芭蕉翁塚は義仲寺へ

September 08 [Mon], 2014, 17:31
芭蕉翁の生家、即ち、松尾家の菩提寺は、伊賀上野の真言宗偏光山願成寺、愛染院である。本来ならば、当然、 ここに、芭蕉翁は、埋葬されるべきである。当寺は、生家より、歩いて三分もかからない距離にある。だが、実際には、近江膳所の義仲寺に、その亡骸は、埋葬されている。何故なのか。
芭蕉翁自身の遺言によるというのが、通説である。近江蕉門らによる謀略なのではあるまいかと、メフィストが私の耳元に囁く。それほど、芭蕉翁臨終に立ち会った近江蕉門らの行動に不可思議な所が多いのである。
芭蕉翁の遺言について、よく根拠にされるのは、路通の「芭蕉翁行状記」である。しかし、路通は、当時、加賀に旅行中であり、臨終に居合わせることが出来なかった。あくまで、近江蕉門からの伝聞なのである。遺言の存否については、謎のままである。遺言とされる内容についても、首肯しかねる。
芭蕉翁は、臨終の一両日前に、枕頭の乙州に、「骸は、木曽塚に送るべし。ここは東西の巷、さざ波きよき渚なれば、生前の契深かりし所なり。懐しき友達の訪ねよらんも便わづらはしからじ」と言い遺したことになっている。だが、臨終に際しての芭蕉翁の言葉にしては、あまりにも、俗っぽい内容であると言わねばならない。一方、其角は、「芭蕉翁終焉記」に、遺言を、「幻住庵はうき世に遠し、木曽殿と塚をならべて、有したはふれも」という文言で伝えている。しかし、この内容も、臨終に際しての緊迫感が全くないと言わざるをえない。
其角は、なるほど、江戸生まれであるが、父東順は、もと近江堅田の人であり、膳所藩主本多氏に仕えたのである。
臨終に居合わせたのは、大方、近江蕉門の人々であり、郷里の実兄に連絡を取ることもなく、亡き骸を義仲寺に運び込んでしまったのである。そう言えば、危篤の知らせすら、なぜか、伊賀には伝えていないのである。
たとえ、芭蕉翁自身の遺言が有ったとしても、臨終に立ち会った近江蕉門らは、実兄と相談し、実兄の承諾を得るのが筋であろう。
ところが、近江蕉門らは、まるで、奪い去るかのように、亡き骸を素早く持ち帰ってしまったのである。同行者は、乙州、其角,去来、丈草、正秀、木節、惟然、支考、呑舟、次郎兵衛の十人である。芭蕉翁が、午後四時頃、亡くなると、その夜、直ちに船で淀川を下り、翌朝十時すぎには、大津の乙州宅に入っている。翌日、義仲寺にて、葬儀、埋葬。何もかも、余りに早過ぎる。
芭蕉翁の亡き骸を何としても、我が郷里へ持ち帰りたいという一心が感じられる。
これら一連の事を全て、芭蕉翁が臨終に際して指示しておいたとは、到底、想えない。芭蕉翁の亡き骸をめぐって、実兄及び伊賀蕉門との確執を避けたいという近江蕉門らの意志。そして、芭蕉翁への尋常ならざる尊崇の念。それにしても、実兄及び伊賀蕉門に対する、無礼極まる近江蕉門らの行動は、許され難いと言わざるを得ない。

行く春を近江の人と惜しみける はせを

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