承認欲求が強い人の特徴9つ, マズローの欲求段階説

July 05 [Wed], 2017, 0:02
承認欲求が強い人の特徴9つ
承認欲求とは、社会を形成して生きる人間の持つ基本的な欲求であり、誰でもこの欲求はもっています。
そして度を越してこの欲求を持つ人には手を焼かされることもあります。
しかし、自己アピールは、生きてく上では絶対に必要です。
だって自分を知ってもらわないとお金にならないし、人付き合いもうまくできないし...誰からも覚えられない人間ってたくさんチャンスを失ってしまいます。
でも、自分をたくさん出しすぎる人って、近寄りがたいですよね。一生懸命頑張ってるんのは分かるんだけど、自分に向けて欲しくはない。そんな不思議な感覚ですよね。
正直なところ承認欲求が強い人というのはしんどいのではないでしょうか。なぜなら自分の都合しか考えていないから。そして自分の都合しか考えていないから、相手の領域にずかずかと入っていく。
では、どんなときに感じるのでしょうか。それが分かっていると対処も簡単です。
そこで今回は承認欲求の強い人の特徴をご紹介しますので、ぜひ参考にしてみてください。

◆承認欲求が強い人の特徴9 
1)寂しがりや
TwitterやFacebookなどのSNSにおいて、もっとも多いパターンが、人から注目を集めたり、反応があることで普段感じている寂しさを紛らわせるタイプの人です。
このタイプによく見られるのは、自分のすぐ近くにとても目立つ人がいたり、自分をごくごく平均の面白味のない人間だと思っているので、何か秀でたものや他の人が憧れるようなものを必死にアピールしたいと感じる人です。
他人からの承認を得ることにより、日頃感じる他人との劣等感や、平凡であるという無力感を紛らわせています。
他人から必要とされず、いなくてもよい人間と感じる恐怖感を回避させるために、そういったSNSをツールとして利用しています。
 
2)目立ちたがり
続いて多いのが、この他人より目立つことやすごいと思われることをしたがるパターンです。
関西の大学生が有名テーマパークで迷惑行為を行い、虚偽の写真をSNSに投稿したという事件は記憶に新しいと思います。
「自分が他の人とは違うんだ」というアピールしたり、人から注目されることで、自分が特別だと錯覚し、その行動がエスカレートするタイプです。
元々自己顕示欲が強く、自分が他人から認められることで、安心や快感を感じるこのタイプは、次々と突拍子もないことをやってみたり、誇張表現や嘘で注目を集めようとしています。

3)ストレス解消でバランスをとっている
例えば、学校ではいじめらているが、ネットの世界ではちょっと名が知れており、別の明るい顔を見せる学生や、仕事とプライベートで180度違う顔を見せる同僚はいませんか。
3つ目のパターンは、ひとつのコミュニティでは疎外感や閉塞感を感じているが、
別のコミュニティでそのフラストレーションを晴らしてバランスを取っているタイプの人間です。
人から注目を集めることで自分の存在意義や優位性を見出し、それをストレスの捌け口としていています。
しかし、普段の自分ではそういった満足が得られないため、別の自分が認められることで、
普段の自分のコミュニティから目を逸らし、もう一人の自分を作り出しているのです。
 
4)相手の話を聞かないくせに同意ばかり求める
 承認欲求が強い人って、なんでも聞いてほしがる人ってイメージありますよね?
もうとにかく話します。相手が話していることにさえ割って入ってきます。
そのくせ自分の話を切られると嫌な顔をします。
しかも、「○○でしょ?」としきりに同意を求めてくるので面倒なことも少なくありません。
あれは全部自分の都合を優先しているから起きています。
言い方を変えると自分が満たされてないから起きてしまうのです。

5)求めていないのに自分語りをはじめる
よくSNSで自分の今頑張ってることとか、自分がどれだけ充実しているかとか、自分の過去にどんなことがあったのか、などなど。
「それ、誰が得するの?」と思うようなことを平気で発信している人がいますが、こういうのを嫌だと感じる人もたくさんいます。
そして、もう一つ、意外に気づいていないけど「自分語り」になっているものがあります。それが「主張」です。
ニュースをシェアしては「私はこう感じた」「私はこう思う挙げ句の果てには「みんなこうするべき」と押し付け始めます。
このような意見が鼻につくのも「自分語り」だからです。理由は簡単、発信する必要がないからです。
そしてこういうことは相手を考えていないので、逆に言えばブロックしても全く問題ありません。容赦なくブロックしてしまいましょう
 
6)すぐに相手のせいにする
 どうして一方的に責任を押し付けるのかというと、自分を守るためです。なのでそういう人とは離れてしまいましょう。
相手がどんな噂を立てても、みんな最後にはあなたの判断を支持してくれますよ。
 
7)家族、身内を大切にし過ぎる
 承認欲求の基本的な対象は自分と家族と友人などの身内関係にあります。
ですので、承認欲求の強い人はある意味”仲間思い”のいい人です。
ですが、明らかに自分の身内に非があるトラブルなどが発生した時に事の真相を無視して盲目的に「身内をかばう」性質を持っています。
人間の性格にかかわるような精神的な悩み事を相談できる相手では無いかもしれません。

8)基本的に仕事は頑張る
いわゆる「スタートダッシュ」の速い人が多いです。承認欲求は言葉を変えると「褒められたがり」なので、目立ちたがり屋でもあります。
何か新しい企画などが立ち上がった時などは素晴らしい段取り力と行動力で仕事を進めます。
問題はその後なのです。
ある程度その仕事ぶりが認められて一段落ついたり、全く上司から認められない状態が続くと気分が萎えてしまいます。
”持久力の無さ”が承認欲求の強い人の特徴かも知れません。
 
9)他人をよく褒める 
承認欲求の強い人はフレンドリーで友人も多いことがほとんどです。自分自身も他人から褒められることを至上の喜びとしている分、他人に対しても褒めることを怠りません。
ただ人をランク付けしてみたり、自分の居場所、キャラに異常にこだわる傾向にあります。
 
◆承認欲求が強い原因4
a)他人の目が気になる性格
承認欲求が強い原因として、他人の目が必要以上に気になってしまう性格が挙げられるでしょう。
他人から自分がどう思われているのかと、いつも気になってしまっているのです。
そのため、自分が良かれと思っていることに対して、他人も良いと評価してくれることによって必要以上にホッとして安心するのです。
さらに、自分がどうしたいか、自分はどう思ってそうするのかといった自分軸が弱いため、他人の価値観に振り回されてしまいます。
十人十色の価値観がありますので、自分の価値観を大切にしなければなりません。
しかし承認欲求が強い人は、その場その場で他人の言うことを重視してしまい、まずは自分がどうなのかという確固たる信念が無いため、さらに承認欲求が強くなってしまうという悪循環に陥っていると言えるでしょう。

b)両親の愛情を得られないで育った
両親から褒められずに否定的な言葉で教育されてきた人は、特に承認欲求が強くなるでしょう。
自分はこれだけ頑張っているのに、両親からはその頑張ったことに対して褒めてくれもせず、それよりも結果の良し悪しで判断されてしまい、認めてくれないという経験が多ければ多いほど、欲求不満が溜まってしまうのです。
そのため、このような環境で育つことによって、認められたいという承認欲求が強まるのです。
一番身近で愛情をもらいたい両親から、自分を満たしてくれるような言葉があまりもらえず、愛情もあまり感じられないで育ったということが大きな原因だと言えるでしょう。
その心の寂しさが大人になっても癒されないため、必要以上に肯定して欲しい、認めてほしいという気持が強まり、他人にもそれを求めてしまうことになるのです。
 
c)大きな挫折を味わった経験がある 
子供のころからの夢や目標のために頑張てきたことがあったのに、ケガや環境の変化などでそれが達成できずに大きな挫折を経験したということも原因となるでしょう。
自分は長年これだけ頑張てきたことなのに、その夢や目標達成への道を突然失ってしまうことで、大きな心の傷を負って癒せないでいるのです。
プライドが高いタイプの人は特にそうでしょう。
本当は、自分が納得のいくもっと上のレベルにいるはずだったのに、今は自分とマッチしない不本意なレベルにいるというような、自意識過剰な思いをずっと持ち続けてしまっているからです。
そのため、その心の穴を埋めるために、自分の頑張りに対して必要以上に他人からもっと認められたいと思い、納得のいくような称賛が得られないと心が収まらなくなってしまっているのです。

d)過去の栄光にしがみついている 
過去に一度でも他人から称賛されるような出来事や賞を得た経験があり、その過去の栄光にしがみついていることで承認欲求が強まってしまうということもあります。
自分はそれだけ凄い人物なんだという自己顕示欲が強いため、それが満たされないでいる状況が続くことにより、本来の自分はこんなもんじゃないという自惚れが出てきてしまいます。
そのため、自分をもっと認めてほしい、本当は凄いんだということを認めさせたい、分からせたいという承認欲求が強くなるのです。
特に結果を出すための行動をしたり、努力したりしていないのにもかかわらず、過去に得た栄光に関わるジャンルにおいて、これだけは周りの人間よりも自分の方が秀でているんだという、自意識過剰な思いを募らせていることで、さらに承認欲求が強まるのです。
 
◆承認欲求が強い人への対処法4
i)その人が頑張ったことは、素直に認めて褒めてあげる
承認欲求が強い人は、褒めてもらった経験が少なかったり、幼少期に否定されてばかりいたというような原因が当てはまります。
その他、いくら努力をしても報われないといった経験から、異常に「人に認められたい」と感じてしまうのです。
あなたがもし、承認欲求が強い人と仕事上などで関わりをもった場合は、まず、認めて褒めてあげることから始めましょう。
他の人にとっては「そんなの出来て当然だよ」と言われるようなことでも、その人にとっては苦手分野で、とても努力をしてこなした業務かも知れません。
もしくは、自分の気持ちを保つために、「出来て当たり前のこと」と分かっていながらも、それでも人に認めてもらいたいという要求からしょうもないことを言ってくることもあるかもしれません。
でもそれを認めて褒めてあげることで、その人の中で納得がいき、次のステップへと踏み込むチャンスとなります。
まずは、認めて褒めてあげることを意識してください。

ii)あまり深くは関わらない
承認欲求が強い人が、まれに「自分が一番でないと絶対に気が済まない」という心理にまで陥っているケースがあります。
そう言う人は「過去にライバルに負けてとても悔しい経験をした」というようなことから承認欲求が強くなっているというようなケースが多いです。
こういう人と深く関わってしまうと、あなた自身が大変な思いをすることになります。
「ただ頑張りを認めてほしい」「認めて、褒めてくれたら満足する」というタイプとは違い、「自分が一番でないといけない」上に、相手からの共感も欲しがるのです。
つまりは、このタイプの人と深いかかわりを持ってしまうと、常に相槌をうって首を縦に振ってあげながら、相手を追い越さないように「2番手」を上手くキープしてあげないと激高するといったとても面倒くさいことになりかねません。
こういう「自分が一番でないと気が済まない」タイプの人間とは、あまり深くは関わらないことをおススメします。
 
iii)相手が部下であるなら、目標を一緒に考えてあげる
例えば、自分の直属の部下が承認欲求が強くて悩んでいるといった人もいるのではないでしょうか。
そういった場合は、まずは部下自身と一緒に目標のすり合わせをしましょう。
あなたにとって、平均的な仕事のこなし方であっても、それをしっかりと相手に伝えてあげないと相手はそれを過剰に認めてほしがります。
それを受け入れて認めてあげるのも良いのですが、あまりに出来て当たり前のことに対してずっと認めてあげて褒めてあげて、ということをしているとあなた自身もストレスが溜まるでしょうし、相手のステップアップにもつながりません。
まず、「1→2→3の成長過程があるとして、この時期までには、2まで出来るようになっておこうね」などと具体的な目標を掲げてあげてください。
これによって、1が出来るようになっただけで「認めて認めて!」と言われてしまうというような、不都合を予防することが出来ます。

iv)自分に自信をつけさせてあげる
承認欲求が強い人の中でも、実は自分に自信がなくてそうなっているタイプの人もいます。
「私は本当は何もできないやつだ」と思いながらも、誰かに「そんなことないよ」と言ってほしいという願望がそうさせることがあるのです。
この場合の根本的な原因は、その人自身が自分に自信がないことですから、自信がつくように日ごろから言葉がけをしてあげることが効果的です。
「○○は良く気が利くね」「この分野は、○○はすごい得意だね」などと些細なことでも少しずつ自信をつけさせてあげることで、承認欲求から解放され、イキイキとしだすこともあります。
承認欲求が強い=承認されたい願望が満たされていないということですから、その願望を適度に満たしてあげれば、解消につながるという考え方です。
人によってはそれで図に乗ってしまう人もいますので、「適度に」解消してあげるようにしましょう。
 
◆承認欲求が強い原因は複雑だけれども、その人はそこまで悪い人間ではない
いかがでしょうか。
以上が承認欲求の強い人の特徴と性質ですが、その欲求の持つ度合いが良ければ非常に付き合いやすく、仲間思いの友人になりやすい人達です。
逆にこの欲求が弱すぎる場合はそれはそれで問題があります。
承認欲求の強い仲間を持ってしまったら”褒める”ことを怠ってはいけません。そしてコミュニティ内での『居場所』をきちんと与えて認めることが大切です。
少し面倒に感じますが、逆に一度仲間になれば心強い味方になることも多く、本当に困った時に無条件に味方になってくれるのも、この承認欲求の強すぎる人達なのです。
また、もしあなたの仕事が上手くいっていなかったり、職場での悩みがあるのであれば「仕事ができない人の特徴とその対処法9つ」もあわせて読んでみましょう。
きっと今までの悩みや問題が一瞬で解決できるキッカケをつかむことができるはずですよ。

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欲求段階説(よっきゅうだんかいせつ、英: Maslow's hierarchy of needs)とは、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。これは、マズローの欲求段階、自己実現理論とも称される。
ピラミッド状の階層を成し、マズローが提唱した人間の基本的欲求を、高次の欲求(上)から並べる。
自己実現の欲求 (Self-actualization)
承認(尊重)の欲求 (Esteem)
社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
安全の欲求 (Safety needs)
生理的欲求 (Physiological needs)

◆生理の欲求 (Physiological needs)
生命を維持するための本能的な欲求で、食事・睡眠・排泄など。極端なまでに生活のあらゆるものを失った人間は、生理的欲求が他のどの欲求よりも最も主要な動機付けとなる。一般的な動物がこのレベルを超えることはほとんどない。しかし、人間にとってこの欲求しか見られないほどの状況は一般的ではないため、通常の健康な人間は即座に次のレベルである安全の欲求が出現する。
◆安全の欲求 (Safety needs)
安全性、経済的安定性、良い健康状態の維持、良い暮らしの水準、事故の防止、保障の強固さなど、予測可能で秩序だった状態を得ようとする欲求。病気や不慮の事故などに対するセーフティ・ネットなども、これを満たす要因に含まれる。
この欲求が単純な形ではっきり見られるのは、脅威や危険に対する反応をまったく抑制しない幼児である。一般的に健康な大人はこの反応を抑制することを教えられている上に、文化的で幸運な者はこの欲求に関して満足を得ている場合が多いので、真の意味で一般的な大人がこの安全欲求を実際の動機付けとして行動するということはあまりない。
◆社会欲求と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
生理的欲求と安全欲求が十分に満たされると、この欲求が現れる。
自分が社会に必要とされている、果たせる社会的役割があるという感覚。情緒的な人間関係についてや、他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚。愛を求め、今や孤独・追放・拒否・無縁状態であることの痛恨をひどく感じるようになる。
不適応や重度の病理、孤独感や社会的不安、鬱状態になる原因の最たるものである。
◆承認(尊重)の欲求 (Esteem)
自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求。尊重のレベルには二つある。低いレベルの尊重欲求は、他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができる。マズローは、この低い尊重のレベルにとどまり続けることは危険だとしている。高いレベルの尊重欲求は、自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自立性などを得ることで満たされ、他人からの評価よりも、自分自身の評価が重視される。この欲求が妨害されると、劣等感や無力感などの感情が生じる。
◆自己実現の欲求 (Self-actualization)
以上4つの欲求がすべて満たされたとしても、人は自分に適していることをしていない限り、すぐに新しい不満が生じて落ち着かなくなってくる。自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求。すべての行動の動機が、この欲求に帰結されるようになる。
これら5つの欲求全てを満たした「自己実現者」には、以下の15の特徴が見られる。
●現実をより有効に知覚し、より快適な関係を保つ
●自己、他者、自然に対する受容
●自発性、素朴さ、自然さ
●課題中心的
●プライバシーの欲求からの超越
●文化と環境からの独立、能動的人間、自律性
●認識が絶えず新鮮である
●至高なものに触れる神秘的体験がある
●共同社会感情
●対人関係において心が広くて深い
●民主主義的な性格構造
●手段と目的、善悪の判断の区別
●哲学的で悪意のないユーモアセンス
●創造性
●文化に組み込まれることに対する抵抗、文化の超越

欠乏欲求と存在欲求
マズローは、最初の4つの欲求を欠乏欲求 (Deficiency-needs) 、自己実現の欲求を存在欲求 (Being-needs) としてまとめることもある。マズローは、欠乏欲求と存在欲求とを質的に異なるものと考えた。自己実現を果たした人は少なく、さらに自己超越に達する人は極めて少ない。数多くの人が階段を踏み外し、これまでその人にとって当然と思っていた事が当たり前でなくなるような状況に陥ってしまうとも述べている。
また、欠乏欲求を十分に満たした経験のある者は、欠乏欲求に対してある程度耐性を持つようになる。そして、成長欲求実現のため、欠乏欲求が満たされずとも活動できるようになるという(例:一部の宗教者や哲学者、慈善活動家など)。
晩年には、自己実現の欲求のさらに高次に「自己超越の欲求」があるとした。1969年にスタニスラフ・グロフと共にトランスパーソナル学会を設立した
自己超越
マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、自己超越 (Self-transcendence) の段階である。 自己超越者 (Transcenders) の特徴は
「在ること」 (Being) の世界について、よく知っている
「在ること」 (Being) のレベルにおいて生きている
統合された意識を持つ
落ち着いていて、瞑想的な認知をする
深い洞察を得た経験が、今までにある
他者の不幸に罪悪感を抱く
創造的である
謙虚である
聡明である
多視点的な思考ができる
外見は普通である (Very normal on the outside)
マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能である。 マズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。
批判的意見
批判は大きく分けて2つあり、「実証」に関するものと「理論構造」に関するものである。
実証に関する批判は2つある。
マズローは当時、神経症患者から得たデータを健康な人間に当てはめようとする心理学の傾向を批判していた。そこで「自己実現者」を調査するにあたり、300人の健康な大学生から面接調査で被験者を選ぼうとしたが、満足できる者は1名しかおらず、リンカーンやルーズベルト、アインシュタインやスピノザ、シュバイツァーなど、全被験者23名中9名の歴史上の人物をサンプリングに加えた。このような人選には恣意的なものが多分に介入し得るため、そのデータを一般化することは困難であると批判を受けている。
実証に関する批判の2つめは、ピラミッド状に構成されている階層が、はたして一般人の経験的なものとして本当に妥当かどうかというものだ。部分的に階層を支持するという実証結果もある反面、支持できないという実証結果も多数発表された。例えば、欲求の5階層化が妥当かどうかを因子分析を用いて検討したWater and Roachによれば、5つの階層は必ずしも相互に独立しておらず、入り交じっており、さらに階層の次元には個人差が見られるという。
理論構造に関する批判は3つある
1つは、親が子供に言語や規範といった文化を身につけさせるまでは好き勝手な行動をさせないという事実からあきらかなように、環境要因を無視した欲求の発展は考えにくく、生物学的にだれもがこの順序をたどるとは言えないという批判がある。さらに、生物学的に人間の欲求発展に違いがあるとすれば、発展の違いがもたらす社会的不平等は自然であり正しいという考えを許容する危険性があるという批判もある。
第2の批判は、マズローが普遍モデルを志向していたにもかかわらず、結局は個人主義に価値をおく西洋的人間観をモデル化したに過ぎないというものだ。従って、西洋以外の世界においては妥当性を持ち得ない。例えばRobbinsは、マズローの枠組みはアメリカの文化が前提であり、日本の場合は安全欲求が一番上になると述べている。さらに、マズロー理論は保守主義的イデオロギーに対抗する自由主義的イデオロギーの表出に過ぎず、西洋世界においても妥当ではないという議論もある。
第3の批判は、自己実現の段階に到達するためには欠乏欲求を乗り越える必要があるという、階層の順番に対する批判である。欠乏欲求を満たすには商品を購入する資力が必要だが、それでは結局自己実現は資力にかかっていることになってしまう。では反対に、資力があれば誰でも自己実現が可能かといえば、それも困難である。身の回りに商品を溢れかえらせることが自己実現であるとするならば、商品の集め方によってしか人間の個性が決まらないことになってしまう。
マズローの欲求階層説に対する誤解は3つある。
1つは、マズローはより高次の欲求に移行するためには現時点の欲求が完全に満たされる必要はないと述べている。マズローによると、生理的欲求では85%、安全欲求では70%、愛の欲求では50%、自尊心の欲求では40%、自己実現の欲求では10%の達成度で移行が充足されるという。
2つは、自己実現者は完璧人間ではなく、欠点も多数有している。長年の親交をあっさり切り捨てたり、愛していない男と結婚し離婚する女性、親しい人間の死から瞬時に立ち直る者、因習にとらわれる者に苛立って暴言を吐いた女性など、自己実現的人間がそうでない人間を傷つける場合が非常に多いとマズローは説明する。マズローは自己実現者を無条件に賞賛していたわけではない。こうした欠点はマズローが挙げた自己実現者の特徴と矛盾するが、その理由については説明されていない。
3つは、サンプルが全23人とごく少数であること。先述の欠点を考慮するならば、もしこうした人々が多数存在すれば、社会は秩序を失い、存続困難になるだろう。マズローは自己実現を達成する人間は、全人口のたかだか1%に過ぎないと考えていた。
マズローの欲求段階説は、人間性心理学や動機づけの理論を進展させたと評価され、マーケティングの分野においてはよく受容されたが、個人的見解あるいはごく限られた事例に基づいた人生哲学に過ぎず、普遍的な科学根拠や実証性を欠いているのではないかという疑問も呈されている。例えば、欠乏欲求が満たされていても、成長欲求の満足を求めず生活の安定を求める労働者の例がある。しかしこれは、欠乏欲求が十分に満たされていない(十分に自尊心が育まれていないなど)ために、自己実現の欲求が現れていないとも考えられる。
Maslow's hierarchy of needs is a theory in psychology proposed by Abraham Maslow in his 1943 paper "A Theory of Human Motivation" in Psychological Review. Maslow subsequently extended the idea to include his observations of humans' innate curiosity. His theories parallel many other theories of human developmental psychology, some of which focus on describing the stages of growth in humans. Maslow used the terms "physiological", "safety", "belonging" and "love", "esteem", "self-actualization", and "self-transcendence" to describe the pattern that human motivations generally move through. The goal of Maslow's Theory is to attain the sixth level of stage: self transcendent needs.
Maslow studied what he called exemplary people such as Albert Einstein, Jane Addams, Eleanor Roosevelt, and Frederick Douglass rather than mentally ill or neurotic people, writing that "the study of crippled, stunted, immature, and unhealthy specimens can yield only a cripple psychology and a cripple philosophy.":236 Maslow studied the healthiest 1% of the college student population.
Maslow's theory was fully expressed in his 1954 book Motivation and Personality. The hierarchy remains a very popular framework in sociology research, management training and secondary and higher psychology instruction.
Maslow's hierarchy of needs is often portrayed in the shape of a pyramid with the largest, most fundamental levels of needs at the bottom and the need for self-actualization and self-transcendence at the top.
The most fundamental and basic four layers of the pyramid contain what Maslow called "deficiency needs" or "d-needs": esteem, friendship and love, security, and physical needs. If these "deficiency needs" are not met – with the exception of the most fundamental (physiological) need – there may not be a physical indication, but the individual will feel anxious and tense. Maslow's theory suggests that the most basic level of needs must be met before the individual will strongly desire (or focus motivation upon) the secondary or higher level needs. Maslow also coined the term "metamotivation" to describe the motivation of people who go beyond the scope of the basic needs and strive for constant betterment.
The human brain is a complex system and has parallel processes running at the same time, thus many different motivations from various levels of Maslow's hierarchy can occur at the same time. Maslow spoke clearly about these levels and their satisfaction in terms such as "relative", "general", and "primarily". Instead of stating that the individual focuses on a certain need at any given time, Maslow stated that a certain need "dominates" the human organism. Thus Maslow acknowledged the likelihood that the different levels of motivation could occur at any time in the human mind, but he focused on identifying the basic types of motivation and the order in which they should be met.

