にリフレッシュしますよ・・・酒は逸品!

本気で考えてますがね。

ワイン社長・K

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今年は猛暑が続き、まだ大変だけど、
想像するだけで爽やかな気分になる。
大自然と渓谷・・・憧れちゃうね。
是非行きたいものだ。







久々登場。ワイン社長エッセイその4

2010年08月12日(木) 0時05分
久しぶりに、ワイン社長のエッセイです。
(筆者にて若干校正)

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横浜に昨年出来た、新築平屋建てのわが家。
屋根付の駐車場が3台分あるので1車庫を貸しました。
遠戚で、日産GTR:800万円を入れるとのこと。

(K氏邸ガレージ)

ならばと車庫の掃除、おや・・・そうそう,、現役の会社員時代、
茨城の衛星通信所に単身赴任していた時代には
熱帯魚に凝ってましてね・・・ピジョン・ブラッド・ディスカスという
1匹5万円するのを4匹飼っていました・・・もちろん血統書付です。

90cmの水槽にはろ過装置など水質・温度には気をつかいますが、
どうしても線虫が水槽にはびこります。

これを駆除するのがホルマリンで1滴で線虫は駆除できます。
また、魚のエラなどの虫も駆除できるのです・・・
プロのブリーダーがやる方法です。

当時は茨城の名士ですから、薬局でサインでOKです。


さて、車庫を掃除している時、大事に包んだ瓶の袋を開け、
・・・ホルマリンだな・・・蓋開けたんですわ・・・

即閉めたんですが・・・5分位ですか、本当に「失神」しました。
・・・高温で気化したホルマリンを吸ったんです・・・
ヤバイと思って即ホルマリンのビンの蓋を閉めた瞬間に、気絶しました。
劇薬のホルマリンを高温の車庫の中にこぼしていたら、ずっと目覚めないかも。


なにやってんだか、私は・・・
ホルマリンは病院に持って行って処分してもらいました。

処分する前に貴殿に必要かどうか聞けばよかったかな・・・
先日貴殿と行った○○街のスナック。
昔のテレビでよく犯人が女の顔をハンカチで顔を抑えて
失神させたシーンで使ったのがホルマリンでした。
1滴をハンカチに・・・そんな必要ないかチーちゃんは!
(→筆者注:なんでやねん。恐ろしい冗談はよし子さんです)


そうそうきゅうりとか慌てていれたけど鮮度大丈夫でしたかなぁ・・・

☆女房の具合も1か月の点滴でだいぶ状態が良くなりました。
しかし長い入院ですよ。

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う〜む、ちょっと深い。ちょっと(いや、かなり?)怖い。
ホルマリンって危険な劇薬なんですねえ・・・。
読者諸兄にはくれぐれも真似なさりませんように。

追伸
奥様には一日も早いご回復をお祈りいたします。




103歳生きた祖母のお話

2009年06月08日(月) 9時09分
カナダワイン社長の特別寄稿エッセイ・その3です!


■ 祖母の化粧品


私の祖母は103歳でこの世を去った。

体に一切,刃物をいれずに大往生した愛すべき祖母の話です。

夏です。

暑い、くそ暑い、学校から帰るとランドセルをぶん投げて遊びにいく。


夕方のプーポーという豆腐屋のラッパが門限の合図みたいな懐かしい昭和初期です。


私の子供時代は、東京下町の江戸川区小岩です。

自転車で江戸川の矢切の渡しとか柴又神社に遊びにいったものです。

小岩の名産は、金魚で台風一過の時は、どぶに流れた金魚をすくっていたものです。


祖母は、質素でしたから、

化粧品など無縁だと思ってました。


でも、へちまえきすとかつくったり、アストリンゼンとかいったような化粧水を

自分で調合していたのは覚えてます。


続きは次のとおりです。



■ いとこの入院


埼玉にいるいとこが、夏休みに船橋ヘルスセンターにいきたいというので

泊まり込みで遊びにきました。


事件は、すぐでした。


いとこが風呂上りに冷水をのもうと冷蔵庫をあけて、牛乳瓶に入っている冷水を飲んだのです。

よっぽど喉がかわいていたんです。


冷蔵庫にあるもは、食い物と思っていたいとこは災難でした。


一気にその牛乳瓶の冷水をのみほしました。


不思議なもんで冷水と勝手に理解していると、味は水と思いこむものです。


で、埼玉のいとこは入院の騒ぎとなります。


中身は、祖母が手造り用の化粧品もどきでした。

成分は、日本酒とへちまエキスとかでした。


埼玉のいとこは、小学校3年でしたので、効き目は即効でした。


病院で一泊し、かわいそうなので船橋ヘルスセンターで遊ぶまで家で面倒みてました。


バナナやらなにやらで私もうまいもん食った覚えがあります。




■ 次は麦茶?


祖母は絶対的な権力をもっていたので、家族は何もいわなかったようです。


まったく、冷蔵庫の牛乳瓶に化粧品もどきをいれるなんて

あぶないよ、って祖母にいった覚えがあります。


悪かったね、ごめんねという祖母でした。


またです。


今度はやかんに麦茶もどきです。


小学校から帰るといつも夏は麦茶に砂糖をいれたりして飲んでました。

その日は冷蔵庫に冷やした麦茶がないので、いつもつくるやかんの麦茶を

一気に飲みました。



なんだろう、この異様な味と苦さは・・・・焦げたのかしら?


やかんの蓋をあけてみたらなにやら

ふやけ茶色のたうどんもどきが浮いてました。


あれ、なにこれ!



祖母にやかんの中身を聞きにいかないほうがよかったです。



なんと、みみずでした。


みみずは漢方薬としていまでも売っているそうです。

でも、干したみみずは、煎じるとそのままの形に復元されます。

あまりの気持ち悪さで、

その夜は食事すら喉をとおりませんでした。


当分、学校の給食にでるスパゲッティやうどん類を見るとみみずを

思い出しました。


みみずといえばマクドナルドハンバーグには食用ミミズがまぜてあるという

話がありましたが、全くの根拠ない話です。




■ ショウジョウバッタは虫でしょ。


こうなると留めのない話です。

暇な人は食後に読んでください。


どの家庭でも鶏を飼っていた時代で、朝は生んだ卵を取りにいくものでした。

鶏には適当な残飯をあげて育てていました。

どうせそこらの縁日で買ったひよこです。


適当に庭でひよこと遊んでいれば勝手にえさの雑草などついばんでいました。


あれやこれやといいながら、祖母が庭掃除にきた時です。


ふと、雑草にショウジョウバッタがいました。

背中にもう一匹のせていたので2匹です。



祖母はそれをふっと手でつかました。

ひよこのエサにいいんだと子供心に思いました。



うそでしょ・・・

祖母は2匹をひょいと口の中にいれたんです。


考えてみてください、カマキリとか殺すと腹からぜんまいみたいな白い内臓なのか

寄生虫もどきがでてくるんです。


私は虫が嫌いですから・・・、

最も好きな人はすくないでしょう。


食ったんです。バッタを・・・


いなごは佃煮で、はちのこも食べるのは知ってましたが、生は論外です。


しかも、ショウジョウバッタです。


それから、食卓で祖母が使う象牙のはしには、気を使うようになりました。




■ おじいちゃんの入れ歯かよ


どうしてこうなんだろう。


こども心にあとから聞くと気持ちが悪くなる話ばかりです。


わたしは母親のお父さん、いってみればおじいちゃんに溺愛されていました。


遊びにいった食事時は、膝の上に乗せられてご飯を家族一同で食べたものです。


夕食がおわると、お茶を飲みます。

でも、わたしが飲んでいたのは、確かにお茶です。


おじいちゃんは入れ歯をしてました。


食後は、きまって自分の入れ歯を湯のみ茶碗にいれて

すすいで飲んでました。


ついでに、そのお茶は私も知らずに飲んでいたのです。


母親は、おじいちゃんに

やめてくださいといったことを覚えています。


入れ歯をゆすいだお茶の味は覚えていません。


4歳頃まで、おじいちゃんの家に泊まると

ずっとこのお茶を飲んでいたことになります。




■ 祖母に母が怒られた原因



子供の頃、石鹸というと牛の絵が書いてある青と白の包装の牛乳石鹸はご存知ですよね。


私は、母親に石鹸などの買い物を頼まれました。


帰ってきて、台所におこうとした石鹸を

食卓の上に包装紙をむいたまま遊びにいってしました。


どうなったのでしょうか、この石鹸は。


うそでしょといわれるが事実なんです。


親父が会社から帰ってくると家族全員で夕食です。


家に帰ると母親は今日は茶碗蒸しですよ。


またも、悲劇の開始です。



私の家の茶碗蒸しは、大きな鍋でいっぺんに作るのです。


それで・・・


茶碗蒸しに石鹸が入っていたのです。



祖母はカンカンで、母親は涙ぐんで謝ってました。


どうやら、石鹸を鍋にいれたのは、私のせいだったようです。

なんでといっても知りません。


私は、子供心にちゃんと気を使っておもちを入れたんです。

そもそも、茶碗蒸しにおもちですがね。




■ 即席ラーメンの意味わかる?


