達磨面壁す、二祖雪に立ち、臂を断つて云く、
弟子、心未だ安んぜず、乞う師安心せしめたまえ。
磨云く、心を将(も)ち来たれ、汝が為に安ぜん。
祖云く。心をもとむるに了(つ)いに不可得なり。
磨云く、汝が為に安心せしめ。竟(おわ)んぬ。

無門関第四十一則「達磨安心」(だるまあんじん)

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東政二さんの言葉 / 2015年09月26日(土)
妙好人の東政二さんの言葉を初めて聴いたとき、
しびれるような直感が走った記憶がある。
このひとはすごい、ほんものだ、と。

浄土真宗の信徒の方。
信仰に到達した人しか語れないことを、
さりげなく口にしている。
しかし回心したときのことを、
とくに語った記録はないようで、
おそらく一度も口にしなかったのだろうと思う。

妙好人の研究家楠恭氏が、ご自身の親戚の
お寺に立ち寄ったときに目にした布教誌、
『地湧人』の記事で東さんを見い出したのだという。

「自分は仏法の真理を今という時、ここという場所で
いただいている。」

「人間の体質は分別心で、従って功名心、我欲が
根性である」

「心というのものはふらついている。
その心で仏法を聞こうとしたら駄目なんです。
動き通しの心で仏法を聞くと、
必ず自分の都合のいいように聞いてしまう。
心で聞くのではなくて、動き通しの心を如来の本願の
上に建てるのである。
身体というものは人間の心の思いが通用しないものです。
身体は自然の道理、如来の真実で動いているからです。
ですから仏法は身体に聞くというのです。」

このような言葉は、自我という、ちっぽけな心が
打ち砕かれた経験をしないと出てくるものではない。
さんざん自我のたくらみに自分がだまされて、
まただまされて、繰り返しだまされつくした経験がないと
出てこない。ついに自我に絶望したところを
通過しないと出てこない言葉だ。

東政二さんは、1992年7月28日に93歳で
亡くなられている。次の言葉は、政二さんが
92歳のときのことばである。

「わしは九十二歳までこんなに長生きできようとは
夢にも思わなかった。人間長生きするだけが能じゃない。
長命でも短命でも仏智の働きに気付かせていただいて、
初めてこの世に出てきた意味があると思うのや。
わが身は仏の智恵で出来上がっていて、
仏の智恵がゆきわたっていることに気付かずに、
分別に捕らわれて、煩悩に駆られて、
欲得の功利心だけで長生きしても、
それは無明煩悩が長生きしただけや。
仏法を聴聞する際に、分別心で仏智を聞いては
駄目なんで、仏智は自分の身体で聞くんや。
なぜなら身体は自然の道理という真実を
語っているからや。」

絶望した果てに、自分というものが無くなってしまった
その瞬間に、自我により自分が生きていたのでは
なかった、という回心が生まれる。
東さんにその体験を語っていただきたかったなと思う。


(別のSNSサイトの日記2015年9月11日より転載)

 
   
Posted at 16:23 / 妙好人 / この記事のURL
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