旅行記 5 

February 01 [Wed], 2012, 21:36
 某月某日 書院門



 西安に来て数日が過ぎた。
 西安は陝西省の省都であり、行政区分でいうと「市」になる。市といってもその大きさは途方もなく、東京都と千葉県と神奈川県を合わせたよりも少し広いらしい。
 西安の中心部は四角く城壁で囲まれている。きっちりと正確に東西南北に向かって面しており、たぶん一辺が3〜4キロほどはあるだろうか、総距離でいえば十数キロはあるだろう。
 昔はこの城壁で囲まれた内側が都として栄えた。高くて重く、どこまでも続いていく城壁は、現在の感覚でみても、当事の文明の高さを感じさせ、延々と続いてきた歴史の永さと深さに引き込まれてしまいそうになる。
 その南側にある城壁に沿うように老街(旧市街)がある。
 西安の気候は大陸性気候らしく、年を通して降水量は少なく、乾燥してるからだろうか、昼夜の気温差が大きいように感じる。 この乾いた気候が西安の城壁と老街にある古い石造りの古民家を守ってきた。
 この老街にある書院門という読んで字のごとく書画を生業にしている街にあるユースホステルに滞在している。
 
 このユースホステルは石造りの古民家を改築したものらしく、3階建てになっており3階部分には猫の額ほどではあるが日当たりのいい石畳の屋上兼中庭がありゲストや従業員の靴下やパンツやらの洗濯物が水を滴らせながら干されている。
 この中庭を囲むように3〜4部屋が孤立し、そのうちの一部屋を友人夫婦と共に借りている。
 部屋の扉は古い中国映画でよく見るような観音扉で閂をかけ南京錠で鍵をかける。部屋はそんなに広くなく、入ると備え付けのベットが二つあり布団と間違えてしまいそうなペラペラのマットレスが敷いてある。よく掃除がされていて、壁はぴかぴかに白く清潔感があるが、よく見るとところどころにこれまでの借主が潰したと思われる蚊と吸われた血液が赤黒くこびりついている。陽光は十二分に入ってくるが何故か窓は低い位置と高い位置に小さなものがあるだけで外の景観は楽しめない。乾燥地帯や高地の宿に泊まるとどうしてか窓が小さかったりするが、日差しが強いために大きな窓では眩しくなりがちになってしまうのだろう。


 朝になると、毎回決まっているかのように凛とした、清々しいばかりの空気と朝日が老街を満たしてしまう。
 昨日と同じ色の太陽が昇り、昨日と同じように澄んで乾いた風が控えめに吹いている。日差しはピンと張りつめた音が聞こえてきそうなほど鮮やかで眩しいが、朝の静寂を明るく優しく纏め上げている。風は葉の一枚も揺らすことなく少し冷たいが肌に馴染みほどよく身と心に沁み込んでくる。スズメが餌を探して忙しく飛び回り、気の遠くなる程の時を経た、重く頑丈な石造りの民家に昨日と同じ街路樹の影がくっきりと刻みこまれている。街の隅や角に影が溜まり陰影が濃く深く、光と影が大胆に鮮烈にコントラストを作り出していき、どこかに触れてみれば指先が切れてしまいそうなほど鋭く直線的で、ぐっしょりと湿ってしまいそうなほどに瑞々しい。
 いつの間にか誰も目を向けることのない、誰も気がつかないどこかから人が現れ、湯気の上がる屋台で朝食をとったり、箒と塵取りを手に軒先や石畳の掃除を始めている。仕事に向かう人が少し急ぎ足で現れ、急ぎ足で去ってゆき、広場ではオバサンたちが集まり体操や太極拳をはじめ、オジサンが筆に水を含ませ地面で書画の練習をはじめる。
 たぶん一枚の画のように、毎朝毎朝、ずっしりと重い石造りのような変わることのない朝が続いてきて、これからも続いてゆくのだろう。

 やがてひっそりと、溶けて流れてしまったかのように朝は消えてしまい、汁が垂れそうに真っ直ぐで新鮮でみずみずしいコントラストは丸く鈍くなり、体に沁みこんでくるような澄んだ風は流れを変えガサツに街路樹の葉を揺らし始める。
 体操のオバサン達はどこかに消えてしまい、地面に書かれた書画も跡形もなく消えてしまっている。いくら目を凝らし耳を澄ましてもそこら中にパンパンに詰まっていた『朝』が、きれいさっぱりと無くなってしまっている。そして気がついたときには、ただ強く硬いだけの日差しが叩きつけるようにふりそそぎ、炙られた街路樹の葉と排ガスの匂いが混ざり合って鼻につき、遠くからクラクションと喧騒が聞こえてきて、目が回りそうになる。そしてまた昨日と同じように一日が始まってしまう。

 昼になると空はすっかりスモッグで覆われてしまい、太陽は輪郭があやふやになりながらも乱暴に陽光を散らす。アスファルトやビルにぶつかっては城壁を照らし茶屋の軒先に滴っていく。その陽光の滴りを避けるようにハンカチや日傘をかざした観光客が書院門にやってくる。古民家の壁に書画が飾られ、石畳に売り台が並び、筆を扱う店の軒先で客が試し書きをし、軽食を売る屋台や土産物屋に人が群がり賑やかさが加速していく。

 書院門の西の入り口には小学校があり、毎日昼を過ぎて2時か3時頃になると、校門の前に子供を迎えにきた父母達の人だかりができる。学徒1人につき保護者が1人。父母は仕事中なのだろうか、爺さんや婆さんも来ている。この小学校に通う子供と同じ数の保護者が自転車や電動バイクと共に校門前に集まり、杏子飴やアイスクリームや魚肉ソーセージとテンカスを包んだ中華版クレープなど、腹を空かした子供と親の財布を当てにした屋台も出てきて人の往来もできないほどの混雑になっている。校舎からは笑い声や罵り声、怒号や嬌声が無邪気に響いてくる。きっとあの中ではどこにでもあるような無慈悲で残酷で楽しすぎる子供の社会が繰り広げられていることだろう。
 そのうち一瞬の静寂の時があり、先生の挨拶が終わったのだろうか、校内でいっせいに弾けるような声があがり、「紅領巾(ホンリンジン)」という制服代わりの赤いスカーフを首に巻いた子供たちが嬌声と共に弾けるように校門から飛び出してくる。賢そうな顔や少しのんびりした顔、生意気そうな奴も繊細そうな奴も、連れ立って小突きあいながら書院門の街になだれ込み、瞬く間に街が嬌声と無邪気によって支配されてしまう。どの顔も背伸びをし、迎えに来ている保護者を捜し、父母が首を揺らし一斉に手をあげて子供を捜し、1人、また1人と一緒になって屋台や近くのコンビニへと向かっていく。
 祖父と共にコンビニで首を冷凍庫に突っ込んでアイスクリームを物色する子供、片手に杏子飴をもち、もう一本欲しいとねだっている子供に根負けし、しまったばかりの財布をまた取り出している母親。中華版クレープの屋台では数人の子供がクレープを焼いているのをじっと食い入るように見つめたままで待っている。主人が溶いた小麦粉を薄く鉄板に伸ばし、手馴れたように葱を少しと長方形のテンカスを割って生地の上に乗せる、生地が狐色になるまで少し待った後、胡麻や調味料を混ぜたタレをかけ、縦に半分切ってある魚肉ソーセージを一本乗せ、器用に三つ折にしてたたみ、そのままの熱いクレープをビニール袋に入れて子供たちに手渡す。出来上がるまでに2〜3分くらいだろうか、ひとつひとつ手作りで作っているために、焼きあがるとすぐに次を作りにかかる。代金は主人の倅らしき子供が受け取っている。ひとつ3元、子供のおやつにしては贅沢な代物じゃないだろうか。代金を受け取り、テンカスを用意し、ビニール袋を用意する。たぶん同じ年頃だろう、子供たちから代金を受け取りつり銭を渡すときでも、お互いがそこにいないかのように一切目を合わすことがない。

 朝の日差し、乾いた風、揺れる街路樹の葉、乱暴な日差し、子供の嬌声、間抜け顔、親の手伝いをする子、5元札、単色では鮮やかで輝くような原色も、色とりどりと混ぜていけばどんどん黒ずんでゆき、くすんだ色になっていく。
 社会とは、こういった黒ずみくすんだものである、と、いつの頃からか自然に理解していたつもりだが、でもまだ、荒れる海のように黒ずんでいても、いったん潜ってしまえば穏やかで調和の取れた美しい世界が広がっているのではないかという懐疑の念が心の奥底にへばりついて離れない。




