柳津村の「郷蔵屋敷」と「御蔵屋敷」

June 28 [Tue], 2016, 13:58
字「市場」の屋敷の中に「郷蔵屋敷」(9.5間×6間・・・・・1畝27歩)


屋敷の形状を見ると、13.5間×2.5間(吉兵衛)、15間×3間(小左衛門)スレンダータイプと8×6、6.5×6、9.5×7.5(単位は間)のようなブロック状タイプに2タイプあることが分かる。畑の中にも9.5×2というのがあり、両者は機能的に性格の異なる建物が建っていた屋敷地ではなかったか。10数軒の屋敷がかたまった形で存在していたようだ。


元禄検地帳記載された今津村の寺

May 31 [Tue], 2016, 19:42
元禄検地帳記載された今津村の寺
除地として境内の藪を含めお堂の敷地が登録されている。



寺所有の課税対象地
善性寺・・・・字仲間に畠と共に屋敷(11間×9間・・・・3畝9歩)が記載されている。

同様に薬師寺は字町上に屋敷(16間×9間・・・・・5畝10歩)、その周辺に1反数畝の畑地があり、これらを含めて考えると境内は600坪程度になった。墓地(4畝10歩)は境内西隣に当たる字「西さこ」にあった。

これは町上という土地柄と屋敷地の大きさから考えて薬師寺境内の僧侶たちの生活棟などの課税部分を記録したものだろ。

どうように蓮華寺の場合は見ておくと

元禄検地帳にみる「今津町」の屋敷と「惣四郎(宗四郎)」屋敷の場所について

May 27 [Fri], 2016, 19:46


惣四郎は『沼隈郡誌』にある今津村庄屋宗四郎(河本氏)のこと。屋敷地は18間×9間・・・・面積は5畝12歩で今津村では最大規模。この惣四郎は「町後」にあった村蔵(後代の郷倉ヵ)藪を保有。なお、蓮華寺のあった「西ノ坂」に牢屋敷・郷蔵屋敷、薬師寺の在所は「町上」。今津宿における本陣(元禄期の河本屋敷は東剱脇という別の場所にあった)と蓮花寺(脇本陣、元禄期には蓮花寺は今日のように王子丸丘陵の一角にはなく、無論蓮花寺旧墓地のある字「西さこ」の立地していた訳でもない、在所は前述の通り字「西ノ坂」)といった今日みられるような形態は元禄期にはまったく見られなかった。

字「今津町」に屋敷を持った「善四郎」は野取帳に記載された平櫛善四郎(屋号:大久保)のことだろか。


今津町は今津宿の中核部を構成する字「町」のこと(元禄期の「今津町」と明治期の野取帳での字「町」が区域的に同じかどうかは今のところ不明)。惣四郎はここに上々畑(4畝21歩)を持つ。東剣脇の5畝と今津町の4畝(上々畑)はおそらく一体のものだったはず。今津村検地帳(2番帳)の記載順(大明神→広坪→柳ノ内→東→(?)→東剱脇→今津町→沖)から東剱脇と今津町は隣接し、前者(東剱脇、総地積=1町7反8畝2歩)は惣四郎屋敷を含めて5つの屋敷と下畑・下々畑、下田・下々田(32筆)によって構成された区域だった。
明治初期の野取帳では河本氏は字町741番地に913坪6合(3反13歩)の屋敷地を有しており、明らかに地積も場所も元禄検地帳に記載された内容とは異なる。現在の本陣は『備陽六郡誌』が山屋敷と記述しているものにあたるが、これは元禄期以後に建造されたもののようだ。
屋敷地面積第二位の次郎右衛門屋敷が3畝27歩(13×9間)。
町場を形成する「今津町」分としては畑地(空き地)を含みながら屋敷地で27,8程度が存在したようだ。台帳上は今津町に隣接して記載されている東剱脇に5宇の屋敷があり、仮にこの東剱脇が今津町の続きにあったとすれば30戸余りの家々が軒を並べていたことになる。




小畑正雄『浦崎村史』昭和59

May 27 [Fri], 2016, 14:39
昨日、浦崎の小畑家を訪問し、小畑正雄著『浦崎村史』という700頁近い大著を何冊か入手した。
この本は正雄が尾道市役所浦崎支所長を退職し、その後20数年の歳月をかけてコツコツと調べ上げた郷土誌作品だ。





