空のうえの人【2】 

October 28 [Sun], 2007, 15:47
――都会の夕暮れ。

 夕陽がきれいに見える場所なんて、こんな都会のなかにはない。高いビルディングの群れと、時間を問わずに混雑する繁華街。ひとびとでごったがえす大きな駅と排気ガスでいっぱいのバスターミナル。夕陽が輝いているんだな、と分かるのは、ビルのガラス窓に反射する太陽光か、橙色の変わった陽射しの色があるからだ。
 
 四月とはいえ、陽射しの強さによっては長袖を着ていると暑さも感じる。流麗は制服のまま、いつものように繁華街の中ほどにある小さな楽器店にやって来ていた。カーディガンは鞄のなか。白い長袖のブラウス、制服の胸ポケットにはチケットセンターの電話番号を書いたメモがしのばせてある。明日の朝一番に電話をかける。なんだかとても大きな行事のように思えた。

「おじさーん、ピアノ借りまァす」
 店主とは旧知の仲である。流麗がピアノを習っていたころから懇意にしていた店で、彼女は今でも毎日ここにピアノを弾きにくるのだった。たいして賑わいのない楽器店だから店主も不用心で、たいてい二階にあがってしまっている。声だけかけて、流麗はヴァイオリンコーナーの手前にあるたった一台の展示ピアノと向かいあった。
(……うーん……)
 チケットを取れるかどうかもわからないのに、どことなく心が浮ついてしかたがない。数冊のスコアをピアノの脇に置いたのはいいけれど、そのどれも弾く気にならなかった。チケットをとろう、と決めてしまうともう胸がどきどきしてしまって、今までに嫌というほど聴いてきたカイン=ロウェルのヴァイオリンの音色が頭から離れない。少し迷ってから、流麗は弾きはじめた。パッヘルベルの『カノン』である。頭のなかでカイン=ロウェルの『カノン』を聴きながら、それにぴったりと重なるように伴奏を弾き、巧みにメロディーラインを織りこむ。そう難しい曲ではない。けれど柔らかくひとの心を包む、さらさらとした甘い音色。趣味でピアノを弾いているだけの、そんなふうな音色ではなかった。
 北条流麗のピアノの才能は、努力の賜物ではない。持ってうまれた天賦の才能であるといって良かった。血の滲むような努力をしなくたって、腱鞘炎になるほど練習をしなくたって、流麗の手指は驚くほど美しくて細やかな、情感ゆたかな音色を奏でることができた。
 
 なぜ、と流麗自身考えたことはない。最高級の音色を奏でるというのは、流麗にとってはしごくあたりまえのことであって、だから他の人間にはわからない。美しい音色を奏でるために不断の努力をする、というのは流麗には当てはまらないプロセスなのだった。明らかなことはひとつだ――ピアノを愛している。
 
 流麗はただひたむきに、ピアノを愛していた。どこででもかまわない、自分がどんな状態であってもかまわない。ただピアノを弾きたいと。ただピアノが傍にいればそれでいいと、いちばん純粋でささやか、けれどきっといちばん贅沢で根本的な欲望だけを持っている。この世界じゅうでピアノをいちばん愛しているのは自分だという自信。この世界じゅうでピアノにいちばん愛されているのは自分だという自信が、流麗にはあった。ピアノはいつでも、それに応えてくれた。
 
 音楽に愛されたひとの指は、神の音色を奏でる。その音色は無条件にほかのものの心を癒し、揺るがし、守る。この広い広い地球のなかで、ほんのひとにぎりしか存在しないまさに“楽神に選ばれた”ものたち。努力して努力して努力して、そうすれば選ばれるものではなかった。彼らはもはやその運命を、生まれたときからすでにその身に持ちあわせているもの、としか言いようがない。数多い音楽家のなかで、趣味ていどでしかピアノを弾いていない北条流麗は選ばれたのだ。楽神に。そしてピアノに。
 