 
 夕刻になり、スモッグに覆われた空をあやふやな太陽が薄く白っぽい橙に染めながら沈んでいく。
 暗くなってくると城壁にネオンが灯り、ど派手に飾られていく。自己主張が強すぎて、眩暈がしてきそうなほどのネオンが灯っている。中国は、どれだけ世界的な遺産であろうと遠慮なくネオンやライトアップで飾り立てる。どこの観光名所だろうが夜になるとギラギラと眩しく、その遺産が積み重ねてきたであろう、重く壮大な歴史が夜になると、とたんに薄っぺらくペラペラなものに見えてしまう。夜の闇には闇ゆえの全てを覆い隠してくれるような懐の深さと居心地のよさというものがあると僕は思っているのだが、これはいったい、と途惑ってしまう。派手な見栄えを大事にする民族性ゆえなのだろうか、裕福に見せたいがゆえの見栄からなのだろうか、見れば見るほどわからなくなってきて途惑ってしまう。
 19時ごろになると、僕らの泊まっているユースホステルの傍にあるバーでバンドの生演奏が始まる。レッチリやらクラプトンやらポリスやらの曲をバーの専属バンドが演奏している。もちろんたいして上手い演奏でも、気分の良くなるような演奏でもない。僕らは3人とも、音楽が3度の飯と同じくらい好きなのだが、誰も見に行こうとは言い出さず、演奏が始まるとそれが合図でもあるかのように、食事に出てしまう。
 書院門のメインストリートには夜になると酒と食事を売る屋台が数件出てくる。今夜はこの屋台、今夜はここ、と料金や味や雰囲気でその日の夕食を決め、一昨日の夜から書院門の一番奥にある人気のない屋台で食事をとっている。もう昼間の書院門を感じさせる喧騒はひとかけらもなく、夜の闇が静かに昼の疲れと傷をやさしく覆い隠している。ここには城壁を照らすネオンの灯りも下手糞なバンドの演奏も届いては来ない。
 数えるほどの客が静かにビールを飲み食事を取っている。
 

 たぶん家族経営なのだろう。
 初老の父親と母親がいて、長兄が鍋をふり、たぶん長女の旦那と思わしき人物が接客をする。長女が串に野菜を刺し、長兄の嫁がその野菜串をボイルする。弟がちょこまかと忙しなく無駄口を叩きながら手伝いをし、弟の嫁らしき娘が乳飲み子を世話しながら、父母の相手をしている。聞いたわけではなく見たままでの勝手な想像だからたぶんこの家族構成は間違っているはずだ。
 それぞれの夫婦に子供がいるらしく孫たちは各々目の届く範囲で好きに遊びまわり、祖父母が穏やかではあるけれども注意深く見つめている。
 電球が数個の薄暗い明かりの中で、家族が家族らしく各々の役割で働いている。

 毎晩のようにヤキソバと胡麻ダレで食べるボイル野菜にビールしか注文しないのだが、注文するたびに『辛くするか?』と聞いてくる。中国語が解るわけではないのだが、『辛(ラー)』という単語を強調してくれるので解りやすい。
 たぶん父親の方針なのだろう、書院門のほかの屋台のように観光客だからといって余計な欲を出さない。その辺りがこの店の味に現れているような気がし、穏やかな気分になる。





 「カンカン」と今日も長兄のふる鍋の音がする。
 壁に書かれた漢字の落書きが白昼灯に照らされている。

 今日が誕生日だった友人を祝い、勘定を払いながら「この辺じゃここが一番ね、他は駄目ね、ダメダメよ」と釘を刺して帰った。

 後数年たったら、どんな風に育ち変わっていくのか。西安の発展に取り残されてしまわないだろうか。
 時間は過ぎ、どんなものも変わっていく。もちろん僕の心もだ。どんな杞憂も心配もどうしょうもないと思うが、この屋台は穏やかで美しかったと、今でもそう思っている。

旅行記 4 

November 29 [Tue], 2011, 11:59
 某月某日 西安



 『胡』という文字がある。
 サンズイを足せば『湖』になるし、コメヘンを足せば『糊』になる。だがこの『胡』という文字自体は一般的に普段の言葉の中では登場しないし、一文字一文字に意味を持つ漢字の中でこの文字の持つ意味が何であるかはよく知られてはいない。

 紀元前の昔、まだ秦の始皇帝が中国を統一する以前からこの『胡』という文字は北方に住む少数派の遊牧民族の総称として使われていた。
 当時は春秋時代になる。
 農耕を生活の礎とし、まだ主流ではないが儒教という思想が生まれ礼節を重んじる文明社会になりつつあった。
 当事の中国文明に生きる者からすれば、格式もなく礼制もなく、だだっ広い草原に住み、定住する家もなく羊を追いかけて暮らす遊牧民族の生活など到底理解することはできなかっただろう。
 この北方の遊牧民族は、毎年秋になると広い草原のどこからか現れ、収穫物や女を略奪し消えてゆく。馬に乗り、過酷な自然の中で生きる精悍そのものの遊牧民族に当事の儒教文明はなすすべもなく敗れるがままだった。

 中国側からすれば、礼節も文化もなく(と、思っていた)一方的に侵略し略奪していく乱暴者たちを、外敵で卑しむべき野蛮人だと思うのも無理はないし、「礼」を重んじるから人である、という儒教思想を尊ぶ自尊心からすればこの北方の侵略者を自分と同じ「人」ではないと思わざるをえなかったのだろう。当事の中国は彼らの呼び名に積極的に野蛮人をイメージさせる「北狄(ホクテキ)」「匈奴(キョウド)」「鮮卑(センピ)」「羯(ケツ)」「羌(キョウ)」などという、犬を意味する獣偏や羊偏の文字、あからさまに「卑」や「奴」という字を当てはめ自ら進んで蔑称した。

 もちろん、どちらが侵略者だとかの話ではない。どちらにも文化があり生きていくための道理があったはずである。
 歴史に正解はない。これは「字」という文明を持っていた中国が自分の立場から残した記録の話であって、歴史的見解はもっと奥が深く複雑な根が這っているはずだと僕は思っている。ただこういう文字を使い蔑みたい気持ちに駆られるほどの関係だった、ということだけを理解していればいいと思っている。

 その後、時が過ぎ、この北方の遊牧民族の総称であった『胡』という呼び名は西方の遊牧民にも使われるようになった。


 その西方の遊牧民の住む地を中国では「西域」と呼ぶ。主にはタクラマカン砂漠のあるタリム盆地のことをいうが、後に中央アジアや中東、地中海沿岸あたりまでを西域と呼ぶようになった。古くからこの西域はシルクロードとして文化や民族や産物の交易路であり、さまざまなものがこの西域からやってきては普及し、土着の文化と混ざり合った。
 その西域との交易で得た文化や産物や民族にも当時の中国人は『胡』という字を当てはめた。これは今現在、僕らの生活の中にもその名残がある。『胡瓜(きゅうり)』『胡麻(ごま)』『胡椒(こしょう)』『胡桃(くるみ)』『胡蝶』など、『胡』から来たものとして中国に広がり、そして日本に伝わった。

 辞書を調べてみると、『胡』という字のもつ意味として北方や西方の遊牧民族を指す他に“ひげ(垂れて顎を覆ったあごひげ)”や“なに・なんぞ”と書いてある。この“なに・なんぞ”は疑問詞になる。
“なに・なんぞ”という疑問詞は正体の見えないものという意味で、純粋に北方の理解できない遊牧民族に対しての意味であると理解したいが、なぜ“ひげ”という意味が付いたのだろうか。北方の遊牧民族は“あごひげ”を蓄えていたのだろうか。だとすると中国に住む人々には“あごひげ”がなかったのだろうか・・・、『胡』という文字が遊牧民だけではなく北方・西方地域も含む広く意味するものになっても、この『胡』という文字に染み付いた“蔑むべき野蛮人”という意味合いは消え去ってはいないのではないだろうか。その蔑むべき野蛮人と同じ“あごひげ”を生やすことを中国に暮らす文明人のプライドが許してくれただろうか。と、子供のこじつけみたいなことを考えてみる。
 “ひげ”を他に調べてみると、中国では“垂れて顎を覆ったあごひげ”は『胡』であっても、他に“柔らかいあごひげ”を意味する『鬚』や“短いひげ”を意味する『髭』という文字があり、“ひげ”は“ひげ”だが、これは『胡』ではなく『鬚』であると、たいして違いはないと思うが、同じように見える“ひげ”でも文字で差別化したのではないのだろうか。

 もしかすると、『胡』の意味する“垂れて顎を覆ったあごひげ”は後から付けられた意味なのかもしれない。
 唐王朝の後期にはイスラム教徒も唐の都「長安(今の西安)」にやって来ていただろう。イスラム教の始祖ムハンマドが説いた教えでは男性は口髭を剃りアゴヒゲを伸ばすよう教えられている、敬虔なムスリムになればなるほど立派なアゴヒゲを蓄えている。
 勝手な想像だが。唐王朝の後期、アゴヒゲを蓄えた商人が長安にやってきた。頭を剃っていてアゴヒゲだけを生やしていて一日に何回も西に向かって跪き祈りを捧げている。『胡』から変わったやつが来たなと話題になったことだろう、「なんだいあの顎を覆ったアゴヒゲは?」といった話になり、同じようなアゴヒゲを生やした人に対し「『胡』のようだ」となかば小馬鹿にしたのではないだろうか・・・、もちろん漠然とした想像なわけだが・・・。


