共犯 

January 12 [Thu], 2006, 20:56
ときどき、寝る前の母の枕元にすわって、たわいないことを喋る。
母はほぼ順調だけれども、首の痛みがひどいときはやっぱりあるらしい。
でも必要だからこうなったんだと思うの、とふと母が言った。なるべくしてなるのね何事も。
わたしもそう思うわ。と思わず言ってしまった。
本人以外が軽々しくいえない言葉だとは思うけれども、それは今回のことを通してわたし自身、考えさせられたことだったから。

きっとそうなのよ、そんなことパパにはいえないけど、とわたしが言ったら、母はマジメな顔になって、もちろんよ!と言った。それでふたりでなんとなく笑ってしまった。
なんでこんなことにとか、理不尽だとか、何も悪いことしてないのに可愛そうにとか、そういう類のことに全然わたしが同意せず、父にはすごく薄情な娘だと思われてるから、ましてやそんなこといえるわけはないんだけれど。
でもとにかく、どんなことにしろ必要なことしか起こらない、ていう確信は、なぜかわたしと母に同時に訪れたらしかった。






いい年でありますように 

January 04 [Wed], 2006, 13:40
いろいろバタバタしてたのだけど、とにかく家族一緒にお正月が迎えられて嬉しい。一ヶ月前は、ほぼそれは無理じゃないかと、みんな口には出さないまでも思っていた。
今年は喪も明けてないしお客さまもないんだけれど、「やっぱりおせちがないのは淋しい」と父親が恨めしそうに言うので作りました。凝ったものはなしで、お煮しめ・栗きんとん・黒豆・数の子・昆布巻などなど。
わたしが子どもの頃は、なぜかお正月には母の作ったビーフシチューが定番だった。
考えてみると母が料理に手を出さないお正月っていうのは初めて。今のところ娘3人で手分けするからできるけど、おせちって手間隙かかるよねえ。
そして「何もせずにお家でのんびり静かなお正月」というのはつまり、ひたすら「なにを作って食べるか」ばっかりってことなんであった。。

おせち以外はもっぱらシーフードでした。
年末、一緒に買い物に行った父が鯛が食べたいと言い張ったので一匹分をおろしてもらった。
大阪のお正月といえば「にらみ鯛」(尾頭付きの鯛を焼いたもの)がつきものなんだけれど、うちは両親とも関西人ではないので、焼いた鯛はピンとこない。お造り(半分は昆布〆)、鯛のあら煮、ブイヤベース…で堪能。
それとカニ。毎年わたしの職場の人のツテで産地から松葉ガニを送ってもらうんだけれど、今年はクール宅急便を開けてみたらまだカニが元気よく動いてた。ううう…。父親と妹にバトンタッチして解体してもらったけど、その晩はうなされそうだった。
でももちろん、そんなこととは関係なく美味しくいただいた。焼きガニ、カニすき、雑炊。
両親に言わせると、関西人はカニとフグが好き、という。一冬に一回は日本海にカニを食べに行く、じゃなければ取り寄せて家で食べないと気がすまない。同じく、冬になるとてっちり、てっさ、と騒ぐ。
ちなみに母はフグの本場の出身なので、好きは好きだけれど「ご馳走」という感覚がないらしい。
で、わたしたち子ども達はというと、両親に比べればやや関西人なので、冬といえばカニとフグかなあやっぱり。
そういう話を親子でするのも楽しい。
いろいろ気を揉むことはあるけれどそれでも、とにかく、家に母がいることが嬉しい。

今年もいい年でありますように。

闇と光・2 

December 26 [Mon], 2005, 20:08
退院以来、母の意識ははっきりしてるけど、その分、痛みや精神的な不安定さはひどくなっているようだった。痛みは病院でもとくに心配ないといわれるだけだったけど、母には耐え難いみたいで、なんでもいいからすがりたい、という危なっかしく思いつめた状態で家族みんなハラハラしていた。
それでわたしは前日から、自分なりのセラピーをさせてもらっていた。なにができるかわからないけれど、とにかく緊張と不安をやわらげてリラックスしてもらうことが先決だろうと思って。
「わたしのおかげか、なにが効いたかはわからないけど、ママは自分で思ってる以上にいろんな人にサポートされてるのよ、その力がみんな一緒になってプラスにはたらいてるのよきっと」とわたしは言った。