 流麗の心がカイン=ロウェルのヴァイオリンに大きく揺らいだのは――揺らいだのは、同じだったからである。彼もまた、ああ神に愛されているのだと流麗の本能がそう感じたからである。このひとの音色は同じだ、と頭の真奥でささやく声がしたから。それは幼なじみの鏡にたいする淡い恋心とは違った。いつ終わるかしれぬ恋心ではなくて、これは永遠に深く流麗の奥に根づくものだった。



(……えっ)
 思うまま、なめらかに動いていた流麗の指がとまった。

《2》 

October 02 [Tue], 2007, 21:13


  第一楽章【空のうえの人】

『奇跡は自然に反して起こるのではなく、私たちが自然だと思っていることに反して起こるだけである』
―聖アウグスティヌス―




 
 紅茶はとっくに冷めていた。春先とはいっても、夜気は思ったよりずっと冷たい。暖かな木目調の机上に音楽雑誌をひらいたまま、流麗は考えこんでいた。いつからだろうか、クラシック関連の音楽雑誌は定期的に買いこむ習慣がついてしまったのは。
(いいなぁ……)
 流麗が今ひたと見つめているのは、しかし朝倉鏡の記事ではなかった。


    『稀代のヴァイオリニスト――珠玉の旋律』


 そういったタイトルで特集記事が組まれている。その記事のなかに、貴公子然とした美しい男の姿があった。カイン=ロウェルという英国人ヴァイオリニストで、朝倉鏡とともにヴェルンブルク音楽院に通う若者である。雑誌のなかで堂々とした立ち姿を見せるその若者は、どことなく神秘的な深緑の双眸を持っていて、彫りの深い西洋人らしい顔立ちをしていた。美しい、という以外には形容しがたい容貌。
 眼裏に鮮やかに灼きつけられるような美しさである。
 美しいのは容貌だけではなかった。彼のヴァイオリンの音色は、まさに神の音色である。まるで強烈な催眠術のようにひとびとを魅了してやまず、雄々しく熱烈な音を奏でることがあれば、あるいは甘やかで美しい音を奏でることもある――虹色のシャボンになって空へ舞いあがっていくような音色の波濤。
 美しい容姿。美しい音色。“美しい”というひとことだけで表せるような単純なものではないけれど――ともかく世界じゅうに熱烈なファンがいる。リサイタルチケットは発売開始すぐに完売。ソロリサイタルを聴きに行きたいと思って何度か電話をかけようとしてみたのだけれど、やっぱり無理だった。鏡の学友なのだということが頭をかすめて、最後まで勇気が出なかった。電話をかけたとしても、そう簡単に取れるチケットではないのだけれど。
 彼の容姿に感心はしたけれど、ともかく流麗をすっかり捉えてしまったのはカイン=ロウェルの奏でる音色だった。TVで見たキョウ=アサクラとカイン=ロウェルのドキュメント番組。はじめて聴いたカイン=ロウェルのヴァイオリンの音色――あのときの衝撃を、流麗は忘れない。このカインへの想いというのは、鏡への思慕とはまるで違っていた。淡く切ない恋心とはまったく違う。
 この世にこんな音色を奏でるひとがいるなんて、という驚愕と尊敬。溢れでてくる不思議な感情。あのときから、カイン=ロウェルは流麗にとってまるで神のような存在になった。心のそこから憧れる、夢のような存在になったのだった。
 深々とした憂いと気品にくるまれて、夢まぼろしの果てへゆるゆると流れていくような感覚。その音色のうずが心を癒すかと思えば、悲しい旋律は魔術のようにひとびとの瞳から涙を溢れさせた。これといって名がついているわけでもない、けれどどこかひどく荘重で雄大な、そうして透明なもの。
 たぶんこの世でもっとも美しいものだ、と流麗は思っている。
(神様に魅入られた音色だわ)
 一度でいいから、彼のリサイタルに行ってみたい。この耳で直接、彼の奏でる至高の音色を聴いてみたい。カイン=ロウェルと同じ空間で、彼の奏でる音色の波にこのからだを浸してみたい。
 流麗はそう思いながらいま、こうして雑誌を前にじっと考えこんでいるのだった。