 唐の時代、『胡』からシルクロードを通りやって来た民族はもちろん男だけではなかった。『胡』からやって来た女を『胡姫』と呼んだ。もちろんヒゲはなく、紅毛碧眼のイラン系だったといわれている。髪は紅く瞳は碧い、黒髪で黒い瞳のモンゴロイドである中国人からすれば古くからシルクロードを通ってやって来ていた民族であり知らない訳でもなかったのだろうが、やっぱり異様な存在だったろうと思う。ただ、その紅毛碧眼のアーリア女を唐に住む人々は「美しい」と感じた。その証拠に唐王朝時代、長安には『胡姫』が客の相手をし葡萄酒を飲ませるバーがあった。1〜2件のもの珍しさを売りにするようなバーではなく、街を形成するほどの数だったという。夜な夜な玉を削って作られた杯に葡萄酒を満たし、酌をするだけではなく踊っていたりもしたのだろう、胡姫の美しさに酔いしれ、夜半過ぎまで西域の楽器が鳴り響き賑わっていたのだろうか。

 当時の長安は、文化や民族が混ざり合い世界で1〜2位を争うほどの華々しい文化をもつ世界最大の都市だった。周りの国々や民族からすれば、驚くほど垢抜けた都市だったことだろう。




 その、垢抜けていた長安の都に立っている。目の前に長城が聳えている。


 昨日の朝、青島を出発した列車は23時間ほどかかり、陝西省の渭水盆地の南に位置する西安に到着した。

 長安は今では陝西省の省都として「西安」と呼ばれている。列車を降り、駅を出るとすぐ目の前には長大な長城が聳えている。西安の駅を出て聳える長城を目にすると、不思議とやっと「中国に来たな」という想いが起こってくる。

 西安駅は街の中心部を四角く囲む長城の北側にあり、長城は駅前だけ人民の往来を妨げないように下の部分がくりぬいてあって駅前広場の馬鹿でかいモニュメント兼屋根になっている。
 以前来た時は人がひしめいていて、長城の下に宿代を浮かす為に寝泊りしている人民が多くいた、数時間か数日か、はたまた数週間か、列車の出発をひたすらに待ち、拾ってきたダンボールを敷き大きな荷物にもたれかかり、裸同然の格好でなにをするわけでもなくキョロキョロと辺りを眺め回し、汗に濡れ真夏の乱暴な炎天下を団扇や扇子をパタパタと扇ぎひたすら耐え忍んでいた。新聞売りが大きな声で売り歩き、捨てられたペットボトルを乞食が拾って回り、長城の下は猥雑で、ちょっとした集落のようになっていて近寄りがたい雰囲気があったが、今回はあの猥雑も集落も見あたらない。当局の指導が入り追い出されでもしたのだろうか、それともただ人の寄り付かない時間帯なのだろうか。

 朝の光は爽やかで眩しく、まだ熟れてない青く鮮烈な陽光が広場に長い影を落としている。空気は乾燥し暑くもなく寒くもなく、空は晴れ渡り、ただただ過ごしやすく感じる。辛かっただけの夏もそろそろ終わりに近づいているのだろう。
 空気は悪いはずなのだが澄み切っているとしか僕には思えず、伸び上がって深呼吸をしたくなるほどの爽快な気分になる。毎日続いた青島の湿っぽい曇り空から抜け出せたためだろうか。ただただ西安の朝は乾ききっていて気持ちのいいものだった。

 駅前広場はやはり人が多く、布団や鍋釜を抱えた身なりの粗末な出稼ぎ労働者や、ポロシャツの襟を立てスーツケースを引きずる旅行者が駅に入れずにひしめいている。アゴヒゲを生やした人はいない。くりぬいた長城の向こうにはマクドナルドの看板が見え、バスやタクシーが混みあい雑踏のざわめきと遠慮のないクラクションが低く響いてくる。朝の気持ちの良さからか、これからそこを通り抜け宿を探しに行かねばならないというのに憂鬱な気分にならない。西安からは列車だけではなく中国全土に長距離バスが出ている。長い間バスや列車に揺られて降り立つ人、乗り換えの時間を潰す人、これからどこかへ向かう人々の顔に浮かぶ疲れや退屈や希望も、この西安の気持ちの良い朝の光に隠れてしまっている。

 城壁を潜り抜け、人ごみを掻き分け、古くから長城で守られていた街の中心部に入っていく。外敵から都を守るために四方を長大な壁で囲む、ということが古来より絶えなかった戦と民族レベルでの防衛意識の積み重ねを感じさせ、深く静かな威圧となって長城を更に重くしている。眺め回されているような、疑われているような、なんらかの罪を隠しているような気持ちにさせられる。この気持ち。普段の生活で抱える憂鬱とはまた別種の憂鬱、緊張とぎこちのない落ち着きのなさに自分が旅に身を置いているのだということを改めて感じる。

 今回僕らは長城の南側にある老街(旧市街)の宿に宿泊しようと思っている。新市街を抜けていかねばならず、もちろん気軽に歩いていける距離ではない。

 人ごみを掻き分け、タクシーでもバスでも、何でもいいから老街に向かう足を捕まえなければならない。すると歩いている僕らに一人のオヤジが話しかけてきた。前歯が数本なく、どうやらバイクタクシーの運転手らしい。アゴヒゲはもちろんない。
 僕ら3人を老街(ラオジェ)まで連れて行ってくれと伝えると、100元だという。もちろん100元も払うつもりはないので40元に負けろというと『3人で割り切れない』と身振りで伝えてくる。人差し指と中指を立て、相手を指すようにゆっくりと近づけてゆき、たぶんジョークを言っているのだろう、オチの部分で指を握るようにしてパッと引っ込める。このとき顔はドヤ顔になり体を少し後ろに反らす。昔見たジャッキーチェンの映画でみた仕草そのものだ。中国に来ると、駅の待合室や列車の中、街角なんかのいたるところでこの仕草を目にする。どうも振る舞いが芝居がかっているようにみえて仕方がなく、苦く笑えてくる。
 40元が3人で割れないのだったら100元は割れるのかよ、と「あー、ムリムリ・・・」と他所に行こうとすると、「ちょ、ちょ、ちょ、待ってくれ、最低1人20元払ってくれ、それなら行くよ」と言う(たぶん言っている)。何を言ってもケタケタといちいち笑い、陽気というよりもいい加減さがそのまま顔に出ている。友人夫妻と苦笑いし、じゃあ1人15元出すよ、3人で45元、それ以上は無理だと伝えると、あっさりと聞いてくれ、バイタクに乗れと促してきた。
 西安ではバイクタクシーは他所の都市よりも大衆的な乗り物のようで、街中に市販のオートバイを改造したものや、バイクタクシー用に作られたものが多く走っている。客を乗せる為、後ろに座席を備え付けてあり無理をすれば3〜4人は乗れるがかなり狭い。幅があるためにオートバイの利点である「すり抜け走行」ができない。
 まだ朝の通勤時間帯で街には多くの車が混み合っている、時間がかかるだろうと思っていたが、この運転手は走り出すと強引に一方通行の路地に突っ込み逆走しだした。たぶんクラッチが擦り切れかかっているのだろう、ちょっと進むにもアクセルを全開になるまで開ける。一方通行を逆送してきたにも関わらず対向車は車を寄せ、自転車は避けていく、この国ではバイクに交通規則がないのだということを、この時初めて知った。
 街には通勤の自転車や自動車があふれていて、走っている間も雑踏のざわめきとクラクションの音がどこからか聞こえてくる、やはり遠慮はない。バイクタクシーは幹線道路らしき広い通りには出ず、上手く一方通行や街路樹の植えてあるこじんまりとした生活道路を抜けていく。電動バイクが音を立てず滑るように走ってゆき、急ぎ足の通行人を自転車のベルが押しのける。ところどころに朝飯を売る屋台があり、バックを抱えた勤め人が忙しく出入りしている。車の停滞している場所で排ガスが薄く漂い、その薄さが余計に気になり酷く空気が濁っているように感じてしまう。

朝の混雑の中にいるというのにどこか遠くから混雑を眺めているような感じがしている。休日に地方都市に来てその土地の朝のラッシュを他人事として眺めているあの感じ。街と自分の間に薄いが絶対に破れない膜のようなものがあり、その膜のようなものを感じた瞬間、やはり自分はただ通り過ぎていくだけの旅人であることを思い知らされ、自分はこの地で生活していない余所者なのだと痛感させられ、地に足をつけていない、宙に浮いているような、どこか身を寄せられる場所や人をもがいてでも探し求めたいような気持ちになり、胸がしめつけられていく。


