hello! AR poetry

December 24 [Tue], 2013, 18:30
 
  『hello!AR詩』  

Augmented Reality Poetry

制作 2010年10月〜2011年3月の記録と記憶
地理  本郷HONGOU 
     (御茶ノ水駅→トーキョーワンダーサイト本郷←水道橋駅)



































       


セカイカメラのサービスが2014年1月22日に停止するってわた詩の耳の奥に届いた
セカイカメラで制作してきたこのAR詩というものをはじめて発表したfloating view1 郊外からうまれるアートの会期中に東日本大震災が起きてしまったけれども、
秋。冬。春。夏。秋。冬。そして違う春。
季節が巡ってたくさんの大切なものを失ったような気ばかりしていた
2010年の秋のセカイカメラを覗いたらば、
本郷には記憶の残骸のように、試行錯誤を繰り返したAR詩、
kittyと詩のテキストのタグとわた詩たちが
ちいちゃくなって、色あせて、あの時とは違う容で微かに未だ浮遊していた
ぷかぷかと浮遊していた

セカイカメラはアップデートをしたので、この距離感などで今は浮遊させられないし
当時のような記録写真を撮ることも今はできない
当時は音声を30秒入れることができたりもした
だからわた詩の震災前のちぽちぽ朗読が水道橋駅の近くに漂っている
サービス停止で漂う声の残骸も消去されてゆく
今はもう存在しないわた詩の声。震災前のわた詩の無邪気な声。さよなら。さよなら。

floating view展では、わた詩はモニタ詩を会場に展示し
もうひと作品、AR詩を展示することになった
企画者の佐々木友輔さんと企みごとみたいに話し合って
会場の最寄り駅のお茶の水駅と水道橋駅から会場までずっとAR詩があるようにしましょうということになった

空、街、人、AR、GPS、浮遊詩、アート、わけも分からず2010年の秋から2011年の冬まで毎日のように本郷の道ばた後のわた詩の作風の画像ではなくって詩をその場所で編んではかじかむ手でテキストをたくさん浮かべていた
携帯電話をiPhoneに買い替えてセカイカメラの使い方や見え方を探求した
まずはじめは言葉を街中に浮遊させてどこからでも詩として読めるように設計したかった
けれどセカイカメラの位置情報は正確ではなく、思った場所にタグを置くことは不可能だった

なので一つのタグの中に長い詩を編みAR詩を浮遊された、たくさん編んだ
けれど人は街で歩きながらスマホをかざして詩という質のものを読まないんだなってすぐに気がついた
街へ出でよと寺山は言ったけれど書は道では読まれない
外で詩を編み浮遊させるから風邪ひきながら最初の案が挫折したわた詩たちが2011年の秋の記録に浮かんでいる
既存のセカイカメラのタグの中にテキストを編み、それを浮かべたARの景色は言葉そのものの多様性を表していなくてなんだかわ詩じゃなかった
既存の言葉はわた詩には足りない
わた詩はくしゃみと不満に包まれながらで大好きなkittyのぬいぐるみをある時本郷に寂しさまぎれに連れて行って撮影してkittyを浮遊させてみた
ひとりぼっちで寒い街中で長時間スマホをかざして通り過ぎる人の目を気にして詩を編むのはとても寂しいから


本郷にまたAR詩を浮遊させに行ったらkittyのタグにだけ外国人や通りすがった方から「hello!!」ってたくさんコメントが書かれていた
詩のテキストには何のリアクションもなかったのに
人はスマホ見ながら歩いて詩は読まないけれどkittyちゃんならそのメッセージを感じ
セカイカメラごしに微笑み返す
色、白、口が無いシャイなkitty、無数に踊るハローkitty、リボンの色彩、たくさんの要素に街がハックされそれは既存の言葉よりもよほど細やかな言葉になり詩になった
hello! AR詩のはじまり

この後この展覧会の会期中に東日本大震災が起こってしまい
津波にわた詩の叔母や親戚がさらわれ、たくさんを失くしたけれども、それでもkittyたちは震災後もあそこに儚く浮遊し続けてくれていた

セカイカメラのサービスが2014年1月22日に終わる。
そしてAR詩も記憶と記録の果てにだけにこれからはひっそりと漂う
すべてよ、ありがとう。
               ni_ka




トーキョーワンダーサイト本郷
floating view 郊外からうまれるアート
会 期: 2011年02月26日(土) - 2011年03月27日(日)

アーティスト: 石塚つばさ、笹川治子、遠藤祐輔、川部良太、佐々木友輔、 ni_ka、田代未来子
          清野仁美、渡邉大輔、藤田直哉
スタッフ:    中山亜美(Art Manager)、坂田希究(Designer)

http://www.tokyo-ws.org/archive/2010/12/5-floating-view.shtml
使用アプリ 頓知 セカイカメラhttp://sekaicamera.com/ 
Thanks:丸田ハジメ/藤原えりみ/佐々木友輔/小田原のどか/田代未来子