当時、エースコックのチキンラーメンが大ヒット!

丼にお湯を注いで3分がキャッチフレーズでした。

その後、日清など即席ラーメンが続々登場してきました。


祖母もそんなハイカラ?というものなど相手にしませんでしたが、

腹が減って食べたくなったんでしょう。

掃除機すら使わない人なんですがね。

時代の波というかでしょう。



へえ、おばあちゃんが即席ラーメン作ったの。

すごいね、チキンラーメンじゃないんだ、

僕にも一口頂戴よ。

で、どんぶりを見た時、絶句しました。

ス、スープは?


香辛料と書いてあったから、入れなかったそうです。

そうなんだ、昔の人は・・・



■ 一酸化炭素中毒


今度は真冬、いよいよ中学です。

とりあえずは、試験勉強をしてましたんで、夜食とか家族は気を使っていました。

中学入試の朝、目覚めると苦しいんです。

顔面真っ青で、吐き気やら頭痛やらで試験日なのに

死ぬかと思いました。


聞けば、


夜中に祖母が寒いと思って、私の部屋に練炭火鉢を

いれてくれたのが原因でした。

一酸化炭素中毒です。


試験中、何度も便所に吐きに行きました。

おまけに筆記用具を忘れたりでさんざんでしたが、学校には入れました。

家になんとか帰ると一緒に部屋で寝ていた猫は

吐いて死にかけてました。



やっぱり老齢の猫なんでその後、死にました。

近所の物知りに聞いたら、猫は死ぬ時はこっそりと

どこぞの場所で死ぬそうです。

私の猫は、どうどうと居間で死んでました。


死因は、一酸化炭素中毒かは不明でしたが手厚く葬ってあげました。



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みなさんもこのたぐいの話は、たくさんあるでしょう。

結構、自分の人生を振り返る時、なつかしくもある話なのです。

昔の方が幸せだったかもしれません。


今回は、祖母の不思議な話の続編で、不思議でもなんでもないんですがね。


左鎖骨の骨折もこじつけかもしれませんが事実です。


こんな馬鹿なブログにコメントくれればありがたいです。






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鎖骨の呪い

2009年06月07日(日) 8時59分
カナダワイン・ピリーアイランドジャパン社長の特別寄稿エッセイ・その2です。



■ プロローグ


高校、大学は勉強よりも山岳部で忙しかった。

山は交通費やら装備代などで、お金がかかった。


そんなわけで、酒、たばこ代もなかったし

六本木のズッケロとかのディスコなどで遊ぶ余裕などなく、

極めて健全な体と精神でした。


今でも血液検査などしても、30代といわれているのは、

若いころの山で鍛えられたことに感謝です。




大学時代の山学部の序列はというと、

1年生は牛車

2年生は奴隷

3年生は平民

4年生は天皇

5年生以上とOBは神様です。


体育会では、なんのスポーツでも

こうした序列で精神を鍛えられたものです。


山岳部には、いじめという慣習はなかったが、

精神的にあぶないという危機感はあった。



毎年、新入生を獲得するのも大変です。


入部後、泣きを入れて退部したいという後輩も多かった。


そういう軟弱な後輩は、本来の学業よりも

何ともいえない、あぶない恐怖感を毎日持ったかもしれません。


退部したいとか言おうものなら、

先輩が教室の前で待っているのです。

つまりは、拉致です。




なんとか、後輩が最後の山行という条件で、

秋の南アルプス縦走に参加することになった。




■ 後輩の退部


南アルプス縦走!


最後まで、逃げる可能性がある後輩を捕まえ、新宿の最終夜行に乗せた。


大抵の後輩は、

母親が危篤で山行にはいけませんといってくる。


そんなら今、見舞いに行くと水を差す。


翌日、母親から退部の嘆願書が届く。

これで、貸しができたのだ。


なら、送別の山行にしよう。

これが、どれほど怖いものか・・・・


知っている後輩は、泣で懇願する。



退部は、俺一人では決められないのでと、

いい加減なルールで納得させるのです。



山の縦走は、1週間程度かかります。


それと、神様のOBが加わると

1年生2年生は人ではないので、

リュック重量は、30Kgを超えます。


神様達の荷物は、ナップサックといって小さいリュックのみです。



こうなると後輩達は、1週間、山の景色を堪能するどころではないのです。

後輩は、地べたを見て、牛車のように歩くことになります。

現地での泣きごとは通用しませんし、

帰りたくても帰れないのです。



山の朝は早く、後輩は飯炊きの準備です。

標高3000mの夏山の午前3時は、0度に近い気温で

セーターなど着込みます。

秋山はもっと悲惨で、雨など降ろうものなら地獄です。




昨晩、角ビンを飲んでゆっくりとテントから起床される神様たち。

俺は3年生の平民という身分であったので、つらくはなかった。


朝食時、神様から

くそまずいね、今日の味噌汁!

塩分が多いのよ、といって

後輩におかわりのコッフェルをわたす。


水で塩分を薄めることは、水場まで行くことですので、後輩達は恐怖です。


なんとか味噌汁飲んでくれるように

後輩達は心で祈ったことでしょう。



無事、残りの朝飯を全員がすませると

テントを撤収し、次の目的地までの繰り返し。


1回の山行で、体重をかなり落とす。


いつも、下山したら何を真っ先に食べようかと考える。

答えはラーメンです。

下山すると、何を食ってもうまいし限度なく食える。

脱水症状の体に、ビールなんか飲んでも、酔わない。

すべて体が吸収してしまうようです。


なんとか後輩が無事下山した最後の山行でした。




先輩、味噌汁とか塩辛かったですねと、麓のそば屋で

うまそうにラーメンの汁を最後の一滴まですすりながら話す後輩だった。


やっとの思いで、最後の山行が終わり平穏な学生生活になれるという

安堵感もあったのでしょう。




■ 最後の最後!


後輩は、やっとこれで退部と思っていたのです。



・・・鬼は誰だ!


あのさー、退部するにあたってね。

個人的なお願いなんだけど、

来週の土曜日付き合ってくれるかね。


後輩は本能的な防御姿勢だ。


・・・・・。


で、どこに付き合うんですか?