楽になったのよ不思議なくらい、と呟いた母は、もう一回寝ると言って部屋に引き上げた。
父は心配そうに、「おまえママが言ってることわかるか?」ときいた。
わからないわよ、でも落ち着いたみたいでよかったね、とわたしは答えておいた。

部屋に戻ったわたしはしばらくぼんやりしていた。なぜか恋人のことが強く感じられて、いますぐこの話をしたいなあと思った。いつもわたしの話をいちばんわかってくれるのは彼だから。その貴重さを感じた。


闇と光 

December 26 [Mon], 2005, 19:49
クリスマスだった。昼間部屋で本を読んでいたら、母に呼ばれた。
昼寝していたはずなのになんだろうと思ったら、「今不思議なことがおきたのよ」と興奮して言う。
すごく混沌としたなかにいたの、それが突然、目の前に四角いドアが開いて、そのなかにすっぽりと入るの。枠の中にきれいに自分が納まって、いきなりそれまでと世界が変わったの。だからもう大丈夫。
聞いていた父親は不審げな顔をしたけど、わたしは、それはよかったわね、といった。
自分の落ち着き場所に収まったのねきっと。
ああそれよ!そうなの。今までぐちゃぐちゃとした、混沌としかいいようがない世界にいてとても不安で怖かった。でもその枠の中にすっぽりと入ったら、あたたかくてとても居心地がいいの。わたしは色とりどりの紐や布を持ってるんだけど、それごとぴったりと収まってた。もうどこにもいかなくていい、探してたのはここだったの。
うらやましい体験よね、とわたしは言った。そんなのなかなかできない。
そう?と母は不思議そうだった。
だってみんな、これこそ自分の居場所だという100%の確信が持てることってめったにないんじゃないかしら。
そうかもね。でもこれまでは本当に辛かった。ほんとうにぐちゃぐちゃなの。あの病院にいるときは特に、怖くて不安で仕方なかった。一歩踏み出そうとしても、どこに足をおいたらわからない。ほんとうにそんな感じ。もちろん家族を見たら安心するわよ?でも、この闘いはあくまで自分ひとりのもので、病院にいると家族はあくまで「外の人」なの。
少しずつその状態はましになってたけど、さっき突然、ふっとすべてが変わって、すうっと楽になったの。それでTOKOのおかげかもと思って、すぐに言わなきゃと思ったの。
混乱と混沌から回復していく過程で、母が不思議なことを言うことは何回かあったのだけど、家族でそれに興味を持つのはわたしだけだったからだろう。

目覚め 

December 23 [Fri], 2005, 18:14
そしてある日突然、母が目を覚まして戻ってきた。
主治医が抜糸をしてくれた日に母の様子を見て、「経過もいいしもう大丈夫だね、いつまでもここにいたらボケるよ、はやく家に帰らないと」と言い、(だいたい歯に衣着せぬ物言いの先生なんだけど)それを聞いて母ははっと目がさめて、「そうだこんなとこにいたら出られなくなる、早く家に帰らなくちゃ」と思ったらしい。

その母の「このままじゃ病院から出られなくなる、すぐここを出なくちゃ」という焦りがあまりに急激で思いつめた様子で、しかもいきなりそんな風にカチっと回線が繋がった、というのが家族もよく飲み込めなくて、ひと悶着(いや、ふたつみっつ四つ…ぐらいは)あったんだけど。
とにかく母は目を覚まし、その翌々日には外泊を認められて戻ってきた。そしてそのあと病院に行って診察してもらい、そのまま退院できることになった。

母が目覚めたと聞いた翌日は、わたしの誕生日だった。会社帰りに病院によって、母とふたりで話をすることができた。
不思議な感じだった。倒れてからそれまでのことはほぼすっかり記憶から消えてるようだった。文字通り、倒れてから2ヶ月ぐらいのあいだ、夢の中に彷徨っていたのが急にぱちっと目がさめたような状態らしい。たとえばお見舞いに来た叔母(母の妹)とにこやかに喋っていたのも、全然覚えていないという。

猜疑心でいっぱいだったの、どうしてここにいるのかわからなかったし、誰を信じていいのかもわからなかった。と母は言った。
家族は必ず毎日誰かは病院に行っていたし、母の様子は把握しているつもりだったけど、実際はその内側で起こっていることは全然わかっていなかったのだなとつくづく思わされた。母は意識があるときもないときもあったけれど、「猜疑心でいっぱい」というのは、まったく予想外で胸を突かれた。猜疑心を持つ母なんて想像もできなかった。
全然そんな風に見えなかったしそんなこと言ってなかった、とわたしが言うと、「表に出せないぐらい闇の中にいたのよ」と母は言った。