◆Physiological needs
Physiological needs are the physical requirements for human survival. If these requirements are not met, the human body cannot function properly and will ultimately fail. Physiological needs are thought to be the most important; they should be met first.
Air, water, and food are metabolic requirements for survival in all animals, including humans. Clothing and shelter provide necessary protection from the elements. While maintaining an adequate birth rate shapes the intensity of the human sexual instinct, sexual competition may also shape said instinct.

◆Safety needs
Once a person's physiological needs are relatively satisfied, their safety needs take precedence and dominate behavior. In the absence of physical safety – due to war, natural disaster, family violence, childhood abuse, etc. – people may (re-)experience post-traumatic stress disorder or transgenerational trauma. In the absence of economic safety – due to economic crisis and lack of work opportunities – these safety needs manifest themselves in ways such as a preference for job security, grievance procedures for protecting the individual from unilateral authority, savings accounts, insurance policies, disability accommodations, etc. This level is more likely to be found in children as they generally have a greater need to feel safe.
Safety and Security needs include:
*Personal security
*Financial security
*Health and well-being
*Safety net against accidents/illness and their adverse impacts
*Social belonging

After physiological and safety needs are fulfilled, the third level of human needs is interpersonal and involves feelings of belongingness. This need is especially strong in childhood and it can override the need for safety as witnessed in children who cling to abusive parents. Deficiencies within this level of Maslow's hierarchy – due to hospitalism, neglect, shunning, ostracism, etc. – can adversely affect the individual's ability to form and maintain emotionally significant relationships in general, such as:
Friendships
Intimacy
Family
According to Maslow, humans need to feel a sense of belonging and acceptance among their social groups, regardless whether these groups are large or small. For example, some large social groups may include clubs, co-workers, religious groups, professional organizations, sports teams, and gangs. Some examples of small social connections include family members, intimate partners, mentors, colleagues, and confidants. Humans need to love and be loved – both sexually and non-sexually – by others. Many people become susceptible to loneliness, social anxiety, and clinical depression in the absence of this love or belonging element. This need for belonging may overcome the physiological and security needs, depending on the strength of the peer pressure.

◆Esteem
All humans have a need to feel respected; this includes the need to have self-esteem and self-respect. Esteem presents the typical human desire to be accepted and valued by others. People often engage in a profession or hobby to gain recognition. These activities give the person a sense of contribution or value. Low self-esteem or an inferiority complex may result from imbalances during this level in the hierarchy. People with low self-esteem often need respect from others; they may feel the need to seek fame or glory. However, fame or glory will not help the person to build their self-esteem until they accept who they are internally. Psychological imbalances such as depression can hinder the person from obtaining a higher level of self-esteem or self-respect.
Most people have a need for stable self-respect and self-esteem. Maslow noted two versions of esteem needs: a "lower" version and a "higher" version. The "lower" version of esteem is the need for respect from others. This may include a need for status, recognition, fame, prestige, and attention. The "higher" version manifests itself as the need for self-respect. For example, the person may have a need for strength, competence, mastery, self-confidence, independence, and freedom. This "higher" version takes precedence over the "lower" version because it relies on an inner competence established through experience. Deprivation of these needs may lead to an inferiority complex, weakness, and helplessness.
Maslow states that while he originally thought the needs of humans had strict guidelines, the "hierarchies are interrelated rather than sharply separated". This means that esteem and the subsequent levels are not strictly separated; instead, the levels are closely related.

◆Self-actualization
"What a man can be, he must be.":91 This quotation forms the basis of the perceived need for self-actualization. This level of need refers to what a person's full potential is and the realization of that potential. Maslow describes this level as the desire to accomplish everything that one can, to become the most that one can be.:92 Individuals may perceive or focus on this need very specifically. For example, one individual may have the strong desire to become an ideal parent. In another, the desire may be expressed athletically. For others, it may be expressed in paintings, pictures, or inventions.:93 As previously mentioned, Maslow believed that to understand this level of need, the person must not only achieve the previous needs, but master them.
◆Self-transcendence
In his later years, Maslow explored a further dimension of needs, while criticizing his own vision on self-actualization. The self only finds its actualization in giving itself to some higher goal outside oneself, in altruism and spirituality. "Transcendence refers to the very highest and most inclusive or holistic levels of human consciousness, behaving and relating, as ends rather than means, to oneself, to significant others, to human beings in general, to other species, to nature, and to the cosmos" (Farther Reaches of Human Nature, New York 1971, p. 269).

◆Applying Maslow’s Theory to Nursing
Nurses can apply Maslow’s hierarchy of basic needs in the assessment, planning, implementation, and evaluation of patient care. It helps the nurse identify unmet needs as they become health care needs, and allows the nurse to locate the patient on the health-illness continuum and to incorporate the human dimensions and health models into meeting needs.
◆Physical dimension
Physiologic needs
Breathing, circulation, temperature, intake of food and fluids, elimination of wastes, movement.
◆Environmental dimension
Safety and security needs
Housing, community, climate.
◆Sociocultural dimension
Love and belonging needs
Relationships with others, communications with others, support systems, being part of community, feeling loved by others.
◆Emotional dimension
Self-esteem needs
Fear, sadness, loneliness, happiness, accepting self.
◆Intellectual and spiritual dimensions
Self-actualization needs
Thinking, learning, decision making, values, beliefs, fulfillment, helping others.

All basic human needs are interrelated and may require nursing actions at more than one level at a given time. For example, in caring for a person coming into the emergency department with a heart attack, the nurse’s immediate concern in the patient’s physiologic needs (e.g., oxygen and pain relief). At the same time, safety needs (e.g., for ensuring that the person does not fall off the examining table) and love and belonging needs (e.g., for having a family member nearby if possible) are still major considerations.

***Research
Recent research appears to validate the existence of universal human needs, although the hierarchy proposed by Maslow is called into question.
Following World War II, the unmet needs of homeless and orphaned children presented difficulties that were often addressed with the help of attachment theory, which was initially based on Maslow and others' developmental psychology work by John Bowlby. Originally dealing primarily with maternal deprivation and concordant losses of essential and primal needs, attachment theory has since been extended to provide explanations of nearly all the human needs in Maslow's hierarchy, from sustenance and mating to group membership and justice.

***Criticism
In their extensive review of research based on Maslow's theory, Wahba and Bridwell found little evidence for the ranking of needs that Maslow described or for the existence of a definite hierarchy at all.
The order in which the hierarchy is arranged has been criticized as being ethnocentric by Geert Hofstede. Maslow's hierarchy of needs fails to illustrate and expand upon the difference between the social and intellectual needs of those raised in individualistic societies and those raised in collectivist societies. The needs and drives of those in individualistic societies tend to be more self-centered than those in collectivist societies, focusing on improvement of the self, with self-actualization being the apex of self-improvement. In collectivist societies, the needs of acceptance and community will outweigh the needs for freedom and individuality.
The position and value of sex on the pyramid has also been a source of criticism regarding Maslow's hierarchy. Maslow's hierarchy places sex in the physiological needs category along with food and breathing; it lists sex solely from an individualistic perspective. For example, sex is placed with other physiological needs which must be satisfied before a person considers "higher" levels of motivation. Some critics feel this placement of sex neglects the emotional, familial, and evolutionary implications of sex within the community, although others point out that this is true of all of the basic needs. There are also people who do not want sex, such as some asexuals.

***Changes to the hierarchy by circumstance
The higher-order (self-esteem and self-actualization) and lower-order (physiological, safety, and love) needs classification of Maslow's hierarchy of needs is not universal and may vary across cultures due to individual differences and availability of resources in the region or geopolitical entity/country.
In one study, exploratory factor analysis (EFA) of a thirteen item scale showed there were two particularly important levels of needs in the US during the peacetime of 1993 to 1994: survival (physiological and safety) and psychological (love, self-esteem, and self-actualization). In 1991, a retrospective peacetime measure was established and collected during the Persian Gulf War and US citizens were asked to recall the importance of needs from the previous year. Once again, only two levels of needs were identified; therefore, people have the ability and competence to recall and estimate the importance of needs. For citizens in the Middle East (Egypt and Saudi Arabia), three levels of needs regarding importance and satisfaction surfaced during the 1990 retrospective peacetime. These three levels were completely different from those of the US citizens.
Changes regarding the importance and satisfaction of needs from the retrospective peacetime to the wartime due to stress varied significantly across cultures (the US vs. the Middle East). For the US citizens, there was only one level of needs since all needs were considered equally important. With regards to satisfaction of needs during the war, in the US there were three levels: physiological needs, safety needs, and psychological needs (social, self-esteem, and self-actualization). During the war, the satisfaction of physiological needs and safety needs were separated into two independent needs while during peacetime, they were combined as one. For the people of the Middle East, the satisfaction of needs changed from three levels to two during wartime.
A 1981 study looked at how Maslow's hierarchy might vary across age groups. A survey asked participants of varying ages to rate a set number of statements from most important to least important. The researchers found that children had higher physical need scores than the other groups, the love need emerged from childhood to young adulthood, the esteem need was highest among the adolescent group, young adults had the highest self-actualization level, and old age had the highest level of security, it was needed across all levels comparably. The authors argued that this suggested Maslow's hierarchy may be limited as a theory for developmental sequence since the sequence of the love need and the self-esteem need should be reversed according to age.

***Definition of terms
Self-actualization
The term "self-actualization" may not universally convey Maslow's observations; this motivation refers to focusing on becoming the best person that one can possibly strive for in the service of both the self and others. Maslow's term of self-actualization might not properly portray the full extent of this level; quite often, when a person is at the level of self-actualization, much of what they accomplish in general may benefit others, or "the greater good".

Walkure, Tosca, Opera House, Claque

July 04 [Tue], 2017, 0:01
日本語として定着した「ワルキューレ」は、ドイツ語の Walküre (ヴァルキューレ、ヴァールキューレ)に由来する。北欧神話の原語である古ノルド語では、単数形が Valkyrja (ヴァルキュリヤ、ヴァルキュリャ)、複数形は valkyrjur(ヴァルキュリユル、ヴァルキュリュル)で、語義は valr (戦場の死体)と kjόsa (選ぶ)を合わせたもので、「戦死者を選定する女」を意味する。英語では valkyrie (ヴァルキリー)という。

July 3, 2017
by: Richard Fairman

From what we know of Wagner he would have been delighted by the idea of a “Theatre in the Woods”. Wasfi Kani, Grange Park Opera’s unstoppable founder, has built just that in a little over a year at West Horsley Place and, no ambition being too great, has a fully staged Wagner opera to put in it for her first season. The festival’s Die Walküre is at a higher level than a country-house opera audience might reasonably expect. The acoustics of the new theatre prove more accommodating for Wagner than seemed likely at Puccini’s Tosca on the opening night and this production has also been conceived in more depth and detail.The director, Stephen Medcalf, calls his staging “realistic”, though it is nothing of the sort. Everything takes place in a museum of Wagner’s time, peopled by military men and bourgeois women of the kind the composer might have known. In each act the exhibits are changed, the anthropological spears, helmets and goblets of Act 1 being the most resonant. The setting gets more contrived as the evening goes on and there are irritations on the way — do we really want to watch Alberich, the museum curator, fathering Hagen with a cleaning lady in the middle of Wotan’s monologue? — but Wagner’s characters come alive as living, believable people.Two of the singers are outstanding. Bryan Register sings Siegmund with strength, clearer German than most, and a fairly persuasive sense of the romance of the role. As Wotan, Thomas Hall projects a stiff outer core of paternal authority more easily than the human feelings inside, but his voice is strong and tireless.The rest is a decent company effort. Jane Dutton starts unsteadily as Brünnhilde, but gains slowly in blade-like attack. Claire Rutter is a trustworthy Sieglinde, Alan Ewing a vivid Hunding, and Sara Fulgoni more vivid still as a blazing Fricka, who sets about Wotan in a memorable encounter over the breakfast table. The conductor, Stephen Barlow, lets the emotional temperature drop at times, but gets a potent, romantic glow out of the Bournemouth Symphony Orchestra. Wagner looks and sounds good at West Horsley Place. The future looks promising. To July 15, grangeparkopera.co.uk


◆An opera house is a theatre building used for opera performances that consists of a stage, an orchestra pit, audience seating, and backstage facilities for costumes and set building. While some venues are constructed specifically for operas, other opera houses are part of larger performing arts centers.
History
Opera-Theatre of Metz, built by benefactor Duke de Belle-Isle during the 18th century, it is the oldest opera house working in France
The first public opera house came into existence in 1637 as the Teatro San Cassiano in Venice, Italy, in a country where opera has been popular through the centuries among ordinary people as well as wealthy patrons; it still has a large number of working opera houses. In contrast, there was no opera house in London when Henry Purcell was composing and the first opera house in Germany was built in Hamburg in 1678. Early United States opera houses served a variety of functions in towns and cities, hosting community dances, fairs, plays, and vaudeville shows as well as operas and other musical events.
In the 17th and 18th centuries, opera houses were often financed by rulers, nobles, and wealthy people who used patronage of the arts to endorse their political ambitions and social positions or prestige. With the rise of bourgeois and capitalist social forms in the 19th century, European culture moved away from its patronage system to a publicly supported system. In the 2000s, most opera and theatre companies raise funds from a combination of government and institutional grants, ticket sales, and private donations.

◆歌劇場(かげきじょう)は、オペラ及びバレエの上演を目的とする劇場。オペラハウスとも呼ぶ。
劇場内には、舞台と客席の間に低くした部分を設けてここにオーケストラと指揮者を置き(オーケストラピット、略してピット)、円滑な場面転換のために3面・4面舞台を有する。通常の劇場やコンサートホールでも、舞台または客席の一部の床を低くしてオーケストラピットを設けられるように作られているものがある。
楽器の演奏や歌唱の演出に適合するように、音響特性の面で考慮されている。
定義
日本でいう「歌劇場」は厳密な定義に従えば、単にオペラ・バレエが上演可能な「建物」のことだけを指すのではなく、独力で継続的にオペラ・バレエを上演し、それらを運営することの出来る組織を持っているものを指す。現に世界の多くの歌劇場には、音楽監督ないし常任の指揮者、専属のオーケストラや合唱団が設置されている。ウィーン国立歌劇場の専属オーケストラであるウィーン国立歌劇場管弦楽団は特に有名で、このオーケストラの団員がコンサート活動を行うのがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団である。しかし、広義の意味で単に「オペラ団体」(歌劇団、英:opera company)を指す場合もある。「歌劇場」とあった場合、「建物」「オペラ団体」のいずれを指しているのか注意が必要である。
なお、欧州では人口十数万の小都市でもオペラ団体を備えた歌劇場が存在する、と一般に言われることがあるが、これはほぼドイツ(および同言語民族圏のオーストリア、スイス)に限っての話であり(しかも例外は多数存在する)、イタリアがこれに準じるが、地方では建物だけのケースが少なくない。他の国は代表的大都市に限られるところが多く、アムステルダムのように最大都市でありながら常設団体を持たないところもある。
種類
「建物」と「オペラ団体」が同一で、専属の「オーケストラ」を設置している。特に欧州では多くの「歌劇場」が当てはまる。おおむねは合唱団、専属ソリスト、スタッフも擁している。バレエ公演部門と演劇部門も併せ持つ「三点劇場」を含めれば、この形式はドイツ圏が圧倒的に多く、殆どの国が一桁にとどまる中、百か所近い歌劇場を擁している。
ウィーン国立歌劇場
スカラ座
メトロポリタン歌劇場など
「建物」と「オペラ団体」が同一だが、専属ではない「シンフォニーオーケストラ」が演奏を行っている。
ジュネーヴ大劇場⇒スイス・ロマンド管弦楽団がピットに入る。
ライプツィヒ歌劇場⇒ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団がピットに入る。ただし、同団は通常オーケストラの倍近い人数を擁しローテーションを組んでいるため、同歌劇場は専属管弦楽団を持つ歌劇場と同程度の稼動が可能となっている。
「建物」が複数あるが、「オペラ団体」が同一である。
パリ国立オペラ⇒ガルニエ宮、オペラ・バスティーユの2つの施設を運営し、パリ国立歌劇場管弦楽団がピットに入る。
ライン・ドイツ・オペラ⇒デュッセルドルフ市、デュースブルク市が共同で運営し、それぞれの市の施設(デュッセルドルフ歌劇場、デュースブルク劇場)とオーケストラ(デュッセルドルフ交響楽団、デュースブルク・フィルハーモニー管弦楽団)で交互に上演している。
「建物」と「オペラ団体」が同一だが、専属の「オーケストラ」が無い。
新国立劇場⇒東京フィルハーモニー交響楽団を中心に、在京オーケストラがピットに入る。
ネーデルラント・オペラ⇒ネーデルラント・フィルハーモニー管弦楽団を中心に、オランダのオーケストラがピットに入る。
「建物」と「オペラ団体」が別法人である。
シドニー・オペラハウスとオペラ・オーストラリア。どちらも無理に日本語に訳すと「シドニー歌劇場」「オーストラリア歌劇場」となって全く別物のように見られてしまうが、正確にいえばシドニー・オペラハウスは、オペラ、バレエ、演劇、コンサートを行う総合芸術施設であり、オペラ・オーストラリアはシドニー・オペラハウスで公演を行うオペラ団体である。
「建物」でオペラが上演可能だが、特定の「オペラ団体」を抱えていない。大規模な劇場が当てはまる。
シャンゼリゼ劇場
アン・デア・ウィーン劇場
東京文化会館
日生劇場など
音楽祭でのオペラの公演を行う「建物」もしくは「施設」。
バイロイト祝祭劇場
ザルツブルク祝祭大劇場
アレーナ・ディ・ヴェローナ
いわゆる「オペラ団体」だが、特定の「建物」で上演せず複数の場所で上演をおこなう。
イングリッシュ・ナショナル・オペラ、二期会、藤原歌劇団など