で終わり。


口をきいたんでね。


岩登りのトレーニングに行くんでね。

セカンドが必要なんだよ。

日帰りだから、最後の最後にたのむよ、紅葉でもどうだ。


君も退部もするんだからさ・・・退部条件はクリアしたのに。

ザイルを使った岩登りは2人が最低必要です。


日帰りだし、君との思い出とか・・・飯をおごるなどの甘言の連発で、

よせばいいのに本人はしぶしぶ約束する。


自分でいうのもなんですが、俺は信頼されている先輩なのです。




■ 滝壺へ墜落


奥秩父の名もないような滝に登攀開始だ。


日帰りといえど新宿からの最終電車なんで、日帰りの約束は既にない。

新宿で飯くわせてたりしてね。

来るのが悪いし、本人も山が好きだったんでしょう。


晩秋の滝は、水しぶきの空冷が効いて寒かった。



テントの中で一緒に飯を食い、熱燗を飲んでたわいなく朝を迎えた。




さて、登ってこいよ、と後輩に催促する。


ところが、


30メートルくらいの滝の中頃でアクシデントが起きた。

ザイルを確保するハーケンが抜けた。


俺は今日2本目のタバコ吸ってたんで後輩の確保は適当だったというより、

してなっかたに近かった。

確保しててもザイルの摩擦で手を放したかもしれない。


そして、後輩は滝壺に落ちた。


ズンという衝撃。




まずいな、


滝壺の後輩を見て、

動け・・と思った。


別に、殺人ではないのでパニックにはならなかった。


下までザイルで何とか降りて、容体を確認する。



後輩の左の鎖骨が折れている。


歩けるか。



後輩は、無言でヒクヒク泣いてる。



びしょびしょの服装を着替えさせて、下山する。

かなりショックだったようだ。



甘いやつだな、落ちやがって。


後輩は、自分で落ちたことを誰かのせいにしている目だった。



それから、この後輩を大学では見かけなくなった。

自分も4年生の時は、雀荘のアルバイトやらで忙しかったからでしょう。


会社に就職してからも

卒業単位不足の夢を見ることはあった程度です。

よくぞ卒業できたものだと安堵した学生時代の出来事だった。




■ 因縁の左鎖骨


何年か過ぎて、会社の健康診断を受けた時、

以前、鎖骨を折ってますね、と医者がいう。

いいえ、ありません。


でも、ほら、レントゲン写真を見ながら医者は、

折れた左の鎖骨を説明している。


まあ、自然につながっているので問題ないんですがね。




あれ、酔って倒れて鎖骨を折った記憶もないし不思議だ。


記憶を辿っても事故はない。

だって、骨折すれば、痛いし不思議だ。



25歳で社内結婚して長女が生まれた。


その長女が4歳の7月、遊んでいた椅子からジャンプした時に左の鎖骨を折った。


おれも医者に鎖骨を折ったと言われた時期だった。


7月1日は俺の誕生日健診なので覚えている。





不思議なつながりもあるもんだ。



それから、今度は義母が階段から落ちて

鎖骨を折った、またもや左だ。



偶然をこじつけるとこうなるんです。


不思議でもないんでしょうけどね。




そうそう、最後は、

4年前、会社帰りに飲んでいた仕事仲間だ。


翌朝、会社に電話が入り、

昨晩、自転車で帰宅途中、酔って側溝にはまり

左の鎖骨を折ったという。


PCを使う仕事だったので、右手一本での作業は、見ていて気の毒でした。

これで、通算で4人目の左鎖骨の骨折でした。


こんなに鎖骨骨折、しかも左だけの人が身近にいるのも不思議だ。

そうでもないのか。


そうそう、私は骨折した覚えのないレントゲン写真は左の鎖骨なので

5人目です。

冗談みたいですよね。



昨日、事務所の6階の友人が骨折入院したとの電話連絡があった。

鎖骨か?かと聞くようになった。

右親指だった。


先月、友人が入院したのは尿管結石だった。


いつしか左鎖骨の骨折入院を待っているような

こんなブログは、愚かですね。



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不思議なお話(下)

2009年06月06日(土) 9時44分
ワイン社長の特別寄稿第一弾、後半です。どうぞ!



■ 誰?


お母さん、


お父さんはお仕事で今日はいないね。



昨日、お父さんとお母さんに牛の話したでしょう。

どこの牛さんでしょうね。





母は元気もなく泣いていました。


黒い服を着ていたのでどうしたの?


昨日の夜、お父さんはお仕事で出かけたので、まだ帰っていないんだ?




お父さんは・・・?



昨日の夜、牛の話したでしょ。

お母さんもいたでしょう?




なにやら朝から、お客様が珍しく出入りしている様子で、母さまは

どこかの通夜でも行くんで忙しいんだ。


でもなんで母さまは泣いてるのかしら?

親戚なのかしら?




お客様は黒い服装で、葬式なのかしらと不思議でした。

母さまは、お客様に丁寧に挨拶してました。


お客様は親戚やらも来てまして、大勢様なのに会話もなかった。



お父さん残念だったね、自分の頭をなでて親戚の人が部屋にあがっていった。




あれ、お父さん、死んじゃったの?




母さまは、うなずきながら涙をながして自分を抱きしめた。





それじゃわたしの昨日の話は、誰にしたの?

お母さんとお父さんでしょ・・・?





当日、自分が出かけている昼時に父親が急死したそうです。



では、家にいたお父さんは?



母さまもいたでしょ?



母さまは、

何言ってるの、お通夜の準備やらで家には夜遅く戻ってきたところでしょ。

あなたは、寝てましたよ。


「えっ!」



それでは、昨日の夜、自分は両親と牛の話をした時間が食い違う。



実際、お父さんもお母さんもいなかったと理解した時、

本当のことなのに、証明できないのがどうしようもなかった。


子供心に不思議な出来事だと晩年まで思っていたそうです。




牛が・・・お父さんの魂を連れていった。




お盆には、故人の魂を迎えるために今でもむかえ火、おくり火をするものです。


むかえ火は、故人の魂が早く我が家に帰るため、足の速い馬に見立てるため、


仏壇には、きゅうりに四本の足をつけます。


お盆が終わり魂を送るときは、ゆっくりと帰ってもらうために、仏壇には歩みの遅い

牛に見立て、なすに四本の足をつけるならわしです。

迎え火、送り火は自分の魂が行き場所を迷わないようにするためです。



それで、牛の話ですが、


祖母からそんな不思議な話を聞いて、わたしは子供心に

バカなといって気にもしなかったものです。






私の親父が、享年60歳、食道がんで急きょしました。

祖母の次男です。

病が発覚してから、半年の命でした。


最後の親父の言葉は、痛い、痛い・・・そして、引き際に


xxの一言だったのです。




笑ってはいけません。

本当の話です。


こんな話をすると、一体、牛は食い物なんでしょうか。

自分の血を見ると気絶する輩もいるのに

焼き肉などでは、内蔵まで生でも食べている。


牛が加工されるときの涙と断末魔の声を聞いたら、当分食えないでしょうね。

牛、豚、馬などの加工工場は紹介されていないのです。

生きたままチェーンで首を切るそうです。


食肉牛の最後は、親父の末後の言葉のxxと同じでしょう。

想像してください。



xxを言うと、笑い話かつくり話となるので遠慮しておきます。


xxって、知りたいですか?



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不思議なお話(上)

2009年06月05日(金) 15時20分
筆者の大先輩である、カナダワイン専門店・ピリーアイランドジャパン社長のK様より、特別エッセイを寄稿いただきました!
早速、下記にご紹介します。是非お楽しみください。



■ 人の魂と牛


私の祖母は、享年103歳でなくなりました。

時の宰相は大隈重信、生まれは四国香川県です。

当地は、いまでも交通手段が不便な上、夜は真っ暗な土地柄が多い地域です。


私が子供の頃、祖母が話した話です。


私の祖母は、いろんな不思議な体験をしていました。

別に孫の私を躾けるとか怖がらせるという人ではないので、

この話は子供ながら覚えています。



私の父親は祖母の次男です。




それで、不思議な話ってのは、祖母が子供の頃の話。



当時は今以上に夏はうんざりする酷暑でした。

祖母は東京で一緒にくらしている時でも、扇風機など

使わず平気でした。

洗った髪は、新聞紙で包み水気を取っていました。

かつらを結える程の髪の毛で、江戸時代という感じです。

夜、髪の毛を梳かしている姿は心臓に良くない姿です。

怪談、猫化けシリーズの入江女優もどきです。






祖母を火葬場で見送った時、骨は真白でした。

今時、こんなお骨は見たことないと火葬場の人が言ってました。

一切の化学薬品を口にしていなかったこと、自然食品のみの摂取でした。

つまり、質素でした。

思えば祖母は、肉は食べなかった。



それで、

不思議な話はというと、


祖母が子供の時の四国の田舎の田舎です。



昨年、四国に旅しました。

深い山、清流・・・坂本竜馬は高知城に行ったことはないそうですが、

今でもこんな過疎地から江戸や九州まで何回も行ったのは

超人的な体力です。


旅して感じたのは四万十川のアユではなく、

自分の田舎というイメージを払拭したことでした。

四万十川もどきの清流など、昔ならどこでも存在したものでしょう。



さて、祖母の不思議な話ですが、


夜まで暑さが残る草いきれのする自宅への帰り道、


帰り道、といっても一本のまっすぐな田んぼ道、人が行きかうのが

やっとのあぜ道。


懐中電などないので、当時の娘などは日が暮れる前に

自宅に帰っているものでした。


いつもより遅くなった夕暮れ時の帰り道、そそくさと足を速めていると、



ふと、


なにやら正面から牛さんが歩いてきたそうです。



あら、、、不思議。


どこの牛さんだろう?

と牛に道を譲り家に帰ったそうです。



家に帰って両親に、今会った牛の話をしたら、

家族が不思議がったのも当然です。


牛など近所にも飼育しているところもないという話ですし、自分も

15年生きてきて、初めて見たそうです。


その時は、

さもありなんと納得しつつ、


それでも、帰り道の牛との出来事は子供心に不思議だったそうです。


虫の知らせという言葉は昔からある言葉で、今でも、体験談も多いです。




出会った牛は何かしら?