「AR詩、うかんでいます」http://d.hatena.ne.jp/floating_view/20110220/1298154805


 

AR詩 2011年3月11へそして 日本具体詩更新宣言

March 16 [Fri], 2012, 21:03
AR詩 『2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京』 
ni_ka  第7浮遊

そしてni_kaによる日本具体詩更新宣言 第1宣言



とりつかれたようにTOKYOとわた詩は呼ぶし勝手に自分をAR詩と名づけるし、
「東京都」という行政単位はわた詩の故郷だけれども、それでも<元来「わた詩」でしかないTOKYO>ですら
<本当はどこにもないTOKYO>にむりから席を譲らせるために、浮遊彷徨してきただけで、この浮遊彷徨は「喪の限界」にあたってなにをもたらしたのか

言葉として輩出されたならばそれはもう詩ではなく死に言葉となる
発っしようとした瞬間とその瞬間の以前にのみ、生が宿り、発せられた瞬間に言語は死んでゾンビと化す

ゾンビ(本当は死んでいるのに、死んでいることに気がつかないもの)が殴り合いをしているのをネットや思想書で読むことは「自覚なき死」の戯れの見学にすぎない

お気に入りのkittyちゃんのマグカップやユニクロのコラボTシャツの原材料も、今日食べた樹から捥がれたリンゴも全て死んでいる

わた詩とあなたは死に囲まれて生まれてきたしゾンビと死の大気でlife

いつだって生者は元々死に囲まれ死を読んで死を食べて生きているのに、あっちにある大量死と現在進行形の「喪の限界」

「汚れちまった悲しみという記号のゾンビに/いたいたしくも生きるものは怖気づき/汚れ血舞った悲しみのゾンビに/存在しているのかすら危うい日を暮れさせない」


死者を本気で弔う宗教者が足りない/死者を本気でカウントする言説も表現も涙もお墓も足りない気づかない気づかせない
穢れ(けがれ)ごとをおこなってくれているのはあっちの有志の方や消防士さん警察や自衛隊の決して高い階級にはいない現場の人たち


ゾンビの津波が溢れ出ては今も尚止まらない
浅く土葬された遺体は仮埋葬なので春になり暖かくなったらば
きっと本格的にあなたが想像するハリウッド映画のようなゾンビになるだろう
詩に切れなかった思いも怨念としてゾンビになるだろう
そうここに浮遊させ続けたAR詩の祈りの念の積重のように
仮埋葬場には、去年の3月11日まで一緒に生きていた仮埋葬場のゾンビたちにお花やお菓子やお酒をお備えし合掌するために出向く人もたくさんいるけれども、肝試しやお化け屋敷のような土地として活用する人も後を絶たない

わた詩はあっちの新しい土地は負の場所にして欲しくないのだけれども、
差別も被差別も超えて神聖な場所として勝手にひとつに物語ってはならないと思う
もしも絶対的なひとつという物語を叫ぶものがいるのならば、その時には、他の多くの超えるべき声にとびつかなければならない

死におののく生者のもやもやを生者が発し続けるゾンビの海
「FUKUSHIMA」や「東日本大震災」や「東北」や「311」は生者が造りだした模型ゾンビであり、
そのシンボル化=模型ゾンビ製作作業にわた詩も加担しながらそれでも浮遊する

そして同時並行してやはり象徴としてのトポスやモニュメントが必要になるわけだけれども、
この<TOKYO>都市では中心が喪失しスライドし、中心のスライドを重ねるたびに責任も次の中心も喪失し続けるので、たとえモニュメントが模型の中の模型として人びとをそこに振り向かせるために作られても、永劫ではなく……

事象の象徴、といえば、思い出すのが去年わた詩のお父さんと行った、かつての形を失くしたお父さんの故郷のガレキの新しい土地/あっちに数え切れないほど立って、海風の勢いを浴びて飛び散る血液のようにのようにはためいていた紅い旗たち
あの紅い旗たちは、人の遺体/痛いのマーキングだったので、あの紅い旗のはためきの数や立ち込める腐臭の分だけわた詩の視野の距離の中で人が死んだ

そして、紅の旗、象徴といえば日の丸だけれども、こっちでの日の丸はまったくはためいていなかった
2012年3月11日に、地震や津波から一年も経ってようやく東北から遠く離れた<TOKYO>で行われた政府主催の「東日本大震災一周年追悼式」というものをわた詩は知覚した
それは、二万人近い人の追悼式とは名づけれているのだけれども、一人分のお骨も遺体もないし、死者の記憶のアーカイブや遺影さえも、ないないないないなにも本物の物質realがない

臨場わた詩のmental image には、「抽象」を抽象化させてさらに抽象度を極限まであげてゆき、
ない場をなにか神聖ものがある場に見せかける臨場アート、TenporaryなInstallation Artなのか、演劇なのか、が行われ、それが列席者をふくんでイベントの羽音として映っていた