United Kingdom
+England
●Royal Opera House, London
Wales Millennium Centre
Opera House, Buxton
Coliseum Theatre, London
Garsington Opera, Buckinghamshire
Glyndebourne, East Sussex
Grand Opera House, York
Grand Theatre, Leeds
★Grange Park Opera, Horsley, Surrey
Lowry Centre, Salford
Opera House, Manchester
Opera House, Tunbridge Wells
Royal Opera House, Covent Garden, London
Sadler's Wells (Sadler's Wells Theatre), London
Tyne Theatre & Opera House, Newcastle upon Tyne
Wakefield Opera House (became cinema 1920s), Wakefield
+Northern Ireland
Grand Opera House, Belfast
+Scotland
Edinburgh Festival Theatre (Festival Theatre), Edinburgh
Music Hall & Opera House (remodelled 1889 as Assembly Rooms), Dundee
Theatre Royal, Glasgow (Scottish Opera), Glasgow
+Wales
Canolfan Mileniwm Cymru (Wales Millennium Centre), Cardiff
Craig-y-Nos Castle, Powys, Wales
+Jersey
Jersey Opera House, Saint Helier, Jersey

●ロイヤル・オペラ・ハウス(Royal Opera House)は、ロンドンのコヴェント・ガーデンに所在する歌劇場。単にコヴェント・ガーデンと称してこの歌劇場を指すこともあり、またROHと略記されることもある。ロイヤル・オペラ、ロイヤル・バレエ団そしてロイヤル・オペラ・ハウス・オーケストラの本拠地として使用されている。
現在存在する建築物は3代目にあたる。ファサードと玄関、聴衆席は1856年に作られたものが残っているが、それ以外の部分については1990年代に改装されたものである。合計2,174人の聴衆を収容できる4階建ての円形観客席を有し、舞台の幅は12.20m、高さ14.80mである。観客席部分はイギリスの指定建造物となっている。
ドイツ圏の歌劇場に比べると先鋭的な読み替え演出は少ない。舞台の横幅が見劣りするものの、特に装置、キャスト、演奏水準は英国第一の歌劇場に相応しいレベルを維持している。オーケストラをはじめカンパニーは戦後に整備されたもので歴史は浅いが、これも比較的短期間で他の古参オペラハウスに見劣りのしない水準を獲得している。オペラの作品そのものを楽しむには非常に適した劇場ということで、1980年代より非常に多くの映像ソフトが日本でも紹介されている。

★Grange Park Opera is a professional opera company whose base is West Horsley Place in Surrey, England. Operating since 1998, the company founded by Wasfi Kani, OBE and Michael Moody has staged an annual opera festival at an award-winning theatre seating 550 people at The Grange, in Hampshire, until its last season at this venue in 2016. In 2017, the company moved to a purpose-built ‘Theatre in the Woods’ at West Horsley Place – the 350-acre estate inherited by author and broadcaster Bamber Gascoigne in 2014. A 99-year lease from the Mary Roxburghe Trust, into which Bamber Gascoigne placed his inheritance, has been agreed.
With four tiers of seating in a horseshoe shape (modelled on La Scala, Milan), the Theatre in the Woods is designed to target an optimum acoustic reverberation of 1.4 seconds.
Singers who have performed with the company include Bryn Terfel, Simon Keenlyside, Joseph Calleja, Claire Rutter, Rachel Nicholls, Bryan Register, Susan Gritton, Wynne Evans, Sally Matthews, Alfie Boe, Robert Poulton, Jeffrey Lloyd-Roberts, Sara Fulgoni, Clive Bayley and Alistair Miles. In recent years, the festival has also included well known musicals with productions of Fiddler on the Roof in 2015 and Oliver! in 2016. Fiddler on the Roof was subsequently staged in the Royal Albert Hall as part of the 2015 BBC Proms.
Grange Park Opera is a not-for-profit organisation. Its sister charity Pimlico Opera, founded in 1987, has presented co-productions with prisons for 26 years and has taken more than 50,000 members of the public into prison. Each week, its Primary Robins project gives a singing class to 2,000 KS2 children in schools in deprived areas.

◆ワルキューレ
『ニーベルングの指環』第1夜
オペラ・データ
【作曲】リヒャルト・ワーグナー(1854〜56年)
【初演】1870年6月26日 ミュンヘン、宮廷歌劇場
【台本】作曲者ワーグナー自身による(ドイツ語)
【原作】ドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』、アイスランドの歌謡集『エッダ』等の伝説
【演奏時間】
第1幕 60分
第2幕 90分
第3幕 70分  合計 約3時間40分

あらすじ
【時と場所】 神話の時代、ライン川近くの森と岩山
【登場人物】
神々
  ヴォータン(Br): 神々の王
  フリッカ(Ms): ヴォータンの妻、結婚の神
人間
  ジークムント(T): ヴォータンと人間の女との間の子
  ジークリンデ(S): ジークムントの双子の妹
  フンディング(Bs): ジークリンデの夫
ワルキューレ
  ブリュンヒルデ(S): ヴォータンとエルダの間の子
  ヘルムヴィーゲ(S)
  オルトリンデ(S)
  ゲールヒルデ(S)
  ヴォルトラウテ(Ms)
  ジークルーネ(Ms)
  ロスヴァイセ(Ms)
  グリムゲルデ(A)
  シュヴェルトライテ(A)
ほか
【第1幕】
時は神話の時代、舞台は森の中のフンディングの館。神々の王ヴォータンは、神の世界と関係のない人間の双子の兄妹ジークムントとジークリンデをもうけ、指環を奪還しようとしました。二人は別々に育ち、あるとき、戦場で傷ついたジークムントは、ジークリンデの不幸な嫁ぎ先であるフンディングの館に迷いこみました。実はジークムントの戦っていた敵がフンディング。フンディングが一晩だけジークムントに宿を貸した後、翌日、一騎打ちの勝負をすることとなります。
その晩、ジークムントの前にジークリンデが現れ、かつて一人の老人によって館のトネリコの木に突き刺された剣のことを物語りました。そして、二人は互いが兄妹であることも知ります。ジークムントはトネリコの木から名剣ノートゥングを引き抜き、さらに花嫁として妹を得たのでした。
【第2幕】
ヴォータンはジークムントに勝たせようとしますが、結婚の神である妻のフリッカは兄妹の関係を許しません。渋々ですが、ヴォータンは大地の母神エルダに生ませた娘ブリュンヒルデに、フンディングを勝たせるように命じます。ブリュンヒルデは戦場に赴きましたが、ジークムントとジークリンデの愛の深さを知ると、父の命に背きジークムントを勝たせようと決心しました。
しかし、まさにジークムントが名剣ノートゥングをフンディングに振りかざそうとしたとき、ヴォータンがその剣を砕き、フンディングの槍がジークムントの胸に突き刺さったのです。その間、ブリュンヒルデは素早くノートゥングの破片を集め、ジークリンデを連れて立ち去りました。
【第3幕】
ワルキューレ達が集う岩山の頂に帰ってきたブリュンヒルデは、ほかのワルキューレ達に助力を求めますが断られます。ジークリンデは夫の後を追いたいと言いますが、ブリュンヒルデから彼女がジークムントの子ジークフリートを宿していることを伝えられ、生きることを決意し、ノートゥングの破片を持って立ち去りました。
そこにヴォータンが現れ、ブリュンヒルデは命令に背いた罰として、通りがかりの男の妻となることを宣告されます。ヴォータンは彼女の神性を抜き取り、岩山の頂に寝かせます。そして、せめてもの情けに、火の神ローゲによってその周りを炎で囲み、臆病で不遜な男は近づくことができないようにしたのでした。
解説(ポイント)
【1】 ヒロイン・ブリュンヒルデ
序夜『ラインの黄金』を経て、第1夜『ワルキューレ』からいよいよ本編に突入します。さて、この「ワルキューレ」とはいったい何のことでしょう?それはヴォータンが本妻フリッカとは違う女神たちとの間にもうけた9人の娘たちのことで、羽の付いた鉄兜、槍、盾などを装備しています。彼女たちの仕事は、戦場で勇敢な死を遂げた人間を神の居城ヴァルハラに連れて帰り、英雄として城の警護にあたらせること。そして、指環は手放すべきだとヴォータンに忠告した女神エルダとの間にできた娘がブリュンヒルデであり、彼女は『ニーベルングの指環』全編を通じたヒロインでもあります。このブリュンヒルデ役には、非常に強い声が要求されます。20世紀最大のドラマティック・ソプラノとして名高いビルギット・ニルソンは、その声の全盛期がステレオ録音の普及期とも重なり、第一人者とされてきました。
【2】 名剣ノートゥング
『ワルキューレ』は、『ニーベルングの指環』4作品の中でも、作品としての完成度が高く、最もバランスのいいオペラであり、人気があります。第1幕は、ジークムントとジークリンデの二重唱、そしてジークムントがトネリコの木から名剣ノートゥングを引き抜くシーンなど見どころがいっぱいです。ちなみに「ノートゥング(Notung)」とは、「窮地」を意味する「ノート(Not)」から付けられたもので、窮地に陥ったときに得られたのでこの名が付けられました。ジークムントがノートゥング!と叫ぶ旋律(動機)は、オクターブを下降する極めて特徴的なもので、あなたもつい叫んでしまいそうになるはずです。
【3】 ワルキューレの騎行
第2幕と第3幕で、いよいよワルキューレのブリュンヒルデの登場となります。その登場シーンは、有名な「ホ・ヨ・ト・ホ」というワルキューレの勇ましい歓声から始まります。登場から難度の高い発声を要求されるところにこの役の難しさが表れています。また、第3幕の前奏曲は「ワルキューレの騎行」として、おそらく誰もが聴いたことのある音楽だと思います。翼を持った馬に乗って縦横無尽に飛び交うワルキューレたちにぴったりの曲です。このほかにも、第2幕でのヴォータンとフリッカ夫妻の言い合いや、第3幕最後で、ブリュンヒルデに「さらば、輝かしき娘よ」と別れを告げるヴォータンの告別など名場面で目白押しです。

◆『トスカ』(Tosca)は、ジャコモ・プッチーニのオペラである。その見せ場の多さから、オペラ史における重要な作品と見なされている。
*作品の成立と上演
*全3幕で、台本はルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザの2人が書いた。初演は1900年1月14日、ローマのコスタンツィ劇場で行われた。
オペラ台本は、1889年パリで上演されていたヴィクトリアン・サルドゥの戯曲に基づく。プッチーニは同年ミラノでサラ・ベルナール演ずるこの劇に接し、直ちに馴染みの編集者リコルディにサルドゥから権利を買うよう依頼したが、1893年に作曲家アルベルト・フランケッティのものとなってしまう。イルリカが台本を書き、1894年10月、フランケッティ、リコルディとヴェルディはサルドゥに会い、台本を贈った。ヴェルディはこの悲劇作品にいたく魅せられていたが、この作品の結末を変更しない限り作曲するつもりはなかった。
数ヵ月たって、とうとうフランケッティは自分ではこの作品に作曲することは不可能と認めたため、ジュリオ・リコルディはプッチーニに作曲を依頼した。彼は感情を害していたのでヴェルディの仲介により、ようやくこれを受け入れさせることが出来た。プッチーニは『ラ・ボエーム』の作曲を終えた後の1896年から作曲に取り掛かった。リコルディは台本作成のためジュゼッペ・ジャコーザをルイージ・イッリカの共同執筆者に配した。しかしジャコーザはこの作品が気に入らなかったため、彼の韻文の実力を発揮することが出来ず、サルドゥと何度か論争を起こした。プッチーニのほうでも、2人の台本作家にリコルディまで巻き込んだ議論の末、彼らが第3幕に取り入れようとした「ラテン聖歌」をわずか18小節の二重唱「新しい希望に魂は勝ち誇って」にまで短縮させたりした。
3年にわたる困難な共同作業の末、1899年10月に作品が完成した。ローマ市を舞台にした作品だったので、初演はこの永遠の都のコスタンツィ劇場で行われることに決まった。準備は長期間でトラブルもあり、多くの好奇心をひきつけた。出演は、ハリクレア・ダルクレー(ソプラノ)がトスカを、エミーリオ・デ・マルキ(テノール)がカヴァラドッシを、エウジェニオ・ジラルドーニ(バリトン)がスカルピアを歌った。また、レオポルド・ムニョーネが総監督を行った。マルゲリータ王妃とペロー首相に加え、ピエトロ・マスカーニ、フランチェスコ・チレア、フランケッティ、ズガムバーティなど多数の作曲家が聴衆に加わった。
『トスカ』と前作『ラ・ボエーム』の作品の趣は驚くほど異なったにも関わらず、上演は完璧な成功だった。批評家の評価は芳しくなかったが、聴衆は熱狂的にこれを受け入れた。
*楽器編成
フルート3(第2・第3奏者ピッコロ持ち替え)、オーボエ3、コーラングレ、クラリネット2、バス・クラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、バス・トロンボーン、ティンパニ、小太鼓、トライアングル、シンバル、タムタム、大太鼓、グロッケンシュピール、チェレスタ、鐘、ハープ、弦五部
舞台上でフルート、ヴィオラ、ハープ、ホルン4、トロンボーン3、鐘、オルガン、小太鼓2、ライフル、大砲
*演奏時間
1時間50分(第1幕45分、第2幕40分、第3幕25分)
*作品の内容
画家カヴァラドッシと、その恋人で有名歌手トスカの物語である。画家は脱獄した政治囚の逃亡を助けたために死刑宣告される。 トスカは、彼を救おうと警視総監スカルピアを殺すが、スカルピアの計略でカヴァラドッシは処刑され、トスカも彼の後を追って自殺する。
*あらすじ
ところ:ローマ市
とき:1800年6月。ナポレオン率いるフランス軍が欧州を席巻していたころ。
登場人物
フローリア・トスカ:有名な歌手(S)
マリオ・カヴァラドッシ:画家でトスカの恋人(T)
スカルピア男爵:ローマ市の警視総監(Br)
チェーザレ・アンジェロッティ:前ローマ共和国統領(B)
スポレッタ:スカルピアの副官(T)
堂守:聖アンドレア・デラ・ヴァレ教会の番人(Br)
その他羊飼い(S)、看守、聖歌隊・市民など(合唱)
S:ソプラノ、T:テノール、Br:バリトン、B:バス
**第1幕
逃亡した政治犯アンジェロッティが隠れ家を求め、彼の一族が礼拝堂を持つ聖アンドレア・デラ・ヴァレ教会にやってくる。ここには妹のアッタヴァンティ侯爵夫人がやってきて兄の解放を祈っていた。その際彼女は気づかなかったが、画家マリオ・カヴァラドッシが教会の注文で描いているマグダラのマリア像のモデルにしていた。 一族の礼拝堂に隠れるとすぐに堂守が、続いてカヴァラドッシが登場する。堂守は画家が絵筆を洗うのを手伝う。カヴァラドッシはちょっと仕事を休み、ポケットに持っていたメダルを見つめる。このメダルはトスカの肖像が描いてあり、彼は描きつつある肖像の青い目に金髪のモデルと、黒い目に茶色の髪のトスカとを比較して歌う(妙なる調和)。
堂守はカヴァラドッシのアリアの間、絵のモデルが礼拝に来る夫人であることに気づき呆れて、「ふざけるなら俗人にして、聖人は敬ってくれよ」と合いの手で歌い、画家に促されて退場する。カヴァラドッシは一人になるが、物音でアンジェロッティのいることに気づく。彼は旧知の画家と知って隠れ場所から出てきて、サンタンジェロ城(ローマ教皇領の牢獄)から逃げ出してきたことを話す。そこへトスカが外から「マリオ!」と呼ぶので、カヴァラドッシは彼に飲み物を与えて隠れるように言い、アンジェロッティは再び礼拝堂に身を隠す。
トスカはマリオとその夜遅く会う約束をするため来たのだが、ドアの外から話し声を聴き、カヴァラドッシの落ち着かない態度を見て、嫉妬心から彼が誰か他の女性との密会をしていたと疑う。カヴァラドッシを別荘でのデートに誘う(緑の中の二人の家にいきましょう)が、彼が描いた女性の顔を見てその疑いは確信に変わる。しかし、マリオの説明を聞いてその場は納得し、肖像の眼の色を黒にすることと、夜に会う約束をしてその場を去る。
アンジェロッティが再び現れ、脱出計画を話し合う。カヴァラドッシは彼に自分の別荘の鍵を渡し、アンジェロッティは妹が祭壇に隠していた女性の服を着て脱出するというものだった。その時サンタンジェロ城で砲声が響き、アンジェロッティの逃亡が発覚したことを告げる。彼は急いで逃げ、画家も同行する。
堂守が大勢の少年合唱隊や待者ともに戻ってくる。彼らはナポレオン軍がマレンゴの戦闘に敗れたという誤報を信じ、神に感謝してテ・デウムを歌う。そこへ警視総監スカルピアが副官スポレッタおよび逃亡した囚人を捜査する部下を何人か従えて登場する。聖堂の礼拝堂で、伯爵夫人の扇と空になった籠を見つけ、疑いを抱く。
彼は疑い深く堂守を尋問すると、カヴァラドッシが礼拝堂の鍵を持っていないこと、彼は食事を食べないといっていたことがわかる。そこへ疑い深いトスカが戻ってくる。教会は人で溢れ、枢機卿がテ・デウムの準備をする。スカルピアはトスカの様子を物陰から伺ったあと、彼女に扇を見せて嫉妬心を煽ると、彼女は立腹しその場を去る。スカルピアは部下に彼女のあとをつけるように命じると、トスカに対する恋心を情熱的に歌う。教会ではテ・デウムが始まり、彼もその祈りに和しつつ、目指す男とトスカを二人とも手に入れるのだと歌う。
**第2幕
スカルピアが公邸としているファルネーゼ宮殿(現在はフランス大使館として使用)で夕食を取っている。外では戦勝祝賀会の歌声が聞こえる。彼は家来にトスカをリサイタル終了後に呼ぶように行かせる。彼は皮肉交じりにトスカを自らの権力で屈服させるのだと歌う。
スポレッタが拘留したカヴァラドッシとともに登場する。アンジェロッティはからくも逃れたのだった。スカルピアは画家を尋問するが彼は白状しない。そこでカヴァラドッシを別室で拷問にかける。そこに入れ替わりにトスカが登場し、スカルピアに恋人の苦痛のうめきを聞かされると、ついに堪えきれずにアンジェロッティの隠れ場所をしゃべってしまう。画家が部屋から引き戻され、彼女が秘密を漏らしたことを激しく詰る。
そこに伝令が登場し、ナポレオンがマレンゴでオーストリア軍を破っていたことを知らせる。動揺するスカルピア達の面前でカヴァラドッシは勝ち誇って激しく勝利を歌い上げるので牢屋に連行される。 後を追おうとするトスカを、スカルピアが呼びとめる。彼女は賄賂で助命を得ようとするがスカルピアは恋人を自由にする代償として彼女の身体を求める。トスカは絶望し、何故このような過酷な運命を与えたのかと神に助けを求めて祈る(歌に生き、愛に生き)。スポレッタが戻ってきてアンジェロッティが自殺したことを告げ、カヴァラドッシの処遇をたずねる。
トスカが観念したと見たスカルピアは、スポレッタに対しカヴァラドッシの見せかけの処刑を行うよう命令する。パルミエリ伯爵の時と同じだ、と説明するのを意味ありげに聞き、部下は退出する。 トスカはイタリアを出国できるよう、スカルピアに通行証を求める。スカルピアが書類を書いている間、食卓のナイフに気づいたトスカはそれを隠し持つ。書き終えたスカルピアがトスカ、とうとう我が物と迫るところを、トスカはこれがトスカのキッスよといってナイフで胸を刺す。息絶えた彼の手から通行証を奪うと、トスカは信心深く遺体の左右に燭台をおき、十字を切ると遠くの太鼓の音をききつつ去る(彼の前でローマ中が震え上がっていた)。
注:歌に生き、愛に生き
一般には「歌に生き、恋に生き」で知られているが、トスカは「私は歌に生き、神へのamoreに生きてきたのです。」と歌うので、ここでのamoreは「愛」と訳すのが妥当である。(amoreを「恋」と訳すと「神への『恋』に生きる」になり、間違いである。)
**第3幕の舞台 サンタンジェロ城
サンタンジェロ城の屋上にある牢屋と処刑場。 冒頭、ホルンのファンファーレに続いて、朝を告げる鐘の音と羊飼いの牧歌が聞こえる。カヴァラドッシは夜明けに行われる処刑を牢屋で待っている。彼は司祭との面会を断り、看守に指輪を与えてトスカに伝言を渡すよう頼む。別れの手紙を書き始めるが、自らの死と恋人との別れを想うと絶望して泣き崩れる(星はきらめき)。
トスカが現れ、驚くカヴァラドッシに通行証を見せ、これまでのいきさつを語る。空砲で見せかけの処刑が行われること、恋人の助命を引き換えに身体を要求したスカルピアを、信心深く虫も殺せぬ彼女が刺し殺したことを聞き、カヴァラドッシは彼女の手をとって「おおやさしい手よ」とトスカの愛情と勇気をたたえる(優しく清らかな手)。時間が迫ったことを告げる彼女にカヴァラドッシは君ゆえに死にたくなかったと語りトスカと互いの愛情を歌う(二重唱新しい希望に魂は勝ち誇って)。
看守がカヴァラドッシに時が来たことを告げる。 トスカに見送られて刑場に赴くカヴァラドッシに彼女はうまく倒れてねと言葉をかけ彼も劇場のトスカのようにと応じる余裕を見せる。
並んだ兵士たちが一斉に発砲し、カヴァラドッシは倒れる。トスカは彼の演技がうまいと一人ほめる。隊長が規則通り剣でとどめを刺すのをスポレッタが制し、一同去る。 兵士たちが去ったのをみてトスカはマリオに近づき、逃げようと声を掛けるが彼は動かない。
処刑は本物であった。スカルピアは最初からカヴァラドッシの命を救うつもりなどなかったのだ。パルミエリ伯爵もそのようにして欺かれたのであろう。 トスカは死んで横たわるカヴァラドッシの傍らでスカルピアの計略を悟り、マリオの名を呼んで泣き叫ぶ。そこにスカルピアが殺されていることを知ったスポレッタが兵士と共に駆け寄り、彼女を殺人罪で逮捕しようとするが、彼女は逃れ、サンタンジェロ城の屋上から身を投げる。
あらすじは英語版(The Opera Goer's Complete Guide by Leo Melitz, 1921 version.をリコルディ社の台本と注釈により改訂)をもとに自由に訳した。日本語訳の表記は、日本放送出版協会 発行のNHK編「オペラ対訳選書 14『トスカ』」、1973年)を参考にした)
*オペラの傑作としての『トスカ』
古今のオペラの代名詞的な存在であり、20世紀最大のオペラ歌手とされているマリア・カラスはトスカを何度も演じた。1958年のパリ・オペラ座でのトスカ第2幕、1964年のコベントガーデンでの同じくトスカ第2幕の映像が残されている。なお、マリア・カラスが残したオペラの映像はこの2つのトスカ第2幕だけであり、大変貴重なものといえる。