(Source:Google)



当時の話をひょうひょうと語る祖母でした。


祖母の香川県は、今でも過疎というより開発できない山間部です。



そんな田舎の真っ暗な環境は、当然であった時代です。

日本国がどうなっているのか理解するのに時間がかかる時代です。

・・・・・

一本の田んぼ道を前から牛が歩いてくる。




田舎では、人が死ねば土葬で、よく人玉をみたそうです。

そういうもんだと思っていたそうで、特段に怖くはなかったそうです。




それで牛ですが・・・


翌朝、牛さんが何を意味したのか分かったそうです。


よくある話でしょうが、人の死でした。


牛にひかれて魂を守って運んでいったのでしょう。

肉体が滅んでも、魂は49日間は、現世に残っているそうです。




近所に牛などいないのに・・・



やっと、亡くなった人がわかりました。

祖母の不思議な話、



続きは!!!




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夏の思い出

2007年11月02日(金) 12時28分
Kさんに導かれた夏の思い出

田舎の高校を出た私は、大学に入学すると、いきなり有名なジャズ研究会の門をたたいたのだった。高校までは運動部に所属していて、音楽系サークルなど経験したこともないのに。
春・4月の大学キャンパスは、新入生勧誘のため、多くのサークルの出し物で大いに賑わっており、誰も知り合いのいない私は、わくわくしながらも、心細い気持ちで、うろうろと構内を歩き回っていた。そんな環境の中にあって、音楽バンドの新勧セレモニーはひときわ目立ち、華やかなものである。私は、そのバンドの演奏模様を立ち止まって眺めていると、当時流行のIVYファッションに身をまとった、スマートで洗練された7人編成のジャズコンボにすっかり魅了されてしまった。目を釘付けにしてその演奏に聴き入っていると、楽団の部員らしい女性が近寄って来て、
「さっきから随分熱心にご覧になっていますね。興味があれば是非一度、部室に遊びにいらっしゃいませんか?」
と誘ってくれた。
「はあ・・。でも、僕は全く音楽の経験がないんですけど・・」
と私が応えると、
「あ、それは全く心配いらないわよ!うちは多くの部員が初心者ですから。楽器のパートごとに先輩が丁寧に教えてくれるから大丈夫ですよ。ところで、希望の楽器は何かしら?」
「え?ええと、ド・ドラムなんか、好きなんですけど」
「ドラムね、いいわね。じゃ、わかったわ。ちょうど今、部室にドラムのリーダーもいるはずだから、部室まで一緒に連れていってあげる!」

音符が読めず、楽譜もわからないけれど、リズム感だけはちょっとばかり自信のあった私は、その場の勢いで入部手続きをすると、翌日から早速、パートの先輩についてドラムの練習をはじめた。同期の入部でドラム希望者は3名おり、ロック系ドラムの経験者もいたが、人一倍熱心に取り組んだ私は、1年生バンドのレギュラー的存在になった。あわせて、「イーボ」(ボーイの逆。音楽業界や芸能界で使われる共通用語である。)と呼ばれる、バンドボーイの作業とりまとめなども任されるようになり、授業にはほとんど出ず、専らバンド活動に傾注していった。




(Source:flickr)


ところが、段々と腕前が上達し、2年生になるとサブ・レギュラーバンドのドラムに抜擢され、ダンパ(ダンスパーティー)やビータ(演奏旅行)などの仕事をこなすようになり、バンドとして演奏料を稼ぐまでに成長するうち、私は次第に、自分の持つ基本的なハンディキャップに悩むようになった。というのも、自分は生来の左利きであり、部室(音楽長屋と称していた)に備え付けの楽団のドラムセットは、複数のバンドがローテーションを組んで練習するため通常(右利き用)に固定してあるため、当初から左を右に矯正して練習を始めた私は、高度な技のレベルになればなるほど、どうしても、ドラムに要求される「運動神経」に無理が生じてくるのであった。
あわよくばドラマーとして生計が立てられれば良いな、などという甘い考えが頭をよぎっても、こうしたハンディキャップを考えると自然に躊躇され、「しょせん学生のアマチュアバンドなんだから、まあ仕方ないな」と、どこかで自分に妥協するようになり、4年生でレギュラーバンドを務める頃には、下級生の頃に持っていた熱意も冷めてしまい、なんだか惰性でバンド活動をこなすようになり、不完全燃焼を続けていた。

そんなある日の夜のこと。何故か、後で考えれば虫の知らせだったのだろうか、ふと思い立って、練習が終わって皆が帰ってしまった後、部室に一人残って、何となく基礎練習をしていると、突然ドアが開いて、ジョージ・ルイスの名曲「バーガンディー・ストリート・ブルース」の切ないメロディーを奏でながら、一人のクラリネット奏者が入ってきたのだった。
それは、日本のジャズ界では一流プレイヤーとして有名な、そしてこの楽団のOBでもある、K先輩であった。
「うわっ・・・け、Kさんじゃないですか?ああ驚いた!こんな時間に突然、どうされたんですか?しかもお一人でフラッと。どこかに寄られた帰りか何かですか?」
するとKさんは、
「ん?あ、ごめんね邪魔して。この時間はバンド練習も終わりの頃だろうと思ってね、今日はこの後、遅い時間から近くのライブハウスで演奏があるんで、ちょっと時間が空いたから慣らし練習でもしようと覗いてみたんだよ。君はまだ残って練習していたんだね。」
と言った。
すっかり慌てて動揺する私に、Kさんは、
「あ、気にしないでいいよ。こっちが勝手に押しかけてきたんだから。遠慮せずに練習を続けてくれていいよ。」
と気遣ってくれた。
「そ、そんな、Kさん。恐れ多いですよ。どうぞ遠慮せず練習なさってください。お邪魔にならない程度にこちらも練習を続けますから」
状況を飲み込んだ私は、少し落ち着いて答えると、
(まてよ、これは良い機会だ。Kさんの練習に合わせてドラムを演奏してみよう。Kさんもリズムがあった方がノリが良いかもしれないぞ。さりげなく、相乗りしてみよう)
と、大胆になり、Kさんの練習に合わせて、ドラムを刻んでみたのであった。

そうしてしばらく、私のドラム伴奏を気にかけない様子で練習を続けていたKさんは、ふと練習の手を止めると、私にこう言った。
「君、左利きだね。左手のスネアが強すぎるね。それに比べて右手のトップシンバルが弱いし、左右のバランスが崩れている。あと、結局オカズ(フィルイン:演奏を盛り上げるためのリズムのオプション)のパターンも限定されてしまっているね。リズムは堅調だけど、それではバンド全体の演奏に一体感が生まれないし、むしろ違和感をもたらすよ。」
Kさんにズバリと指摘された私の欠陥は、まさにそのとおりであった。あらためてKさんのプロとしての慧眼に脱帽するとともに、
(ああ、やっぱり限界だな・・)と、すっかり落胆してしまった私が、
「おっしゃるとおりです。自分でも、うすうすわかっていたことなのですが、なかなか身内では指摘してくれる雰囲気でもなく、ちょっと行き詰ってしまっていたところです。やっぱり左だと限界なんですかね。」
と正直に打ち明けると、Kさんは、
「ハハッ。ちょっとキツかったかな、指摘が。何だ、落ち込んじゃったか。ごめんごめん。でもさ、そんなにがっかりすることはないぞ。逆に左利きの特徴を活かせばいいんだよ。工夫すればいいのさ。良かったら一度、俺のバンドに練習に来てごらん。どうすれば全体の演奏に馴染めるか、ヒントを感じられるかも知れないよ」
と諭してくれた。




(Source:flickr)

Kさんのバンドは、JR(当時は国電)蒲田駅前にある、当時まだ世間で流行っていた大型の大衆キャバレーで、レギュラーバンドとして活動していた。毎日、夕方6時から深夜12時まで、45分を1ステージとして、2つのバンドが交替で演奏するのだ。
ステージの合間には、バンドは控え室で休憩するのだが、ギャンブル好きなメンバーは、せっせとポーカーゲームに精を出している。何だか怪しげな黒服のボーイが見守る中、チップを掛けてやっている。聞くと、凄く高額のレートらしい。
「君もひとつやってみるかい?」と誘われるが、
「いえ、とんでもない、遠慮しときます・・」と言いながら、楽屋の隅がゴソゴソするのでチラッと見やると、妖艶な女性コンパニオンが着替えの最中だったりして、ときめいたものだ・・。