その羽音式はわた詩はゾンビそのものだと感じた
けれども、政府が、今更でも、ゾンビ式でも、弔いをしてくださるだけありがたかった
そして、こっちのここでもまたたくさんの象徴は必要とされていて、日本の象徴の天皇陛下、皇后陛下も参列していらした

ご病気なのにご出席してくださっていた天皇陛下(または宮内庁)は「御霊(みたま)」という言葉で死者と行方不明者を名づけられた
天皇陛下に合わせるように、首相もご遺族代表の方も「御霊(みたま)」という言葉を死者に宛てた

「御霊(みたま)」とは、キリスト教の新約聖書・福音書の中に出てくる「神の霊」をさすギリシア語プラウマの翻訳らしい
この国土や東北から関東にかけての古来の死者への概念ではなく、敢えて作られた言葉/擬似死者用語/fake/ゾンビ言葉だった


ニュース映像やニュースの記事や参考写真でご覧になっていただければわかるのだけれども、

<TOKYO>の解体されたはずの象徴としての中心、「千代に八千代」の千代田区の『国立劇場』の舞台上に、
政府が創り上げた舞台(まさに舞台)は、まだある生々しさ(自然リズム)総てを抽象化と象徴化により消去し、
あまりにも震災の全てが美しく抽象化/象徴化/記号化されて(象徴リズム)、
それはいつかはそうされる宿命なのだけれども、政府としての公式の「喪の限界」に向かう姿勢、弔いはあまりにも遅かったのに、まだあまりにも速過ぎるこのサンボリズムの速度はむごいと思った

けれど、逆に、その現在進行形の生なましさや自然、ありしままを隠蔽するための抽象化はあまりにもあまりで、白、白、白、主に白、黒、黒、だからこそそのインチキの徹底が見事で美しかった
存在する多様な悲劇はいつだって望まれる美しさなど持っていないのだから

舞台の中央、左右対称のあまりにも均斎な図像の不思議な式壇があり、舞台の上手(かみて/客席から見ると右側stage left)には、国の象徴の天皇陛下と皇后陛下がお座りになっている

わた詩が臨場性をちょっと取り除いて、感覚浮遊しながら引いて遠くからこの式壇を平面=二次元にしてみると、この式壇と式典という儀式は完全なる具体詩だった
スライドさせられ続ける中心がここではfakeとして存在し、全ての意味を文字に吸収し、人々の生活に馴染んだ詩になっていた

式壇の中央には、「東日本大震災之犠牲者之霊」と荘厳に墨字で書いてある木(斬られた木・死体の木)の大きな標識が一本立っている
その標識の真上に(三次元で正確にとらえたら「奥の上」なのだけれど二次元=平面=詩図の感覚で捉えると)日の丸の旗が美しく飾られているように見える配置で

標識の上側の文字の「東日本大」の文字は「空=天=日の丸の旗」に向かい浮き延びているようにも見える

「震災犠牲者之霊」の字の高さまでには、半円型(日の丸の中の○が割れて皹(ひび)が入り、白く塗られたようにも、アーチ型の白い架け橋のようにも見える)のオブジェ=舞台美術があり、
それを横に引き伸ばしていったようなものとあわせていくつか、一番大きく舞台の左右を結ぶその皹割れたように見える半円型のアーチ(死んだ材料や塗料で作られたもの)は、白い地平線のようにも見える設計

感覚浮遊をし、遠目の拡張現実空間から再度見てみると、
舞台の下半分は日の丸を綺麗に半分に折りたたんだ白い生の象徴世界、舞台上方の黒い部分は天で点で「神」であの世の象徴世界だった(ただしここのそれらは総て記号というゾンビにされている)


浮遊しながら三次元的に感応すれば、勿論こっちのそこには奥行きがちゃんと存在している
一番手前に献花台(切られた木、死体で作られたもの)があり、その向こう側に半円型の大きな舞台美術の隙間を埋めるように、段々畑というキャンバスの絵の中の記号として白いお花(おそらく白水仙)がたくさん植えられている
これが生きたお花なのか、摘まれて既に死んだ白いお花を生きているものなのかは、わた詩にはわからない

そしてこの白い死者と生命を抽象化=記号化させたお花畑も、感覚浮遊の中で、
二次元=平面=詩図の感覚で捉えれば、標識の文字をあの世とこの世の媒介として、日の丸を頂(いただき)、
あの世としてこの二つの象徴に向かって広がる平面の白い大地記号ゾンビ(この世のゾンビ=舞台下半分)
そしてあの世=舞台上側には日の丸の白以外、死者を記号化した白は無く、泣くなり、そこには日の丸の紅と白以外は、ただひたすらに同じ黒が広がり、堂々と「神」の位置に日の丸が飾られている
白、白、消えた命、勝手にゾンビ、白、白、文字、日の丸、違う白と赤、それが天