◆クラック(claque)について
サクラ行為は舞台娯楽のはじまったはるか古代から存在したであろうことは想像に難くない。古代ギリシア人はアテナイで催された演劇祭典の審査において、自派の演劇に有利となるようサクラ集団を用いたという記述があるし、古代ローマの歴史家スエトニウスによれば、自ら演劇をたしなんだローマ皇帝ネロはその配下の兵士5,000人をもって、彼自身の演技を賞賛させたという。
時代は下るが、18世紀におけるイタリア・オペラでは新作オペラの上演が盛んであったヴェネツィアなどにサクラ集団に関する記録が散見され、例えば1761年、ボローニャでのあるオペラの初演が彼らの狙い通り大失敗に終わった、などがわかっている。
*19世紀パリでのクラック
そしてこのクラックがもっとも高度に組織化されたのは、19世紀初め、パリにおいてであった。1820年にはソートンなる人物によって「演劇成功請合協会」(L'assurance des succès dramatiques)なるクラックの「代理店」が開業した記録がある。
特に「グランド・オペラ」様式と称される大規模なオペラが数多く上演された1830年から1840年代にかけてのパリ・オペラ座では、仮に一作が失敗した場合の興行側の経済的損失は莫大であり、クラック組織はより大規模になると同時に、より確実な成功を期して下記のような「分業」が発達した。
tapageur(原義は騒音屋、以下同じ)
ひたすら大きな音で拍手を行う役。
connaisseur(玄人)
タイミングよく賛辞を送る役。
pleureur(泣き屋)
泣くべきシーンで泣く役。しばしば女性がその任に当たり、その場合は女性形pleureuseで呼ばれた。涙がうまく出ないときはハンカチで泣き真似を演じる、あるいは隠し持っていた塩などの刺激物を自分の眼に入れて涙を流すこともあったという。
bisseur(アンコール屋)
アンコールを求める"bis! bis!"の声を立てる者。
chatouilleur(喜ばせ屋)
公演に退屈し出した周囲の一般客に気の利いたジョークを言ったり、菓子を配ったりして、劇場に長居をする気分にさせる役。
commissaire(手腕家)
休憩時間にその演目、あるいは演奏の素晴らしさを他の聴衆に力説して回る役。
chauffeur(暖房役)
開幕前には公演に対する期待を劇場内外で広め、終演後はその公演がいかに大成功だったかの噂を街で立てて回る役。
そしてこれら一公演で100人から300人にも及ぶクラック集団を統率するのが、俗に「隊長」(chef de claque)と呼ばれる人物であった。隊長は拍手喝采を効果的に行うためにオペラ譜面・台本の研究を重ね、舞台稽古にも同席し、支配人や歌手陣とも綿密な打合せを行い、その結果を配下の集団に指令した。上演当夜、クラック集団は一般客より先に劇場への入場が許され、各人は所定の位置に散開し、隊長は自らは目立つ服装を身にまとい、拍手喝采のタイミングを部下にはっきりとした仕草で伝えるのだった。
隊長のうちでももっとも有名だったのは、オギュスト・ルヴァスールなる人物(1844年没)であった。オペラ座支配人であったルイ・ヴェロン(在任1831年 - 1835年)に雇用されたルヴァスールは、オペラ座から無料あるいは廉価で渡されるチケットを配下のサクラや一般客に売却して金銭を得るほか、作曲者や歌手からは別途金銭の受領があり、一説には年収2万-3万フランともいう。同時期パリの一般病院の院長が年収2,400フランから5,500フラン、パリ市内に15人しかいなかった商事担当法務官の年収が3万フランというから、ルヴァスールがいかに高収入を得ていたかが窺える。
*イタリアでの組織的クラック
イタリアにおいてもパリ類似の組織化されたクラックが横行した(イタリア語でも「サクラ」はフランス語移入のclaqueで呼ぶことが多い)。1919年の一資料はクラック行為に対して支払われる定額料金、例えば「男声歌手登場時の喝采は25リラ、女声なら15リラ、単なるブラヴォーは5リラ」等を記載している。イタリアにおいてもっとも有名だったクラック部隊は第二次世界大戦前のスカラ座のそれで、その隊長capo di claque、カルメロ・アラビーゾ(トスカニーニのタクトで歌ったこともある元テノール歌手)とアントーニオ・カラーラの元では40人強の集団が活動していたという。
*他国におけるクラック行為
民族性の故か、ラテン系ヨーロッパ以外の劇場では組織的クラックはあまり発達しなかったが、それでもいくつかの活動例が知られている。
1920年代ウィーンでは、ショースタールという者に率いられた部隊が活動していた。彼は自らの耳にプライドをもっており、好みのオペラ作品でしか活動しなかったし、気に入った歌手のパフォーマンスに対してはたとえ依頼がなくとも熱烈な喝采を送ったという。
イタリア系住民が多いニューヨークのメトロポリタン歌劇場では、1910年にイタリア人支配人ジューリオ・ガッティ=カサッザが組織的クラックを導入したと考えられている。最盛期の1920年代には、傘職人ショルなる者に率いられた部隊が活躍した。1954年に時の支配人、オーストリア出身のルドルフ・ビングが立見席スペース(クラックにとっての指定席)を削減し、また彼らへの無料チケット提供を取止めたことでその活動は沈滞化した。
*オペラにおけるクラック雑記
クラックはしばしば、ライヴァル歌手の公演を不成功に導くためにも用いられる。対立する2派がそれぞれの大部隊に動員をかけたケースでは、流血の抗争、公演の中止などにつながることもある。そのようなケースで有名なのは、1950年代ミラノ・スカラ座でのマリア・カラスとレナータ・テバルディ両派の対立、同じスカラ座での1960年代後半から1970年代前半のミレッラ・フレーニとレナータ・スコット両歌手支持グループの対立がある。ライヴァル歌手出演の公演に大挙して押しかけ、歌唱上の些細な瑕疵も聴き逃さず入れる野次やブーイングと、支持者側のそれをかき消すような熱烈な拍手喝采の衝突はスカラ座の一種の名物であった。もっとも、どちらの場合も単なるサポーター同士の抗争に過ぎず、歌手本人がライヴァルの失敗を画策していたわけではない、との見方もある。
歌手の中にはクラックによる賞賛を嫌う向きもある。例えば第二次世界大戦前の高名なバス歌手、エツィオ・ピンツァはクラック部隊に「ただ、黙ってもらうことを願って」金銭を提供していたという。
*日本におけるクラック
日本においても、クラック行為は舞台娯楽の発展と共にあった。
歌舞伎におけるそれに関しては、「大向う」の記事に詳しい。

Compound eyes, evolution of eyes(fm wiki)

June 11 [Sun], 2017, 0:00
【単眼】simple eyes, ocelli(sg.oellus)
【複眼】compound eye
【個眼】ommatidia(sg.ommatidium)
****Anatomy of the compound eye of an insect
Arthropods(節足動物) such as this Calliphora vomitoria fly(ミヤマクロバエ) have compound eyes
A compound eye may consist of thousands of individual photoreceptor(光受容体) units or ommatidia (ommatidium(個眼), singular). The image perceived is a combination of inputs from the numerous ommatidia (individual "eye units"), which are located on a convex surface(凸面), thus pointing in slightly different directions. Compared with simple eyes(単眼), compound eyes possess a very large view angle, and can detect fast movement and, in some cases, the polarisation of light(偏光). Because the individual lenses are so small, the effects of diffraction(回折) impose a limit on the possible resolution that can be obtained (assuming that they do not function as phased array(位相配列)). This can only be countered by increasing lens size and number. To see with a resolution comparable to our simple eyes, humans would require very large compound eyes, around 11 metres (36 ft) in radius.(もし人間の単眼と同様の視界をこの種の眼で得ようとすれば、非常に大きな複眼が必要である。直径約11メートル)
**Compound eyes fall into two groups: apposition eyes(連立像眼), which form multiple inverted images, and superposition eyes(重層眼), which form a single erect image. Compound eyes are common in arthropods, and are also present in annelids(環形動物ミミズ、ヒルなど) and some bivalved molluscs(双殻の軟体動物 二枚貝?).Compound eyes, in arthropods at least, grow at their margins by the addition of new ommatidia.
**Apposition eyes
Apposition eyes are the most common form of eyes, and are presumably the ancestral form of compound eyes(複眼の原始的な形態だと考えられている). They are found in all arthropod(節足動物) groups, although they may have evolved more than once within this phylum(門:動物/植物の最上級の分類項目). Some annelids and bivalves also have apposition eyes. They are also possessed by Limulus, the horseshoe crab(=king crub,カブトガニ), and there are suggestions that other chelicerates(鋏角類の節足動物) developed their simple eyes by reduction from a compound starting point. (Some caterpillars(イモムシ) appear to have evolved compound eyes from simple eyes in the opposite fashion.)
Apposition eyes work by gathering a number of images, one from each eye, and combining them in the brain, with each eye typically contributing a single point of information. The typical apposition eye has a lens focusing light from one direction on the rhabdom(ある方向の線分上の光に焦点を合わせる眼), while light from other directions is absorbed by the dark wall of the ommatidium(個眼).
**Superposition eyes(重ね合わせの眼)
The second type is named the superposition eye. The superposition eye is divided into three types; the refracting, the reflecting and the parabolic(放物線の) superposition eye. The refracting superposition eye has a gap between the lens and the rhabdom, and no side wall. Each lens takes light at an angle to its axis and reflects it to the same angle on the other side. The result is an image at half the radius of the eye, which is where the tips of the rhabdoms are. This type of compound eye is normally found in nocturnal insects(夜行性の昆虫) because it can create images up to 1000 times brighter than equivalent apposition eyes, though at the cost of reduced resolution. In the parabolic superposition compound eye type, seen in arthropods such as mayflies(カゲロウ), the parabolic surfaces of the inside of each facet(それぞれの眼表面) focus light from a reflector to a sensor array. Long-bodied decapod(10足の甲殻類)crustaceans such as shrimp, prawns, crayfish(=crawfish,イセエビ,ザリガニ) and lobsters are alone in having reflecting superposition eyes, which also have a transparent gap but use corner mirrors instead of lenses.
**Parabolic superposition
This eye type functions by refracting light, then using a parabolic mirror to focus the image; it combines features of superposition and apposition eyes.
**Other
*Another kind of compound eye, found in males of Order Strepsiptera (ネジレバネは、ネジレバネ目と呼ばれる目の微小な寄生昆虫の総称。雄と雌の形態の差が激しく、ツチハンミョウのように過変態である。雄は目、足、翅を持ち、前翅が平均棍様の器官となっている。雌は足や翅を持たずに蛆虫状である種類が多い。宿主にはハチ、ヨコバイ、シミ、ゴキブリが含まれる), employs a series of simple eyes—eyes having one opening that provides light for an entire image-forming retina. Several of these eyelets together form the strepsipteran compound eye, which is similar to the 'schizochroal'(*adj.; schizochroal ‎(not comparable)
(of eyes) With compound lenses, each with separate cornea, each lens separated from others by deep scleral walls(白目の壁の深部) and forming an image; the corneal membrane extends downward into sclera(強膜).) compound eyes of some trilobites(三葉虫). Because each eyelet is a simple eye, it produces an inverted image(倒立像); those images are combined in the brain to form one unified image. Because the aperture of an eyelet is larger than the facets of a compound eye, this arrangement allows vision under low light levels.
*Good fliers such as flies or honey bees, or prey-catching insects such as praying mantis(カマキリ) or dragonflies(トンボ), have specialised zones of ommatidia organised into a fovea(窩) area which gives acute vision. In the acute zone, the eyes are flattened and the facets larger. The flattening allows more ommatidia to receive light from a spot and therefore higher resolution. The black spot that can be seen on the compound eyes of such insects, which always seems to look directly at the observer, is called a pseudopupil(偽瞳孔). This occurs because the ommatidia which one observes "head-on" (along their optical axes) absorb the incident light(入射光), while those to one side reflect it.
*There are some exceptions from the types mentioned above. Some insects have a so-called single lens compound eye, a transitional type which is something between a superposition type of the multi-lens compound eye and the single lens eye found in animals with simple eyes. Then there is the mysid shrimp(アミエビ) Dioptro(屈曲した)mysis(アミ) paucispin(少旋)osa. The shrimp has an eye of the refracting superposition type, in the rear behind this in each eye there is a single large facet that is three times in diameter the others in the eye and behind this is an enlarged crystalline cone. This projects an upright image on a specialised retina. The resulting eye is a mixture of a simple eye within a compound eye.
*Another version is the pseudofaceted eye(偽複眼), as seen in Scutigera(ゲジ House centipade). This type of eye consists of a cluster of numerous ocelli(単眼 sg.oellus) on each side of the head, organised in a way that resembles a true compound eye.
The body of Ophiocoma wendtii, a type of brittle star(クモヒトデ), is covered with ommatidia, turning its whole skin into a compound eye. The same is true of many chitons(ヒザラガイ). The tube feet of sea urchins contain photoreceptor proteins, which together act as a compound eye; they lack screening pigments, but can detect the directionality of light by the shadow cast by its opaque body.

****Nutrients
The ciliary body(毛様体) is triangular in horizontal section and is coated by a double layer, the ciliary epithelium(毛様体上皮). The inner layer is transparent and covers the vitreous(ガラス質の) body, and is continuous from the neural tissue of the retina(網膜). The outer layer is highly pigmented, continuous with the retinal pigment epithelium(色素上皮), and constitutes the cells of the dilator muscle(散大筋).
The vitreous is the transparent, colourless, gelatinous mass that fills the space between the lens of the eye and the retina lining the back of the eye. It is produced by certain retinal cells. It is of rather similar composition to the cornea, but contains very few cells (mostly phagocytes(食細胞) which remove unwanted cellular debris(不要な細胞の破片を視界から除くための) in the visual field, as well as the hyalocytes of Balazs (バラズの硝子体) of the surface of the vitreous, which reprocess the hyaluronic acid ヒアルロン酸の再処理), no blood vessels, and 98–99% of its volume is water (as opposed to 75% in the cornea(角膜の75%に対して)) with salts, sugars, vitrosin (a type of collagen), a network of collagen type II fibres with the mucopolysaccharide hyaluronic acid(ムコ多糖類ヒアルロン酸), and also a wide array of proteins in micro amounts. Amazingly, with so little solid matter, it tautly holds the eye.

****Evolution of the mollusc(軟体動物)eye
Photoreception is phylogenetically very old, with various theories of phylogenesis(系統発生学). The common origin (monophyly) of all animal eyes is now widely accepted as fact. This is based upon the shared genetic features of all eyes; that is, all modern eyes, varied as they are, have their origins in a proto-eye believed to have evolved some 540 million years ago(5.4億年前), and the PAX6 gene is considered a key factor in this. The majority of the advancements in early eyes are believed to have taken only a few million years to develop, since the first predator to gain true imaging would have touched off an "arms race" among all species that did not flee the photopic environment. Prey animals and competing predators(捕食者) alike would be at a distinct disadvantage without such capabilities and would be less likely to survive and reproduce. Hence multiple eye types and subtypes developed in parallel (except those of groups, such as the vertebrates(脊椎動物), that were only forced into the photopic environment 明順応的環境 at a late stage).

フランス史

May 24 [Wed], 2017, 0:20
ローマ時代にガリアと言われ、カエサルによって征服され属州となる。
現在のフランスの地は、ローマ時代にはケルト人が居住し、ガリアと言われていた。
前1世紀にカエサルがガリア遠征を行って征服し、その属州となってから、ローマ文化が浸透した。
この時代をガロ=ローマ時代と言っており、現在でもローマ時代の水道や円形競技場は南フランスを中心に遺跡として残っており、また属州(プロヴィンキア)であったことはプロヴァンスという地名に残っている。
4世紀以降ゲルマン人の侵入を受け、その中のフランク人が優勢となりフランク王国を建設、ローマ=カトリックに改宗。カール大帝のもとで封建国家として発展。
9世紀に三つに分裂、その中の西フランクがフランス王国のもとになる。
10世紀にカペー朝が成立した。