「とりあえず、腕試しに一度演奏してごらん」とKさんに言われた私は、バンドメンバー(もちろん、私以外の全員がプロのジャズメンである。)とごく簡単な打合せをしただけで、いきなり、大勢の客が踊ったりお酒を飲んだりしてくつろいでいる、広いホールのステージに引っ張り出されてしまった。
リーダーの合図で演奏は始まった。必死で曲についていく私であったが、当然ながら、軽快にスイングするどころではない。何とかミスをしないよう、必死に合わせるだけで、他に何の余裕もない。
<チャッチャッチャ・チャッチャッチャ・>
ひたすらトップシンバルの4ビートを刻むのが精一杯である。左足ハイハットのアフタービートもぎこちない。
そのうち、それとなくバンドメンバーが、ちらちらとこちらを見ては、
「ノリが悪いなあ」
「スイングしてないぞ」
という感じで、冷たい目配せを送ってくる。
ますます萎縮する私は、緊張と重圧のあまり、全体のリズム感までたどたどしくなってしまう。
客席からも、「何だか今日はノリの悪いドラムがいるなあ」といった感じの様子が伝わってくる。
「こりゃあ、まずいなあ・・・!」
大汗をかきながら、なんとかステージを終えた私に、Kさんが声をかける。
「大緊張だね。でも今日はあと3ステージも残ってるぞ。そのままだと続かないよ。リラックスして、スイングを心がけるんだ。いいか、お客さんは踊りに来てるんだ。楽しませなくちゃ。そのためには何をすればいい?
今のスタイルでは、中途半端にオカズを入れたい気持ちが残っているから、結局ビートも中途半端になっちゃってるんだ。基本ビートに徹してごらん。そう。スネアとバスドラムだけでリズムキープとロールでやってみろ。落ち着いてくるはずだ。」

天啓であった。スネアとバスドラムのアフタービートは、ドラムを始めて最初に習った基本中の基本動作だ。そうか、基本か。考えてみれば、スネア(小太鼓)のロールは左右均等にさばく演奏手法であり、かつ、ドラムセット全体への運動神経という気遣いも不要な手法である。バスドラはリズムビートの基本だ。そうか、やってみよう。

Kさんのアドバイスですっかり気持ちが楽になった私は、次のステージからは安定したリズムビートを叩き出し、スイング感を徐々にバンド全体に与えることが出来るようになった。
戸惑っていた観客も、安心したような様子で、楽しげにステップを踏んでいる。バンドメンバーの表情も、
「お、いいノリに戻ったじゃん!」
「OK、いいビートだぞ」
と、スマイルを取り戻すと、それぞれの演奏にも普段のツヤが戻り、見事なアドリブを連発させる。
ますます気を良くした私は、基本ビートに余裕が出来ると、演奏の合間にちょっとだけオカズまで入れて、バンド演奏を盛り上げるようになった。


季節はちょうど夏であり、大学が夏休みで時間も十分にとれた私は、結局、丸1ケ月の間、そのバンドでステージを務めあげることになった。よく聞くと、ちょうどその時期、レギュラーのドラマーが体調を崩して休んでおり、臨時にバンドを務めるドラマーを探していたのだとKさんは言った。
その後、レギュラードラマーの復帰により、バンドを離れる私に、Kさんは
「ギャラだよ」
といって、封筒に入った現金の束をくれた。恐る恐る中身を確認してみると、14万円も入っていた。
その翌春、結局、ドラマーとしての素質に見切りをつけた私は、サラリーマンとして一般企業に就職するのだが、その初任給が10万3千円であったから、当時のお金としては私にとって大金であったと記憶している。




(Source:flickr)

何故ドラマーを目指さなかったかといえば、もちろん、この程度の腕前では一流のプロとしてやっていく自信が持てないこともあったが、それ以上に、この貴重な1ケ月の経験を通じて「プロの凄さ」を目の当たりにしてしまったこともその大きな理由となった。
<ひょっとすると、プロのミュージシャンって、日本の現職総理大臣の名前も知らないんじゃないかしらん?>と思えるほど、極端に言えば、彼らは世事にうとい。いや、世間に目を配る暇すらない人たちだ、ということを認識させられたのである。
彼らは、まず朝起きると、歯を磨いてトイレに行って、食事を済ますと、延々と楽器演奏の練習をする。4〜5時間もする。それが終わると、曲を聞き込む。これも相当な時間を掛けて行う。その合間に食事をする。そしてまた練習をする。気がつけば夕方となる。もうステージの時間である。急いで支度をするとステージに臨み、深夜まで交替で演奏を続ける。唯一の息抜きはポーカーゲームである。そんな毎日の繰り返しだ。
あるときKさんに、
「Kさん、プロのミュージシャンってすごく過酷な生活なんですね。周りで見ていて実感しました。」
ときくと、
「そうかな。でもさ、結局さ、自分の好きなことをやってメシ食ってるんだから、贅沢といえば贅沢な身分だよ、我々ミュージシャンなんてものは。もちろん将来の保障やら、手当てやら何もないけどさ、それは好きなことをすることの代償だと思っているよ。こんな人生もまた素敵だと。」
と笑って応えた。


Kさんとの交流はその後、プッツリと途絶えた。
所属していた楽団はそれなりに歴史を有する名門サークルで、多くの著名人を輩出していることでも知られている。某民間放送の有名アナウンサーや、テレビタレントの大御所、また、大河ドラマの脚本家として常連でもある著名作家などもOBメンバーに顔を連ねている。そして毎年秋には大学祭で演奏をするし、年に一度のOB会は盛大に挙行される。
私の同期のメンバーは地方出身者が多く、東京に残っているのはごく少数となった。当時の主力メンバーは、京都、神戸、名古屋、広島や、果ては海外駐在も多くいて、なかなか集まることが出来ない。
それでも、何かの縁を求めて、機会あるたびに会合に顔を出したりしていた時期もあったのだが、どの会合でも、Kさんの顔を見かけることはなかった。もともとKさんは、こうしたOB会のような集まりにはあまり興味がないようであった。

ドラムの技術に行き詰っていた私の前に突然現れて、普段は考えられないような状況から、ズバリと問題点を指摘されただけでなく、その後、1ケ月もの長い間、一緒のバンドメンバーとして、しかもプロミュージシャンに混じって演奏する機会を与えてくれたKさん。
あの夏の経験を元に、すっかり一皮むけた私は、卒業するまで大学のバンド活動をエンジョイした後、社会人として新たなスタートを切り、結婚し、3人の子供をもうけて、平凡なサラリーマンとして人生を歩んできた。今年50歳を迎えた私は、そろそろシニア世代の入り口に立とうとしている。
懐かしく大学時代を振り返ることが多くなる年代となったが、それにつれて、私は、<Kさんは今頃何をしておられるだろうか>と、ずっと気にかかっていた。しかし相変わらずどこからもその消息が聞こえてこないままであった。
すると、何年か前、とあるOB会合の席上で、Kさんが高田馬場の小さいライブ付レストランバーで3人編成の小コンボで演奏しているのを見かけたという情報に接した。そこは私が大学4年の時、毎週1度のレギュラー演奏をやっていた場所でもあった。雑然としたバーで、純粋なジャズファンが演奏を楽しみにして来店するという雰囲気ではない。ちょっと気になった私は、しばらくしてその店を覗いてみた。Kさんはいなかった。店員にKさんバンドの様子を聞くと、
「確かにちょっと前まで週2回ほどステージ頼んでましたよ。奥さんのギターと、ご主人と、あとは連れのベースマンの3人コンボでしたがね、体調が悪いみたいで、奥さんの実家に引き込むようなことを言っておられましたよ。」
Kさんの奥様とは面識がある。蒲田のステージがハネた後、何度か迎えに来ていた時に挨拶をした程度であるが、たしか奥さんは島根県の方の出身だと言っていたっけ。




(Source:flickr)

あんなに親切で心の広い、そして心からジャズを愛する自由人であったKさん。もう一度会って、改めて心からお礼が言いたい。ジャズメンとして様々な苦労もされたのだろうけど、田舎に行かれたなら、これを機会に、せめてゆっくり骨休めをし、体調をまた万全に戻して、そして、もう一度東京に戻って、バリバリの演奏を聴かせて欲しい。
その時は、駆けつけドラマーとしてKさんのバンドに参加し、精一杯ビートを送り、Kさん復帰の盛大なお祝いに、心からの祝福をしたいと思う。派手な「セインツ」でのドラムロールで出迎えて。