 強引で突っ込んだもの勝ちなすり抜けや逆走、そして愛車を酷使する無理やりなアクセルワーク。「慎重」という一側面や断片は微塵もなく、大胆に強引に、そして少しオーバーな運転で約20分、良くも悪くもない、これが文化で、これがたぶんこのオヤジだけではなくこの街で生活する運転手達のやり方なのだろう。結局なにひとつの問題もなく無事に長城の南側にある老街に着いた。ついさっき新市街で感じていた雑踏も喧騒も今はなく、この旧市街では空気が沈殿しているかのように落ち着き静まり返っている。少し離れた幹線道路から、クラクションの音が聞こえてきたりもするが、街路樹にとまっていたり道端で餌をついばんでいるスズメの鳴き声の方がよく響いている。中国ではあまりカラスの姿を見かけない。

 まだチェックインには早い時間だが、かまわずにホステルに向かうことにする。ここは西安の旧市街にある書院門という場所で、書画に関する文化財や、筆や書画を販売する店が軒を連ねる地域であり、昼間に来るとド派手な書画や硯や色とりどりの筆が並び、筆を新調しにきた客が達筆な字を試し書きしていたりと、観光客向けで先入観通りのいかにも古き良き中国を感じさせる。手っ取り早く中国らしさを感じてもらうのにはちょうど良い。

 ザックを抱え、まだ眠っているかのような静まり返った書院門を通り抜ける。空気は乾き清々しくスズメがチュンチュンと鳴いている。「朝」は環境が違えばこんなにも気持ちが良い。昔の長安もこんな気持ちの良い朝を迎えていたのかと思い、少し無理やりに、西域の乾いた砂の香りや遥々やって来ていたアゴヒゲを生やし目の色の違う他民族を思い浮かべ、これからの旅への期待を膨らませた。
 


旅行記 3 

November 21 [Mon], 2011, 23:36
 某月某日 霧の滴








 広大なトウモロコシ畑が霧で埋まっている。一面に濃い緑に染まっているはずの畑は遠くに行くほど霧に溶けていき、先が見えないが故に更に深遠を感じさせ広大さを感じさせる。
 
 霧の中からゆっくりと木が浮かび上がり曖昧に陰影を変えながら溶けていく。線路脇に納屋が通り過ぎて行き、農夫が寝泊りするテントが通り過ぎていく。時折、遠くまでまっすぐと伸びた(伸びているであろう)農道を横切る。幅が広く砂礫に轍が刻まれ畦にポプラの木が連なって植えられていている、その広さに不釣合いな程ちっぽけな農夫やトラクターが白い霧の中へと消えてゆく。

 広大な畑の境界に目印として木を植えるのは万国共通なのだろうかと列車に揺られながら考えている。
 ヘッドフォンからRadioheadの“The National Anthem”が流れていた。 


 今朝青島駅を予定時刻通りに出発した列車は時速6〜70キ程の早くとも遅くとも感じない速度を維持しながら西へと向かっている。数時間に一度駅に停車し、乗客を拾いながら夜通し走り続け、予定では明日の朝には陝西省の南に位置する西安に到着するだろう。


 寝台車両の中は行楽の帰りや出稼ぎや里帰りや商談に向かう人々が、コンバートで相席になった者同士で会話に耽ったり、通路にある折りたたみ椅子に腰掛け物憂げに霧で埋め尽くされたトウモロコシ畑を眺めている。胡瓜やヒマワリの種を齧る音がどこからか聞こえてくる。時折、トイレに用を足しに行ったり車両端に設置されている給湯器にお湯を貰いに行く人が席を立ち、バネ仕掛けの折りたたみ椅子がバンッっと音を立てて閉じられる。それをみて他の乗客が椅子を広げ座ってしまう。帰ってきた乗客が座っている乗客を見つけ文句を言うでもなしに諦めた様子で他の席を探している。

 2年前にこの列車に乗ったときは予定を2〜3時間オーバーして西安に辿り着いた。
 とにかく肩に力が入りすぎていた旅だった。生の中国を!生の庶民の暮らしを!と意気込んで最下等の座席車両に飛び乗ったが、意志の固さと意気込みはものの1時間であっけなく砕け散り、後は硬いシートと次々と増えていく乗客と割れ響くような喧騒にひたすら苦しめられた。通路で幼児に糞をさせる母親、唾や痰や向日葵の種の殻だらけの床、夜半を過ぎてもあちらこちらから鳴り響く携帯電話に怒鳴るように話す中国人たち・・・。眩暈を起こしそうな暑さで用意していた水は瞬く間に飲みきってしまい、のどの渇きと尻の痛さに苦しみ、割れ響く喧騒と秩序の無さに怯え、トイレに行くこともできずひたすらにカオスと人の臭気が渦巻く車内で独り耐え忍んでいた。その国に住む庶民の金銭感覚もわからず、ただ経験したいという理由で運賃の安い車両に乗り現実に打ちのめされた僕は、自分が浅薄で何でもできると自惚れていた余所者でただ通り過ぎていくだけの旅人なだけだった。
20数時間後に西安に着いたときには身も心もボロボロに疲れ果て、世界の広さを理解しているつもりだった自負は脆くも砕け折れてしまい、遠くの空は霧に霞み、また世界は広さも輪郭も陰影も掴めないものに変わっていた。


 2つ隣のコンバートメントでは大勢の大人が寄って集って子供を可愛がっている。子供はきっと自分を可愛く思われていることを理解していて精一杯の笑顔と仕草を振りまいている。三段あるベッドの最上段で若い男が携帯電話を弄り、思い出したように体を捻っては子供の様子を感情のこもってない眼差しで覗いている。
 霧の滴が列車を濡らし風に流され窓枠から垂れて飛ばされていき、車輪がレールの継ぎ目を越えるガタゴトと単調な振動と音が車内の物や人をのんびりと間延びさせていく。時間までもが延びてしまっている。

 ヘッドフォンから聞こえてくる音楽は佐野元春の“すべてうまくはいかなくても”に変わっていた。

 友人夫妻は隣のコンバートメントで同じように外を眺めている。彼らは生まれて始めての寝台列車だと喜んでいたが楽しめているのだろうか。
 彼らと少し距離を置き独りで外を眺めていると2年前の旅と今が繋がってくるように感じる。この旅に出るまでの2年間、人と顔を合わせるのが辛く引きこもっていたり、一念発起して仕事に出てみたりと、その時は無為だと思わざるを得ない日々を過ごしていたが、この時だけではなく今までの40年、次の瞬間には過去になっていくだけの時間の中で、否応なしにやってくる瞬間に対応できず受け止めようともせずに流れるまま過去へと押しやっていただけじゃなかったのだろうか。
 気がつけば旅を繰り返しているような30代だったが、そのつど省察し煩悶を繰り返し、今思えば旅をしていたのかそれとも逃亡していたのかが解らなくなる。
 ここでいう『旅』は見知らぬ地や遠い地に行く旅行のことではなく、人生の経験のことをいっている。
 旅に出ることで自由になる、なりたい、と漠然と考えてはいたが、自由というのは一体何なのかということをまったく考えたことが無かった。かっこよく見えそうだとか、可愛いから、という見た目だけで服を選ぶような子供の感覚でしか自由を捉えてなかった。『自由』というただの言葉のもつ輝きや響きは闇の中で灯る明かりのように不思議と人を引き付けるものがあるが、最近やっと大人に近づいてきたのか自由というものを単純に捉えるようなことが無くなった。だが今でもよく解ってはいない、もちろん。ただ、あまりにも便利な言葉ではあって、人を騙すにも、自身の言い訳にも変幻自在に使える言葉だということには気がついた。『旅』という言葉には何故か自由という意味合いも込められているような部分があるが、生き続ける限り旅は続く、人生は旅のようなものだからだ。人生の旅に自由という節はあるのだろうか、あるとすればいったいどんな形なのだろうか。いつかは自由という言葉を使うことも惹かれることもなく自由になれる日が来ればいいと望んでいるのだが、追い求めるものでもないような気がしている。


 昨夜の酒家での喧騒と光景が頭のどこかでこだまのように響いている。テーブルにタバコの焼け焦げた跡があったことや、足元に蝦の髭が転がっていたこと、注文した蝦蛄の一匹が腐っていて身がドロドロに溶けていたこと・・・、その場で見た景色や感じていた味や音や匂いや光などはとっくに音速の速さで遠ざかってしまい、時に一瞬の閃きにぶつかり思い出として跳ね返ってくるが、次に拾い上げるときには味も音も匂いも少しだけ形を変えていて、その場で感じていたものでは無くなってしまっている。
 何も考えなくていい車内で単調なリズムを感じながら跳ね返ってくる思い出を拾い上げているが、いくら耳を欹て匂いを嗅ぎ眺め回してみても探れば探るほどそれが本当にあの酒家で感じていたものかどうかの自信が無くなってゆく。何かを無くしてしまったかのような軽い絶望がジワリと広がってきて、過ぎていく時間の残酷さを見せつけられ多様な気がし穏やかな倦怠感に包み込まれるが、心の隅に滴るあの酒家で感じていた形の無い霧のような幸福感を見つけ暖め直してみる。

