地元に発足したプロ・サッカーチーム「北京国安」のホーム・グラウンドになったばかりだった

June 21 [Tue], 2011, 22:56
壁一面に飾られた巨大な毛沢東主席の絵。毛主席は、堂々と胸を張って右斜め前方を眺望し、振り上げた右手は、希望を意味する「紅(ホン)太陽(タイヤン)」を指差している。

  だが、「彼」が毛沢東であることは、辛うじて認識できる程度だ。なぜなら、絵全体が、ジグゾーパズルのように百片以上に切り刻まれているからだ。そして各片と片は、波打つかのごとく重なり合って、ルネ・マグリットの絵のような、不可思議な雰囲気を醸し出している。

  北四環路に面した、広さ600平方メートルのペントハウスに独り住まいの張高鳴は、毎日昼前に目を覚ますと、寝巻き姿のまま応接間にやってきて、この一番お気に入りの前衛画の前に、ドカッと腰を下ろす。そして机上に置かれた、幼少期から携帯している擦り切れた「毛沢東語録」を、おもむろに開く。

  「前途是光明的、道路是曲折的!」(前途には光明が射しているが、そこへ至る道路は曲折している!)

  うん、本当にその通りだわ・・。

  「今日の言葉」をお経のように何度も唱え、前衛画に合掌すると、ムクムクと力が湧いてくる。さあ、今日も闘争よ!

  北京の社交界で、マダム・張(ジャン)を知らぬ者はいない。もうとうの昔に離婚しているのに、いまでもこう呼ばれている。百貫もあろうかというその堂々たる体躯が、「マダム」という雰囲気を醸し出しているからかと錯覚する人も多い。だが本当は、そうではなく、理由は後述する。それよりも大事なのは、マダム・張が経営する高級中華レストラン「王景閣」が、オープン以来、7年間にわたって、北京社交界の中心であり続けているということだ。

  不惑を手前にした当時、マダム・張は、北京の富裕層が真に和めるサロンを創りたいと考えた。彼らが夜に集まる場所と言えば、三里屯をはじめ、「工人体育場」(国立競技場)の周辺に集中していた。だがいくら新たな欧米風レストランやカフェバーがオープンしても、ヨーロッパを周遊したマダム・張の目から見たら、それらは子供騙しの飾り物にしか見えなかった。一言で言えば、北京っ子に「パリの夜」は創れなかったのだ。 バーバリ

  そんな中、彼女が目を付けたのが、「工体の杜」だった。工人体育場の敷地内にある広大な杜に、「北京の象徴」となるようなセレブ向けのサロンをオープンさせたいと考えたのだ。

  工人体育場は当時、地元に発足したプロ・サッカーチーム「北京国安」のホーム・グラウンドになったばかりだった。そんな重要な国家資産の一部を、一民間実業家に提供してくれるなど、北京っ子は想像だにしなかった。マダム・張が、一体どんな手練手管を使ったのかは、誰にも分からない。とにかく彼女は、交渉開始から約半年で、「工体の杜」の人工湖の畔の絶景地を借り受けることに、まんまと成功したのだ。 フェラーリ

  その証拠に、夏の暑い盛りに基礎工事が始まった。マダム・張は、基礎工事が終わると、ほぼ毎日夕刻に、工事現場に顔を出した。ある日、巨大なダンプカーに揺られて、800キロメートルも離れた安徽省から、220年以上前の2階建て木造豪邸が届いた。木造豪邸は直ちに工事現場に据え付けられ、続いてその豪邸に金箔を塗る作業が始まった。

  この頃から、店はまだ工事中だというのに、連日マスコミが訪れ、「北京の金閣寺」などと報じ出した。外装が一段落すると、内装工事が始まった。店を入った正面ロビーには、豪華絢爛たる「百鳥帰巣図」が掛けられ、蛍光灯は鳳凰をあしらった純銅製、部屋の仕切りや窓・テーブルには、精巧なガラス細工が施された。フランスから大量の香も持ち込まれた。こうして、約1500万元(約2億円)もの工事費をかけて、2004年暮れに、「王景閣」は、晴れてお披露目となったのだった。 ブルガリ

  豪華本のようなメニューを開くと、アワビの姿焼き(998元)やツバメの巣の醤油焼き(588元)、レミー・マルタン・ルイ13世(1万5800元)にシャトー・ラフィット・ロートシルト(3980元)など、当時の中国の物価から言えば、破格のメニューが並んでいた。だがそれにもかかわらず、オープンして1カ月足らずのうちに、王景閣は早くも、「北京で最も予約が取りにくい店」となった。マダム・張が目指していた「北京セレブの社交の場」になるのもさして時間はかからず、「夜に各国大使に会いたければ王景閣へ行け」と言われるまでになった。世界スローフード協会は、「北京の桃源郷」と持て囃し、王景閣を中国初の「ロハス・レストラン」に認定した。マダム・張は内外の取材を受けるたびに、「為人民服務!」(人民に奉仕する!)という毛沢東語録の一節を口ずみ、悦に入るのだった。

