
2011年4月、未曾有の大震災で仕事も次々にキャンセルとなり、
日本を。自分自らを。考える時間をたくさん持つことが出来た。
情報をメディアからシャワーのように浴びていると何が真実か
自らは仕事や“生きる”ということにどう向き合っていけばいいか。
そんなことばかり考えるようになっていた。
5月アタマに某テレビ局のイベントの仕事に参加した時、
東京から音楽を発信していくことをどう捉えれば良いか。
分からなくなり被災地へ足を向けてみることにした。
5月連休を使い、気仙沼を訪ねることにした。
何故、気仙沼なのか。理由付けが欲しかった自分は
ニュースを見ながら自分が住んでいる目黒と気仙沼が
深い関係にあることを知る。目黒では秋にさんま祭りを
行う。自分も何度か足を運んだことがあった。さんまが不漁の
年も気仙沼は目黒でさんま祭りが出来るよう出来る限りのさんまを
確保してくれたのだ。そんな関係性もあり目黒区はいち早く気仙沼へ
支援を申し出る。これが私が気仙沼に行った理由だ。本当は
理由はなんでも良かった。ただ被災地という場所へ行く意義が
欲しかった。物事(音楽・芸術)の送り手としての責任と目黒と気仙沼
の関係だけを頼りに被災地へと赴いた。
被災地では自らの足を使うことに決めた。
少しでも現実感を感じようと...気仙沼と若林区を一日20km程度ずつ
足が棒になるほど歩いた。戦後の焼け跡のような景色が拡がり、
歩き続けながら景色を見続けて行くと心は崩壊していく感じを受けた。
アタマはなるだけ空っぽにするように心がけ歩いた。
アタマで消化するには気仙沼の光景は非日常過ぎた...
現地では一軒開いている中華屋さんがあって餃子定食を
頂くことが出来た。店主は震災後のショックか、あまり声が
出ていなかった。ご飯の入ったお茶碗は欠けていた...
それでも温かい餃子を食べることが出来たことが何よりありがたかった。
ただ、ただ唖然とする景色を後にその日の宿にしていた仙台へと
帰った。仙台では、昼間の気仙沼が嘘のように活気付いていた。
私は仙台で見る日常の光景を見て、安心感を得たのか、何故か
涙を流していた。
これが2011年5月の話だ。この時、必ず気仙沼へまた訪れようと
心に決めた。