 
 

旅行記 2 

November 21 [Mon], 2011, 23:16
 某月某日 青島の夜



 昨日遅くより降り出した雨が今も続いている。この雨は清めの雨なのだろうか、上半身裸で歩き回るオヤジの吐いた唾が、股の空いた服を着た幼児が遊びついでに垂れる小便が、この雨で流されていくのかといったらそうでもなく、いい加減に作った道路の片隅だとか市場の物売りの足元に押し流され溜まっていく。捌けていくことなくじっと息を潜め、ただただいじけて腐っていき、腐臭を立ち昇らせ通行人の鼻先を掠めていく。

 今夜も食事に出る。雨が降っているので近道をして市場の中を通って行く。
 裸電球の灯る天幕の下では野菜の切れ端が転がり、ぶら下がった肉に白菜や人参に蝦、腐った豆腐に米の麺や石榴、キノコに腹を見せ浮かんでいる鯰、真っ赤な唐辛子に真っ白なパン、何かの幼虫に白い鳩、田螺に灰色の鳩・・・等々、売り台の上に並んでいた。食品だけではなく靴下や下着、ベルトに毛染めに髪飾りに石鹸なども売られている。喧々と中国語が飛び交い、年頃の娘が怒鳴るように会話をしながら真っ黒な煮汁でニワトリの足を茹でている。目の前で蒸し器の蓋が開けられブヨブヨとした饅頭が見え、顔が見えなくほどの濃い蒸気が立ち昇り雨粒にぶつかって砕け散っていく。


 青島に着いて最初の夜、印象的な髪型で陽気に客を呼び込んでいた女将さんの酒家で食事をとり、それ以来通い詰めている。
 この店の名を『胖姐焼烤』という、直訳すると『太った姐さんの串焼き屋』になる。『焼烤』は“ステーキ”や“焼肉”や“バーベキュー”などと訳されるが、僕は経験上“串焼き(シシカバブ)”だと理解している。
 

 街路樹が雨にぬれ、街灯に照らされた葉がきらきらとガラスのように煌いている。ぬれた葉は水気のあるさわやかな緑の香りをほのかにふり撒き、したたる肉の油が焦げる匂いと香辛料と酒の香りが混ざり合い煙のように漂う。今夜は雨のせいで天幕を張っているが客足は普段と変わることがなく、家族連れや会社員、カップルや刺青の入った労働者、食事をとるすべての人に一日を終えた安堵とささやかな喜びがあり、靄のようになって店全体を包んでいた。
 手を上げて女将に挨拶し、用意してくれたテーブルとイスに着く。昨夜と変わることなくビールを注文しアサリと羊の串焼きを頼み、料理が来る間にキョロキョロと店全体を眺め回し、昼間の灰のような雑踏を吐き出し煙のように漂う夜の安堵と幸せを吸い込む。やがて注文した料理がやってきて愉しそうに賑わう中国人達とアサリの炒め物をつつき羊の串焼きに齧りつく。ピッチャーで出てくるビールは炭酸が弱い上に少しぬるいが、この酒家の雰囲気にとても良く合っている。
 酔って大げさな身振りで熱く語っている男、少しうんざりしながら聞き流す男、一言もなく黙々と食べているカップル、いい気分になり歌いだす裸の男、調笑が沸き、はじける様に女が笑う、通行人が他人の食事を覗いていて行くが覗かれたほうは一切気にしない。誰の耳にも平等に喧騒と天幕に当たる雨音が響いている。
 陽気で恰幅の良い女将がすべての通行人に手招きをし、大きな声で笑い、バイトらしき娘たちが料理を運び注文を取ってまわる。会計をしている黒い帽子の娘は女将の子供らしく、手にいくつものピッチャを抱えビールを注ぎながらバイトに指示を出し、てきぱきと注文を取っては小走りに会計して回ったりと良く働く。
 労働者風の男が彼女に何か冗談をいい、雷のような剣幕で一喝される。この娘はみていて小気味よい。





 僕の目の前にトマトと卵の炒め物が置かれる。中国名で『西紅柿炒鶏蛋(シーホンシーチャオジーダン)』という。トマトは『西紅柿(シーホンシー)』で卵は『鶏蛋(ジーダン)』になる。卵が鶏蛋だというのは理解できるのだが、茄子科の野菜であり日本で『蕃茄』や『赤茄子』と呼ばれているトマトになぜ『柿』という字を当てはめたのだろうか。たぶん南米原産のこの野菜がスペイン統治の影響でジャガイモなどと同じようにヨーロッパに伝わり、広く知られていくにつれ陸路で中央アジアにまで広まっていった、あとはシルクロードを通って中国に辿り着いたのだろう。きっと中国人が始めて見るトマトは西域から来たキャラバンが保存がきくよう干してあった乾トマトだったんじゃないだろうか。路地に実るか木に生るかも分からずに熟れ落ちて干からびた柿そっくりな食べ物を他に例えようも無く『柿』だと言ってしまったのではないだろうか、だから『西』という字も添えて。
 随分と安易な推測だが、たぶんそんなとこだろうと思う。日本では明治から大正にかけて学術的見識と共に広まったトマトだが中国のトマトは名前ひとつからロマンティックで壮大な旅路と乾いた風に混ざる砂の匂いを感じさせてくれる。

 初めての中国旅行でこの料理には驚かされた。ただトマトと卵を炒めただけの簡単な料理なのだが奥が深いと僕は勝手に思っている。
 よく熱した中華鍋に油をひきトマトを入れる、ジューッっと炒められたトマトに香ばしさとコクが乗ってきたところに溶いておいた卵を流しいれる、卵が硬くなってきたら塩を一振りし卵のまろやかで淡白な甘さを損なわないようにトマトの酸味と塩の溶けた油で全体を包み込む。
 後は味見をすることもなく、オレンジ色に染まった油の一滴も余すことなく皿に盛り付ける・・・。
 どこの店に行っても出してくれるし、メニューに載ってなくても言えば必ず作ってくれる定番中の定番料理である。ビールの当てにもなるし、十分に飯も進む。口に入れると香ばしいトマトの香りがし、しょっぱさと酸っぱさの後に卵の淡白な甘さが追いかけてきてしつこくなりがちなトマトの酸味を押しとどめる。
 店によって卵が半熟だったりプチトマトのような小ぶりのトマトを使っていたり、味も醤油だったり味の素だったりと細やかな違いがあったりするが、どこで食べても滋味深くまず失敗することはない。簡体字だらけのメニューを出されてもこれさえ覚えておけば困ることが無い。
 
   
 トマトと卵の炒め物、家常豆腐(厚揚げの麻婆豆腐)、麻婆豆腐、タンツーリーシー(野菜なしの酢豚)、空芯菜の炒め物、羊の串焼き、アサリの炒め物、蟹、等々・・・、思いつくままに注文したものがテーブルに乗る。料理を持ってきてくれた女将の娘を呼びとめ、他の客が食べていて美味しそうだった蝦蛄を追加注文する。漢字が分からないためバックの中からメモ用紙を取り出し絵を描いて見せると、彼女は絵を覗きこみ、冷たげに、でも少し苦笑いしながら『シャンフー』だと教えてくれる。

 中国の女性がたまに見せるこの表情が好きだ。少し冷たく突き放し壁を作っていながらその壁の穴から興味深そうに覗いてくる。自尊心と好奇心が鬩ぎあいコンマ一秒の速さで表情が変わっていく、映像を撮ればコマ撮りのフィルムがすべて違う表情になっていて面白いかもしれない。毎日決まって黒い帽子を被り、たまに女将と言い争いにならない程度に感情のやり取りをする、最初に席に着いた日は一瞥もなく壁が聳え、ただただ寄せ付けない冷たさしかなかったが2回3回と通ううちにその冷たさは影を潜め、席を用意してくれるようになり、お勧めの料理を教えてくれるようになった。少しふくよかなこの娘は時々とても柔らかい表情になり、それをみているととても幸せな気分になる。


 今この一瞬、この酒家で何かが見えたような気がして、それが何か探り出し引き上げてみようとするが喧騒と食事の彩に心が引き寄せられ、その間に見えた気がした何かは手の届かないところに逃げていってしまう。形があったのか無かったのかそれすら分からないほど遠くに逃げていってしまっている。ビールの残り香と舌に残る香辛料のピリピリした辛さだけが細く糸を引いている。
 少し心に取りとめがなくなってきているようだ。今見えているものや感じているものを忘れないように心にしっかりと刻んでおきたいのだが、天幕に当たる雨音と酒で心が形のない気体のようなものになりかけている。この店を包んでいる靄のようなものももしかしたら誰かの心が溜まったものなのかもしれない。