●フランク王国
4世紀ごろからライン川の東側にいたゲルマン人の各部族が大移動を開始、いくつかの部族がこの地に侵攻し、防ぎきれなくなったローマ帝国の支配は後退して、ほぼ西北部にフランク王国、東南部にブルグンド王国(後にブルゴーニュ地方となる)が支配、西南部にはイベリア半島の西ゴート王国が勢力を伸ばすという三分化された。そのうちフランク王国がメロヴィング朝のクローヴィスがカトリックに改宗してローマ教会と結び、ローマ人の官僚を登用して国家体制を整備し、ほぼ後のフランスの領域を支配、さらにイスラームのヨーロッパ侵入を宮宰のカール=マルテルがトゥール・ポワティエ間の戦いで撃退し、その子ピピンがカロリング朝を開いた。ピピンの子のカール大帝はその周辺に領土を広げ、800年にカールの戴冠によってローマ皇帝の称号を得、ローマ教会の保護者であり、西ヨーロッパの支配者としての地位を確立した。
●西フランク王国
フランク王国が843年のヴェルダン条約で三つに分裂した事によって生まれた西フランクが、フランス国家へと継承されることとなる。西フランク王国は870年のメルセン条約で中部フランクの西半分を領土に加えたが、そのころから第2次民族移動の時期に入り、ノルマン人(いわゆるヴァイキング)が西ヨーロッパ各地の海岸に侵攻してきた。911年にはロロの率いるノルマン人が北西の海岸に定住してさらにパリを脅かすようになると、国王シャルル3世はロロにたいし、キリスト教に改宗することを条件にノルマンディー公国の支配権を認めた。
●カペー朝の成立
987年にカロリング朝の王家が断絶し、パリ伯ユーグ=カペーが王位を各地の豪族に押されて王に選出され、カペー朝が創始された。このときから、「フランス」と称するようになる。カペー朝の王位は世襲されたが、王権は周辺の諸侯に押されて、強くはなかった。カペー家の他にノルマンディ公やアンジュー伯、ブルゴーニュ公などの有力諸侯が分権的な力を振っており、またローマ教皇もフランス王よりも強大な力を有していた。イギリス国王であるノルマン朝ウィリアムやプランタジネット朝ヘンリ2世はフランス国内にも領地をもち、形式的にはフランス王の臣下であるが、カペー家より力があるという状態が12世紀の十字軍時代の初めまで続いた。
●カペー朝・ヴァロア朝
11世紀ごろから生産力高まり、十字軍時代に商業が復活する封建社会が変質。封建領主層が没落し、カペー朝の王権が強化される。フィリップ4世はローマ教皇と争い優位に立つ。14〜15世紀の百年戦争で封建領主の没落が決定的になり、ヴァロワ朝の絶対王政が成立。
●封建社会の変質
しかし、三圃制農業の普及などによる生産力の向上は、十字軍運動を一つの契機として遠隔地貿易が盛んになるという変化をもたらした。フランス国内では、北イタリア諸都市と、フランドルの毛織物地帯を結びつけるシャンパーニュ地方に定期市が開かれ、その東に位置してセーヌ川の水運で結ばれたパリの経済も発展した。貨幣経済の発展は次第に封建社会の基盤である荘園制を変質させて行き、封建領主層は次第に力を失っていったが、反比例して王権は強化された。そのような変化を背景として、13〜14世紀にはカペー朝の王権の強化がすすみ、フィリップ2世の時に基礎が築かれ、ルイ9世はアルビジョワ十字軍を起こして南フランスを征服し、フィリップ4世はついに、国内の教会領に課税しようとしてローマ教皇とも争い、アナーニ事件と教皇のバビロン捕囚を行い、優位に立った。
●百年戦争
その後、ヴァロワ朝の成立とともにイギリスとの百年戦争が勃発、その間封建社会の矛盾も深くなり、黒死病の流行、ジャックリーの乱という農民反乱などが頻発した。そのために封建領主層は没落し、かわってヴァロワ朝のもとで絶対王政の基盤が築かれた。百年戦争を終結させたシャルル7世は王権の確立に努め、財政の整備・国王軍の創設などを行い、絶対王政への道を開いた
●主権国家・ブルボン朝の成立
フランソワ1世はヨーロッパの覇権をハプスブルク家カール5世と争う。16世紀に宗教改革の波がフランスにも及び、カルヴァン派が勢力を強め、宗教対立からユグノー戦争に突入。その宗教戦争を克服したブルボン朝のもとで主権国家フランスの絶対王政の全盛期となる。
●主権国家の形成
フランソワ1世は神聖ローマ皇帝カール5世との激しいイタリア戦争を繰り返し、その過程で主権国家としての体制を整備した、ヴァロワ朝最盛期の国王であるが、そのころ宗教改革の嵐がフランスにも波及した。フランスではカルヴァン派が多く、彼らはユグノーと言われた。ヴァロワ朝末期は深刻な宗教戦争であるユグノー戦争が起こった。その過程では旧教徒による新教徒に対するサンバルテルミの虐殺のような凄惨な事件も起こった。
●ブルボン朝の成立
1589年、アンリ3世が暗殺されたため、ブルボン家の新教徒アンリが即位してアンリ4世となり、ブルボン朝が成立した。しかし新教徒の王を認めない旧教徒は反発を強め、なおも内乱は続いた。そのような中、国家統一を優先したアンリ4世は1593年に自ら旧教に改宗し、さらに、ナントの王令を発して新教を認めて内乱を終結させた。こうしてフランスの宗教内乱を克服したブルボン朝のもとで、絶対王政が発展していくこととなる。
17世紀〜18世紀はじめ、ルイ13世の時の宰相リシュリュー、さらにルイ14世の幼少期の宰相マザランによって、中央集権化、官僚制や税制、軍政の整備が進められ、絶対王政が展開される基盤がつくられた。王権強化が進められることによって既得権を失っていった貴族たちは1649〜53年にフロンドの乱を起こしたが、それが鎮圧されてルイ14世の絶対王政全盛期が出現する。
この間、従来の貴族が武家貴族(帯剣貴族。騎士としての伝統を継承する貴族)と言われたのに対して、高等法院などの上級官僚に登用されて新たに貴族に加わった人びとを法服貴族と言うようになった。
●ブルボン朝絶対王政
17世紀後半のルイ14世は、コルベールの重商主義で国富を増やし、オランダ・ドイツ諸侯領を侵略。さらにイギリスと激しい植民地戦争をつづける。やがて国家財政を破綻に向かわせ、旧体制の危機となる。
●ルイ14世 絶対王政全盛期
17世紀末から18世紀初頭のルイ14世の親政時代はフランス絶対王政の全盛期であった。財務長官コルベールによる重商主義政策によって産業の保護、インドやアメリカ大陸への植民地経営が進められた。またカトリック体制を強化するためにナントの王令の廃止したが、その結果、新教徒が国外に脱出し、産業の発展には阻害要因となった。
ルイ14世の時代は南ネーデルラント継承戦争・オランダ侵略戦争・ファルツ戦争という侵略戦争を展開して、領土をライン流域まで拡大した。国際的にはイギリス・オランダ・オーストリア(ハプスブルク家)と対立して孤立したが、強大な絶対王政のもとで中央集権化を推し進め、豊かな国力を背景とした強力な軍隊を有して戦いを有利に進めた。北アメリカ大陸での植民地拡大も積極的に進め、カナダを王領地に編入し、ルイジアナを獲得した。インドにおいてもフランス東インド会社の拠点としてポンディシェリ・シャンデルナゴルが設けられ、イギリス東インド会社と激しく競い合った。またその繁栄を象徴するヴェルサイユ宮殿が造営され、宮中を中心に豪華なバロック様式が開花した。しかし18世紀に入り、スペイン継承戦争では自らの孫をスペイン国にすることはできたものの、植民地戦争でイギリスとの英仏植民地戦争では領土の拡張もできず、かげりが見え始めた。
●ルイ15世 絶対王政の衰退
次の18世紀のルイ15世もヨーロッパの主権国家間の争いに加わり、オーストリア継承戦争、七年戦争を戦い、その間、イギリスとのアメリカ大陸でのジョージ王戦争・フレンチ=インディアン戦争、インドでのカーナティック戦争・プラッシーの戦い激しい植民地戦争を展開した。先代からのヨーロッパ大陸と植民地での第2次百年戦争は国家財政に大きな負担となり、絶対王政が揺らいでいく。宮中ではバロック様式に代わりロココ様式が流行したが、思想界では啓蒙思想が、モンテスキュー・ヴォルテール・ルソー・ディドロらの百科全書などが活躍を始め、次のフランス革命を準備していく。
●フランス革命とナポレオン
18世紀末〜19世紀初頭、アンシャンレジームの矛盾の深化からフランス革命勃発へ。第一共和政からナポレオンの第一帝政へ。
●ルイ16世 アンシャンレジームの矛盾が深化
ルイ16世の治下では1775年からアメリカ独立戦争が始まり、当初は様子を見ていたが、結局フランスは参戦することとしたために、その財政負担は大きくなった。ルイ14世・15世と続いた対外戦争による負債はさらに増加し、それに加えて宮廷内では王妃マリ=アントワネットらの奢侈による出費がさらに財政を脅かしていた。ルイ16世は重農主義者のテュルゴー、さらに銀行家のネッケルに財政改革を行わせ、彼らは特権身分である第一身分(聖職者)や第二身分(貴族)に対する課税の必要を主張した。しかし、それらの改革案は貴族の反対に遭い、ルイ16世も改革に踏み切ることができなかった。その頃フランス社会は、少数の特権身分が土地の大部分を領有し、農民の多くは封建的な地代の負担や、地主への小作料の負担に苦しみ、折りからの天候不順による凶作もあって、都市民、農村のいずれも、アンシャン=レジーム(旧制度)に対する不満を強めていった。
●フランス革命
1789年、フランス・ブルボン朝のルイ16世は、財政難を回避するために三部会を開催した。しかし三部会の第三身分代表は、国民の代表機関として独自に国民議会を開催、憲法の制定まで解散しないことを誓った。ルイ16世がそれを認めず、武力で解散させようという動きを見せたことからパリ市民が反発、7月14日にバスティーユ牢獄襲撃を襲撃してフランス革命が勃発した。全国の農村でも暴動が起き、それをうけて8月4日夜、国民議会は封建的特権の廃止と人権宣言を決議した。これがフランス革命の最初の成果であるが、この段階では革命は開明的な貴族層に主導され、立憲君主政をめざすものであった。国民議会は立憲君主政を柱とする1791年憲法を成立させた。ところがルイ16世はそれを受け容れず、国外逃亡を図ったため、国王に対する非難が高まる。さらに、外国の革命干渉軍が迫る中、1792年8月10日事件でパリのサンキュロットを主力とした革命派民衆がチュイルリー宮殿を襲撃して国王を幽閉、一気に立憲王政派は排除され、男子普通選挙による国民公会が成立した。
●第一共和政 1792〜1804年
1792年9月21日、国民公会が王政の廃止を決議、フランス最初の共和政体制である第一共和政が成立、翌22日から「フランス共和国第1年」と称することになった。 国民公会では、上層ブルジョワジーの立場から穏健な共和政を維持することを主張するジロンド派と、小ブルジョワ、都市下層民の立場に立って革命の推進を図るロベスピエールらの山岳派が対立するなか、山岳派の主導で1793年憲法が制定された(実施はされず)。両派の対立は1793年の6月、サンキュロットが再び蜂起して議会からジロンド派を追放したことによって決着し、山岳派が公安委員会を抑えて革命を主導し、そのころからジャコバン派といわれるようになった。ジャコバン派独裁のもとで封建地代の無償廃止・最高価格令・徴兵制・革命暦などの革命的諸政策がうちだされた。しかしジャコバン派内部に左右両派の分派が現れ、ロベスピエールはそれらを排除して独裁権力を握り、反対派を次々とギロチンにかけ、恐怖政治を展開した。また反面で農民層や小市民層が保守化し、革命の急進化を恐れようになったため、1794年7月のテルミドールのクーデタでロベスピエールとジャコバン派は失脚、共和政は大きく動揺した。その後、総裁政府が成立したが、左右からの揺さぶりが続き、イタリア遠征などで軍事的成功を収めたナポレオンが、ブリュメール18日のクーデタによって統領政府を成立させ、自ら第一統領となって実権を握った。  ナポレオンのローマ教皇との和解であるコンコルダート、イギリスとの和平であるアミアンの和約、それにフランス銀行の設立とナポレオン法典/フランス民法典の制定はいずれも皇帝になる前の事績である。
●第一帝政 1804〜1814年
軍事的成功と内政での実績をもとに、ナポレオンは1802年に終身統領となり、1804年に国民投票によって即位し、ナポレオン1世となった。これによって第一共和政は終わり、第一帝政となった。国家の安定と対外戦争での利益を求めるブルジョワジー、土地所有者となった中小農民のいずれも共和制よりもナポレオンの帝政を選んだ。1804年5月、ノートルダム大聖堂に戴冠式を挙行し、1814年4月まで皇帝支配の時期が続く。その間、ナポレオン戦争が全ヨーロッパの範囲で展開された。それはナポレオンの野心によって行われた戦争であったが、周辺の諸国の民衆にとっては自由と平等をもたらす解放戦争であり、絶対王政を維持していた君主にとってはその存在の根底的な危機であった。しかし、やがて民衆にとってもナポレオン帝国に組み込まれて自由が抑圧される結果となっていく。抑圧された征服地の民衆がナポレオンに対して最初に抵抗したのがスペインの反乱であった。そのゲリラ戦にナポレオンは苦しむことになり、そこからナポレオンのヨーロッパ支配が崩れていく。
ナポレオンのフランスにとって、最大の敵はイギリスであった。イギリスはまだに産業革命を展開しており、議会政治のもとでブルジョアジーが自由な経済活動を行うことを基盤とした資本主義国として成長しつつあった。フランスは工業力ではイギリスに大きな後れをとっていた。ナポレオンはイギリス経済に打撃を与えようと大陸封鎖令を出したが、それはかえってイギリス工業製品がヨーロッパに入ってこなくなり、また穀物や原料をイギリスに輸出できないという点で大陸諸国にとって大きな痛手であった。そのため大陸封鎖令は効果がなく、ロシアのように公然と離反する国が現れた。それに対するロシア遠征は失敗に終わり、その敗北とともに急速にナポレオン帝国が崩壊することとなる。
ナポレオンはエルバ島から一旦パリに戻り、皇帝に復帰するので百日天下(1815年3月〜6月)もナポレオンの第一帝政に入るが、それは実質的には1914年4月で終わったといえる。フランスはルイ18世のブルボン朝が復活して「復古王政」の時期となり、ヨーロッパはウィーン体制という反動期に入る。
●復古王政・七月王政・第二共和政
19世紀前半のフランスは、ウィーン体制下の復古王政と七月王政が続く。この間、産業革命が進行した。1848年の二月革命により第二共和政となるが、ナポレオン3世が実権を握って第二帝政が成立した。
●復古王政
ナポレオン第1帝政に続くフランスの政体で、1814〜1830年まで。ナポレオン1世の第一帝政が1814年にその退位で終わった後(1815年に一時ナポレオン1世の帝政が百日天下として復活するが)、フランスで復活したブルボン朝のルイ18世・シャルル10世の支配時代を「復古王政」という。革命前のアンシャン=レジームの復活を策したが、市民意識は定着していたので、所有権の不可侵や法の下の平等などの革命の成果は保障された。またルイ18世のもとでは、タレーランが正統主義を掲げてウィーン会議に参加し国際的立場を維持したが、ウィーン議定書では国土はフランス革命前に戻され、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンの四国同盟によって監視されることとなった。それでも賠償金も払い終わった1818年には、五国同盟に加えられてヨーロッパの強国として復活した。1824年に即位した弟のシャルル10世は、より反動的な政治を行い、ブルジョワジーの反発が強まり、1830年の七月革命で倒される。
●七月王政
1830年の七月革命によって成立した立憲君主政の政体。1830年の七月革命によって成立した国王ルイ=フィリップのもとでの立憲君主政。1848年の二月革命まで続く。政治体制は1830年の憲法に基づく、立憲君主政。議会は制限選挙制によって有産者が多数を占め、上層ブルジョアジーが支配権力を握った。そこで、ルイ=フィリップを市民王、七月王政をブルジョア王政などという。この七月王政の18年間はフランスの産業革命時代となり、機械化が進み鉄道の建設が始まった。また1830年に始まるアルジェリア出兵による植民地化をさらに進め、またエジプト=トルコ戦争でのムハンマド=アリーへの支援など、東方問題への介入を強めた。一方、産業革命の進行に伴い、都市の中産階級と労働者階級も形成され、彼らは普通選挙などの改革を要求して選挙法改正運動を展開した。上層ブルジョアジー政権である国王ルイ=フィリップとギゾー内閣への批判を強め、政府の集会禁止に対して各地で改革宴会を開催し、気勢を上げるようになった。
●第二共和政
フランスの二月革命によって成立した1848年〜1852年の共和政体。フランス革命時の第一共和政(1792年9月〜1804年5月)に次ぐ共和政。正式には11月の共和国憲法制定からであろうが、一般的に2月の七月王政崩壊後の臨時政府も含めて第二共和政としている。 → 1848年革命
当初はラマルティーヌなどのブルジョワ共和派とともに、ルイ=ブランら社会主義者も含む臨時政府のもとで改革が進められ、国立作業場の設置など、積極的な改革を進めたが、経済不安が続き、四月普通選挙の結果、社会主義勢力が後退することとなった。ブルジョワ勢力が主導権を握った臨時政府が国立作業場の廃止に踏み切ると、反発した労働者の蜂起を政府軍が鎮圧するという六月蜂起の事件がおこり、軍人のカヴェニャックが実権を握った。一方で王党派の勢力が増大するなど、動揺が続いた。11月に制定された第二共和政憲法は人民主権、三権分立、大統領制を採用し、男子普通選挙を定めたが、年末の大統領選挙で当選したルイ=ナポレオンは、1851年にクーデターを起こし、憲法を修正して、さらに国民投票を実施して翌52年1月にはナポレオン3世として即位して第二共和政は終わり、第二帝政へと移行する。 → 第二共和政の動揺
●第二帝政から第三共和政へ
ナポレオン3世の第二帝政の時期、産業革命が進行、対外戦争・植民地獲得戦争を展開した。しかし1870年、普仏戦争に敗れ、パリ=コミューンを経て第三共和政となる。
●第二帝政
1852年から70年までの22年間のナポレオン3世による統治時代のフランスを第二帝政いう。ナポレオン3世は叔父であるナポレオン1世の権威を背景にした大衆的な支持を力に、議会を形骸化し、軍隊と官僚を駆使して独裁的な政治を行った。その政策は、産業革命の進行に伴う産業資本家の成長をはかり、自由貿易政策に転換したこと、同時に産業資本家の利益の拡大を図り、国民的人気を得るためにに盛んに対外的な膨張政策をとった。そのような政治のあり方をボナパルティズムともいう。
権威帝政から自由帝政へ 50年代に権威帝政といわれる独裁的な体制を作りあげたナポレオン3世は、自らが自由貿易主義者であったところから、1860年に皇帝大権で英仏通商条約を締結し、それまでの保護貿易体制を改め、関税を大幅に下げてイギリス工業製品の受け入れに踏み切った。その結果、企業の淘汰、資本の独占化がすすみ、技術革新・交通・通信の整備、銀行の成長、労働力の都市への移動などが進み、フランスの産業革命の完成期を迎えた。同時にそれは産業資本家の企業活動の自由の要求、労働者の権利要求、さらに社会全般の言論の自由などの要求が強まることを意味している。
ナポレオン3世は60年代に議会の一定の権限拡大、労働団結権の承認、一定の言論の自由、政治犯の釈放などで答え、その時期を自ら「自由帝政」と称した。本来両立しない自由と帝政を併存させるためには「偉大な皇帝」による恩恵としての自由でなければならず、皇帝の権威を創り出すために行われたのが「積極的外交」であった。
●人気取りの外交政策  「人気取り」のために膨張的な外交政策をとったが、それは常に危険な冒険を伴っていた。クリミア戦争にはじまり、アロー戦争とインドシナ出兵では植民地や勢力圏の拡大に成功したが、メキシコ出兵は失敗に終わり、外交政策でのつまずきが始まった。
●普仏戦争の敗北
プロイセン王国のビスマルクの挑発を受けて始まった1870年の普仏戦争ではスダンの戦いでナポレオン3世自身が捕虜となったため退位に追い込まれ、第二帝政は終わりを告げた。71年1月、パリに迫ったプロイセン軍はヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国のヴィルヘルム1世の戴冠式を挙行し、フランスは大きな屈辱を味わうこととなった。さらに臨時政府のティエールは賠償金を支払い、アルザス・ロレーヌ(厳密にはその一部)をドイツに割譲して戦争を終結した。ナポレオン時代の報復に成功した形のドイツのビスマルクは、これ以後フランスの再起を押さえ込むための外交をヨーロッパで展開していく。
●第三共和政
 フランスの第二帝政に代わる政体で、一般に1870年9月から1940年までの約70年にわたる政体を第三共和政というをいう。1875年1月に第三共和政憲法が制定されているため、第三共和政の開始時期については、1870年とするものと、1875年とするものとがあって混乱しているので注意すること。 → 第三共和政の項を参照
●臨時政府とパリ=コミューン  1870年9月から71年2月までは国防臨時政府が、71年2月からはティエールを首班とする臨時政府が対外的のもフランスを代表したが、国内には王政復古や帝政の復活を目指す勢力も根強く、安定しなかった。また、臨時政府がプロイセンに対する降服したことに対して、パリの市民・労働者が反発して徹底抗戦を掲げ、3月にパリから臨時政府軍を追いだして国家権力であるパリ=コミューンが樹立した。パリ=コミューンは労働者が権力を握った最初の社会主義政権であったが、ブルジョワ勢力に支持されたティエールの臨時政府軍によって5月に鎮圧された。ティエールは共和政を掲げて8月に大統領となったが、議会内の保守派・王党派によって失脚させられ、王党派のマクマオンが大統領となった。ようやく1875年に議会は第三共和政憲法を可決し、フランスの政体は共和政であることが確定した。
第三共和政の時代のフランスは、資本主義が急速に成長し、帝国主義段階を迎えていく時期に当たるが、ブルジョワ共和政政府に対して労働者の増大を背景にした社会主義者や労働組合運動などの左派の活動と、ブルボン王家の復活やボナパルティズムを支持する小農民などの勢力も政府を揺るがし、この左右両派からの攻勢によって政情は不安定であった。
●帝国主義
1875年、第三共和政憲法が制定されたが、左右両派からの攻勢が続いて不安定であった。この間資本主義の発展が続き、帝国主義の段階に入り、列強間の対立抗争が激化、第一次世界大戦に突入する。
●共和政の危機
第三共和政の下で、普仏戦争敗北からの国力の回復、国際社会への復帰を目指し、1880年代までに大資本と結んだ共和派による政治がほぼ確立した。しかし、普仏戦争で失ったアルザス・ロレーヌ地方の奪回など、対独強硬論を唱える右派と軍部の台頭、一方の労働組合主義(サンディカリズム)の台頭、フランス社会党の進出という労働運動、社会主義勢力の成長もあって、共和政は左右双方からの攻撃を受けて常に動揺した。
また政党政治も未成熟で、小党が乱立して安定せず、議員の汚職事件などの腐敗もあって権威を失い、19世紀末には大きな危機に陥った。そのような中で共和政を否定して軍部独裁政権の樹立をめざすクーデター事件である1889年のブーランジェ事件、パナマ運河会社の再建をめぐる汚職事件である1892年のパナマ事件などが続いた。1894年に始まるドレフュス事件は最大の共和政の危機であったが、軍部と右派の陰謀を国民的な世論で抑え、共和政体を維持することに成功した。
●フランスの帝国主義
他方、この時期はフランスの工業力も発展し、フランスも帝国主義の段階に入り、20世紀初めにかけてアフリカ分割に加わってアフリカ横断政策をとり、イギリスと対立してファショダ事件を起こした。またアルジェリア・チュニジアにつづいてモロッコ進出を図り、ドイツと対立してモロッコ事件が起きた。またすでに東南アジアでは1884年には清仏戦争で苦戦しながらベトナムに対する清の宗主権を排除し、フランス領インドシナ連邦の殖民地を拡大した。また日清戦争後、ロシア・ドイツとともに三国干渉を行って日本に遼東半島を還付させ、清の弱体化につけ込み、1898年の中国分割では広州湾を租借し、鉄道敷設権などを得た。
