がんばろう 

2006年09月12日(火) 13時55分
・焦って、ゴールを見失わないこと
・その場のことだけでなく、常に先を考えること
・ゴールは目の前にはない
・都度で必要な手段と最終的な目的を見誤らないこと
・ひとつの手段の失敗に落胆せず、矢継ぎ早に次の手を考えること
・非連続のレイヤーが積み重なり、ゴールに導く

手段と目的 

2006年08月30日(水) 9時49分
この前、以前から気になっていた物件に、
ローン落ちで空きが出たため、一念発起して、マンションを買った。

これにより、大きな借金を背負うことなり、
これまでのように、のんべんだらりと日々つらづら
生きてゆくことはかなわない。

ただ、なりゆきで欲しかったから買ったのではなく、
「背水の陣」と題名を打ち、これからの人生に発破を
かけるために買ったのだと思っている。

住宅は寝泊りするための場所であるが、
現代社会において、ただそれだけのものではない。

・ライフスタイル向上
・資産運用

といったような目的を持って買われているのであって、
雨露をしのぐためだけではないのだ。

つまり、マンション購入は人生における
目的であり手段でもある。

ただ、見誤ってはいけないのは、
買うことや住むことがゴールなのではなく、
この手段により、

・収入アップのために仕事をがんばる
・家を媒介に、いろいろな人と知り合う
・ただ食って寝るだけでなく、新しい趣味を楽しむ

など、応用的な目的を達成していかないと意味喪失である。


ゆううつだ 

2006年08月08日(火) 20時54分
何のために仕事をするのだろう?
社会貢献、会社の利益のため、自分の成長のため、
お金のため、他にすることがないから。。。

そもそも何かの理由があって仕事をしているのか、
後付けで、無理やり理由を付けているだけなのか。。。

今日はやる気があって、明日はやる気がない。
遊びに行けば、楽しいけど、
遊びに行くのは面倒くさい。

新しいことをすれば、はまるけど、
新しいことはそういっぱいない。

マイ・思想 〜 その2 

2006年07月03日(月) 6時02分
今では誰もが合理的選択をすることができる。人生に数ある選択肢で、勝ちパターンをつかみ、常に合理的に正しい方を選ぶことができる。人に相談をしても、多くは「本当に正しい」合理的選択を提案されることが多いし、正しい人であれば、必ずそこに触れるはずだ。ただ、どうしても言いたいことは、その中に2種類いることだ。片方はどうしても、信用に足らない人間で、そのアドバイスも納得できなければ、その相談時の会話も停止してしまうぐらい、僕にとっては許しがたい蛮行なのだ。それは、話術による枕詞はあれど、何の躊躇もなく合理的選択のみを語る人間だ。2種類の人間のうち、もしかしたら、双方とも同じような言い方をするときもあるかもしれない。しかし、どんなにコミュニケーション能力が高くて、うまい言い方をしても、所詮その場限りのスキルでしかなく、人の情念までをごまかすことはできないのだから、その言葉は、その場ですぐに見え透いてしまうのだ。

僕は人の情念を大事にしたい。人の情念とは、その場限りの気持ちや判断というものではないし、思想のように、論理的に系統立てられた思考方法でもない。その人が歩んできたプロセスで染み付いているしぐさであり、親兄弟で共有している家庭の思想行動であり、ギリシア神話より、人類の精神を支える大きな屋台骨である。

情念はギリシア語のpatosの訳語である。パトスはラテン語、フランス語へと派生していく中で、passionに変化し、意味も「情熱」という意味になった。しかし、ここで語る人の情念は、情熱という言葉よりも大きなものであり、性質が異なるものである。情熱は昇華されないとストレスや怨念になるが、情念はそもそも昇華されるようなものではなく、輪廻もしない、積み立て型のもので、一人では築けないものである。人の情念は家族や友人をはじめとした身近な人間と一緒に作られるものだ。情念とは、良い悪いという相対的なものではない。

芸術に感動する心も情念だ。芸術に感動しない人間に情念は宿っていない。その人間は、何かがきっかけで、ある段階で情念を閉ざしてしまった、合理的選択をするだけの装置、合理性ロボットのような人間だ。また、強いて言う必要もないが、偽物の芸術にうっかり感動してしまう人間にも情念はない。ないというか非常に希薄だと言える。