面会時間が過ぎてたけど、わたしと母は声をひそめて話を続けていた。
今日わたしお誕生日なのよ、とわたしが言うと、そうだったわねごめんねえ、と母は言った。そこまではとても気が廻ってなかったわ。
でもとてもとても嬉しいお誕生日だった。母とまた話ができるということが信じられないぐらい嬉しかった。

想定外 

December 11 [Sun], 2005, 22:36
二回目の手術は無事終わり、母の意識もしっかりしたのでほっとした。
それまでの2週間ほど、日に日に反応は薄くなるし喋らないし動かないしという状態だったから、手術した翌日から会話できるようになった劇的な変化にびっくりするぐらいだった。
脳の仕組みはほんとにわからない。

そして更にびっくりしたのは、意識がはっきりした母がまず、「これからは好きなように生きるの」と言い出したことだ。
「我慢ばっかりしてたら身体によくないのよね」とマジメな顔で言われて、「そうだよ」と答えるしかない父であった…。
これからはしたいようにし、言いたいことを口に出すんですと。

手術から一週間ずっと、母は元気になった、というより、かなりハイテンションに見えた。これも術後の混乱の症状のひとつなのか、今まで全然喋ったり動いたりできなかった反動が出てるのか、よくわからないけれど。
そして最初の手術の直後と同じく、かなりワガママになった。おやつが食べたいと言い出したら、明日持ってくると言っても絶対引き下がらない。
「だってお菓子食べてごはん食べなかったら、看護婦さんに怒られるんでしょ」
「お菓子はごはんとは別なのよ。あなたたちがワイン飲むのと一緒よ」
わからん。。一緒なのかそれは。とりあえず妹がバッグに入っていたキャンデーを一個だけあげたら満足していた。

夢と現と、現在と過去と、生と死と、すべてがごちゃまぜになってるようで、思いつくまま言葉にするので、適当に合わせているうちにこちらも母ワールドに引きずり込まれて違う世界に入り込んだような気分になる。たまに不意をつく質問をするので「わからないわ」というと不満そうに、「話についてきてよ!」という。
その言い方は確かに、見慣れた母の表情なんだけども。

とにかく、母が倒れて以来、家族にとっては一番不思議な感じの一週間だった。不思議な世界にいるらしい母にとってもそうなんだろうけれど。しかしどんなにごちゃまぜになっても、暗いものは母の世界には入り込まないらしい。
いまとーっても楽しいの、と不意に母が言った。いやなことが全然ないの。
それはいいよね、でもうちは結構大変なんだけどね、ごはんつくらなくちゃいけないし、とわたしが呟いたら、母はにやっとした。
わかってるんだろーかもしかして。

おぬしやるな!と 

December 03 [Sat], 2005, 0:13
いちばん最近母とふたりで出かけたのは確か、8月の終わりだった。ランチと買い物とお茶。休みの日に待ち合わせて、しかもただそうやってぶらぶらする機会って珍しい。どうしてそうなったのか覚えていないけど。
梅田に新しくできたビルの中にある和食の店に、母を誘った。すこし前に恋人とも来た店だったので、わたしはなんとなくそれを思い出し、珍しく自分の話をすこしだけした。仲のいい方だとは思うけど、恋愛絡みの話をしたことってそういえば今まで殆どない。
世界が広くて頼りになって尊敬できていろいろ教えてくれる男の人が理想だと今までは思ってたけど、そういう男のひとが同時にわたしのことも一目置いて認めてくれ、わたしと関わってそれまでより世界が広がったと言ってくれる、そんな喜びを知ったと。そしてわたしの世界も更に広がったと。
母は目を見開くようにして、最高ねそれは、と言った。さいっこうね。
そして、親子でも夫婦でもどんな人間関係でも、ただ「親だから」「夫だから」というだけじゃなくて、おぬしやるな!という部分がどうしてもほしいのよね、そういうのがないとイヤなのといたずらっ子みたいな顔で言った。
わたしもそれはすごくよくわかる。血とか情とか書類とか共有した時間で繋がってるという安心感だけじゃなく、その人の中でカチリと閃く刃を見てこちらの背筋が伸びるような緊張が、そんな面もあるのかと思わずにやっと笑ってしまうような新鮮な発見がほしい。それでわたしもそうでありたい。