  『ヴェルンブルク音楽院  ◇神々の舞◇』


 日本主要都市、東京・大阪・福岡において、“神々の舞”と銘打たれたリサイタルが開催される。雑誌には演奏者の写真がまさに威風堂々といった感じで載せられ、記事の右端にチケットセンターの電話番号が印刷されてあった。
 ほんの少しばかり、流麗は逡巡した。ヴェルンブルク音楽院から招待された、三人の音楽家によるリサイタル『神々の舞』――演奏者は、カイン=ロウェルとキョウ=アサクラ。そしてマリア=ルッツ。逡巡の理由は、自分でわかっている。鏡とマリア=ルッツが並びたつ姿を見るのは、流麗にとってやはり気分のよいものではない。守られない過去の約束を、それでもまだ引きずっている。
(でも……)
 けれどもそんな些細な現実逃避のために諦めきれるほど、カイン=ロウェルのヴァイオリンの魅力は脆弱なものではなかった。流麗は二度ほど、瞬きをした。この瞳に映る、朝倉鏡とマリア=ルッツの写真。それからカイン=ロウェルの姿。ひとつ大きく息をつく。
 心の奥底には、もうすでにひっそりとした決意があった。それでも流麗はまだ、逡巡した。チケットの発売日は、あさってだ。発売開始数分、数十分で完売するようなチケットを買うには、相当の意気込みでもって臨まなくては。カイン=ロウェルの来日公演はひさしぶりのことである。
(この次、いつ来日するかわかんないし……)
 どんなに後ろの席でもいい。たとえチケットを取れなくてもかまわない。
(取れないかもしれないけど、一回くらいは……)
 やれるだけやってみよう、と流麗はようやく決意の溜め息を吐きだして雑誌を閉じた。心が決まってしまうと、あと迷うことは何もなかった。

新ver 

September 24 [Mon], 2007, 20:40
 序楽章:プロローグ

 『人生を明るいと思うときも、暗いと思うときも、私は決して人生を罵るまい』
                                ――ヘッセ――




 ――流麗。俺、絶対戻ってくるからね。戻ってくるから、絶対待ってて。

 ――約束だよ。

 ――わかってる。おまえこそ忘れんなよ!
 


 きっとこの世界には絶望なんてないのだと、無条件に信じていた幼い日々。あの日の約束は、色褪せることなく心の奥に鮮やかに耀いていた。忘れたことなんて、一日たりともなかった。ずっとずっと、彼女は信じていた。
 朝倉鏡《あさくらきょう》は、彼女の幼なじみである。幼なじみであり、そうしてまたピアノのすばらしきライバルでもあった。朝倉鏡は、大怪我をした手の手術のためにドイツへ発った。必ず戻ってくる、という誓いにも似た約束を残して。それは彼らが小学校五年生のときのこと。