二次元におとしこんで全てを抽象化するこの表現は、まことにいんちきで死者や遺族の痛みややるせなさに誠意なんて欠片もないのだけれど、わた詩はやはり美しい平面の極東のArtであり詩だと思う
この隠蔽の清清しさは美しい

 
一回性のこっちに臨場している人にとってはインスタレーションであったり象徴主義的美術であったり今にも拍子木の音が白々しく響きそうな演劇の要素が強い、静的かつ儀式的なそれ

引きの画で見れば、村上隆氏がなづけたスーパーフラットでもよいのだけれど、その概念、
それからもれこぼれたこっちのこれらは偶像美術イコン/遺恨であるし具体詩、まさに詩だった、けれども残念なことにゾンビ詩

洋の東西を問わず、上手(かみて)には偉い人が座るようだけれども、お能の舞台や日本庭園は左右や上下の非対称が特徴なはずだよねと問いかける
こっちの舞台のこの左右の対称性は、「御霊」の語源が同じ洋でも、西洋のそれのようなので、世界地図の極東の太平洋で起きた悲劇で、「東日本大震災」と、象徴として名づけられているのものの追悼式典なのに、
なんだかキリスト教や西洋の舞台やお庭のそれのエッセンスが強いfeelingが<ここ>なのだなとふと思う

どうして、わた詩がこの式壇を頑なに具体詩だと名づけるのか
そして、新国誠一や北園克衛らのVOUとASA以来、日本の具体詩運動は途切れたと言われてきたけれど、それは事実ではなく、「象徴化されたお葬式」の中に具体詩は誰も気がつかないうちにインストールされて消費され続け擦り切れたので、わた詩がそれを継ぐものなのだとわた詩はあなたとわた詩たちへ説明する


東日本大震災という文字は縦書きになると、「震」という文字以外はほとんどが左右対称に近い文字で、
たくさんの分裂していたもの(それぞれの個の性質)、人の命や魂として記号化された白いたくさんのお花(記号ゾンビたち)が、
その「東日本大震災」という縦書きの文字が書かれた言葉の意味の中にグググ! と無理からに、そして静かに、
ゆるるりと恐怖の音なき音を詩的にたてながら、三次元にしかも左右に分かれていた白いお花(死体なき死者しかし記号ゾンビ)が「御霊」というものの抽象表現として上に持ち上げられて、天/空に吸いあげられてゆくように「わた詩たち」の網膜には映る構成で、そして、その天辺には「神」の記号として日の丸の旗がはためきもせずに美しく張られている

「霊」という左右対称の文字に霊の抽象されたものたちが無理から吸い上げられた「御霊(みたま)」と天皇陛下(もしくは宮内庁)が名づけた死者の記号たち(ゾンビ化した言葉と同じ)の意味総てが、
中心になる標識の文字の、災震、のアシンメトリーな文字でちょっとまだぐちゃっとしていて暴れていて覚束ないのだけれども、
大本日東というほぼ完璧に近い左右対称の文字群で整えられ、

上へ、上へ、と一文字ずつ全ての意味をぶわっと天辺にある完璧なる左右対称の形をした日の丸という国旗という象徴の意味の中に吸い上げてゆくゆく(インストールしてゆくゆく)、
記号ゾンビではあるのだけれども、ごちゃごちゃでそれぞれな人や気持ちも、死んだらこんなに抽象化され続けるのだと、死んだらさらに形骸化した記号にされてどんどんゾンビ化が止まらなくされるのだとわた詩は恐ろしくなった
けれども、
この大量死と「喪の限界」にわた詩が臨む前までにも、
既に日本のお葬式の多くはそうされてきたし、記号化したり抽象化、シンメトリーの祭壇の真ん中に戒名やお経などの文字を置いて、天辺に吸収させる構成が多く、

そうしなければ生きるものは弔いごとはできないのだと、わた詩は一年浮遊し続けてきて、なんとなくわた詩が感じ続けたもどかしさはここにあったし、
さらに伝統的なフォーマットというゾンビにおしこめられたこの儀式と自分の無力さにとても感傷的になりやるせなくなる

政府が催した式典では、皺一つない美しい白紅の日の丸の中に無理から死者たちの記号/fakeは吸い上げられ、個性やごちゃごちゃやノイズのない、完璧なる左右対称の日の丸という、世界で一番シンプルな美しい形と世界で一番シンプルな色の組み合わせの「象徴」の中に詩に切れなかった彼ら彼女らは具体詩として、または美術として、または演劇としてインストールされた

それでも天皇皇后陛下を敬愛していたり国の儀式を愛している東北のおじいちゃんやおばあちゃんは意外と多いので、溺死してしまったり、凍死してしまったり、衰弱死してしまった死者や、死者の周囲にいる方の何割かの方の慰めになれば、
なんていうか、右も左も象徴もゾンビ化も隠蔽もどうでもいいのかもしれない、とわた詩はちょっぴり思う