●帝国主義列強の勢力均衡策
フランスは、普仏戦争の敗北以来、外交的には常にドイツを仮想敵国としていた。1870〜80年代にはドイツ帝国のビルマルク外交によって孤立を余儀なくされたが、90年代にドイツの世界政策との対立がが明確になると、イギリス・ロシアとの提携を深めていった。イギリスとはファショダ事件で衝突を回避した後、1904年に英仏協商を成立させ、フランスのモロッコでの、イギリスのエジプトでの権益を相互に承認した。ロシアは早く1890年にドイツが再保障条約の延長を拒否したことを受けてフランスに接近、両者は1894年までの間に露仏同盟を締結した。これによってフランス・イギリス・ロシアは三国協商を形成することになり、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟の脅威に対抗することとなった。このような列強間の秘密軍事同盟によって勢力均衡を図るのが当時の「外交戦略」の基本姿勢であったが、結局、平和を維持することはできなかった。
●第一次世界大戦
第一次世界大戦ではドイツに攻め込まれたが塹壕戦で耐え、連合国としての勝利を勝ち取る。1919年ヴェルサイユ条約で領土拡張。ドイツに対する過酷な姿勢を取る。20年代には国際協調路線を取る。
●第一次世界大戦への参戦
1914年6月、バルカンでサライエヴォ事件が起き、情勢が緊迫し、「七月の危機」が高まる最中、フランスの大統領ポワンカレは7月20日〜23日にペテルスブルクを訪問、露仏同盟を最終的に強化した。その7月23日にオーストリアがセルビアに対して最後通牒を発し、25日のセルビアが回答、28日にオーストリアが宣戦布告して第一次世界大戦が開始された。翌日、ロシアはセルビアを支援してオーストリアに宣戦し、ドイツは三国同盟を守ってオーストリア側で参戦、フランスはイギリスとともに三国協商の規定に従ってロシアを支援し、参戦した。こうして第一次世界大戦が勃発した。
フランスは、開戦当初はドイツ軍の速攻によって攻め込まれたが、マルヌの戦いで食い止めてからは塹壕戦に突入して戦線が停滞した。総力戦に突入し、消耗が続いたが、アメリカ合衆国の参戦によって協商側がようやく勝利した。
●ヴェルサイユ体制
勝利国となったフランスはパリ講和会議において、クレマンソーが対独強硬姿勢を主張、それが容れられる形でヴェルサイユ条約は、敗戦国ドイツに対する苛酷な要求を含んでいた。フランスはまずアルザス・ロレーヌを回復し、巨額の賠償金を認めさせ、さらにラインラントの非武装、ドイツの軍備制限など将来にわたる安全保障を実現しようとした。しかしこの過酷な要求はドイツ内部における反ヴェルサイユ体制という感情を生み、結果として安全保障とはならずナチス=ドイツを台頭させ、フランスは大きな犠牲をはらうこととなった。
●国際協調
フランスは国際連盟の常任理事国として、大戦後の国際平和に大国としての役割を担うこととなった。しかし、対独強硬姿勢は改めず、1923年にはベルギーとともにルール占領を強行し、ドイツに賠償金の支払いを迫った。ドイツ賠償問題は最大の課題であり、なおも緊張が続いたが、ドイツのシュトレーゼマン政権が履行政策(賠償金支払いを実行すること)に転じたため歩み寄りが実現し、1925年にロカルノ条約を締結し、フランスはドイツとの国境地帯での地域的集団安全保障体制を実現した。賠償問題もアメリカ資本の支援がドーズ案、ヤング案で実現して解決の方向性が見いだされ、国際協調の時代が実現した。この間、ジュネーヴ海軍軍縮会議に参加し、フランス外相ブリアンはアメリカのケロッグと協力して不戦条約の締結に成功したが、これらの国際協調の動きは、翌1929年の世界恐慌で崩れ去ってしまう。
●ファシズムの台頭と人民戦線
第一次世界大戦後も第三共和政の政情不安が続くとともに、30年代以降世界恐慌とファシズムの脅威にさらされ、1936年に人民戦線ブルム内閣が成立した。しかし、ブルム内閣は不況対策に失敗、スペイン戦争の対応をめぐる内部対立から38年4月に退陣した。
●世界恐慌の影響
フランスは重工業の発展はアメリカ・ドイツに比べて進んでいなかったので、世界恐慌の影響は比較的遅かった。それでも農業不況が先行する形で30年代には深刻な不況に落ち込んでいった。列強がそれぞれ平価を切り下げ、植民地や勢力圏を囲い込むブロック経済体制を取るようになると、フランスは金本位制を維持するオランダ、ベルギー、スイスと金ブロック(フラン=ブロック)を構成してイギリス・アメリカと対抗しようとし、また植民地であるアルジェリア・インドシナなどの経営に力を入れるようになった。
●ファシズムの台頭
すでに隣国イタリアではムッソリーニのファシスタ党が権力を握っていたが、1933年にはドイツでヒトラー政権が成立、フランスはファシズム勢力に直接脅かされる情勢となった。特にドイツは公然とヴェルサイユ体制打破を掲げ、再軍備を強行してフランス侵攻を準備する形成となった。また国内でも第三共和政下の政党政治が汚職や経済の無策から混乱し、労働組合のストライキが多発、不安を抱くブルジョワジーの中に共産主義に対する恐怖と議会政治に対する失望が広がり、その隙間にファシズム勢力が台頭してきた。
●人民戦線
それまでフランス社会党とフランス共産党は同じ社会主義政党でありながら、前者は議会制民主主義に則り暴力革命を否定し、反ソ連の立場に立ち、後者はコミンテルンのフランス支部として革命を目指し、社会党など社会民主主義をブルジョワ的な階級敵と見ていたので、激しい非難合戦を展開していた。そのため傘下の労働運動も二つに分裂、対立していた。30年代に入り、ファシズムの台頭という新たな情勢に対し、次第に両者の対立を克服して統一戦線をつくる必要があるという意識が強まり、1933年2月の政府の汚職事件を口実とした右翼の騒擾事件を契機に左翼の幅広い共同行動が始まった。共産党のトレーズは、ブルジョワ政党である急進社会党(ドレフュス事件の説きにクレマンソーが結成した、急進的な共和主義政党。基盤は中間的な市民層で、戦間期に政権を担当した。)に対しても働きかけ、1975年7月14日には三党の共催による「パンと平和と自由」を求める大集会を全国で開催した。この動きを見たソ連のスターリンは35年5月仏ソ相互援助条約の締結に応じ、さらに7月25日、コミンテルン第7回大会は反ファシズム人民戦線戦術をとることを各国共産党に指示した。
1936年1月に、社会党・共産党・急進社会党などの人民戦線綱領が作られ、総選挙の結果、人民戦線派が勝利して、1936年6月に社会党のレオン=ブルムが首相となって組閣し、フランス人民戦線が成立した。
●ブルム内閣の挫折
そのころ、人民戦線の成立で勢いついた労働組合は、工場占拠などの激しいストライキを展開していた。ブルム内閣は人民戦線綱領に基づき、週40時間労働制や有給休暇制度の創設など労働者の待遇改善を実現、労働者の要求に応えた。当初の数ヶ月は改革が進んだが、次第に資本家・ブルジョワ勢力は国際競争力の低下を恐れて不安を強めていった。ついにその意を受けた閣内の急進社会党閣僚が、金兌換を停止するとともに、フランの金平価を28%切り下げ、金の輸出禁止に踏み切った。そのため労働者の収入は低下し、今度は労働者の不満が高まった。このような経済政策での閣内不一致でブルム内閣が動揺していたところに、スペイン内戦支援問題が起こった。
スペイン共和国ではこの年1月にすでに人民戦線政府が成立していたが、同時に軍部の反乱が勃発、内戦が始まっていた。7月、モロッコからドイツとイタリアの軍事支援を受けたフランコ将軍が本土に侵攻してくると、共和国政府はイギリス、フランスなどに支援を要請した。ブルムと共産党はただちに支援を決定したが、スペインでの革命の波及とソ連の影響力の強まることに不安を抱く急進社会党や社会党右派が強く反対し、この問題でも閣内不一致に陥った。またイギリスも不干渉で同調するようフランスに要請したため、ブルムは結局スペイン支援をあきらめる。この二つの問題で立ち往生したブルム内閣は、37年6月総辞職、その後も形式的な人民戦線内閣のもとで混乱が続き、ブルムが復帰したが、それも38年4月に退陣し、人民戦線は終焉した。
●第二次世界大戦
ダラディエ内閣はヒトラードイツに対する宥和政策をとったが、その膨張を抑えることができず、1939年に第二次世界大戦が開始されるとドイツに国土の大半を占領され、ヴィシーに対独協力内閣が成立。国内のレジスタンスとともにド=ゴールの亡命政権が抵抗を指導、1944年8月にパリを解放した。
●宥和政策
ヒトラーは仏ソ相互援助条約をロカルノ条約違反であると非難し、ドイツの脱退を宣言した。スペイン内戦ではイギリス・フランスの不干渉政策を尻目にムッソリーニのイタリアとともに積極的にフランコ反乱軍を支援、ゲルニカ空爆などを含む直接介入を行い、共和国軍とそれを支援するソ連軍、国際義勇兵との間で、一種の世界戦争の「予行演習」を行い、1939年までにほぼ共和国を圧倒し、フランコ独裁政権の成立をもたらした。
自信を深めたヒトラーは次いでチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求、それを受けて38年に開催されたミュンヘン会談では、フランスの急進社会党ダラディエ内閣はイギリスのネヴィル=チェンバレンとともにヒトラーに対する宥和政策をとってズデーテン地方の割譲を承認、反ファシズムの旗印を取り下げた。しかし、ヒトラーの領土的野心を抑えることはできなかった。
●第二次世界大戦
1939年9月、ヒトラーがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が開始されると、ポーランドとの攻守同盟を結んでいたフランスはドイツに対して宣戦布告した。しかし、ヒトラーがポーランド軍を次々と撃破し、ワルシャワに迫るという情勢になったも、フランス軍はポーランドに支援軍を送ることもせず、西部戦線でドイツに攻勢をかけてポーランドを救うこともしなかった。この段階に至ってもなお、ヒトラーはポーランドを奪えば侵略をやめ、停戦に応じるであろうという甘い予測、宥和政策の継続があったのであろうが、このことはフランス国民にとっても「奇妙な戦争」、つまり宣戦布告したにもかかわらず戦争をしないという、状態であった。
しかしこの観測が誤りであったことはポーランドをソ連と分割し終えたヒトラーが、1940年に矛先を西部戦線に向けたことでただちに明らかになった。1940年5月、ドイツの侵攻が始まると、わずか1ヶ月でパリ陥落、6月22日に休戦協定を結んでフランスは降伏した。フランスは占領地区、併合地区、自由地区の三つに分割され、7月10日にペタンを国家主席とするヴィシー政府が成立した。ヴィシー政府は大統領制と議会を廃止し、ここに第三共和政は終りを告げた。
●ヴィシー政府とレジスタンス
ヴィシー政府はイギリスを除いて各国に承認されたが、ドイツに協力することによってフランスの存続を図ろうとした。ペタンは84歳の元帥で第一次世界大戦の英雄であったが保守以外にこれといった政治理念はなく、人民戦線に反対した人々やファシスト、反共主義者、カトリック教徒など雑多な集まりに過ぎなかった。政策も建前は国民革命を表明したが、カトリックの宗教教育を復活させるなど復古的なものにとどまった。それよりもまず「ユダヤ人狩り」を行うなどナチス=ドイツに迎合する面が強く、また占領区の男性はドイツの労働力の不足を補うものとして動員された。
占領と同時にフランス各地でナチスドイツに対するレジスタンス(抵抗運動)が始まり、自然に組織化されていった。最も組織的にレジスタンスを展開したのはフランス共産党で、ドイツ軍人などに対するテロや後方攪乱を盛んに行った。また国外に亡命した軍人の中でド=ゴールが自由フランス政府を1940年6月、ロンドンで組織、BBC放送を通じてフランス国内のレジスタンスを呼びかけた。1943年6月3日には「フランス国民解放委員会」が亡命政府として成立、レジスタンスを組織的に指導するとともに、戦後の枠組みの構築を開始した。
解放と臨時政府の成立
1944年6月6日、連合軍がノルマンディー上陸作戦を敢行、8月25日にパリが解放された。9月9日にド=ゴールがパリに帰還し、臨時政府首相として国家再建に当たることとなったが、まず対独協力者に対する裁判が行われ、ペタン以下が死刑判決を受けた。ペタンは後に無期禁固に減刑されたが、元外相のラヴァルらヴィシー政府幹部は処刑され、他に正規の裁判なしに約5000人が報復として殺害されたという。臨時政府は経済再建と憲法制定に取り組んだが、ド=ゴールは最大の勢力となった共産党と対立したため辞任した。1946年1月に新憲法が施行されて第四共和政が成立、第三共和政の政権不安定を反省して内閣の権限強化が図られたが、なおも小党分立が続いて不安定であった。
●戦後のフランスと第四共和政
第二次世界大戦でドイツが敗北し、フランスは解放される。総選挙を実施しド=ゴールを首相とする社共を含む連立政権が成立、1946年10月第四共和政が成立。しかし社共と対立したド=ゴールが辞職、その後政情不安が続く中、インドシナ、アルジェリアの植民地独立戦争が激化し、1958年にド=ゴールが首相復帰、憲法を改正して第五共和政となる。
1944年8月25日、パリはドイツ軍から解放され、ド=ゴール将軍が入城、臨時政府を組織した。翌46年総選挙が実施(フランスで始めて婦人参政権を行使)され、共産党、人民共和派(MRP、キリスト教系保守中道政党で反共を掲げる)、社会党が大きく議席を伸ばし、両党を含む連立内閣が成立しド=ゴールが首相となった。同年10月には憲法が改正され、第四共和政が発足した。
●第四共和政
第二次世界大戦後の1946年10月に成立したフランスの政体で、1958年まで続いた。第四共和制憲法のポイントは次のようにまとめられる。
*議会 立法権は第一院の国民議会のみが持ち、第二院の共和国評議会は諮問機関とされた。
*大統領 国民議会と共和国評議会の両院合同会議で選出され、任期7年であるが、その権限は第三共和政よりも小さく、対外的に国を代表するほか、実質的な権限は無かった。
*内閣 第三共和制下での政治の不安定を反省し、内閣の権限は強化され、総理大臣(首相)は大統領によって指名されるが議会の絶対過半数の信任が必要で、閣僚を任免する権限が認められた。
●不安定な政体
しかし、ド=ゴールは1947年1月、軍事予算をめぐって共産党と社会党が多数を占める議会と対立して辞任し、以後内閣は不安定な状態が続く。その後も、内閣は連立せざるを得ず、戦中のレジスタンスでの協力意識が薄れるにつれ、閣僚間の対立が始まり、常に不安定であった。そのため戦後復興の課題が一向に解決されず、国民の不満は高まっていった。
この間、1950年には外相のシューマンの提唱でヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が結成され、ヨーロッパの統合への動きではフランスは主導的な役割を担った。
しかし、内政での不安定に加え、フランス植民地の遺産であるインドシナとアルジェリアで、戦後の民族意識の高まりとともに独立運動が開始された。インドシナ戦争とアルジェリア戦争に対しては、国内の共産党、社会党などの独立容認の意見と、軍部や保守派など海外領土維持の主張がするどく対立し混乱が続いた。
●植民地の喪失
インドシナ戦争ではディエンビエンフーの戦いに敗れ、ジュネーヴ会議の結果、ジュネーヴ休戦協定を締結、ベトナム共和国の独立を承認し、フランス領インドシナ連邦は解体した。アルジェリアでは民族解放戦線(FLN)が1954年に武装蜂起し、アルジェリア戦争が始まり、第四共和政政府は独立承認に傾いたが、植民地の入植者と軍が反発、58年に本国政府に対して反乱を起こした。 → アルジェリア問題
●第五共和政とド=ゴールの時代
1958年、ド=ゴールは首相として第五共和制憲法を成立させ、自ら権限を強化した大統領に選出された。その後10年にわたって権力を握り、アメリカに追随しない独自外交と経済復興に成果をもたらした。しかし長期政権化は、社会のひずみを強くし、1968年に学生ら青年層の反発が強まり、翌69年に辞任に追い込まれた。
●ド=ゴールの再登場 第五共和政
このような内外の困難に対応できない第四共和政政府に対し、国民は議会の議論より強いリーダーシップを望むようになった。そのため、1958年に政権は崩壊、保守派の支持するド=ゴールが首相に復活、さらに大統領権限を強化した第五共和政憲法を制定して、第五共和政に移行した。
第五共和政の規定による大統領選挙でド=ゴールが大統領に当選すると、一転して保守派を抑えてアルジェリアの独立を承認して問題を解決し、国民の圧倒的な支持を背景に69年までド=ゴール時代が続く。
●ド=ゴールの外交
フランス経済はマーシャル=プランによって復興することが出来たが、ド=ゴール時代にはアメリカへの依存を脱却し、次第に独自色を強めていく。特に外交政策では、ド=ゴールはアメリカ及びイギリスに対抗して、独自のド=ゴール外交を展開し、「フランスの栄光」の再現を目指した。その姿勢は、核実験の強行・NATO軍事機構脱退・イギリスのヨーロッパ経済共同体(EEC)への加盟反対・中華人民共和国の承認などに明確に現れている。
五月危機
ド=ゴール政権はその後、10年あまり続いたが、初期の圧倒的な国民の支持も長期政権に対する批判が次第に出てきて、1968年の世界的な学生運動の盛り上がりの中でフランスでも起こった五月危機によってその権威が揺らぎ、翌年ついに辞任した。
●コアビタシオンと揺れるヨーロッパ統合
80〜90年代、左派のミッテラン、右派のシラク大統領の時代には、第五共和制憲法の規定の下、大統領と首相が異なる政党に属する保革共存という事態が続いた。ヨーロッパ統合についても反対派が台頭、黄信号が点っている。
面積 54.7万平方km  人口 6200万 首都パリ
フランス国旗として有名な三色旗はフランス革命の中で1794年にラファイエットが考案し、革命のシンボルとして用いられるようになった。国民公会が正式な国旗として定め、ナポレオン時代に定着した。王政復古期に一時使われなかったが、七月革命の時に国旗として復帰し、現在はフランス国旗と言えばこの三色旗を意味する。自由・平等・博愛を意味するというのは、こじつけ的なところがあるらしい。
●現代のフランス
第一次世界大戦、第二次世界大戦という二度にわたる隣国ドイツの侵略を受けながら、戦後は経済の復興に成功し、第四共和政(1946〜1958)を経て、現在は第五共和政(1958〜)という政体をとっている。戦後は、国際連合の安保理の常任理事国としてその主要メンバーとなり、冷戦下の米ソ二大勢力に対抗すべく、ヨーロッパ統合の先頭にたち、国際政治にも大きな発言力を有してきた。インドシナやアルジェリア、アフリカのフランス領など、かつては植民地大国であったが、いずれもその独立を抑えることはできず、1960年代前半までで独立を容認した。現在は、増大した移民を抱え、経済の停滞からは右派が台頭し、またヨーロッパ統合に対しても懐疑的な声が国内に強まり、大きく変容している。
●左派ミッテラン政権の登場
ド=ゴール退陣後の大統領選挙は、ド=ゴール主義を継承するか、脱却するかが問われることとなり、ポンピドゥー(1969〜74)はド=ゴール主義を継承し、ジスカールデスタン(1974〜81)は脱ド=ゴールをかかげた。しかしいずれも保守派政権であり、その経済政策は,ドイツや日本に後れをとって低迷したため、国民は変化を求めるようになったていった。そのような時期の1981年の大統領選挙では、フランス社会党を率いたミッテランが、それまで対立していたフランス共産党との協力関係を築くことに成功し、当選を果たした。これは、1948年の社会党・共産党・MRPによる三党内閣(ド=ゴール臨時政府)以来、33年ぶりの左派政権であった。
第五共和政第4代大統領となったミッテランは、公共投資の増加、国有化の推進による雇用の拡大、最低賃金の引き上げや社会保障の拡充による購買力の向上をめざすという、社会民主主義政策を実行した。これは、イギリスのサッチャーやアメリカのレーガンなどの新自由主義がとった「小さな政府」とまったく異なる対照的な政治として注目された。しかし、目先の景気の回復には結びつかず、1986年総選挙では社会党は敗北した。
●コアビタシオン
1986年の総選挙敗れても、大統領は議院内閣制ではないので、ミッテランは大統領にとどまった。しかし議会では多数派となった保守派から首相を選ばざるを得なくなり、シラクを指名した。こうしてフランス第五共和政憲法の規定により、大統領が左派、首相が右派という、保革共存の政体が成立、これをコアビタシオンといった。コアビタシオンの下では、ほぼ、外交は大統領、内政は首相という棲み分けを行い、バランスがとられることとなった。しかし、大統領と首相が基本的政治姿勢で対立することがしばしば起き、シラクも間もなく辞任した。ミッテランは個人的な人気が高く、大統領選挙で再び勝利して大統領を二期目も務めたが、首相はやはり保守派のバランデュールを指名せざるを得ず、コアビタシオンが続いた。ミッテランの長期政権が国民の支持を失い、1995年にシラクが大統領となったが、1997年には首相には社会党のジョスパンが指名され、コアビタシオンが続いた。
●サルコジ大統領
1995年から2期12年を務めたシラクに代わり、2007年にサルコジ大統領が大統領に選出された。サルコジはシラクの後継者として指名され、議会多数派の保守中道連合の支持を受けているが、2007年大統領選挙では社会党の女性候補との間で決選投票でようやく選出されるという辛勝であった。2005年秋の学生と外国人労働者の騒擾事件を厳しく弾圧したときの内務大臣で暴動を起こした若者を「社会のクズ」と呼んで非難されたが、かえってその強硬路線がフランスの栄光を望む保守層の人気を集めた。しかしサルコジ自身はハンガリー系の移民の子で、少年時代に両親が離婚、中学生の時は留年を経験するという屈辱からはい上がり、弁護士資格を取って政治家になった苦労人であったことから人気が高かった。
現在のフランスでは、2005年5月の国民投票で批准できなかったEU憲法条約の再批准問題とともに、依然として高い失業率と経済格差が続いており、増え続ける移民問題もかかえている。サルコジ大統領は従来のフランスのアメリカとは一線を画していた外交路線を親米路線に転換する傾向があり、また内政ではフランス伝統の平等主義をすて、新自由主義的な競争原理、市場原理の導入を強めた。2009年3月にはドゴール大統領の時のNATO脱退以来、43年ぶりにNATO軍事部門への完全復帰を表明した。
2012年4月の大統領選挙でサルコジは、社会党のオランドが決選投票の末に敗北し、フランスはミッテラン時代以来の革新政権に戻った。オランド政権は低人気が続いているが、2014年にはサルコジを大統領選挙の時の収賄容疑で逮捕し、人気挽回を図ったのではないかと注目されている。
●フランスの地域語の復活
かつてフランスは地域語が堂々と使われる多言語国家であったが、フランス革命で革命理念をフランス語で広めるため、1794年には「地域語・方言の抹殺」を目標に、フランス語言語教育が行われた。公立学校でフランス語教育が義務化され、19世紀末に初等教育が無償化され急速に普及し、学校で地域語を話すとお仕置きされるていた。第二次世界大戦の51年に政策の転換が図られ、地域語を学校で教えられるようになり、81年のミッテラン政権でその流れが進めれた。保守派の抵抗もあって92年の憲法改正では「共和国の言語はフランス語である」と明記された。しかしヨーロッパ統合のなかで、ヨーロッパの多言語主義がとられるようになって、フランスでも地域語の復権がはかられ、2008年7月の憲法改正で地域語は「フランスの遺産」と明記されることとなった。代表的な地域語にはアルザス語、オクシタン語(南部地域)、ブルトン語(ブルターニュ)、コルシカ語、バスク語などがある。<朝日新聞 2008年12月26日記事>