上立石にある渡辺さんの溜池はもっか水蓮満開

May 22 [Sun], 2016, 14:31




上立石から大平山を望む

大平山一帯は本郷・神村・今津の入会地であったが、文化文政期に出された今津庄屋の質問状に対する老練な本郷庄屋(八兵衛)の返書の中身(字大平という場所は本郷村元禄水帳に記載された天神後17町5反(実測を伴わない大まかな数値)に内包されること、そして入会山なら湯女奥~みょうと口がそうであり、藩有林(御林)内になるが小田谷については山鑑札は必要だが5-9月の間だけ落ち葉の採取可能との返答)が、そのまま、もの知らぬ今津村庄屋(河本四郎左衛門,1792-1845)によって受容され、以後今津は大平山一帯の入会秣場(⇔牛馬飼場=林間放牧地)問題に関してはカヤの外へ放り出され、以後、大平山一帯の山論は神村と本郷村(本郷村民らは15,6年前から新たに開墾活動を開始)との二者間の問題として大平山を東西に折半する形で決着が図られていったことが判る
それまでの大平山一帯は今津村安毛、神村松本方面から「牛馬飼」に来るとしており、元禄検地によって「村切」が徹底されていた訳でもなく、恐らくは旧慣通りに三ヶ村による秣場or林間放牧地=牧の様相を呈していたらしい。
本郷村と今津村との間の山論はその後本郷奥山(「野山」と呼ばれた入会山)を巡るものに限定された形で、昭和12年大審院判決で決着を見るまでの、まさに「100年戦争」の様相を呈していく



入会秣場の用益権を巡り本郷/今津村間において山論の絶えなかった大平山一帯の今

May 16 [Mon], 2016, 18:37

石炭の燃焼カス(Coal Ash Slag)の処分場が町場化?-西町回遊-

May 13 [Fri], 2016, 16:51


昔懐かしい大八車。車輪だけ鉄の箍(たが)付きの木製ではなく金属+ゴムタイヤで新しい。荷台の感じから下駄でも運搬したのだろ。

稲木・・・・最近まで小代地区のこの辺りには水田があった。

全景・・・・・場所は松永中学の東方

かつての三木醤油の真ん前の更地と浜子(塩業労働者)たちが居住した路地裏の共同井戸?

車が通行する道路は今津島の旧堤防。最近まで三木醤油のあった場所に明治16年長谷川櫻南の漢学塾浚明館があった。荒川さんに通じる東西道路は近年拡幅され、かつて道路脇を流れていた千間悪水は暗渠化。これまでまったく気づかなかったのだが・・・・・、そういえば、この道路の南側には今津島の堤防の高さまで盛り土された屋敷地が目につくのだ。その盛り土というのが今回話題にしたいあるものだったのだ。そのあるものとは・・・・・

石炭の燃焼カス/Coal Ash Slag。製塩で使われたCoal Ash Slagで堤防北側の旧農地は埋め立てられていたようだ
石炭火力を主とした近世末以後の製塩地帯では石炭カスの処分に頭を悩ませていた。松永では干潟だけでなく田畑を宅地転用する際の埋立用土として活用されていたことが分かる。

三木醤油の向かいのこの屋敷は石炭の燃えカスで盛り土されていた。土蔵がこちら側(つまり荒川さんに通じる通路で、その脇を千間悪水が流れた側)にあるということは荒川さんに通じる道路は裏道で、おもて”街道”はあくまでも今津島の堤防道であったことになるだろう。元は一つの家の屋敷地だったが、後年裏通り側と表通り側とに分割されたようだ。


三木醤油の陶器製・醤油樽(10ℓ詰め)

ボードレール(馬場睦夫訳)『悪の華』、洛陽堂 再版、大正9年

May 06 [Fri], 2016, 15:22
ボードレールの『悪の華』といえば、どの翻訳本を選ぶかがまず問題のようだ。

翻訳書は多々あるようだ。
多田道太郎篇(京都大学人文科学研究所)『悪の花 註釈』3巻(平凡社)
堀口大學訳『悪の華』(新潮文庫)、近年に改版
鈴木信太郎訳『悪の華』(岩波文庫)、近年に改版
安藤元雄訳『悪の華』(集英社文庫)
杉本秀太郎訳『悪の花』(彌生書房)
阿部良雄訳『悪の華 ボードレール全詩集1』(ちくま文庫)、元版「全集1」筑摩書房
福永武彦訳『悪の華 ボードレール全集1』(人文書院)
齋藤磯雄訳『悪の華』(東京創元社、のち創元選書)

堀口大学のものは誤訳が多く、ダメで、どうも上記の文庫本「4冊のなかから一冊を選ぶとすれば、ちくま文庫の阿部良雄訳以外に選びようがない。阿部良雄は個人でボードレールの全著作を翻訳した実績のある、日本のボードレール研究の第一人者である。当然翻訳は4冊中最も正確だし、訳注もいちばん充実している。内容の理解に役立つという点では、阿部訳の右に出るものはない」ということになるらしい。

松岡正剛によると
「周知のように『悪の華』はあっというまに告訴され、その汚濁趣味、悪魔主義、姦淫肯定などが処罰の対象となった。ボードレールは作品ではなく、罪状で有名になった」。

三つ葉あけびと五葉あけび

May 01 [Sun], 2016, 16:12

高島平三郎『家庭教育』、明治36年

April 21 [Thu], 2016, 17:21
日本女子大教授だった高島が静岡市教育会主催の夏期講習会で講演したものを口述筆記したものだ。



教育論=学校教育論だった時代に、家庭を子弟教育の場として注目した当時としては新しいトレンドを打ち出した内容だ。






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