 天幕を叩いていた雨の音は小さくなり、小降りになっていた。
 今夜も十分に飲んでは食べ、場の雰囲気と酒に酔うことができ、『そろそろ帰りますか・・・』と、女将の娘に会計を頼んだところ計算をめんどくさがる素振りをし『まぁ、いいわ』と言って70元近くもまけてくれた。

 中国人の娘ははツンデレが多い、と思うのは僕の偏見だろうか。



 会計をすませ、日本語で女将と娘にオヤスミを言い旅舎へと帰る。
 市場にはつい1〜2時間前の喧騒はなく、汚れた水たまりに雨が落ち、飛び散った滴が天幕の柱や売り台を濡らしている。活気が息を潜め夜の闇が広がり滲んでいる。まだ数件営業している店の灯りに加えポルノショップや電話屋やらの灯りが煌々と目立つようになり、通行人が闇の中から浮かび上がるようにその灯りに照らされ、また闇の中へと消えていく。





 15分程度の道程を歩き旅舎まで帰ってくる。そのまま部屋に戻ることなく1階にあるバーへ向かった。雰囲気を演出するためにバーの中は薄暗く、数人の中国人の若者と旅行者と思われる西洋人がはしゃいでいる。酒場の喧騒と高揚がところどころでポツポツと湧き上がるが、さっきの酒家で感じていた一日を終えた安堵とささやかな喜びはこのバーにはない。
 ひどく落ち着いた場所に来てしまったことに気がつき、急にそわそわと落ち着きが無くなってくる。
 どこを見ていいのかも解らず、無理やりはしゃいでみたりして友人夫妻と言葉を交わすがその言葉には何も乗ってなく音の殻だけが空を舞い、落ちていく。ただ目の置き所になるという理由だけでビリヤードに興じる若者を見ながら、ふと明日の朝西安に向かって発つのだということを思い出した。

 目の前に並んだビール瓶を眺めながら、ぼやけた頭で『サヨナラ』って言っとくべきだったかな、と、考えていた。


 
  

旅行記 1 

November 21 [Mon], 2011, 23:12
 某月某日 青島



 夕刻、青島に着港した。黄海の上で見た空も青島に近づくにつれ機嫌をもどし、ところどころ青空が覗いている。
 船は港の中で向きを変えゆっくりと横滑りしながら接岸しようとしていた。

 
 接岸準備のため船内にガンガンとけたたましく金属のぶつかり合う音が響き、乗客は安堵の表情で各々荷物を抱えフロントデッキに集まりだし、窓から思い思いに青島の街を眺めている。
 薄い黄土色の街に生成色の高層ビルがいくつも建っているのがみえる、短いのか長いのか乗客それぞれの時間がフロントデッキで流れている。乗客は早く降りたくて乗降口に並んでいるが、下船の準備はまだ終わってない。誰もが外を眺め空っぽの時間を持て余している。

 気づくか気づかないか程度の振動があり、船は無事に接岸された。


 前回来たのは約2年前になる。
 北京オリンピックの直前で青島もヨット競技の会場になるらしく、うだるような猛暑のなか内陸からの観光客とオリンピック関係者がごったがえし街は混沌としていた。
 中国のことや旅のコツやらが何も解ってなく、下調べもろくにしてなかった僕はやることなすことすべてが的を得てなく、空回りし、言葉の解らない幼児のようだった。宿を探すことすらできず分不相応なホテルに宿泊してしまったり、何を食べればいいのかが分からず夜の街を心細い思いで右往左往したりと、数ミリ浮いているような地に着かない足に情けない思いをしながら、それでも初のバックパック旅行を充実させねばという、今にして思えばわけの分からない理由で意味もなく焦ってしまい、重いザックを背負い一心不乱に歩き続けた。

 初めての青島の街は霧雨が降っていて、水をたっぷりと含んだ饐えた匂いに少しだけ潮の香りが混ざっていた。
 日が沈むと雨で煙る闇の中に旅舎(ホテル)やら超市(スーパーマーケット)やら派手な電飾のが浮かび上がり、車のライトが汚れた水溜りに乱反射しギラギラと乱暴に目に刺さってきた。思い通りにいかない不自由さは何故か自由への試練のように思え、初めてのバックパック旅行の高揚からか不思議と夜の闇は肌に馴染んだ。
 街角のリンゴ売りがラジカセで中国語の歌謡曲を大音量で流し、喧々諤々と聞きなれない言葉が飛び交い遠慮なく鳴らされるクラクションと雨樋のない建物からたれてくる雨水がコンクリートに当たる音が交じり合い、びしょ濡れになりながらも十分にアジアを感じさせてくれる喧騒に心が熱を持ったように痺れていたのを覚えている。

 初めての中国は、その空気を一瞬肌で感じるだけで熱に浮かされるほどの魅力があり、癖になるほどの毒気があった。 



 船にタラップがかけられた。船員が乗降口を開け、のんびりしてるように見えた乗客たちが空っぽの時間を埋めるかのように急ぎ足で降り始める。
 タラップを降りた先にはバスが停車している、このバスに乗って200メートルほど離れたイミグレーションへ向かう。

 前回来たときと変わらずここのイミグレーションは暗い。陰鬱というよりは空っぽ、空虚ゆえか間の抜けただらしなさを感じる。中国人用と外国人用のレーンがあり、外国人用のレーンは審査に時間がかかるために遅々として進まない。パソコンと確認用の照明の灯ったデスクにはピシっと官服をきた官吏が座り張り詰めた空気を出しているが、ただそれも官吏の半径1メートルだけの話で、このイミグレ全体はだらしのない濁ったイシキみたいなものに支配されてしまっている。そのだらしなさに油断しきっているのか中国人の多くがレーンの停止線を守れず係官から叱咤されている。叱咤の声がこのイミグレ全体に響いても部屋全体に漂う空気は揺るぐことが無く、音が跳ね返り更に空虚が露になっていく。この暗さは単に窓が少ないからだけではないのだろう、無気力なだらしなさの色も混ざっているのかもしれない。


 そろそろ陽が翳ってくる時間帯だろうか。事務的な審査とやる気のない荷物検査を終え外に出てみるといつの間にか青空は見えなくなり空には薄く濁った靄がかかっている、陽の光は靄に力を削がれ世界の鮮やかさを際立たせることはなく、久しぶりに見る青島の街は埃っぽく褪せてみえ、乾いた砂の香りがしてきそうなほど土と灰だらけにみえるが空気は肌に粘りついてきて水の中にいるように動きが緩慢になっていく。
 ターミナルを出ていく人々の顔が瞬間に輝き、次々と再会の声があがる。待ちわびた者同士で歓喜の抱擁が交わされている、肩を抱き荷物を担ぎあげ船旅の疲れを労いながら迎えの車やタクシーに乗りそれぞれの方向へと去っていく。
 僕らも無事の入国を祝い握手を交わしてから白タクを捕まえ宿へと向かった。





 青島。
 この山東省の半島にある港湾都市にはドイツの租借地だった過去がある。今でも古い西洋建築が多く、街の真ん中には大きなツィンタワーの聖堂が建っている。本やテレビで見る中国の街をイメージして来てみると中世的な町並みに戸惑ってしまうかもしれない。ヨーロッパの中世の町に赤を基調とした中華の看板が無数に掲げられているのを想像してもらうといいかもしれない。調べたわけではないが、中国最大手のビールメーカーがこの地にあるのはドイツ文化と無関係ではないだろうと思っている。
 車の中から流れて見える青島の街並みは以前と変わることが無いように感じた。


 入国初日くらいは宿探しに疲れることもないだろうと、ユースホステルを事前に探しておいたのだが、どうも目的のユースホステルとは違うホステルに連れてこられたようだ。事前にメモ用紙に書いておいた宿名を見せ連れてきてもらったのだが、どうやら運転手は『国際青年旅舎(ユースホステル)』という字しか理解してくれなかったらしい。想像してたよりターミナルの近くにあるんだなと漠然と感じていたが、料金を払い車を降りて旅舎の前に立つまで目的の旅舎じゃないことに気がつかなかった。
 あの運転手はここしか知らなかったのか、それとも僕の字が読めなかったかのどちらかだろう。また車を捕まえ目的の旅舎に行くことも考えたが、目の前にユースホステルがあるのに勝手の分からない土地で移動を繰り返すこともないと思い直し。ザックを担ぎ上げ入り口の階段を昇った。
 