幼い恋のおはなし

2007年11月02日(金) 12時27分
Y子の思い出

2007.10.12
山陰の地方都市に生まれた私は、中学を卒業するまでは特に悩みもなく、のほほんと育った。剣道部では主力として活躍し、勉強もそこそこにこなす、いわゆる「優等生」だった。Y子とは、中三のとき初めて一緒のクラスになったのだが、Y子は小学校の頃からそれなりに目立つ女の子だった。と言うのも、他の子に比べてもひときわ体の発達が良く、体育の時間などには結構目立った存在だったのだ。それとなく見聞きする彼女の言動も、当時からどことなく大人びていて、また、同級生のカッコいい、スポーツ万能の男子と付き合っているとの噂も流れたりして、私は「目立つ子だなあ」という程度の感想を抱いていた。

中学最後の運動会を迎え、私はクラス委員としてチームをまとめる役割を果たすことになった。運動会の華は、何と言っても最終種目のクラス対抗選抜リレーである。私は、リレーチームのメンバーと奇抜な作戦を練り、必勝を期した。それは、男女混合のチームにあって、勝敗を決める最終走者(アンカー)に、敢えてN子という女子を起用するというものだった。女子といっても陸上部のエースであり、女子の中では脚力はナンバーワンである。アンカーにつなぐ前数人の選手に男子で最も早いメンバーを置いて、それまでに大きく他のチームと差をつけておき、その貯金を最後まで保って逃げ切りゴールするというものだった。
リレーが始まり、作戦どおりわがチームはトップを快走した。そしていよいよアンカー勝負である。他チームとはグラウンド約半周分もリードしている。「よし、勝てるぞ!逃げろ!N子!!」必死で声援を送る。ところが他チームは、定石どおりアンカーに最強の男子ランナーを温存している。案の定、他チームはそれぞれ、物凄い勢いで猛追を始めた。「うわあ、早い。」そして、みるみる縮まる差・・・。結局、ゴール直前で男子に抜かれ、優勝は逃したものの、それでも何とか2位に食い込んだのだった。湧き上がる歓声と溜息。アンカーのN子は、責任を一身に背負ったような泣きべそをかいている。「N子、よく走ったよ!お前のせいじゃないよ。仕方ない、仕方ない!」私はそう言って精一杯彼女を慰めた。
何だか私は一仕事終えたような脱力感で、競技が終わったグラウンドに悄然とたたずんでいた。その時、何だか熱い目線を感じて、様子を見ると、Y子の訴えるような眼差しがそこにあった。


(Source:京都新聞)

その日、三々五々に学校から帰る道すがら、たまたま私の100メートルほど前を歩いていたY子は、ずっと私を意識しているようだった。道が分かれる十字路で、Y子はまるで私との距離を測っていたように振り返り、遠慮気味に手を振るのだった。それに気づいた私は、つられるように小さく手を振り返すと、ふと、Y子との距離を身近に感じた。

それ以来、Y子をはっきりと意識し始めた私は、事あるたびにY子に対して、他の女の子に対するのとは明らかに違った、何故だかしかし、ちょっと意地悪な態度を取るようになった。廊下ですれ違っては、授業中にY子が行なう質問の内容について批判をしたり、掃除当番の時にはわざと取りまとめの役をやるよう頼んだり、Y子が自習しているそばで他の仲間と大きな声で雑談を始めたり・・・。
そしてある日、廊下の会談でY子とすれ違った私は、突然、Y子を呼び止めた。
「おい、Y子」
するとY子は、ちょっと戸惑ったような様子で、
「え?何、T君・・?」
ときいた。
私は廊下の登り方向から、下にいて私を見上げる形の位置にいるY子を見つめて、唐突に告げたのだった。
「あのさ、付き合うか?」

翌日、Y子は、手製のとても可愛いラブレターを用意して、私に直接渡してくれたのだった。そこには、「昨日はびっくりした、またいつものように怒られるのかと思った。でもとっても嬉しかった。だって、好きだったんだもの。ちょっと突然だったけど・・。これから、たくさんたくさんお話したい。」などといった内容のことが、思いを込めて書き綴られていた。

「Y子、運動会のリレーが終わったあと、俺のことずっと見てただろ?あれは意識しちゃったんだけどさ、何だったの?」
「T君が、N子を優しくなぐさめてたから感動してたのよ。あの場面って、正直言ってN子がつらい、損する役割だったじゃない?もちろんわざと仕向けたんじゃないことくらい皆知ってるけどさ、結果的にああなって、クラスの女の子は心のどこかで彼女に軽いジェラシーを感じたりしてたから、N子がT君に厳しい言葉を言われることを暗く期待したりしてたのよね。」
「ええ?そんな。あそこでそんなひどい事言う訳ないじゃんかよ」
「そうよねえ。女の子って嫌ねえ。」
「そういえばY子は普段、N子とあまり仲良くない感じだもんな?見てると。今思いついたけど」
「ふふっ、そうかもね。でも、あれで何だか吹っ切れた感じになっちゃって、T君にはまいった、って思っちゃったのよ」
「そうか。で、その思いがこっちに伝わって、それから俺がY子を意識するようになっちゃって、・・・か。なんだか面白いね」
「そうね!でも素敵なきっかけだったのね、お陰でこうして、好きな人とお付き合いすることになったんだもんね!」

それから交際を始めた二人は、お互いを自宅に招いて家族に紹介したり、映画を観たり、公園に行ったりと、楽しい期間を過ごしていった。Y子の自宅では、大学の休みで東京から帰省していた姉が私を首実検にかけた挙句、「うーん、Y子には負けたわ!」と言って笑ったものだった。私の自宅では、ピアノを習っているY子に、音楽の教師をしている父親からの入れ知恵でモーツァルトをリクエストして、薀蓄をたれる真似事などをした。当時大ヒットしたギャング映画を一緒に観に行ったときなどは、マフィアの親玉が自分の愛馬の首を切られてベッドに入れられて絶叫するシーンでY子が気持ち悪くなり、映画館を出て何とか気持ちをなだめて、苦笑しあったりした。それなりに幸せな時間だった。
秋が過ぎ、冬を越して、私たちは高校進学のための受験シーズンへと突入した。私は、県内上位の進学校へと進むのに大きな問題はなかったのだが、Y子はボーダーライン上にあった。色々と相談するなかで、Y子は周囲の薦める「安全策」である、第二ランク群の高校を受験するのだと思っていた。万一不合格になると、地方ではめずらしい私立の高校に行くか、高校浪人をするかのどちらかを選ばなければならないのである。それは大きなリスクに思えた。しかし結局、Y子は、私と同じ高校にチャレンジするという。
心配になった私が真意をたずねると、Y子は、「わたし頑張ってみる。失敗するかもしれないけれど、どうしてもTくんと一緒の高校に進みたい!」と言うのだった。
私は祈るような気持ちで合格発表を待った。
4月初め、やや遠い場所にあるその高校へ自転車通学をする時に、毎朝、Y子を誘って一緒に登校するのが日課となった。Y子は、見事に合格したのだ。



高校に進むと、私はあらゆる面で大きなカルチャーショックに襲われた。今まで、同じ市内の狭いエリアで和気あいあいとやっていたのが、いきなり県下全域から、優秀な同級生が集まってきている。同じ県内でも、微妙に言葉使いや訛りが違った。当然細かい習慣や行動も異なったりする。下宿に住まう者もいる。私は、こうした新たな環境の中に置かれて、周りの同級生とどう伍していくべきか、かなり大きなプレッシャーを感じたのである。部活も、そのまま剣道部に入ったが、ここでも県下の強豪がズラリと肩を並べていた。第一、地元の国立大学に団体戦で軽く勝ってしまうのである。幸い、技術で遅れをとることはなかったものの、部内では高いレベルの競争があり、また、先輩との付き合い方などにも神経を配る必要があった。ここでも先輩は異人種に見えた。勉強のレベルもはるかに高い。最も衝撃を受けたのは数学の授業であった。論理展開を証明する論述方式の設問には、当初全くついていけず四苦八苦した。遅れを補うため、特別に補習塾にも通うようになってしまった。
そうこうするうちに、私はだんだんと、Y子との距離が遠くなっていくのを感じた。連絡を取らない日が多くなった。自然と、朝の登校にいっしょに誘うのも途絶えてしまった。

そんなある日のことだった。
「ちょっとT君。最近どうしたの?Y子とあまり連絡とってないらしいわね。Y子、心配して落ち込んでるわよ。たまには連絡とってあげなさいよ。Y子、T君と一緒に行けるからって精一杯背伸びして頑張って、この高校に来たのわかってるじゃない。」
「うん・・。そうだね、連絡してみる。最近ちょっと色々と余裕なくてさ」
私はその時、やはり同じ中学から高校に進んだ、Y子と仲の良いA子からの忠告も、何となく上の空で聞いていた。