   「玉響のように」


 ――それから六年が経つ。北条流麗《ほうじょうるり》は、この春で高校二年生になった。真っ白なブラウスと濃紺系チェックのネクタイ。長袖の学生カーディガンに、これもチェックのミニスカート。ここらへんでは一番人気の制服に身を包み、仕草ひとつひとつには若々しさが溢れて清潔な美しさが弾ける。ぶつぶつ言いながら教科書とノートを広げ、大騒ぎをして教師に叱られ、喧嘩をしたり恋をしたりして歩いていく青春。流麗もまた、そのまっただなかにいた。
(いいなあ……制服デート)
 今日はデートなの、と言ってるんるん年上彼氏のクラスへ走っていく友達を見送って、流麗は少しの間ぼんやりと立ち尽くした。
 流行のファッション。可愛い香水。大好きな彼氏。まわりの友達の瞳にはそういったものが大きく映っていて、けれどそんななかで流麗の双眸に映るのはそれとはまた違ったものだった。人並みに彼氏が欲しいとか、デートしたいとか、思ったりはするのだけれど。
(鏡……)
 最近の日本におけるクラシックブームの火付け役となったのは、日本人ピアニスト朝倉鏡である。
(“イケメンピアニスト”って言い方はあんまし気に入らないんだけど)
 TV。雑誌。幼いころに約束をしてドイツへ発ったまま帰ってこない、あの幼なじみの朝倉鏡が――流麗の心を大きく占めていた。もう彼は、流麗の幼なじみではない。世界のピアニストである。
 彼の大怪我は、塀から落ちそうになった流麗を助けたのが原因だった。彼の手指の怪我以来、流麗は本格的なピアノレッスンから遠ざかっている。彼の怪我は自分のせいだという負い目も当然あったし、自分が何食わぬ顔でピアノを続けていれば、気にしないでいいよと言ってくれた鏡の両親だって少なからず不快感を覚えるだとうろ思ったからだ。流麗は趣味ていどにしかピアノを弾かなくなり、けれどそれとは裏腹に鏡は怪我から順調に回復し、そうしていつのまにかクラシック界の新星として羽ばたいていたのだった。世界のピアニスト『キョウ=アサクラ』として。
 彼はドイツヴェルンブルク音楽院に入学し、その大胆で豪快な、時に優しく繊細なピアノの音色は全世界のクラシックファンを魅了した。その少しやんちゃそうな容貌と優れたプロポーション。知名度はどんどんあがっていく。渡独したきり、鏡からは何の音沙汰もなかった。流麗が今でも想っているのは、まぎれもない鏡なのだけれど――けれども。
(あの熱愛報道だって、ホントっぽかったし)
 見目のよい男優。一年ごとに現れては消えていく流行のお笑い芸人。大物俳優の再婚報道と離婚さわぎ。
 クラシック音楽家の話題なんて地味もいいところ、見向きもされなかったはずなのに、最近は頻繁に邦人音楽家のドキュメント番組や密着取材が放送される。自然、流麗もブラウン管を通して朝倉鏡を目にすることが多くなった。
 そんな朝倉鏡の、ついこのあいだTVで流れた熱愛報道。いつも学院で鏡の傍にいて、鏡と同じように世界で活躍する十八歳のピアニスト、マリア=ルッツが、彼の恋人なのだという。流麗よりもふたつ年上、金髪グラマーの派手な美女だった。鏡を取りあげたドキュメント番組で、彼女を見たことがある。


 ――彼はとても素晴らしいピアニストよ。彼と出逢ったことは、わたしにとっての宝だわ。


 ブラウン管の向こうでその美女は、流暢なドイツ語で語った。彼女が喋る内容を忠実に訳してくれている字幕が、まるで自分をあざわらっているかのようだと流麗には思えた。
 朝倉鏡にとっては、もしかすると小学生のころの約束なんてただの遠い思い出なのかもしれない。思い出ですらないのかもしれない。むしろ小学生のころの口約束を、高校生の今まで信じつづけてきた流麗のほうがどうかしているのかもしれなかった。あんな昔の約束なんて守られるはずがないわ、と流麗自身がいつのまにか納得してしまっている。
「有名になっちゃったもの」
 そのときからすでに諦めた恋だったけれど、流麗はずっと耐えてきた。切なかったけれど、泣いたりはしなかったし、鏡を恨んだりもしなかった――未消化のまま終わった、淡い初恋。いつか彼が日本に戻ってきたときには、と純粋に信じていた流麗だった。
 けれど鏡は世界の『キョウ』で、もうけっしてただの日本人ではなくなっていた。そんな彼の恋人はマリア=ルッツ。彼の傍に立つのは、それにふさわしいだけの美貌と地位をもったあの美しいドイツ人女性なのだと、頭では理解している。昔の約束をばかみたいに信じているからといって、流麗の頭が悪いわけではない。
 

 ――きっともう、会うことはないだろう。

プロフィール
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