慰めになれば、鎮魂になれば、弔いになればそれでいい

そして「象徴」の宿命で、生あるうちは、完璧な様式を生き続けなければならない美しい天皇皇后両陛下にも、
もしもあの世があるのならば、あの世で、東北で亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんたちや他のわた詩たちと、
お饅頭を食べたり、お喋りしたり、freedomを苦しんだり、叫びながら泥んこの中で遊んだりして欲しいなと、詩の身だけれども、なんとなく願った


たくさん足りなくて、たくさん相変わらずな感じのパーフェクトsymmetry象徴ゾンビ追悼式なのだけれども、ここで慰めされない分、弔えない分は、自分のような「神」とも「象徴」とも関係なくって、小物な野良詩のわた詩が担えばいいと思った
色々を背負っていない不自由なやり方で精一杯これからも「喪の限界」を、二次元でもなく、三次元でもなく、拡張現実空間で想い弔い、ゾンビでない言葉を生起させるしかないと思った


magnitudeナイン、超える業、もたらしたあの日からの負や思想闘争の見えすいたラインを見極めて、magnitudeナインを超えるエネルギーをほとばしらせ、アイフォンとセカイカメラを揺らしはねながら飛びながら、常に日々と時間が人間と連動し生きてゆくこととどこかでイコールであり、ゾンビの記憶の言葉を技術で並びたてたり、俗=生きセルもののみと結託することはせず、生きるものだけのために向けた言語活動では発見できないものを発見することはできなく、泣く、啼く、死者となった者たちと生きるわた詩たちのもやもやを、既存のゾンビ言葉では表現できない言語として先取りするために
わた詩は未曾有の言語の次元を血の涙を漲らせながらこじ開けてゆく
言語が無化されるまでわた詩は祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る
到達まで祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る
折られるまで祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る祈る
言葉は言語化されたその瞬間、わた詩の複雑なもやもやの弔いや祈りや感覚とは離れてゆき、
すべて抽象化され記号化され、模型になる
どんなに細密に言葉を捜しても見つからない
細密さに拘れば拘るほどみつからない

なんとかあなたにわかって欲しくて、だからわた詩は仕方なく震災以降、今ここに記しているような模型の言葉を使うことが多くなったのだけれど、言語化された瞬間、わた詩とわた詩たちの言語活動は終了し、言葉は死で、死で戯れるゾンビごっこにはずっといらいらがつきまとうし、言葉にならないものこそが言葉で、真の言述行為/幻術行為そのものをここに到来させるためには、「言葉」を発見し、その言葉の周囲に浮遊するものをなんとか吸収して寄せ集めてわた詩に集約し、「言葉」の生起に立ち会わなければそれは詩ではなく死だろうって思う
自分のもやもや、ここで起きているもやもやをつかまえるために、プラトンではないけれど、わた詩は浮遊しながら別の言葉を捜し、君の元に届くために彷徨浮遊することしかやはりできない

トピカが言葉のために場所を構築することを任務とし、そして、その場所がargumentum/論拠を構成するのであるのなら、その語源となったargu/光輝、明瞭さ、その動詞arguo/明らかにする、光への回路を開く、そしてそれは時をこえてaugmented reality/AR詩/拡張現実詩/わた詩が言葉を照らし出す出来事そのものになり、言葉の生起そのものにほからないと浮遊しながら彷徨いながら言葉を捜し求め、言葉と詩の生起する様子をわた詩たち、あなたのために光り明らかにしたいと弔いのためではあったけれどもわた詩は繰り出す

言葉を生きられたものの平面においてのみつかまえようとしてみても、
それは
愛にも知にも詩にもなりえないないないない
わた詩の切に弔いたいという死者への独りよがりで孤独な強い強い愛の欲求を通してのみわた詩に言葉そのものがやっと結びついてくる
そしてこれが「動詩」となり、やっとそこでのみ言葉の生を蘇らせる
だからわた詩の独りよがりな愛は、平面詩/定型詩/ゾンビ詩/現代性をなくしたフォーマット現代詩ゾンビや様々なゾンビを本気の弔いのために、愛のために、あなたたちは死んでいる、と、ちゃんと今ここでゾンビたちを葬る

さよならゾンビたち


<TOKYO>という都市そのものにAR詩として浮遊し続けて、なんとかやっと震災からの想いを模型ゾンビではなくって、ARという空間、もしくはモニタ、紙、体、あらゆるmedia、あやゆる空間、それらの裂け目に命をかけて到達し、そこに裂け目を生じさせ、そのわた詩の根本的な浮遊経験そのものを弔いの言葉として生起させることでしか弔えない
弔えない弔えない弔えないんだよ