数日後、それでも一度はやはり連絡するべきだと思い直した私は、久しぶりに自宅にY子を招くと、言った。
「Y子、ごめん。最近Y子に連絡してないよね。何だか余裕なくて、さ。」
「それは・・いいんだけど。最近、どうしたの?」
「自分でも良くわからないんだけどね、何だかまとまらなくてさ。」
「・・・そう。もう、わたしのこと思ってくれてないのかな」
「・・・・・」
「もう、会わないの?」
「そんなつもりはないんだけど、ちょっと色々とすっきりしなくてさ」
私は、まったく要領を得ない答えを繰り返すばかりであった。Y子ときちんと話をするつもりでわざわざ自宅に呼んでおきながら、自分が情けなくもあった。
言葉にならない思いを伝えようと、そっとY子の手を握ってみた。するとY子は戸惑いながら言った。
「・・・T君の気持ちが、私、よく判らなくなった。」

あっけない幕切れだった。その後、私からY子に連絡することはなくなってしまった。Y子からの連絡も当然、途絶えた。それから私は、次第にY子のことを気にすることが少なくなり、やがて、意識から消えていってしまった。
それから私は、目先の学校生活に追われ、大学受験準備に追われながら、思春期独特のモヤモヤの中に引きずり込まれて、出口のない航海を始めた・・。
当時学校で流行ったキャッチフレーズに、こんなのがあったのを思い出す。「さらば、灰スクール」。

結局、一浪した挙句、東京の大学に進んだ私は、上京すると、東京という大都会で、またしても様々なカルチャーショックを経験することとなった。だが、さすがに高校時代とは異なり、「東京」という巨大都市での生活は覚悟の上京だったため、また、大学のサークル仲間の多くが地方出身者であったことも幸いし、それなりに慌しくも楽しい下宿生活を送ることとなった。授業には出ずに、音楽サークルと麻雀に熱中し、それなりに多くのアルバイトも経験し、また少しの恋愛もした。当時の大学生にありがちな、学生生活を適度にエンジョイする、ごく普通の学生であった。
大学を卒業すると、民間企業のサラリーマンとなり、やがて結婚し、子供を三人もうけて、平凡な生活を送ることとなった。
いざ就職となった時、私は田舎に戻ることは考えなかった。田舎にはあまり多くの就職口がないのが第一の理由であったが、何となくつらい思い出が多い高校生活の記憶をフラッシュバックするのが嫌だったことも、戻りたくない大きな理由として、モヤモヤと心の中にあったことは間違いない。

その後、年齢を重ねていく中で、折にふれて、ふとY子との、短く、しかし楽しかった淡い思い出が、懐かしく思い出されることが多くなった。

「あの時、何故、あんな形で二人は終わっちゃったんだろう」
「Y子、どうしてるだろう」
「一度会いたいけど、会ってくれないだろうな。今更そんな虫のいいハナシなんかないさ」
「たぶん、もうとっくに結婚して、落ち着いた家庭を築いているんだろうな」
「まだずっと田舎にいるのかな」
「住所もそのままなのかな」
東京暮らしがすっかり長くなった私は、最近では田舎に帰るのもままならず、また、幸い実家に同居する弟家族に日々のことを委ねられるのをいいことに、法事がらみで何年かに一度帰省するのが関の山となってしまった。

ある日、会社から戻って何気なく、毎日の習慣でポストを覗くと、卒業した高校の同級生から、何十年振りかで高校の大規模な同窓会をやったという知らせが届いていた。何でも、学校設立○○周年にあわせて、当時の同級生全員を対象に、盛大な同窓会を実施したようである。その知らせの中には、同級生の氏名と、現在の連絡先や職業などが記載された分厚い名簿が同封されていた。
「へえ、大々的にやったもんだな。とても参加する気にはならないけど・・。でも、懐かしい名前もたくさん出てくるなあ」
当時を思い出しながら、面映い気持ちで名簿をパラパラとめくっていて、Y子のことを思った。
「そうだ。Y子は今どうしてるんだろう、ちょうどいい。このリストで大体確認できるな。よし、Y子、Y子、と。」
名簿は、当然ながら女子の場合、旧姓と現姓がきちんと併記されている。それは当然の配慮である。多くの女子は結婚して、姓が変わっているのだ。
「うわあ、同級生同士で結婚した奴らが多いなあ。全然知らなかったし、気がつかなかったな。へえ、彼らもか。まあいいや。Y子・・。あれ、名簿に乗ってないな・・?」
何度見返しても、旧姓の欄にも、またそれらしい住所にも、Y子の名前はなかった。


(Source:明善大)

<まさか・・。中途退学してしまったのか?>
<そんなことすら、気づかなかったのか?在学当時に?>

慌てて誰かにY子の消息を尋ねようとして、連絡できない自分がそこにいた。
しかし、何とか連絡して、せめて消息だけでも確認しなければ。そして、もし一度会うことが出来たなら・・。
私は、今更ながらにぼんやりと責任を感じた。

それから今日に至るまで、私は結局、何もできないままでいる。そして、Y子のことに思いを馳せている。

おそらくY子は高校を中退したのだろう。名簿を確認していて、仲良しのA子の名前も見当たらないことに気づいた。更に、当時とても仲の良かった、同じ中学出身者の多くも、名簿に名前はあるが、現住所や職場などがブランクのままの場合が多いことにも気づかされた。
私たちの、旧市内でのほほんと育ったメンバーの多くは、ひょっとすると、高校という大きな舞台で、それぞれにカルチャーショックに見舞われて、苦い思い出をこしらえてしまったのかも知れない。いや、それとも、それは単なる私の思い過ごしだろうか。
真相はわからない。
でも、Y子は、きっと地元で、幸せな家庭を築いているような気がする。考えてみれば、高校−大学−就職だけが人生ではない。過酷な勝負を続けるのは一握りの連中で充分だ。Y子はきっと、地元でしばらくの間、何かの職業に就いたあと、家族か親戚、あるいは職場の勧める縁談を通じて、良縁を得たのに違いない。

今度、帰省する機会があったら、それとなく、Y子の実家を通りがかってみることにしよう。通常ならとっくにどこかへ嫁いでしまっている筈だが、非常に低い確率だけれど、彼女が実家で家庭を築いている可能性はある。あるいは、法事のシーズンに家族連れで実家に戻っているところに出会うかも知れない。
家の中から楽しそうな団欒の声が聞こえてくると、その中心にはすっかりおばさんになったY子が、大きく成長した子供の様子に気を揉みながら、デンと構えているに違いない。当然ながら、中学―高校にかけての青春時代のほんの短い一時期を、私に振り回されたつらい思い出など、すっかりと忘れ、日々の生活を送っているに違いない。
私がその様子を外から窺っていると、気配を察して玄関から出てきたY子は、私に気づいてくれるだろうか。おそらく、しばらく考えて思い出すのだろう。そして、迷惑そうに言うだろう。
「あら、・・・。ひょっとして、Tさんでしょうか?あらあら珍しいですね、今頃。ご無沙汰どころではありませんわねえ・・。どうされたんでしょうか、突然に?何かご用ですか?」

私はきっと、深い感慨を覚えながら、言うだろう。
「あ、いや、全く失礼いたしました、突然に、ご連絡もせずにウロウロとしてしまいまして・・。いや、ちょっと法事があり帰省しておりましたもので、近くまで寄ったついでに、ふと、今どうしていらっしゃるかな、と思いまして・・。お元気そうで何よりです、本当に。いや、大変失礼いたしました。早々に失礼いたします。ごめんください」
私は、そそくさとその場を立ち去るだろう。当時のとても懐かしい、そして大切なY子との思い出は、何も言わずにずっと心の奥にしまいこむことを誓いながら。そして心の中で叫ぶだろう。「Y子、あの時はごめん!でも、幸せそうな姿を見ただけで本当に良かった。どうか、いつまでもずっとこのまま、幸せでいてください」と・・・。