坪井賢一さん(2010年頃, 週刊ダイヤモンド)

May 23 [Tue], 2017, 0:30
シュンペーターからドラッカーへ 「イノベーション」と「創造的破壊」の精神
坪井賢一:ダイヤモンド社論説委員

●前半生と対照的だったケンブリッジでの静かな後半生
19世紀末のハプスブルク帝国から始まったシュンペーターの冒険旅行は、1932年9月、米国のケンブリッジ(ハーバード大学)で終着駅に到着した。亡くなったのは1950年1月8日だから、17年余りをハーバード大学で過ごしたことになる。
米国の後半生は、前半生ほど波乱万丈に富んでいたわけではない。よく知られているのは、大恐慌下の1936年にケインズが発表した『雇用、利子および貨幣の一般理論』(★注1)を契機にして、サミュエルソンらハーバードの弟子たちの多くがケインズ派に走ってしまったことだが、これは多くの評伝に書かれているエピソードである。
シュンペーターが独自の理論である「企業者のイノベーション」について、ボン大学でもハーバード大学でもまったく講義で話さなかったという(★注2)。したがって、弟子がシュンペーターの経済学を継承して理論を彫琢し、後任の教授として教える、ということもまったくなかったのである。
その代わり、シュンペーター・ゼミナールは新古典派の数理経済学者からケインズ経済学者、そしてマルクス経済学者まで、多彩な人材を輩出するインキュベーターとなる一方、欧米各地や日本からAクラスの学者が多数訪れ、滞在していた。
1933年にハーバード大学に入学してシュンペーターに師事し、1942年に帰国するまで学生、院生、講師として過ごした都留重人先生(1912−2006)の自伝から、当時のゼミ生や訪問経済学者を抜き書きしてみよう(★注3)。
◆学生・院生(のちの主たる勤務先、ジャンル)
・ポール・スウィージー(1910−2004)ハーバード大学准教授 マルクス経済学
・ポール・A・サミュエルソン(1915−2009)MIT教授 新古典派総合
・ジョン・K・ガルブレイス(1908−2006)ハーバード大学教授 制度学派
・リチャード・マスグレーヴ(1910−2007)ハーバード大学教授 公共選択
・エーブラハム・バーグソン(1914−2003)ハーバード大学講師 ソ連経済論
・ジェームズ・トービン(1918−2002)エール大学教授 マクロ経済学
・ロバート・ソロー(1924−)MIT教授 新古典派総合
◆訪問学者
・ 柴田敬(1902−1986)京都帝国大学助教授 数理経済学(★連載第63回参照)
・オスカー・ランゲ(1904−1965)ポーランド シカゴ大学教授 マルクス経済学
・アバ・ラーナー(1903−1982)マクロ経済学
・ニコラス・カルドア(1908−1986)英国 ケンブリッジ大学教授 マクロ経済学
・フリッツ・マハルーブ(1902−1983)プリンストン大学教授 理論経済学
・ オスカー・モルゲンシュテルン(1902−1976)プリンストン大学教授 ゲーム理論
他にもまだ多くのエコノミストの名前が登場する。同時期に同じ場所にいたのだから驚かざるをえない。
シュンペーターの経済学は数学モデルにしていないので、のちの教科書で紹介されることはなかった。教え子だったロバート・ソローに始まる内生的成長理論(endogenous growth theory)にシュンペーターの思想の影響はあるが、主に新古典派経済成長論の補強に使われることになった(★注4)。この点は後述する。

●経営者の指針「創造的破壊」を説いた書がベストセラーに
ハーバードでは人生の最後まで静かな教育者生活が続いた。第2次大戦時には、強い印象を持った日本、そしてルーツであるドイツを、交戦国にも関わらず擁護する発言があったそうだが、とくに大きな社会的影響を与えたわけではない。
ハーバード時代の年譜(★注5)を追いながら「最後の17年」をたどってみることにする。
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1932年9月 51歳。ハーバード大学経済学部教授に就任
1934年 シュンペーターら7教授がニューディール政策を批判
1936年2月 ケインズ『一般理論』を発表、シュンペーター、書評で批判
1937年8月 54歳。エリザベス・ブーディ・フィルスキ(Elizabeth Boody Firuski 39歳、経済学者 1898−1953)と3回目の結婚(ミア・シュテッケルとの事実婚を含めると4回目★注6)
1939年  『景気循環論』(★注7)を発表
難解にして複雑な文体だが、内容は『経済発展の理論』とほぼ同じだ。「企業者のイノベーションによる景気循環論」である。「新結合」が本書で「イノベーション」となり、洗練された。全体に長期・中期・短期の景気波動論の実証的解説である。
1940−1941年 計量経済学会会長
1942年 ベストセラー『資本主義・社会主義・民主主義』(★注8)発表
―――――――――――――――――――――――――――――――――
 『資本主義・社会主義・民主主義』はシュンペーター存命中、いちばん売れた著作である。最終章を要約すると、「資本主義はその成功のために衰退する」という結論だ。けっきょく社会主義に移行することになるので、今日から見るとまったくの的外れに思えるが、そんなことはない。大企業は官僚化のために企業家精神が失われ、イノベーションは消え、衰退する、ということだから、逆説的にも通用する。
現に1980年代の英国サッチャー首相はこのシュンペーターの考え方を取り入れ、英国経済を官僚化から民営化へ逆転させたのである。これを森嶋通夫先生は「反シュンペーター革命」と呼んでいる(森嶋道夫『サッチャー時代のイギリス』岩波新書、1988)。つまり、シュンペーターの結論にいたらないよう、逆に民営化を進めたわけだ。
また、リーマン・ショック(2008年)後の各国は社会主義的政策を相当取り入れている。日本を見よ。高校授業料無償化、子ども手当など、民主党の財政政策は十分に社会主義的である。米国でも医療保険改革が議会を通り、供給側の規制緩和から分配面の政策に重点を移している。金融規制の強化も始まった。
いちばん重要なのは、本書で「創造的破壊」という有名な言葉が登場したことだ。今日の経営者の指針となっているコンセプトである。シュンペーターは第2部「資本主義は生き延びうるか」の第7章「創造的破壊の過程」でこう書いている。
「内外の新市場の開拓および手工場の店舗や工場からU.S.スティールのごとき企業にいたる組織上の発展は、不断に古きものを破壊し新しきものを創造して、たえず内部から経済構造を革命化する産業上の突然変異――生物学用語を用いることが許されるとすれば――の同じ過程を例証する。この「創造的破壊」(Creative Deconstruction)の過程こそ資本主義についての本質的事実である。」
そして脚注でこのように補足している。
 「厳密にいえば、これらの革命は不断に行なわれるものではない。それらは、比較的平穏な期間の介在によって相互に分離された不連続的な突進として起こる。しかしつねに革命があるか、もしくは革命の結果の吸収がある――これら二つのものが一緒になっていわゆる景気循環を形成する――という意味では、全体としての過程は不断に動いているといえる。」
一方、「英雄的な企業者によるイノベーションの遂行が経済を起動する」という基本的なアイデアが本書で変化し、「大量に技術者を動員できる大企業がイノベーションで優位に立つ」と主張した。これはのちに「シュンペーター仮説」と呼ばれ、多くの経営学者が論じている。現在の結論は、「どちらともいえない」といったところだろう。これは本書『資本主義・社会主義・民主主義』の第8章「独占企業の行動」で論じられているが、一言で要約されているわけではない。

年譜は残り3年間。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
1948年 米国経済学会会長
知識人移民としてのシュンペーターはここで頂点に立った。
1949年  国際経済学連合会長
1950年1月8日 脳出血のため66歳で急死
―――――――――――――――――――――――――――――――――
死去後、残された原稿、草稿をエリザベス夫人が編集、整理、注釈を付けて発表したのが『経済分析の歴史』(★注9)である。夫人は編集後にガンのため死去(1953年)、出版は翌1954年となった。
本書は経済思想史の大作である。索引は辞典のように使え、およそ考えられるすべての経済思想が包摂、解説されていて、シュンペーターの圧倒的な教養と読書量に驚愕する。物語の最初はギリシャ、ローマ時代だ。西欧経済に関係すると思われる思想をシュンペーターの眼で古代から描いたものである。
シュンペーターによる注釈、夫人による注釈が多く付されており、これがまた面白い。筆者は本書を百科辞典のように索引をたどりながら読んでいる。東畑精一による旧訳をベースに、福岡正夫先生が新たに翻訳した。非常に読みやすく仕上がっている。

●シュンペーターの自説は経済学の世界で消滅した?
何度も書いてきたが、シュンペーターは自説についてモデル化できていないので、その後の理論経済学への影響はほとんどない。
現在、米国の大学で採用されている初学者向けに書かれた理論経済学の教科書をざっと読むと、ほとんどシュンペーターは登場しない。もちろん、経済思想史や経済学史には登場するし、古い教科書、たとえばサミュエルソンの教科書にはかなり出てくるのだが、現行の「マクロ経済学」「ミクロ経済学」の教科書にはほとんど記述がない。
しかし、例外は3点ほどある。
第1の例外は、ハイルブローナー、サロー、ガルブレイス『現代経済学』(上下、TBSブリタニカ、1990 ★注10)。本書の第3編第24章「長期成長の見通し」に以下の記述がある。
 「資本家が、ある時期に多額の投資を敢行し、別の時期にそうしないのはなぜであろうか。そのひとつの説明は、活動と停滞の基本的な原因を、技術に求めるものである。ジョセフ・シュンペーター(1883−1950)のような経済学者は、長期的な好況の推進力を、技術上の躍進に求めた。これは、利潤拡大のための新しい地平を創り出す。」
シュンペーターは技術上の躍進だけをイノベーションとしているわけではないが、この見方が一般的なのだろう。なお、著者の1人、ジェームズ・K・ガルブレイスは、あのジョン・K・ガルブレイスの次男である。
第2の例外。ジョセフ・E・スティグリッツ『スティグリッツ マクロ経済学』(1995、東洋経済新報社 ★注11)。原著は1993年に出版されており、当時の話題は旧ソ連・東欧諸国の資本主義への移行だったため、この有名な教科書の第1版第16章「経済体制」に、スティグリッツはこう書いている。
 「ハーバード大学の偉大な経済学者、ジョセフ・シュンペーターは、資本主義の本質を旧式の仕事と企業が排除され、新しい改良された仕事と企業が創造されていくという『創造的破壊』の不断の努力の過程である、と述べた。この創造的破壊を受け入れようとする一般的な意欲が社会になければならないのである」。はたして旧社会主義諸国にあるのだろうか、という文脈だ。
また、教科書ではないが、スティグリッツは最新の論考『フリーフォール』(徳間書店、2010★注12)ではシュンペーターを持ち出し、新古典派経済学に対するアンチテーゼとして第9章「経済学を改革せよ」で次のように書いている。
 「シュンペーターが重きを置いたのは、イノベーションをめぐる競争だ。各市場では一時的に独占者が支配権を握るが、イノベーションを導入した別の主体がすぐに取って代わり、新たな独占者になる。市場の内部で競争があるのではなく、市場を手に入れようとする競争があるのであり、この競争はイノベーションを手段として繰り広げられた。」
これは動態的なシュンペーターの資本主義観だが、続けて経済学への影響を述べる。
 「シュンペーターの分析には少なからず真実がふくまれていた。シュンペーターがイノベーションに重きを置いたことは、広く使われている経済理論(ワルラス一般均衡理論で、イノベーションを無視した)に大きな改善をもたらした。」
スティグリッツの言う「大きな改善」が「内生的成長理論」であろう。新古典派の一般均衡モデルはイノベーションを無視する。常識的に考えてイノベーションは経済成長のカギを握っているわけだが、一般均衡論では、イノベーションはあくまでも外生的な衝撃である。1990年代にポール・ローマー(1955− スタンフォード大学教授)がイノベーションを経済の内生的な動きとしてとらえ、モデル化してみせた。これを「シュンペーター型成長モデル」(C.I.ジョーンズ★注4参照)ともいう。
第3の例外。ポール・クルーグマン、ロビン・ウェルズ『クルーグマン マクロ経済学』(東洋経済新報社、2009 ★注13)。現在もっとも有名な経済学者であるクルーグマンによる初学者向けの教科書である。クルーグマンは第IV部「事件とアイデア」第17章「現代マクロ経済学の形成」でこう書いている。
 「技術革新の重要性を先見した学者として有名なハーバード大学のジョセフ・シュンペーターは、1934年に、拡張的な金融政策によって大恐慌を押さえつけようとする試みは、結局のところそれが救済すべき不況よりももっとひどい経済破綻をもたらすことになると警告した。」
これは大恐慌に対するニューディール政策への批判としてハーバード大学の7人の経済学者(七賢人)が1934年に連名で発表した「復興綱領の経済学」のことで、要するに「政府は余計なことをするな」ということだ。シュンペーターは「不況は必然で、イノベーションが模倣を呼び、超過利潤がなくなって不況にいたる調整過程にすぎない」と考えていた。
クルーグマンは、偉大な経済学者であっても当時の知見では誤ることがある、しかしこのような「事件」が経済学者の「アイデア」を育み、マクロ経済学が発展していった、という文脈の導入部として書き、ケインズ『一般理論』へと論旨を展開させていく。
このように、理論経済学の教科書で例外的に登場するものの、本筋ではなく、少し触れられている程度だ。
シュンペーターの理論は経済学から経営学へ
では、シュンペーターの経済学はアカデミックな世界で消失していったのだろうか。いや、そうではない。第2次大戦後に発達した経営学への影響は非常に大きいのである。没後、シュンペーターの思想は経済学から経営学へ主たる舞台を移したのである。世界の経営者が「イノベーション」と「創造的破壊」を指針としているのは、経営学の発達が背景にあるといえよう。
たとえばピーター・F・ドラッカー(1909−2005)である。ドラッカーもシュンペーターと同じように、ハプスブルク帝国の首都ウィーンで育った。帝国政府の高級官僚の家庭に生まれ、ドイツの大学を経て米国へ移住した「知識人移民」の1人である。父親はシュンペーターと面識があったという。
清成忠男先生によると、シュンペーターの「企業家によるイノベーション論」をフックにして書かれた経営学の論考には、ドラッカーの登場までに以下のものがある(★注14)。
・D.J.Storey, Entrepreneurship and the new firm, Croom Helm, London, 1982
・Joshua Ronen, Entrepreneurship, Lexinton Books, Mass.1982
・Jules Backman, Entrepreneurship and Outlook for America, Collier Macmillan, New York, 1983
・Aaron David Silver, The entrepreneurial life : how to go for it and get it,Wiley, New York, 1983
・Peter F. Drucker, Innovation and Entrepreneurship,1985 (邦訳 P.F.ドラッカー『イノベーションと企業家精神』上田惇生訳、ダイヤモンド社、2007)
1980年代前半に集中しているが、ドラッカーは Management:tasks,responsibilities, practices, Harper & Row,1974 (邦訳『マネジメント』上田惇生訳、ダイヤモンド社、2008)の「第61章イノベーションのマネジメント」(邦訳書の構成による)で先行して論じているので、遅くとも1970年代前半には書いていたわけだ。
 『イノベーションと企業家精神』でドラッカーは、『マネジメント』で指摘したイノベーションの管理法をわかりやすく具体化し、より経営者の実践に資するように整理している。まず、第1章でシュンペーターの命題を紹介する。すなわち、「彼(シュンペーター)は、最適配分や均衡よりも、企業家によるイノベーションがもたらす動的な不均衡こそ経済の正常な姿であり、経済理論と経済行動の中心に位置づけるべき現実であるとした」と要約する。
シュンペーターはイノベーションを5つに分類し、技術革新だけではなく、販路の拡大、物資の調達、組織改革まで含めた概念であることを主張しているのだが、ドラッカーはシュンペーターを受けて、イノベーションの体系を知ることが必要だとする。すなわち「変化に関わる方法論、企業家的な機会を提供してくれる典型的な変化を体系的に調べるための方法論である」とする。
そして、「イノベーションの七つの機会」を論ずる。『イノベーションと企業家精神』は七つの機会を全面的に展開した面白い本なので、ぜひお読みいただきたい。ここでは七つの機会の項目と、ドラッカーの提案を1つずつ紹介しよう。
◆◆第一の機会 予期せぬ成功と失敗を利用する
 外部の予期せぬ変化といえども、自らの事業の性格を変えてはならない。多角化ではなく展開でなければならない。
◆◆第二の機会 ギャップを探す
 四つに分類する。(1)業績ギャップ (2)認識ギャップ (3)価値観ギャップ (4)プロセス・ギャップ
◆◆第三の機会 ニーズを見つける
 (1)プロセス上のニーズ (2)労働力上のニーズ (3)知識上のニーズ
◆◆第四の機会 産業構造の変化を知る
 変化以前の市場へのアプローチや組織や見方が正しいものでありつづけることはほとんどない。
◆◆第五の機会 人口構造の変化に着目する
 予測は容易であり、リードタイムまで明らかである。
◆◆第六の機会 認識の変化をとらえる
 見極めは困難。小規模かつ具体的に着手するべき」
◆◆第七の機会 新しい知識を活用する
 リスクが最も大きいため、マネジメントが重要になる
これらを実行するのが企業家(企業者)だが、シュンペーターは『経済発展の理論』で企業家が管理者に堕すると資本主義は滅亡すると説き、英雄的で超人的な企業家像を描いている。ケインズは根拠のない動物的な精神(アニマル・スピリット)を重視した。まったく相容れない二人の大学者だが、この点については少し似ている(★注15)。
さて、ドラッカーは「イノベーション 第七の機会 新しい知識の活用」と書いたが、全体を通して最も重要なのは「知識」だとした。生産要素の土地、資本、労働力ではなく、知識だ。ドラッカーは『ポスト資本主義社会』(★注16)で、「知識は企業の最も大事な生産資源であり、知識労働の生産性が重要」とした。生産要素に「知識」が加わり、ポスト工業化社会は「知識社会」だと予言し、そのとおりになったのである。
ドラッカーの『イノベーションと企業家精神』以降は、主に日米の経営学者によるイノベーション論が大量に出版され、経営管理技術がビジネススクールで発達した。理論経済学では痕跡をほとんど残していないシュンペーターだが、経営学ではドラッカーなどを経由して実に巨大な影響を与えたのである。 エリザベス・ブーディ・シュンペーター夫人が亡くなったのは1953年だが、夫人は遺言でシュンペーターの蔵書の一部を一橋大学に寄贈した。1955年に寄贈式が行なわれ、書籍1353、雑誌2835、小冊子1513、計5701点が一橋大学附属図書館に収蔵されている。1961年に3500点の書誌を掲載した目録が作成され、現在は同図書館のウェブで公開されている(★注17)。
一方、エリザベス夫人は『資本主義・社会主義・民主主義』の生原稿1128枚、タイプ原稿772枚、他に講義メモ373枚を東畑精一に贈っている。これらの貴重な資料は三重県立図書館に所蔵され、「東畑精一関係資料目録」(★注18)に記載されている。
(終わり)
注1:J.M.ケインズ『雇用、利子および貨幣の一般理論』上下巻、間宮陽介訳、岩波文庫、2008)
原著 J.M.Keynes,General theory of employment, interest and money,1936
注2:都留重人『近代経済学の群像』(現代教養文庫、1993)による
注3:都留重人『いくつもの岐路を回顧して』(岩波書店、2001)による
注4:チャールズ・I・ジョーンズ『経済成長理論入門――新古典派から内生的成長理論へ』(香西泰監訳、日本経済新聞社、1999) 内生的成長理論については本書を参照した。
注5:年譜は以下の文献、ウェブを参照した。
・ 根井雅弘『シュンペーター』(講談社学術文庫、2006)
・ 「別冊経済セミナー シュンペーター再発見」(日本評論社、1983)
・ 一橋大学附属図書館のウェブhttp://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/amjas/jasnenpu.html
注6:エリザベス・ブーディはスウェーデン出身の両親のもと、1898年にマサチューセッツ州ローレンスで生まれた。ラドクリフ大学(ハーバード大学の女子大部門)で経済学を学び、1920年に卒業。いったん就職後、大学院へ。18世紀英国経済史を専攻し、ハーバード経済協会で働く。その後、全米経済調査局とスタンフォード食糧調査研究所で貿易統計を研究。1926年から1927年、英国へ留学し公文書館と大英博物館で英国貿易統計の研究に従事した。帰国後はヴァッサー女子大学准教授資格を得た。同時にモーリス・フィルスキと結婚(まもなく離婚)。1934年に博士号を取得し、気鋭の経済史家として活躍を始める。1930年代後半には日本の産業構造の研究を始めた。これはハーバード大学国際調査局の委嘱によるもので、国策だったのだろう。研究のために日本語も学んでいる。このころ、シュンペーターに出会う。エリザベスはシュンペーターの非公式、あるいは特別ゼミナールに参加していた。1937年、二人でニューヨークへ行き、コミュニティ・チャーチで結婚した。1950年1月のシュンペーター急死後、エリザベスは二つの大きな課題があったという。第一に、シュンペーターの『経済分析の歴史』を編集して刊行すること。第二に、自分自身の研究である英国貿易統計史をまとめることであった。第一の課題については、1952年に編集を終えたが1953年に急死、刊行は1954年になった。第二の課題は残されたが、1960年に刊行されている。
エリザベス・ブーディ・シュンペーターの著書は以下のとおり。
・ Elizabeth Boody Schumpeter, The Industrialization of Japan and Manchukuo 1930−1940, The Macmillan Company, 1940
・ E.シュムペーター編著『日満産業構造論』(雪山慶正、三浦正訳、慶應書房、1942)前掲書の邦訳(第一部)
・ E.シュムペーター編著『日満産業構造論 第二巻』(雪山慶正、三浦正訳、栗田書店、1943)前掲書の後半邦訳
・ Elizabeth Boody Schumpeter, English Overseas Trade Statistics 1697−1808, Oxford 1960 本書はエリザベス・ブーディ・シュンペーター没後に英国で出版されたもの(邦訳はない)。なお、上記のエリザベスの略歴は、本書に収録された評伝を参照した(Elizabeth Waterman Gilboy, Elizabeth Boody Schumpeter 1898−1953)注7:シュムペーター『景気循環論 : 資本主義過程の理論的・歴史的・統計的分析』(全5巻、金融経済研究所訳、有斐閣、1958−1964)
原著 J.A.Schumpeter,Business cycles : a theoretical, historical, and statistical analysis of the capitalist process, McGraw Hill,1939
本書の詳しい分析については、吉川洋『いまこそ、ケインズとシュンペーターに学べ』(ダイヤモンド社、2009)を参照
注8:シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』(中山伊知郎、東畑精一訳、東洋経済新報社、1995)
原著 J.A.Schumpeter, Capitalism, socialism and democracy, Harper & Brothers, 1942
注9:シュンペーター『経済分析の歴史』(全3巻、東畑精一、福岡正夫訳、岩波書店、2005−2006年)
原著 J.A.Schumpeter, History of economic analysis, edited from manuscript by Elizabeth Boody Schumpeter, Allen & Unwin, 1954
注10:R.ハイルブローナー、L.サロー、J.K.ガルブレイス『現代経済学』(中村達也訳、上下、TBSブリタニカ、1990 
原著 R.Heilbroner, L.Thurow, James K.Galbraith, The Economic Problem, 1985,1987 訳書はハイルブローナー、サローによる第7版と、ハイルブローナー、ガルブレイスによる第8版を合わせて訳出したもの。現在は絶版。後継として、ジェームズ・K・ガルブレイス、W.A.ダリティJr『現代マクロ経済学』(塚原康博、太田耕史郎ほか訳、阪急コミュニケーションズ、1998)がある。
注11:ジョセフ・E・スティグリッツ『スティグリッツ マクロ経済学』(藪下史郎、秋山太郎ほか訳、東洋経済新報社、1995)
原著 Joseph.E.Stiglitz, Ecomics, 1993 
注12:ジョセフ・E・スティグリッツ『フリーフォール』(楡井浩一、峯村利哉訳、徳間書店、2010)
原著 Joseph.E.Stiglitz,Free Fall, 2010
注13:ポール・クルーグマン、ロビン・ウェルズ『クルーグマン マクロ経済学』(大出道広、石崎孝次ほか訳、東洋経済新報社、2009)
原書 Paul Krugman, Robin Wells, Economics, 2006
注14:J.A.シュンペーター『企業家とは何か』(清成忠男編訳、東洋経済新報社、1998)「編訳者解説」による。
注15:ローレンス・クライン(1920−)は、ケインズとシュンペーターの景気理論は、実は似ているとして次のように書いている。「事実シュンペーターの企業新機軸(イノベーション)の理論は、ケインズによって資本主義的変動の起動力として無条件に受けいれられた。」そして脚注で続ける。「シュンペーター教授は自分の見解が100パーセント非(反?)ケインズ的なものだと信じこませようとするだろうが、両者の景気理論のあいだには大きな相似性があることを、彼は認めねばなるまい。」(R.L.クライン『ケインズ革命(新版)』篠原三代平、宮沢憲一訳、有斐閣、1965)
注16:P.F.ドラッカー『ポスト資本主義社会』(上田惇生訳、ダイヤモンド社、2007)
原著 P.F.Drucker, Post-Capitalist Society, 1993
注17:一橋大学附属図書館
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/bunko/schum.htm
注18:三重県立図書館http://www.milai.pref.mie.jp/mie-lib/data/list/touhata/tokubetu/Schumpeter.html
<今回をもって、当連載『めちゃくちゃわかるよ経済学 シュンペーターの冒険編 』は終了となります。2年半にわたり、ご愛読いただきありがとうございました>