あの日にぶっ壊れた日本列島の各地にある原発の兄弟原発から発せられた東京タワー
このの格差に胡坐をかいている<ない>TOKYOのこのたちこそがわた詩なのだから

                  
                   にか


ni_kaによる日本具体詩更新宣言 第一宣言 2012年3月15日 

 追伸
 わた詩は、一人ぼっちでもこの具体詩の更新の彷徨者だけれども、希わくば、
具体詩・ゾンビでない現代詩・モニタ詩・AR詩・光詩・ni_ka詩・動詩・生詩・言葉そのものの更新、蘇生、言葉にならない言葉を生起させる運動をなす他の儚いトリックスターのわた詩たちが同時多発にこの世界に現れることを

    


詩 2011年3月11日へ From東京 

January 25 [Wed], 2012, 16:10
AR詩 『2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京』 
ni_ka  第6浮遊    

      雪/逝き/幸の区域SCHNEEPART
                   癒えなかったさようならさようならさようならさようなら                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     
       

                     
                    
生への気流





生への気流
のこりくまなく巻きあげられる雪の区域




         
              
このTOKYO 雪の悔い息/パート は己の傲慢さを知り
          ゆき、と言っても涙を落としながら落ちてくる同じはずの空の雪を見上げても
      セシウム雪とかたくさんのホカの言葉で流されたあの日の津波のように
  北/来たの雪国とも死者とも違う区域の2012年のTOKYOの清くはない雪とわた詩

2012年 はじめに東京に雪が積もった日   にか

AR詩『誰でもないものへの薔薇バラ(Die Niemandsrose)』

December 22 [Thu], 2011, 2:47
  
 せめて死者の数だけ/薔薇を薔薇バラとこの東京      





弔えなかったわた詩たちとともにわた詩はここで浮遊します  
 
                                                
    誰でもないものへの薔薇バラ(Die Niemandsrose)




















































         
    2011年3月11日へ向けて
        わた詩は浮遊し続けます
             From TOKYO  









thanks  Y Sasaki and floating view

詩 2011年3月11日へ From東京 

July 30 [Sat], 2011, 1:12
AR詩 『2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京』 

ni_ka

第5浮遊








































「言語で疲れた者は同じ言語 (ただし回路の組みかえられた) によってしか慰められない」                            (飯島耕一『田園に異論あり』より)


人の命やその命を想う存在が、もしも言語という虚の夢が見せているアポリアならば
その回路の組みかえのちかくに向えるのだろうか


3月11日の東日本大震災以降、多の存在は、言語によって無の象徴だと宣告された

壱 大地震が春を襲い、町や村は切開、人が圧死
弐 すぐに波濤大漲来、悉流失す、世曰津浪、海沿いの人々が何万人も海の終わりに連れ去られ
三 まだ人や思い出や苦しみの濁流がはけないままに水の上で戦慄の炎の夜
四 インフラやダムや原子力発電所は壊れていった

蝶番から見放され
視えない放射能汚染の記号に東京をハブ、痺れがなじんだ

これらの黒の凶暴と並行するように、
可視化された情報=言語の残酷という災害が渡り蝶の濁流となり押し寄せ
残酷との対立を余儀なくされ、人々への失望に埋め尽くされ、
喪失を生きることさえ許されず、
海にさまよう人ばかりか喪失すらも無碍にかえしてもくれない

だからコンビニの店員さんが、本当はもう顔なじみなのに、記憶喪失の真似事を律儀に繰り返すよう
回帰の錯誤、わた詩も希を棄却して記憶喪失と失語症を繰り返し滑稽なan illnessの末に自分を誤魔化すことを切なく覚え
なんとか特権の生還をしここに彷徨い浮遊ゆゆら

傷つきながらたくさんをあきらめてキャンセルしてもまたさまよって
また傷ついて言語によってまた孤立してゆく巡る永劫

結局わた詩の言語も また多を残酷へ誘うというジレンマばかりが続き
うるみながらまた失われた喪失のか細い糸すら手放してしまいそうになる

あの春の日に津波にのまれた親子のお母さんが
必死につかんだ自分の子供の手を濁流の中で放してしまった夢ばかりが夜をよぎり鍵をかける


twitterやメディアのスモモの藪から煽動の蛇のように出てくる言語は途絶えないし
今この瞬間もこの星で東日本大震災以外のの不幸と喪失は暇もなしに過去の天の橋になる
この橋も白い蝶として2011年の夏に渡る


残酷な多の言語との対立は、うれいの故郷が異なるから生じたものなのか
それとも残酷は虚の見せた夢、わた詩の回路の染色体のまちがいなのか
季節がめぐって夏になったのにわからない

わからない わからない 一切の小瓶に入らない砕けたラムネになってもわからない

そしてわからない言語の濁流は、言語を発するわた詩自身にすべて帰結し矛盾の罠に分解される

けれど多が大量死とわた詩を断絶させたとしても
わた詩もその多の一つでしかなく
生がただ偶然にここにあり
そして未来という言語の持つ虚構の単一性に問いかけをしてゆくのだろう