ストレス不滅の法則

2007年11月02日(金) 12時24分
ストレス不滅の法則

世の中、ストレス社会である。
一家のお父さんは毎日、満員電車に揺られて出勤し、嫌な上司の小言を聞きつつ、一方では周りの若い部下にメタボおやじ呼ばわりされながら、黙々と仕事をこなし、最近中味が減った財布の小遣いを気にしながらも、駅前の焼き鳥屋でたまに一杯ひっかけて帰るのがささやかな楽しみだったりする。
お母さんは、育ち盛りの息子や娘の教育に手を焼きながら、稼ぎは芳しくなく、またすっかりハゲ頭となった亭主に幻滅しつつ、何とか家計をやり繰りしている。自分の美容や健康、趣味などは後回しとなり、年々増えているお腹の贅肉を気にしながら、お昼のワイドショーを見たり友達とたまの長電話で同病相哀れんだりするのが関の山である。
息子は息子で、進学に備えた勉強も頑張らなくちゃと思いつつ、クラスの友達や部活など様々な付き合いにも追われ、何かとイライラしながら毎日を過ごしている。また娘は、だんだんお年頃を迎え、女の子同士の微妙な人間関係や、放課後の行事などにも気をつかうことが多く、心が休まらない毎日である。

さて、今回のテーマである「ストレス不滅の法則」についてご存知の読者は、意外に少ないかも知れない。この法則は、筆者がまだ若く、某大手企業でペーペーの社員であった頃、職場の先輩から何かの拍子に聞いて「ポンと膝を叩き、目からウロコが落ちた」法則である。今回はちょっとこの法則について書いてみたい。

例えばこのコラムを読んでおられる読者の方が、日常生活の中で、誰かから、或いは何かから、ストレスを与えられたとしよう。仕事中、上司に呼びつけられて叱責されたサラリーマン。最近亭主の帰宅が遅いので浮気を疑っている妻。学校の成績が悪くて親にどう言い出したものか思案している高校生。心無い同級生の陰湿ないじめに悩む女子学生。それぞれの局面で飛んでくるストレスを、ボールに例えて見て欲しい。飛んできたボールは、受け止めた体内で居場所を確保して、やれやれと落ち着いているのである。
このストレスボールは、まるで胃もたれのひどく悪い食事をした後のように、体内に居座っている間ずっと、神経と体力を消耗させ、気分を落ち込ませ、とうとう最後には健康を損なわせてしまう。全く始末に追えない代物である。
さあこれは大変だ。こうなったらなるべく早く、体内に居座っているこのストレスボールを外に追い出さなければならない!急げ!この鬱陶しいボールめ、早くどっかに消えてなくなれ、エイヤッ!!
さあ、そこで今、自分が抱えているストレスボールをどこに投げつけるだろうか?これが大きな問題なのである。日常生活で頻繁に溜め込むこのストレスボールを、一体「誰に」或いは「どこに」、投げつけて移動させれば良いのだろうか。
ドラマ仕立てで検証してみよう。

(ドラマ1)
職場の上司である部長にこっぴどく叱責された市川課長は、その部長からパスされたストレスボールを処理するため、「くっそー、あのアホ部長め、何も詳しいこと判っちゃいないくせに、たまたま結果を取りまとめた課長である俺を吊るし上げやがって。元々悪いのは、直接の担当者である井上じゃないか。よーし、井上を呼んでとっちめてやる。おい、井上、ちょっと来い!」・・・とやり始めた。市川課長は、自分に飛んできたボールを井上社員に華麗な(?)ワントラップパスでつないだのである。
賢明な読者は既にお気づきのとおり、このストレスボールは新たに井上社員へと渡り、これからこのボールの処理は彼が請負う羽目になってしまった。
(筆者注:物語の成り行き上、ここでは井上社員のその後のストレスボール処理については割愛する。)

さて、よせばいいのに、ついフラフラと会社の帰りにキャバクラで憂さ晴らしの延長戦へと突入した市川課長は、大枚を消費した挙句に、結局帰宅が午前様となってしまった。最近何だかこうしたパターンが習い性になってしまっているようだ・・。
帰宅した亭主を玄関に出迎えた妻は言った、「アンタ、今日という今日は許さないわよ。全くいい加減にしてよ!しょっちゅう遅くに帰ってきて、なんだか女の香水の匂いがひどいじゃないの。ただでさえウチは安月給に加えて二人の子供の教育も大変な時期なのに、一体何を考えてるの!もう離婚だわ、離婚!」
せっかくストレスボールを気分よく放出したばかりの市川課長は、自分の行動から生じた新たなボールを、受け止めた妻からモロに投げ返されてしまった。
「な、何だと!人が毎日会社でどんだけ辛い目に遭ってるか知らないくせに、偉そうに意見すんじゃないよ。何が離婚だ。やかましいわ。もういいよ。とにかく寝る!」

翌朝、二日酔いと昨日の夫婦喧嘩で最悪の気分で目覚めた市川課長は、こちらもひどい剣幕で朝から無言の妻を無視して、朝食代わりに冷蔵庫からありあわせの残り物を物色していたが、準備もそこそこに学校へと急ぐ息子と娘をチラッと見やると、自分に対するよそよそしい、何か不潔なものでも見るような目つきを感じて、つい怒鳴ってしまうのであった。「おい、太郎、花子!何だその態度は、その目つきは。朝、おはようの一言くらい言えないのか、父親に向かって!」
すると、朝っぱらからいきなり球筋の良く見えないストレスボールを父親から投げつけられた息子と娘は、それぞれにムッとして言い返すのであった。「うるせーな、この親父は。何自分のこと棚に上げて文句つけてんだよ!すこしは反省しろよ、普段の自分の生活態度をよ」「そうよ、うざったいわよねえ、まったく。ああ、ヤダヤダ。キモいおやじ。」
「何だとお?」
こうして家族は、それぞれに朝から体内に嫌なストレスボールを抱えたまま、学校へと、また会社へと出掛けるのであり、そして残された妻は、モヤモヤとストレスボールと格闘を続けながら、実家の母親に救いを求めて長電話をするのであった・・・。

さて、このお話は、世間によくありがちなストレス拡大の典型的なパターンであるが、実に「ストレス不滅の法則」が怖いのは、このオハナシで判るとおり、誰一人として自分が抱えたストレスボールを消滅させずに、他者に転嫁させてしまっていることにある。こうして転嫁されたストレスは、まるで悪性腫瘍(癌)のように、社会で不滅に生き延びていくのである。これが「ストレス不滅の法則」である。
所詮、人は人(やモノ)から与えられたストレスを、ついつい自分の感情に任せて、また違う人にパスしてしまう。結局、この日本のストレス社会では、こうして渦巻く悪循環をずっと繰り返しているに過ぎないのではないだろうか。
そこで、正しいストレスボールの投げ方とは?望ましいシナリオを検証してみよう。

(ドラマ2)
職場で部長に叱られた市川課長は考えた。「よし、今日は、会員制のボクシングジムに直行して、サンドバッグを憎っくき部長だと思って思う存分、ぶったたいてやろう!ついでに大汗もかくし、自然と筋力トレーニングとダイエットも進むというものだ!やったるぜー!!」。
サンドバックをボコボコにし、早々にスッキリと爽やかな気分で家に帰った市川課長を迎えた妻は、「あら、ウチのダンナ、スッキリしてるわあ。まだまだ捨てたもんじゃないわね。よく見れば結構イケメンじゃない♪」こうしてその日の夕食のおかず品数は増え、夜のお努めもひときわ激しく・・・(以後割愛。ご想像にお任せいたします)。
翌朝、心身ともにスッキリとした夫婦は、にこやかにそして和やかに、ほのかに立ちのぼる朝日をまばゆく眺めながら、明るい食卓で、学校へ出掛ける息子と娘にやさしく声をかけるのであった、「やあ、太郎君、花子ちゃん。毎日学校、頑張ってるね。お父さんとっても嬉しいよ。二人がお父さんの励みであり誇りだよ!今日も頑張るんだぞ!」「そうよ、ママも同じ気持ちだわ。気をつけていってらっしゃいね!」
「うん、パパ、ママ、いつも有難う。今日も頑張って学校に行ってくるよ。今日は成績発表なんだ。きっと良い成績だよ、帰ってから通知表を見せるのが楽しみだな!」「いいなあお兄ちゃん。でも、私だって負けないわよ!帰ったら仲良しのお友達と一緒に、ピアノのお稽古頑張らなくっちゃ。じゃねー」
「ハハッ。その調子だ。じゃ、頑張っていっておいで!」
かくして、何だかまるで急に昭和30年代にタイムスリップしたような市川一家は、ストレスボールを正確に処理したお陰で、今日も幸せな一日を過ごすのであった・・・。

チャン・チャン。
「こら!こんな単純な展開で済むなら苦労はないわ!」って、読者のお怒りが聞こえてきそうですね。お後が宜しいようで・・・。

                               ≪2007/10/04≫
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