  張高鳴は、1962年に、北京の北西部に位置する北京外国語学院裏手の長屋で生まれた。両親とも近所の零細工場の工員である。物心がつくや、文化大革命の嵐となり、誰もが狂ったように、叫んだり喚いたり行進したりしていた。そんな中で高鳴が憧れたのは、右腕に紅いハンカチを巻き着けて街を練り歩く紅衛兵だった。高鳴は、紅衛兵が通りを行進するたびに、毛沢東語録を振り翳して見送るのだった。 ブライトリング

  「いつか私も紅衛兵になりたい……」。そんな夢を抱いて成長した高鳴だったが、紅衛兵になれる年になった時には、毛沢東はマルクスの元へ旅立ち、文化大革命は終息していた。「文革の象徴」と礼賛された四人組は逮捕され、世は劇的に、トウ小平の改革開放の時代へと変わっていった。 ブレゲ

  「革命を継続せよ!」と毛主席が唱えていた勇ましい時代からすれば、改革開放時代は、実に退屈だった。高鳴は、文革の恩恵で「労働者階級子弟代表」として北京理工大学付属中学校に入ったが、中高一貫校でそのまま高校に進めたものの、成績はほぼドベだった。明けても暮れてもコツコツ勉強するガリベンたちを見ていると、教室中の机という机をひっくり返して、革命を起こしたいという衝動に駆られるのだった。 ベル&ロス

  結局、ほとんどの同級生は、北京の名門大学に進学した。そんな中、すっかり時代遅れになった毛沢東語録の暗誦以外に取り得のなかった高鳴は、ひっそりと電気公社に事務係として就職した。初任給はわずか2元だった。

  電気公社時代の吉報はと言えば、晴れて共産党員になれたことくらいだった。公社内でも、「真夜中に全中国の電球を一斉に点けて、中国共産党の偉大さを世界中に鼓舞しよう!」などと真顔で提案する高鳴に、友人はいなかった。

  高鳴はまた、少女時代から肥満体だったため、一生結婚することもないと諦めていたが、ある時、公社を訪れたペンキ文字を描く青年に、ひと目惚れされた。その青年は、何度もしつこくやって来て、ついには公社内で、人目も憚らず高鳴に求婚した。高鳴は面倒臭くなって、首を縦に振った。本当を言えば、高鳴にとって心ときめくオトコとは、初恋の相手である毛沢東主席以外にはいなかったのだ。

  結婚してすぐに子供を授かったが、女の子が生まれた頃には、夫は他で女を拵えていた。そして程なく、十分な慰謝料を払うから離婚して欲しいと言ってきた。その女が子供を産めない体とかで、子供は自分が引き取りたいと言う。高鳴は、この時もまた面倒臭くなって、全部夫の言う通りにしてやった。いま覚えているのは、元夫となったその男が、約束を違わず望外の慰謝料を置いていってくれたことだけだ。 A.ランゲ&ゾーネ

  90年代の半ばになって、このバツイチの肥満女に、突然、光明が射した。きっかけは、大連の電気公社のトップが、北京に出張してきたことだった。この男を迎えて、公社内で重要会議が持たれた。高鳴はたまたま、会議室のお茶を淹れる係を仰せ使い、仰々しく「開水」(沸騰水)を持ってテーブルを回っていた。

  と、このVIPにお湯を注いだその瞬間、いつもスカートのポケット奥に忍ばせてあったモノが、ポトリと落ちた。何気なく落し物を拾ってやったその男は、それが毛沢東語録であることを知り、仰天した。会議が終わるや、男は高鳴の元にスッ飛んで来て、ポケットの中のモノについて質問を浴びせた。高鳴が正直に話すと、男は感動に噎せた面持ちで、「同志よ!」と言って、カバンの中から、やはり擦り切れた毛沢東語録を取り出して翳した。

  数カ月後、この男が再び北京へやって来た。今回は私用だとのことで、公社の高鳴に電話をかけてきて、夕刻に外の食堂で会った。男は高鳴に、自分は近々、電気公社を辞めて、中国に進出するアメリカの携帯電話会社の代理店に「下海」(天下り)するつもりだと告白した。そして、ついては北京戸籍を持った人間が取締役として必要なので、一緒に加わって欲しいという。高鳴が、「自分は携帯電話のことなど門外漢だ」と言うと、「婦女要頂半辺天!」(天の半分を支えるのは女性だ!)と、毛語録の一節を持ち出して、説き伏せられた。 アルマーニ

