台北市の歴史

June 13 [Thu], 2013, 0:08
○先史時代
台北はもともと平埔族と呼ばれる原住民(ケタガラン族)の住む土地であったが、明代の初め頃より漢民族が居住するようになった。また大航海時代になると、オランダの統治が及んでいなかった台北市郊外にある淡水にスペインが要塞を作り、一時期スペインの活動拠点の一つとなった。1662年、鄭成功はオランダ勢力を台湾より駆逐し、台湾北部に進出したが、基隆や淡水を拠点としたに過ぎなかった。

○清朝統治時代
1683年に清国による台湾統治が開始されても、清政府は「化外の地」として台湾島への渡航自体を制限し、当初は台北が開発されることはなかった。やがてなし崩し的に制限は解除され、漢民族の移住は活発化し、台北は「一府二鹿三??」と三大都市の一つに数えられるほど栄えるようになった。「府」とは清朝統治の中心であった台南、「鹿」とは台湾中部の鹿港、??とは台北(厳密には現在の万華地区周辺の古称)のことである。字が示すように、元々台北は水運から発達した。

台南と比べると都市形成の点で後進的であった台北であるが清末には都市化が進行し、1875年には清政府による台北府の設置と台北城の建設が始まった。1882年に方形の城壁が張り巡らされ、1885年には台湾省が設置されて台北はその省都となるなど台北は中国的近代都市として成長を遂げた。巡撫として派遣された劉銘伝は電灯、電報、鉄道などのインフラを整備し、また都市整備のため大陸の商人資本を集めて興市公司を設立するなどの政策を次々と遂行し、ここに「清国人の都市としての」台北は着々と発展していった。現在台北市の行政区を囲むように点在する四つの城門は、当時を偲ばせるものであるが、福建様式の一つを除いた残りの門は国民政府以降に作られたため北京様式である。

しかしながら、日清戦争敗北によって清国が台湾割譲を余儀なくされるとこうした流れは一転し、台北は日本的近代都市として新たな成長期を迎えることとなった。

○日本統治時代
1895年に日本統治が始まると、日本は独立派の勢力が強く、日本からも遠い台南を嫌って台北に総督府を設置、台北の本格的発展はこの時点から始まった。初代民政長官に就任した後藤新平は、清朝が築いた市街の城壁を撤去、街路を建設し、また上下水道を整備するなど近代都市建設を進めた。1901年に台風被害があり、在来建造物が壊滅的被害を受けると、それを期に中国式建築が一掃されて代わりにレンガ造り・石造りの官庁・学校・銀行・会社などが林立し、市街の光景を一変させた。その後も市域の拡大や周辺農地の治水・開墾が進められ、日本本土からの移住者も多数にのぼった。さらに経済的にも軽工業や農産物の生産などにより次第に影響力を強めた。このような中、市民生活も豊かになり西門町では数多くの映画館が立ち並び、また台北郊外の北投温泉は、日本有数の温泉地として整備され台湾の内外から多くの湯治客・観光客を集め、1923年には皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)も行啓した(天皇が来訪した温泉場も現存する)。このように日本統治下において台北は台湾の政治・経済・観光・軍事の中心地として栄えた。

戦争が始まると、台湾は南進基地として利用され、台北には本土からの軍隊が往来するようになった。それを狙って米軍による空爆も開始され、市民は疎開を余儀なくされた。

○中華民国時代
戦後は日本人は引き上げ、代わりに蒋介石率いる国民党軍が駐留するようになった。国民党は兵士やその家族を引き連れて居留したため、台北の人口は一気に跳ね上がった。国民党は中華文化を称揚する政策をとり、台北の日本建築は中華式のものに立て替えられたり、中正紀念堂や故宮博物院、円山大飯店などの中華様式のモニュメント的建築が建てられた。栄町・旭町などの日本式の名前を持っていた町や通りも、中山路・民族路などの中華式のものに改められた。

国民党政府は開発独裁をしき、軍事や経済発展を優先したため、台湾経済は飛躍的に発展し、中心地である台北も人口増が相次いだが、民生は後回しにされていたため、台北の交通渋滞や公害問題は悪化していった。それを解決するために台北駅の地下化、地下鉄建設、排気規制などが計画されたが、ほとんど実行されなかった。