 この青年旅舎は古い教会を改装したもののようでイングリッシュネームに『オールドチャーチ』という厳かな名前がつけられている。結局、正確な中国での宿名は今になっても分かってない。
 多くの教会がそうであるように石造りの西洋建築で入り口まで数段の階段があり屋根は三角に突き上がっている、小さな趣味の良い窓が左右に二つ付いていてそれ以外に装飾はない、きっとこの建屋をこのままヨーロッパに瞬間移動しても違和感はないだろう、古き青島は西洋の服を着た人が歩き店先から西洋の音楽が流れている情報化社会の今以上に僕らが『ヨーロッパ』と聞いて真っ先にイメージしてしまう西洋の香りがしていたに違いない。
 受付を済ませ中に入ると1階には礼拝堂だったと思われる広い空間があり、今ではバーに改装されている。絵がたくさん飾られていたり(けっしてセンスの良い絵ではないが)とオシャレな印象を受ける。
 中国は御洒落な国際青年旅舎が多い、自国の文化を上手くアレンジし、至らないところは洋の東西を問わず取り込んで作り変える。中国の胃は馬鹿みたいにでかく頑丈なのだと思う。文化を損なうことなく文明の利便性を上手に血と肉にしてしまう。部屋の壁や天井や窓枠は中華風で、中華様式の見事な扉を開けるとウエスタンスタイルのトイレがあったり、英国風のバーカウンターで瓶のままビールを飲む客の頭上には真っ赤で真ん丸の中華提灯がぶら下がっていたりする。

 レセプションの横にある階段を上ると踊場と廊下があり、廊下の両側に外壁に向かって細長い部屋が5〜6室づつ連なっている。廊下の一番奥に共同のトイレとシャワールームがある。部屋はそんなに広くはない。壁は白く塗られていていっさい装飾のない実用的な扉と窓枠はかなりガタがきていて傷みが古さを感じさせるが歴史までは感じることができそうもない。この部屋全体が無機質な印象を受ける。窓からは隣の建物のレンガ壁がみえ、窓枠にエアコンと換気扇を取りつけているためになおのこと日の入りが悪い。部屋に入る頃には、靄に隠れていた太陽もあっけないほどに淡々と沈んでしまい、残した陽光が細く空を照らしていた。
 ベットの上でザックから荷物を引っ張り出し、着替えたりキョロキョロしたりメールの確認をしたりと雑用を済ませ夕食をとりに出かけた。

 入国初日の食事である、経験があるだけに僕が案内したほうがいいだろう。3人でとりあえず大通りに出て青島駅に向かって歩く。久しぶりの中国の夜は前回ほど心が痺れるわけでもなく、ふらりと友人の住んでいる街に遊びにきたような気楽さを感じる。オレンジ色の街灯が灯り緑色に塗られたフォルクスワーゲンのタクシーが走っていく。茶房、約房、公活、○○公司、快餐庁、烟酒、と主張の強い看板が眩しく、街角で涼みながら中国将棋を指す人たちの傍らでリンゴ売りが店じまいをしている。
 不思議と昼間の陽の下よりも世界が澄んでいるように感じる。粘ついていた上陸直後の空気に比べるとサラリとした夜の闇が心地よい。





 うろ覚えだが大通りから聖堂に向け少し入ったあたりに市場があり数軒の屋台が出てたはずである、途中街路樹の植わっている路地をみつけて入ってみると、先に人の賑わいがみえる。
 市場だと思い行ってみると路肩にイスとテーブルを出して営業している酒家(居酒屋)だった。

 肉の焼ける香りと酒の匂いが漂い、仕事を終えた人々がささやかながら祝杯をあげている。路地の真ん中でニワトリのトサカのような髪形をした恰幅のよい女将が大笑いしながら客を呼び込んでいた。

 少し空気が冷まされ過ごしやすくなってきたようだ、明日は雨が降るかもしれない。
 



旅行記 序 

October 25 [Tue], 2011, 16:46
 某月某日 黄海の上にて



 ディーゼルエンジンの音が低く響いてくる。
 昨日の昼、予定時刻を少し遅れて出港した船は今朝には東シナ海を抜け、今は黄海のあたりだろうか。

 全長180メートル程もあるこのパナマ船籍の大船は山口県の下関から中国の青島まで約30時間かけ航海をする。

 塩がこびりついた窓から見える太陽は低く、鈍く黒ずんだ雲が風にもてあそばれている。叩かれては伸ばされ空の蒼を透かせては折り重ねられ、また濃い鈍色になり、ゆっくりと時間をかけて溶かされていく。陽の光は海を燦然とさせることなくどこかよそよそしい。
 この海はつい昨日のうだるような夏の熱気の渦を知らないに違いない。光を吸い込み青黒く冷め切っては轟々と寂しげに鳴き、磨断なく吹き上がる白波は悲しくみえる海とは裏腹に、嬉しさ、怒り、悲しみ、愉しさ、ありとあらゆる秘めた感情を精一杯吐き出し、生まれた瞬間から全力で叫びあい、ぶつかりあっては砕け、散り際に小さな悲鳴を残し溶けていく。その様が海の孤独と悲しみを更に深めていく。
 船は波に歪められ押し上げられては落とされ、骨も肉も苦しそうにギシギシと軋んでいる。

 陽の入があいまいな2等寝室は設備が老朽化していて、剥がれかけた壁には塩とオイルとこれまでに運ばれていった乗客の匂いが薄く染み付き、上下二段の各寝台には壊れかけたカーテンレールに頼りなく深緑色のカーテンがぶら下がっている。昨日までの残暑に揺らめく燦々とした空が嘘のようにも思えるほど暗いこの船室で、今朝から何もすることがなく糊の利きすぎた硬いシーツと枕カバーに体を投げ出し退屈を貪り時折やってくるまどろみを愉しんでいる。

 昼食の準備ができたと船内放送が聞こえてくる。
 薄っすらと煤けた寝台の照明を灯すと、この穴倉のような寝台でも少しは温かみを帯び気が休まってくる。傍らにはマムートの45Lサイズのバックザックとグレゴリーのヒップバック。大体バックパック旅行にはバックの中に『余裕』という隙間を荷物として入れておかなければ後々後悔することになるのだが、今回は詰めてくる余裕がなかった。パンパンに膨れ上がったバックザックには詰めきれなかったヴァンズのスニーカーがぶら下がっている。気負いと不安とを詰め込んだ僕のようで見ていると苦く笑えてくる。

 旅には出来るだけ飛行機を使いたくない僕にとって、国外に出る手段はできれば船がいい。それはただ単に飛行機に乗るのが怖いのもあるが、ドアを開け箱の中に乗り込み、たった数時間で海を越え数え切れない程の山や街を飛び越えピンポイントで目的地にたどり着くという距離感を感じさせない旅の方法に納得がいかないからである。これは僕個人だけの考えで誰に同意を求めるものでもない。
 いまだに旅の意義なんてものはさっぱり解らない、名所だとか景色だとか文化だとか匂いでも風の音とかでもいい、旅をしている自分の姿を想像して酔いしれてみたかったからでもいい『想い憧れた』という理由だけで旅に出る動機としては十分だと思っている。ただ僕の場合はその中に『広さを知りたい』という動機が加わる。道程を知り自分の歩幅でしか測れない距離があり、広さがあると思っている。歩みを進めるたびに変わっていく文化の様式、現地で暮らす人々の顔つきや気質、その土地に辿り着くまでのプロセスを加味しないと心への染み入り方が変わってくる。僕はそこに重きを置きたいと願っている。


 どこからかくぐもった声が聞こえる。

 前回この船に乗ったときは随分と騒がしかったように覚えているが、今思い出してみるといったい何が騒がしかったのか思い出すことができない、濡れた甲板の向こうに見える境界線のあやふやな雨空と海と、それを見ながらただただ孤独と不安を抱えていたこと、甲板に幾重にも塗られた青白いペンキから乾いた血のような錆が滲み出ていたこと、それと今と同じようにくぐもった声が聞こえていたことしか思い出せない。

 隣の寝台では50代位の男性の日本人客がエアコンの利きが悪いとぶつぶつ文句を言っている。顔を出した僕にも同意を求めてくるが、湿気が多少肌にまとわりついてくる程度でそれほど不便は感じない。少し話を聞いてみると、これから子供を連れて妻の実家に里帰りをするのだという。外国籍であろうその妻は一足先に帰っているらしく、孫のようにもみえる娘は気の向くままぐずついたりはしゃいだりと忙しい。
娘をあやしながら『いつもこうなんだ』と、船に対する愚痴や関係のないプライベートなことまで間を空けようともせず矢継ぎ早に語りかけてくる。少し疲れ気味で気苦労が滲んでいるその顔は、娘を連れこれから異国に降り立つ緊張のためだけではないのだろう。