マイ・思想 〜 合理的精神との決別 

2006年07月03日(月) 5時58分
マックス・ヴェーバーの著書『プロタンテスティズムの倫理と資本主義の精神』にある世界が、現代の礎となる思想であるのであれば、それはある種の人間によって、恣意的にもたらされた蛮行であると糾弾したい。古典的東洋思想への回帰ではなく、ただ単純に、その世界で生きる人間として、「人間」自体が取り残されて、人々の情念が無情にも、忘れ去られてしまっていることが恥ずかしいからだ。

19世紀、欧米諸国で銀行や新聞をはじめ、新しい産業を形成していった人種は、カトリックではなく、プロテスタントであった。その名の通り、起源では本流ではなかった彼らの思想は、「金儲け解禁」というだけではなく、それなりの戒律をもって十分に自らの精神、彼らの社会性を保つにふさわしいものだったから、現代でも続いている。日本の場合は、プロテスタントの戒律なしで、資本主義が始まった。よく教科書に出ていた、当時の海外の新聞の挿絵で、鹿鳴館に集まった華族の顔が猿になっているものや、眼鏡に和服の出っ歯の男が札束を数えている図などに象徴される成金主義で、ブカブカの西洋主義でしかなかった。が、それは今でも何も変わっちゃいない。ただ、歴史に埋もれて見えなくなってしまっているだけで、むしろ、もっとひどくなっていると思えてしょうがないのだ。

端的に言えば、日本は未だにいびつな資本主義思想であり、西洋のプロテスタンティズムのような自己犠牲や社会貢献といった、人類の生活にすでにあった人類愛的な精神がすべて吹っ飛んでしまっていて、なんだかおかしくて、居心地が悪くてしょうがないのだ。もちろん、すべての人がそうである訳ではないが、鹿鳴館の華族とは別の、現代のニュ−ラグジュアリー的なものの考え方、そのひとの情念、言い換えると、その人を含む周りの人の情念の気配が全く感じられない、チープな合理性があふれすぎていておかしいと思うのだ。

ブログを再開します! 

2006年05月07日(日) 0時19分
洋服を買いにいこうと、街へ出る途中、梅田望夫氏の著書、「ウェブ進化論」を読んでいたら、妙にテンションが上がってきて、勢いで【iBook】を買ってしまいました〜

ってなわけで、徒然なるままのブログを再開いたします!!

いや〜、1年前に泥棒に入られてから、ずっと自宅PCはなく、もっぱら会社PCに依存していたため、緊急の調べごとぐらいしか私用でPCを触っておりませんでした。しか〜し、そんなことではIT企業で働く人間の端くれとしてよくないんではないかという罪悪感があった。もしくは、潜在的な強迫観念もあったりして、精神的ストレスにもなっていたかもしれません。まあ、ずっと会社ではPCの前に座っているので、家でぐらいはPCから離れたいという思いがあったけど、結局、家に帰っても、テレビを見たり、新聞や本を読んだりで、モニターから離れない&情報インプットという意味では、あまり現代のストレス社会から逃れることはできていなかった。また、別の観点からいうと、そもそも、仕事のストレスはPC自体の問題ではなく、仕事自体が原因なわけで、PC自体が嫌いじゃないなら、むしろウェルカムなはずなのです。

まあまあ、そんなわけで、プライベートかつ楽しむためのPCライフ&インターネットライフをエンジョイするのが目的でMacを買ったワケです。いや、テンションが上がったせいで、通常のWinPCでは満足しきれず、
Macコーナーまでいってしまったというのもあるし、衝動的に途中下車した秋葉原のヨドバシカメラの売り場で、NECのPCを叩き売りしていたので、なんかWinは買いたくなくなってしまったということもあります。

久しぶりに、ブログを書いたら、意味のない心の葛藤みたいな記述を長々してしましました。本来的にこうした文章を望んでいないのですが。。。まあ、再開後、第1回ということでご容赦ください。

そして、7年ぶりぐらいにMacをいじってみると、あまりにもWinに慣れすぎて、使い辛いったらありゃしないっていうの。。。ほんと。でも、初めて買ったPCがiMacだったので、懐かしくもあり、いうほど操作がつらいわけでもないか。なんか常に2つの見解が頭の中にあって、文章化するとかなり変な人であることが顕在化しますわ。まあ、両極端か見解がお互いを内包しつつ支え合っていることで、その存在というか見解をリーディングしている僕の意識が浮力を得て、前に進んでいくみたいな。。。
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