何かを信じ/或いは信じないと信じまた疑って道を歩いてゆく
言語の見せる生はたいそうに切なくて無常で、それでも這ってでもわた詩はこの無常を生きなければならない



気仙沼市で津波にさらわれた或る無名の15歳の野球少年
少年がお父さんと住んでいた家も濁流にのまれてしまったから
瓦礫の中からなんとかお父さんがひらい上げた
たった一枚の少年の写真だけを骨箱にさらりと入れて葬った
写真さえも失くした少年のお父さんのあきらめの無の言語をわた詩は視た


わた詩が時をかけられる少女だったなら、時を精一杯かけてかけて、
なんとかあの日に戻ってきっと彼ら彼女らを救えたはずだと今でも考える

そしてこの拙い凡庸な言語もノイズにかき消され無意味だと烙印を押され続け
消耗してゆく虚の映像

残酷でも優しくても浮遊する無間地獄の明けないノイズ



「こっだらこと」って東北弁は外国語みたいなのだけれど日本語で
その言語を浮遊させる人が存在する三陸の海沿いの遺体安置所巡りやお手伝いを少しして鳴く実の綿の中から
やはり同じ東北の仙台の市街地に辿りついた時

仙台も沿岸部を中心にとても大変な目にあった被災地なのに、
わた詩の網膜や感覚器官には市街地は天国という暗号として刻まれ
このAR/拡張現実が織り成す重なり合う不条理の断層の多の被災と多の認知が炙り出されて
多を拒絶した自分がどうしようもなくて笑いながら涙が浮かんだ


けれど、多の中の多の大切な人々がせめて喪失を生きられるように、
焦がれる悲劇を消化できない人々の多に在る言語化されない感情が
届かなくてもよい無用の言語の濁流に、あの春の日のようにのまれないように
わた詩は多のたった一つの記憶装置としてせめて祈り秘蹟させ続けたいと思う


そして濁流にもがきながら、詩を名乗るたった一つのものとして
いつの日か言語の多を赦し自分の言語も赦したい

偶然に起きてしまった悲劇の末に誕生した新しい土地とのあわいでこの東京、

WEBやメディアや人の織り成す言語の地獄の果て
街で笑っている多の笑顔を糧に生きてゆける日々に辿りつけるよう


有名/無名/生きた場所に関わらず、人の命は等価に永遠の断片と今日も存在のように儚く浮遊


にか

2011年8月1日

詩 2011年3月11日へ From東京 

May 01 [Sun], 2011, 4:31
AR詩 『2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京』 

ni_ka

第4浮遊

 




















命の感光性、或ると或ったのあわい、天地日月地球も、こなたもかなたも、そこの世も、
東京がわた詩、浮遊してみたけれど、せつなきゆゑ、助けることも、振れること/触れることもできない、

偶然に大量の命をさらっていったあの日から、四十九日のアンテンヴァル、
未だ弔いきれないし、そしてまた弔おうとする詩も或るもののためにあり、

ただ都市の層理のあわいを彷徨うだけ、
浮遊という詩を巡って在ると在ったを代謝させているだけならば、それは生きているもののただのエゴイズムでしかなくて、
或るの地/フォンでわた詩は今日も生の格差にあぐらをかいている
ごめんなさい      にか

2011年4月28日 四十九日



詩 2011年3月11日へ From東京 

April 01 [Fri], 2011, 2:47
AR詩 『2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京』  ni_ka














































東北で、接がれて積もってゆく遺体を焼く施設は全壊し、
従姉妹のお姉さんがお嫁さんに行って子供を生んだ石巻市の野球場は、ボールを投げて打って笑う場所のはずなのに、
今は埋葬場になり、従姉妹のお姉さんや小さな子やたくさんの人たちの積まれる遺体/痛いが焼かれ、そして徐々に焼く燃料も保存する燃料も尽きてきたってわた詩の耳が聞いた。


知覚していたはずだけれど、今更お葬式は贅沢な文化なのだと体感して、自分の身体の無知を恥じながらなめされた柔らかい土を少し掘った。

火葬もお葬式もない、水死体となった彼女たちに頬ずりし、観たことのない色、蒼に近い色の膨らんだその身体をさすることしかできない。
わた詩の指には生きて死んだ場所から離れた2000人の遺体の受け入れを決めてくれた東北の土が点いた。

5〜6平方メートル、フラットな土しかみえない。
自衛隊や消防隊の方が遺体をマスクしてヘルメットして運んでくれる、次々と、黙々と、運んでくれる。

身元がわからない人の棺桶の上には花も置かれないし、弔う人も、泣く人もいない。

弔いをできない人々の代わりに、自衛隊の人が合掌してくれていたのが微かな救いだけれど、
姉妹や姪っ子や甥っ子や故郷や友人、たくさん、たくさんを亡くしたわた詩のお父さんは、