娘たちはもうわたしよりずっと先に、ずっと遠くまで行ってるといつも思うの、だから安心よね。と呟いた母の顔と、薄暗く天井が高い店内の様子をよくおぼえている。
でも、母よりずっと先に行っているとはわたしには全然思えない。まだ。
母と話したい。

ベスト 

December 01 [Thu], 2005, 23:23
会社帰りに病院に寄った。
手術直後、携帯を持ってきてとか、佃煮がないとごはんが食べられないとか言っていたことが嘘のように、今の母はほとんど反応がない。
一ヶ月まえに倒れたときも、一晩で別人のようになったわけだけど、その頃と比べても更に今は別人のようだ。集中治療室からやっと一般病棟に移れてすこしほっとしたとたん、みるみるうちに反応が薄れてきて喋らなくなりごはんも食べなくなり、なにがなんだかわからない状況だ。
病院とのコミュニケーションがなかなかうまくいってないのも家族の苛立ちと不安を煽っている。
必死になっても、ベストを尽くしているという確信がもてない。

それにしても 

November 30 [Wed], 2005, 1:09
それにしても、以前のわたしにこんな思いもかけないことが降りかかったら、父と似たような感じだったんじゃないかなとふと思った。
深刻なことはひたすら深刻に受け止めて、そのなかにどっぷりと浸かっていたんじゃないかと。人前でそれを見せたくないという気持ちは強いけど、実際はその中に閉じこもっていたんじゃないかなと。
なるべく明るく気持ちを引き立てようとする人のことを、まるで自分の邪魔をするみたいに疎ましく思ったかもしれない。全然わかってくれないと一層殻に閉じこもったかもしれない。大丈夫と励まされても腹立たしいだけだったかもしれない。父と同じように。
一緒になって同調し共鳴してくれる人だけを、ただひたすら求めていたかもしれない。
かもしれない、じゃない。間違いなくそうだったと思う。
でも、知らないあいだにわたしは変わっていたらしい。泣いたり不安に駆られたりしてても身体のどこか一部は、明るいほうへ引き上げられる感じだった。だいじょうぶよ、と言う母の血が自分の内にも確かに流れてるのが感じられた。こんなことは今までなかった。

父の見ている母はひたすらかわいそうな/見るに耐えない/こんなはずはない姿でいるわけだけど、確かにわたしも時々耐えがたい気持ちに襲われるけど、でも何より強いのは正直なところ、母を守ってあげたいという気持ちだ。
母は赤ちゃんみたいだった。無邪気で無垢で無防備で。もとからそういう人ではあるけれど、混乱状態のなか、そのコアが剥き出しになっていた。
ただ綺麗な優しいあかるいものだけが触れるようにしてあげたい、という気持ちだった。

かわいそう 

November 28 [Mon], 2005, 23:01
明らかに母は手術直後よりも元気がなく、反応も薄い状態が続いていて、それは家族共通の心配なのだけど、それと同じくらい、わたしには、エスカレートしていく父の不安とか恐怖の波が絶えず押し寄せてくることが堪えた。妹は「ああいう人なのよ」と淡々としていたけれど、わたしは自分の中にある恐怖の矢が共振しないようにすることだけでへとへとだった。
人の思いや発するエネルギーにはすごく強い力があるとわたしは思っているし、ネガティブなことを考えたり口にしたりすることはネガティブな結果を引き寄せると信じてるから、なるべくそれは避けたかった。でも、父の心配が大きければおおきいほど、不安と恐怖と怒りは膨らんでいき、なんとしてもわたしを同じ状態に引きずり込まなければ気がすまないように思えた。
快方に向かうんだから大丈夫よ、と言えばいうほど、わたしは、「それでもおまえは事態をちゃんとまともに受け止める気があるのか」ということになるのだった。

かわいそうだ、と父が言うたびに、わたしは血が逆流しそうだった。「かわいそう」というぐらい、母に無縁な言葉は他になかった。言うにしろ、言われるにしろ。人を見下げることとも見下げられることとも無縁、というのと同じことだ。
傍からどんな風に見えようと、100%ベストを尽くしている人にかわいそうなんて言葉は失礼だと言うにちがいないし、どんな状況になろうと、かわいそうだという言葉を母が受け入れるなんて思えなかった。
わたし自身と同じくらい、母もそう言われるのを嫌がるだろうというのは確信があるのだけど、でもそれを父に説明するなんてできそうになかった。
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