 『あ、いた。メシどうしますか?』
と、友人がひょっこり訪ねてくる。今回の旅は独りではない、友人夫妻に同行する。
 彼らとは7年前に北海道で出会った。当時から夫婦揃って人並み外れたコミュニケーション能力があり、人と接するのにとんでもない努力と注意を払わねばならない僕にはうらやましいばかりの存在だった。
 お互いに住んでいる地域が離れている為に、気軽に会って酒を酌み交わせるような仲ではなく、気の向いたときにメールをやり取りする程度の深めようのない間柄だったが、たまに好みの音楽を送りあいお互いの暮らしと強健を確かめ合うことで澱んだ日常に新鮮な空気を送り込んでもらえることができた。
 彼らは地に足をつけ堅実に生きていて、これからもそうした生き方をしていくものだとばかり僕は勝手に思っていた。

 そんな彼らが夫婦揃って仕事を辞め、世界一周旅行に出るのだと言い出したときにはとても驚いたのを覚えている。
 人は、よほど恵まれた環境に生まれない限り、その心に秘めた願望が熱を帯びてくるのを冷まし続けなければならない。霞んでいくランドマークを見失わないよう必死に目を凝らしながら足を踏み外さないよう一歩一歩歩んで行かねばならない。そういった人生に意見はない、それぞれに家族や自身の性格といった事情もあるだろう。着実に事を進め、確実に先を見据えた人生設計を建てないと将来への不安に心が押しつぶされしまいそうになるだろう。それでも根気よく歯を食いしばりながら日々を歩んでいく人達に僕はいつも頭が下がる思いがする。少なくとも僕には将来に対し着実なビジョンを持ち、確実に歩んでいくだけの根気がなく、いつも目先の快楽に飛びつき自由人を気取っては恥をかくという人生を送ってきている。たぶんこれからもだろう。

 一年ほど前、彼らの旅立ちの日に空港まで見送りに行ったが、初めての海外に不安そうな顔をしながらも妙に清々しい表情だったのを見て、彼らも今までの人生で必死に冷まし続けてきた熱があり、慎ましくも疼く心を癒し続けてきたのだということに気がつかされた。あの清々しい表情は、これからの人生で無理に自分を偽って熱を冷まし続ける必要のなくなった安堵の表情だったのか、これからの旅で得られる人生の新しいランドマークへの期待だったのだろうか。

 友人夫婦と3人でレストランへ向かう。レストランには既に数組の乗客がいて、ボソボソと会話しながら各々好きな料理を食べている。けだるい中国人のウェイトレスに目配せし窓側の席に座る。メニューを眺め何を食べようか悩みながら、時折思い出したように窓の外を眺めてみる。


 窓から見える太陽は、薄い雲に覆われうっすらと輪郭だけしか分からなく、ところどころ空の蒼が透けてみえるが陽の光がこの孤独な海を照らすことはない。
 雲は風に溶けてはまた湧き上がり、コントラストを深めながら形を変え次の空へと旅立っていく。

 ボソボソとした話声が聞こえてくる。中華鍋を振り回す音が聞こえ、船はギシギシと軋みながらも進み、夕方には青島に着港する。







わかるかな、そこんところ 

February 28 [Mon], 2011, 5:43



言葉というものは、とても厄介で、その一言で限定付けたり形を変えてしまったり必要のない看板を掲げてしまったりしてしまう。
必要のない、僕にはまったく必要のない言葉が、僕を限定してしまったり、形を変えさせてしまったり、色を変えさせてしまったりしてしまう。
どうしても言葉には色があるからね、人にも色はあるけどあまりに複雑で言葉のように単調な色ではないし、それ以外に人には形もある。どうしても理解ができないような複雑でイビツな形が人にはある。
貴方がそんな人だなんて、周りから思われていようと、きっと違う一面があるのを僕は知ってるし、読み取れない色があるのを僕は知っている。
だから、人の繋がりというものは、どこかに必ず隙間があるものだし、思いもかけない面が向き合っていたりもする。

世間というものからキチガイだの馬鹿だのといわれているような奴等が作る歌が、どれだけどこかの誰かを励ましているか。世間というものからまともだと評価されている奴等が、どれだけ僕らの心に闇を作り出しているか。

あんたは知らないだろうけど、俺は知っている。
だからこそ安心もできるし、不安にもなってくるんだ。

わかるかな、そこんところ。

じょに 

February 26 [Sat], 2011, 5:12


自分の歩いているペースだとかタイミングだとか、それはあくまで自分だけの規格であって、世界はそんなあんたの規格なんて無いものとしてだし、感づいてはいないし、世界は世界のタイミングでどんどんと次から次に先に行ってしまうし、あんたの心を打ち抜こうと刺客を送り込んでくる。
まだ若かった頃に、『これしかない!』と意気込んで惚れ込んだものが、いつしかカビだらけになっていたり、煌きを失っていたりと、それはもしかしたら自分が時代に流されて盲目になっていたのかも知れない。いやいや、きっとそうだろう。
たまにそんな自分に気づかされ、どうしょうもなく恥ずかしい思いに駆られることがある。
それでも、そんな恥ずかしい自分の過去にも、嬉しい事にまだ少しだけの煌きが残っていたりするのを見つけるのは嬉しいものだ。

いつか、彼女を越えるシンガーが現れるのだろうか・・・。
時代の感覚、というものがあるとしても、どれだけ時代がこれから現れてくる誰かに加担したとしても、彼女を超えるシンガーは現れない様な気がする。

やっぱりケルト系の血は何か特別なのではないかと思わざるをえないな。
御自身で画かれたジャケの秀逸さ。


軽く引きちぎる 

February 25 [Fri], 2011, 9:54


ほんとにジミ・ヘンドリクスになりたかったなぁ。
このストラトの音!絶妙なテンション。
こんなギターを弾いてみたいと渇望してたんだけど・・・、そもそも、僕と彼とでは音の感じ方がまるっきり違うのだろうな、と思ってしまう。
技術云々ではなく音楽に対する感じ方の違い、それだけで技術とか腕前なんかは軽くぶっちぎれてる。

たしか彼は徴兵に取られていたはず。
そこで箒をかかえてギターを弾くまねをして過ごした。その頃に、ギターに対する、音楽に対する気持ちを溜め込んでいたのだろうか。
ギターに関しては、抜群、などとは軽々しくは言えないほど神罹ったものを持っているが、歌に関してはまったく自信が無かったようで、初期の頃は、歌うのを少し嫌がっているかのように歌に説得力が無い。
ある日、アメリカから出てきたボブディランという青年の歌を聞き、『俺にも歌が歌える!』と喜んだという。
これはボブディランの歌が下手で、すぐに真似ができるとか、そんなことではなく、自分の歌を生かせる方向に目が向いたということだろう。

すこしこの人の家系図を見てみたい気がする。
ゴッホのように・・・、家系の三角形の先に彼がいて、もしかすると彼一人を生み出すために彼の先祖は存在したのかも知れない。
時代を大きく変えた人たちにはそんなところがあるような気がする。


お前はそこで何をやっとるんだ、という件 

February 18 [Fri], 2011, 15:22
ずーっと前から、ほんとにずっと前から鼻の穴、それも右側の鼻の穴がムズムズ・ムズムズしてまして。
そのムズムズをどうにかしたいと、いろいろやってたら鼻の穴をいじる癖が付いてしまいました。

中国でパンダ観ながらいじいじ、チベットで高山病と闘いながらいじいじ、ネパールで怒り狂いながらいじいじ、インドでカレー食いながらいじいじ、ラダックで寒さに震えながらいじいじ、パキスタンでフンザでも癒されながらもいじり回して、とうとう中国再びでホームシックになりながらいじり倒すという。
ちょっと傍から見れば『お前病気だろ?』と言われてしまいそうな状態でして。

その僕の病気が、なんと昨日解決しました。

2cm。

2センチの鼻毛が抜けました。

僕は憤慨しましたね。
なんでお前はそんなとこで頑張ってるんだ、と、そんなとこでそんなとこに頑張らなくても上を目指せばいいだろう?と。
お前はかなりのポテンシャルを秘めているの、それは間違いない、だから、そんな穴倉?アンダーグランド的なところで小山の大将気取ってないで外の世界を見てみろよ、と。
お前は2センチで、きっと君のいた世界じゃダントツで一番だったろう、それは解る。
きっと他の追随なんて一切無かったに違いない。

でもね。少しでも外に目を向けてみればどうだい。
頭髪、眉毛、睫に髭。
腋毛、胸毛にホニャララの毛に脛毛。

世界は広いんだぜ。君の2センチなんて、例えるなら地方で神童扱いされてる野球少年みたいなもんで、そんなんじゃPL学園じゃまったく通用しないぜ。

どうだい?頭髪なんて?
あそこは最近人手不足らしいから、君が来てくれるなら助かるって頭皮も言ってるよ。
まぁ、そんなにアップとはいかないだろうけど、それなりのタンパク質も払うって言ってるし。

考えてみてくれないかなぁ・・・。
どうだろう・・・。

P R
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