「自衛隊の前線の若い子たちは立派だが、こんなにきつい作業をしてかわいそうだ」

と涙を落としながら言った。


またここで生じる様々な格差に途方に暮れる。



遺体を土に埋めてもらう前、従姉妹のお姉さんや子供たちの棺桶の上にはささやかな花が置かれた。


  棺桶に置かれたあの花たちは、どの土地の土で生きてきたのだろう。


数百メートルにわたって、数百の棺桶が羅列され、それらは鎮魂のための花と静痛と落とされた涙と一緒に、
2メートルぐらい自衛隊の人がスコップで掘ってくれた土の中に置かれて、また少しずつスコップで違う土がかけられてゆく。
そしていつしか棺桶は、わた詩の視界から消えてゆく。

違う土で咲いた花、真新しくて少し雑な造りの、でも精一杯の木の香りのする棺桶も、その中に横たわるわた詩たちの大切な遺体も、朽ちてまたいつか違う土になるのだろうか。


数百や数千や数なんかでは測れない身体が、火葬されないまま埋められる土地はこの市以外にもこれからどんどん生まれてゆく。
雪で作ったかまくらのように人が積まれて、その人たちを焼く場所も生まれている。


生きた場所、心悸を失った場所を越えて運ばれ、2000人一緒に土葬される。

そして遺体/痛いを運んでくれる人たちが確かに居る。
映らないけれど居る。

今後は棺桶も用意できないかもしれないから、その身体のまま埋められてゆく人たちも出るだろう、遺体の一部の受け入れ場所が九州に決まりそうって言葉が聴覚の記憶に響いている。

なにがどうなるのか見当もつかないけれど、
遺体を受け入れてくださった新しい土地が「負」の土地にならないことを心から願う。

身元が分からないまま土葬や火葬された人々の衣類が洗濯されて、
この服を着て来ていた人は3月11日まで存在していました、という証として、物干し竿に吊るされ、気仙沼市や石巻市の
冷たい風にハタハタとなびいていた。生きているみたいになびいていた。


 これが土地の生誕ならば、どんな愛なのだろう。


わた詩は、新しい場所でただ泣くばかりで誰のことも助けられなかったし、なにかが空ろに回るばかりで、わずかな支援すらできたのか、これからできるのかも分からない。

そして、鎮魂やキボウのために浮遊したかったけれど、お父さんの形を無くした故郷の瓦礫の町や、遺体の土葬場所となった今の東北では浮遊しないと決めた詩失格のわた詩に代わって、
他の土地の土の上に咲く花たちは、どうか、東北のあの生誕した土地たちへ向かっていつか春の詩を届けて欲しい。


わた詩は拡張現実空間でもプカプカと、とってもおまぬけで、どこまでも無意味で、
詩ですらないかもしれないし、肉眼では視得ないから、ただの空気の落書きですらないかもしれない。


けれどそれはどうでもよくて、恐怖の中で、土に身体を覆われて口の中にたくさん土を含んで死ななければならなかった従姉妹たちや叔母たちや伯父や従姉妹の子供たちや数万人の他の人たちのこともわた詩は弔わなければならないし、

新しい土地で今もまた刻々と増えてゆく果てしない無念とキズを抱きしめ続ける人たちに向けて、こんな離れた場所からARみたく何重もの面紗をかけてだし、とんでもなく情けない姿で、ただの自己満足なのかもしれないけれど、きっとそうなんだろうけれど、それでも見えない無念とキズの欠片を東北の新しい土地と一緒に抱きしめるために、たとえセカイカメラというアプリケーションが消え去ったとしても、iPhoneがクラッシュしたとしても、わた詩はこれからもこの東京で浮遊し続けるのだと思う。
      2011年4月11日        にか






詩 2011年3月11日へ From東京 

March 23 [Wed], 2011, 9:16
AR詩 『2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京』 第2浮遊 ni_ka




















幼い子供も含めた親戚たちが東北の海で亡くなっていた。
親戚以外の方もたくさん、たくさん亡くなっている。
誰かも分からずに土葬されてゆく人、永遠にからだ/空だ/遺体さえ見つからない人。
それを待つ家族や知人。
待つ人がいない人たち。
わた詩の網膜にはイマージュさえも色々写らなくて申し訳ないと思うばかりだけれど、
遺体を探して命を救ってくれてる方々へ感謝が尽きない。  にか。

詩 2011年3月11日へ From東京 

March 18 [Fri], 2011, 20:28
AR詩 『2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京』 第1浮遊 ni_ka


              

   

  



  

                     
            


宮城の海を愛し、海にさらわれたわた詩の一部たちへ。
                  血/地の縁も関係の無いすべてへ。  
                  わた詩はまた東京を浮遊します。
                  私は詩です。   にか。   2011年3月18日


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