これらの政策が実行に移されるようになったのは、民主化の進んだ1990年代前後からであり、台北の都市環境は飛躍的に整備されるようになった。

○現在
IT経済化、さらにバイオなどの知識集約経済化を進める台湾では、台北を中心とした地域の重要性がさらに高まっている。しかし台北市内には余剰空間が不足しているため都市の発展は周辺部に波及し、台北都市圏を形成している。特に台北から板橋、台湾桃園国際空港へ至る回廊は人口が密集し、移動人数に対処するため新交通システムが建設または計画されている。2006年までの台北大都市圏(台北市、新北市、基隆市)の人口は676万人を数え、香港と同規模の都市圏を形成している。2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第40位の都市と評価された[2]。

また台北市南部には台湾に出稼ぎにきたフィリピン・ミャンマー人らが密集して居住する地域が存在している。これらの地域は従来交通不便地であったが、交通インフラの整備により急速にベッドタウン化が進んでいる。

2006年には高雄市との高速鉄道の完成に伴い、それまで工業都市として発展していた高雄地区が工場の海外移転及び脱工業化にともない産業が空洞化したことで、高雄都市圏の人口を吸収する可能性も指摘されている。2017年にはユニバーシアードも開催され、台湾で初の国際総合スポーツ大会となる。

参照元:ウィキペディア「台北市

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台北市の名物料理・銘菓

June 13 [Thu], 2013, 0:06
・小籠包
小籠包は、台湾で広く食べられている一般的な料理である。台北市には、観光客に人気のある鼎泰豊の本店があり、ニューヨーク・タイムスの「世界の10大レストラン」に選ばれている。観光客は、このような有名かつ比較的高級な店に集中しがちであるが、台北では特別な料理ではなく街中の食堂で安価に提供される庶民の味である。

・牛肉麺
牛肉麺は、牛骨や筋からダシをとったスープにやや太めの麺を入れ、牛肉の角切を煮込んだものや香菜などをトッピングしたもので、台湾料理の最もポピュラーなメニューの一つとして定着している。八角など中華料理特有の香辛料をふんだんに使ってあるため、日本の中華麺とは異なった独特の風味がある。

・魯肉飯
魯肉飯は、白飯の上に豚そぼろ肉を乗せて甘辛いタレをかけた台湾の煮込み豚肉かけ飯。台北では庶民から親しまれ、ほとんどの食堂で見ることができる料理である。白飯の上に蒸して細く裂いた鶏肉を乗せたものは鶏肉飯。

・蚵仔煎
蚵仔煎は、台湾の代表的な小吃で、カキ入りのオムレツ。台北の夜市の定番メニューである。

・愛玉
愛玉は、レモンシロップなど甘みのあるシロップをかけて提供されるゼリー。台湾の夏の風物詩で、屋台やデザート店、レストランなど幅広い場所で食べることが出来る。

・タピオカティー
タピオカティーは、ミルクティーに大粒のタピオカを入れた台湾発祥の飲料。夜市の店頭で販売しているほか、コンビニエンスストアの棚にも並んでいる。

・鳳梨酥
鳳梨酥は、パイナップルジャムとバターで作った餡をクッキー生地の皮で包んで焼いたもので、日本では一般にパイナップルケーキとも呼ばれている。台北を代表する銘菓のひとつに数えられる。

参照元:ウィキペディア「台北市

台北市の観光スポット

June 13 [Thu], 2013, 0:05
○寺廟
・龍山寺
・普済寺
・臨済護国禅寺
・東和禅寺
・本願寺台湾別院
・大龍峒保安宮
・艋舺清水巌
・行天宮
・指南宮
・孔子廟
・霞海城隍廟
・国民革命忠烈祠

○博物館・記念館
・故宮博物院
・国立台湾博物館
・中正紀念堂
・国父紀念館
・金瓜石黄金博物園区 (黄金神社)- 台北市内ではないが日帰りツアーが多数ある。

○建築物
・中華民国総統府 - 博愛特区
・円山大飯店
・台北101

○繁華街
・士林夜市
・饒河街観光夜市
・華西街観光夜市
・永康街
・迪化街
・西門町
・北投温泉街
・九份 - 台北市内ではないが日帰りツアーが多数ある。

○公園
・二二八和平公園
・林森公園(三板橋日本人墓地)
・士林官邸
・基隆河-河浜公園
・猫空−台湾茶の名産地
・陽明山

参照元:ウィキペディア「台北市
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