  こうして高鳴は、携帯電話代理店の取締役に就任した。実際の仕事は、この男の秘書役に徹していればよかったので、苦ではなかった。当時は、1台1万元(約15万円)もした携帯電話が爆発的に売れた時代である。高鳴はそんな「携帯バブル」の恩恵を受けて、その後の数年間で、莫大なカネを手にしたのだった。濡れ手に粟とは、まさにこのことだった。

  高鳴は、貯金が1億元(約12億円)に達した時、携帯電話の世界から、キッパリと足を洗った。自分同様の「成金セレブ」たちとの付き合いが増えていた高鳴は、前述の、「北京のセレブたちの社交場」を創る夢に賭けることにしたのだ。

  この頃には高鳴は、北京の社交界で、「マダム・張」の通称で知られるようになっていた。最初に自分をそう呼んだのは、同世代の友人である香港の女優、マギー・チャンだった。あるパーティの席上、「同じチャン(張)でも私はマギー・チャンで、あなたはマダム・チャンよ!」と言って大受けしたのが始まりだ。

  王景閣がオープンして以降、マダム・張は夕刻になると、人工湖の畔に面した1階奥の個室に、陣取るようになった。10人以上が座れる豪華な円卓に、ひっきりなしに北京のセレブたちが出入りしては、マダム・張お気に入りのボルドー5大シャトーのワインを引っ掛けて去っていく。まさに、マダム・張の理想は、ここに体現されたのだった。

  瞬く間に数年が経った。マダム・張の体躯は、また一回り大きくなったが、「マダム稼業」には、だんだん飽きてきた。王景閣は相変わらず、タウン誌『北京時尚』選出の年間ベスト・レストランに選ばれていたし、開業までの多額の投資は、わずか2年足らずで回収を終えていた。それでも、何か物足りなさを感じるようになってきたのだ。換言すれば、「革命を継続したかった」のだ。あるブラジルの富豪から、「王景閣を1億元で買い取りたい」とオファーを受けた時には、よほど売ろうかと迷ったほどだ。

  そんなある日の午後、マダム・張は王景閣に、久方ぶりに顔を出した。この日は、旧知の中国人ファッション・デザイナーが、秋冬物の服を仕立ててくれることになっていたからだ。

  マダム・張は、丸太のような体躯に寸法を当てられている時、ふと閃いた。「そうだ、自分のような体型でも美しく着られるファッション・ブランドの代理店をやろう!」。

  3カ月後、マダム・張はパリに飛び立った。紹介を受けたフランスの「S」という有名ブランドのオーナーに会いに行くのが目的だった。

  そのオーナーは、マダム・張が唯一、顔と名前が一致しているフランス人のリチャード・クレイダーマンを老けさせたような男だった。マダム・張は中国人の通訳と二人で訪問したが、ディナーの席には、オーナー夫妻の他に、「S」の日本総代理人というもう一組の夫婦が同席した。男性はフランス人で、女性は日本人。絵里子と名乗るその日本人女性は、以前自分は日本で有名なテレビ・キャスターだったと自己紹介した。

  シャトー・モンラッシュやマルゴーを片手に、豪華なフランス料理のフルコースを堪能しながら、オーナー夫妻と日仏カップルは、「S」がいかに今後の中国市場を重視しているかを説いた。マダム・張にとって、中国市場の将来性も大事だったが、自分のような肥満女性にも美しく着られることが、さらに大事な事だった。そこでデザートにティラミスが出た時、思い切って聞いてみた。するとオーナーは、快活に答えた。「毛主席のお嬢さんでも美しく着られますよ。先日、写真で見ましたが、本当に大柄な女性ですね」。

  会話に毛主席が出た瞬間、マダム・張は、自分が「S」の中国総代理になることを決めた。

  パリから帰って半年後、北京の国際貿易センターの大ホールを貸し切って、同センター内にオープンする「S」中国第1号店のお披露目パーティを開いた。イメージ・モデルには、友人のマギー・チャンを起用した。香港から駆けつけたマギー・チャンは、カンヌ国際映画祭で主演女優賞を取って以降、すっかり貫禄がついていた。ある北京の新聞は、「毛沢東狂が新たに始めた文化大革命」というタイトルで、長文の記事を載せた。

  それから2年後、「S」は北京の富裕層の間で人気ファッションとして定着し、上海店もオープンすることになった。そんな中、マダム・張は、あっさり総代理人の権利を、別の中国人に売り払ってしまった。

  ファッション業界に飽きてしまったこともあったが、ある日、自宅リビングで、いつものように毛主席と「対面」しているうちに、別の「文化大革命」を思いついたのだ。それは、中国にはまだ一軒もないデザイン・ホテルの全国展開をすることだった。
P R
カテゴリアーカイブ
http://yaplog.jp/topbelieve/index1_0.rdf