170522-米国に必要なのは増税だ

May 22 [Mon], 2017, 12:00
米国に必要なのは増税だ
グローバル・ビジネス・コラムニスト ラナ・フォルーハー
米国人は税金について文句を言う。だが、米ブルッキングス研究所のバネッサ・ウィリアムソン氏が新著「リード・マイ・リップス 米国人が税金を払うことを誇りに思う理由」で指摘しているように、自分自身が払う税金に不満な人は全体の8%だけだ。一方、67%の人は金持ちや貧しい人、企業など、ほかの人が本来負担すべき税金を払っていないと感じている。
各国の富裕層の税逃れを暴露した昨年の「パナマ文書」や、トランプ米大統領が自身の納税申告書を公開したがらないのを見て、一般の人が税制は不透明で、公平でないと感じるのは当然だ。こうした認識は、米国人の「下位47%」(ロムニー元マサチューセッツ州知事が2012年の大統領選挙で、連邦所得税を払うだけの稼ぎがない貧しい米国人がこんなにいるとして批判した際に出した数字)や、英領ケイマン諸島に資産を隠す上位1%の人々に対して抱く敵意とも関係している。
だが重要な点は、ウィリアムソン氏の研究が示しているように、米国人は税金を払うのをいとわないことだ。彼らは納税は義務で、納税することで「ほかの市民から敬意を得る権利が生じる」と考えている。だが、税制が公平でないことや非効率なことには懸念を抱いている。
この見方は正しい。米議会は18日、税制改革を巡る議論を開始した。この議論は、しばらく続くだろう。共和党も民主党も税制の抜本的見直しが必要だと考えている。だが残念ながら、トランプ政権と共和党議員は相変わらず昔ながらの解決策を提案している。富裕層と企業の減税を進めるというのだ。
増税をしたクリントン大統領(写真左)時代に経済は大きく拡大したが、減税をしたブッシュ(同中)政権とオバマ政権では成長率が高まらなかった=いずれもロイター
彼らは、過去20年間、それが事実だった証拠がないにもかかわらず、富裕層と企業の減税をすれば上から下へ経済効果が徐々に浸透する「トリクルダウン」が魔法のように起きて、成長率全体を押し上げると主張する。だがジョージ・W・ブッシュ政権が01年と03年に実施した減税は成長を促さなかったし、オバマ政権時代の減税も起爆剤にはならなかった。
実際、最近の記憶に残る限り、最大の成長拡大が起きたのは、税率を引き上げた1990年代のビル・クリントン政権時代だ。
富裕層と企業の減税を進めれば、潜在的な経済成長力をテコ入れすることになるとの考え方は、なかなか消え去らない。もっと累進的課税が必要だとするリベラル派でさえ、この虚構にはまりがちだ。
例えば民主党のビル・パスクレル下院議員(ニュージャージー州選出)は先日、こう発言した。「私は経済をけん引するエンジン役の高所得者を対象にした減税改革には賛成票は投じない。エンジンに引っ張られる列車の後の車両や最後部にいる人たちを大事にしたい」
過去数十年間の歴史が何か教えてくれたとすれば、それは、金持ちがますます豊かになっても、経済全体としての成長率の上昇にはつながらないということだ。50年代の個人の最高所得税率は90%で、法人税率は50%を超えていた。現在の法人税率は約35%(大半の企業が実際に負担する税率は、それよりはるかに低い)で、個人の所得税率は39.6%だ。だが、1人当たりの実質国内総生産(GDP)の伸びは、当時のおよそ半分のペースにとどまっている。一部の経済学者や政策立案者たちがもっと急進的な考え方を検討し始めたのは、このためだ。つまり、高い税率は経済にとって悪くないどころか、実は好ましい可能性さえある、という考えだ。
国際通貨基金(IMF)が最新の世界経済見通しで指摘したように、大きな所得格差と格差が引き起こすポピュリズム(大衆迎合主義)が今、経済成長への重大な脅威となっている。税率をこの数十年間、引き下げてきたことが格差拡大をもたらしたことはほぼ疑いない。米国や英国など、最高税率の引き下げ幅が最も大きかった国々では、格差の拡大も最も著しかった。
興味深いのは、最高税率の引き下げが投資を増大させたとするトリクルダウン説の主要部分を構成する証拠がないことだ。米ルーズベルト・インスティテュートの分析が指摘しているように、米企業が収入の中から投資に回せる資金と借入金をどれくらい投資に回しているかといえば、60年代の4分の1にすぎない。税率が当時あれほど高かったことを考えると、税率がもっと下がれば企業は米国内での投資を増やすという米経営者団体ビジネス・ラウンドテーブルや米商工会議所などの主張は、ばかげているように思える。
米企業は、外国で保有している現金の本国還流にかかる税率が引き下げられたら、その浮いたお金を自社株買いに回す公算が大きい。2003年の配当課税の軽減も投資の拡大はもたらさなかったが、04年に実施された海外収益の本国還流に対する課税免除措置は自社株買いを21.5%増加させた。こうした動きは、市場を実体経済から乖離(かいり)させ、株式市場が暴落する潜在的リスクを高める危険がある。これは米財務省内の研究員たちが、かねて懸念している事態だ。
また、経済学者のエマニュエル・サエズ、トマ・ピケティ両氏の研究によると、これは経営幹部たちの報酬拡大につながり、中でも高額所得者が通常よりもさらなる報酬アップを要求することにつながるという。両氏が、裕福な個人には大幅な税率の引き上げを実施すべきだと主張しているのはこのためだ。
富裕層にどれだけの最適税率を適用できるかという古典的な経済分析(金持ちの働く動機をそがない範囲で、どれほど税率を高められるかという理論)を用いても、現状より大幅に高い約57%という最高税率がはじき出される。ピケティ、サエズ両氏は、税率が低いときに経営幹部たちがレントシーキング(立場を利用して利益を得ること)を追求する傾向や、税率が高いときに課税率の低い資産に回す富を増やさない傾向など、さらに多くの要素を計算した結果、最高税率は83%まで上げられるとはじき出している。
豊かな米国人や企業がそんな高い水準の税金を払うべきだとは誰も言っていない。だが、減税すれば成長率を押し上げることになるとか、トランプ氏が言ったように税金を払うなどばかばかしいことだと考えるのは間違っている。ウィリアムソン氏が指摘しているように、納税は社会をまとめている数少ない要素の一つであることを忘れてはならない。

The case for higher US taxes

/The biggest growth surge in recent memory happened against a backdrop of rising tax rates/
Rana Foroohar
Americans grouse about taxes. But only 8 per cent of them are bothered by what they themselves pay; 67 per cent feel that someone else — the rich, the poor, corporations — is not paying their fair share, as Vanessa Williamson notes in Read My Lips: Why Americans Are Proud to Pay Taxes. That perception of opacity and unfairness, exemplified by the Panama Papers or the reluctance of President Donald Trump to release his own records, is associated either with hostility against the lower “47 per cent” of the population (Mitt Romney’s criticism in 2012 of poor Americans who do not earn enough to pay income tax) or members of the 1 per cent sheltering money in the Cayman Islands. The key point is that Americans do not mind paying taxes; as Ms Williamson’s research shows, they view it as a civic duty that entitles them to “respect from other citizens”. But they do worry the system is not fair or efficient. They are right. A few days ago, Congress began a debate over tax reform that is likely to last some time. Both Republicans and Democrats believe the system needs an overhaul. But unfortunately, the Trump administration and the Republicans in Congress are proposing the same old solution: tax cuts for the wealthy and for companies. The argument is that trickle-down economics will somehow magically start working to bolster growth, even though there is no evidence over the past 20 years that this has been the case. Tax cuts in 2001 and 2003 during George W Bush’s administration did not juice growth, nor did any Obama era cuts. In fact, the biggest growth surge in recent memory happened during the Bill Clinton years in the 1990s, against a backdrop of rising tax rates. The notion that cutting taxes on rich individuals and companies is the way to bolster underlying economic growth dies hard. Even liberals who favour a more progressive system inadvertently tap into that mythology. “I will not vote for tax reform targeting people who are the engine,” said Bill Pascrell, a New Jersey Democrat, last week. “I want to take care of people who are in the back cars and in the caboose. ”If the past few decades have shown us anything, it is that, as the rich have got richer, they have not created higher trend growth for the economy overall. In the 1950s, the top marginal tax rate for individuals was 90 per cent and the corporate rate was over 50 per cent. Today, the corporate rate is roughly 35 per cent (most companies pay far less) and the individual rate 39.6 per cent. Yet real per capita gross domestic product is growing about half as fast. That is why some economists and policymakers are beginning to consider a radical idea: not only are higher taxes not bad for the economy, they may even be good for it. As the most recent International Monetary Fund Global Economic Outlook pointed out, high income inequality and the populism it breeds is the key threat to economic growth. There is little doubt that falling tax rates over recent decades have fuelled the wealth gap; countries such as the US and UK that had the largest reductions in top tax rates also showed the biggest increases in inequality. What is interesting is the lack of evidence that lowering those rates raised investment, the key part of the trickle-down mythology. As a Roosevelt Institute analysis points out, business in the US is investing marginal earnings and borrowed funds at 25 per cent the rate of the 1960s. When you consider that tax rates were so much higher then, arguments from groups such as the Business Roundtable or the US Chamber of Commerce that companies would invest more in the US if tax rates were lower seem nonsensical. It is likely that companies would put any extra money from a lower rate on repatriation of foreign cash into share buybacks. The 2003 dividend tax did not increase investment, but the 2004 repatriation holiday bolstered buybacks 21.5 per cent. That has the effect of disconnecting the markets from the real economy and potentially heightening the risk of a market crash, something that researchers within the US Treasury department have worried about for some time. It also jacks up the pay of executives, leading top earners to push for more salary than they ordinarily would, according to research by economists Emmanuel Saez and Thomas Piketty. That is part of their argument for a much higher tax rate on rich individuals. Even using a classical economic analysis of the optimal tax rates for the rich (based on how high taxes could be without removing the incentive for the rich to work more), you would come up with a top rate of about 57 per cent, much higher than today’s level. Messrs Piketty and Saez tally up more inputs, like the propensity of executives to rent-seek when taxes are low and when they are high executives do not shift more of their wealth into lower taxed capital assets, and they come up with a higher optimal rate of 83 per cent. Nobody is suggesting that rich Americans or companies should pay that level of tax. But it is wrong to believe that cutting taxes bolsters growth and that paying them, what ever Mr Trump might say, is stupid. As Ms Williamson points out, it is one of the few things that holds society together.

毒と薬/VX Gas/パラケルスス氏のこと

April 09 [Sun], 2017, 0:00
4/9
毒と薬 表裏一体
希少な生物も研究対象に
人と毒の関わりは古く、歴史以前の時代から矢に毒を塗って狩猟に利用するなどしてきた。毒殺などに悪用されてきた一方で、上手にコントロールして使えば病気を治療する薬にもなる。表裏一体といえる薬と毒を、人は目的に応じて使い分けてきた。
2月に北朝鮮の金正男(キム・ジョンナム)氏がマレーシアで殺害された事件。使われたのは毒ガスのVXだったが、毒ガスから生まれた薬がある。世界初の抗がん剤「ナイトロジェンマスタード」(Nitrogen mustard)だ。
薬のもととなったのはイペリット(Yperite)の名前でも知られるマスタードガス。この毒ガスが、第2次世界大戦中に攻撃を受けた米国の貨物船から流出した事件が抗がん剤誕生のきっかけだ。事件の被害者に白血球が減るなどの症状が見つかったことから、毒ガスの成分を改良して抗がん剤として使われるようになった。DNA合成を妨げて、がん細胞が増殖できなくする働きがある。
実は毒として知られる物質が、薬になっている例は多い。毒草として知られるトリカブト(aconite/monkshood/wolfsbane)の根は、漢方薬の成分として強心剤(cardiotonic drug)などに利用される。16世紀に欧州で活躍した医師・化学者のパラケルスス(Paracelsus 1493-1541)は、毒として使われていた水銀などの金属化合物を初めて治療に使用。近代的な医化学の祖とされる。
日本薬科大学の船山信次教授は「毒も薬も人体に作用する点は同じ。作用を人間に役立つよう、うまく使いこなせるものが薬になる」と話す。
逆に薬として期待されながら毒として知られることになったのが麻薬のヘロインだ。19世紀末にせき止め薬として発売され、鎮痛剤としても高い効果が期待された。しかし依存性が高く禁断症状も激しいことが分かり、薬としては使われなくなった。使いすぎると呼吸困難などの症状を起こし、死に至ることもある。
VXは人間が化学合成した物質の中では最も毒性が高いものの一つだが、自然界の毒にはより強力なものもある。最も強力な毒とされるのは食中毒の原因になるボツリヌス菌が作るボツリヌストキシンだ。VXの5万倍ほど強力で、ごくわずかな量で人を殺すことができる。植物のトウゴマに含まれるリシンも、VXの150倍程度強力だ。
毒物として知名度が高い青酸カリ(potassium cyanide)やヒ素の化合物(arsenic compound)は、毒性という点では意外と低い。青酸カリはVXやフグ毒の600分の1程度、ヒ素も1000分の1程度にとどまる。
ただヒ素の化合物は、無色かつ無味無臭で暗殺に使いやすい。欧州で銀の食器が利用されたのは、銀がヒ素化合物に含まれる成分と化合して変色するので、毒が盛られていないかどうかを確かめるのに役立ったからだといわれる。
毒は口からの飲食やガスの吸入、注射など、どのような経路で体内に入ったかで効き目が大きく違うことが多い。VXやフグ毒などのように神経に働く毒、一酸化炭素や一部のヘビ毒のように血液の成分に影響する毒など種類により、毒が働く場所が異なるためだ。神経毒が体内に入っても毒が働きかける神経に届かなければ大きな害は出ない。
古くから矢に塗る毒として使われたクラーレは、筋肉への注射では大きな効果を発揮するが、食べても毒性を示さない。狩猟で獲物を仕留める際には毒として役立つが、仕留めた後の獲物は毒の心配をすることなく食べられる。毒の特性をうまく使った例だ。
同じ物質でも人には毒にならないが、他の生物には強力な毒性を示すものもある。この性質を生かしたのが、感染症など幅広い病気の治療に使われる抗生物質だ。抗生物質には、病原菌の細胞壁を破壊する強力な毒として働き、殺してしまうタイプなどがある。人の細胞には微生物のような細胞壁はないので、病原菌だけを殺すことができる。
人への毒性の高い物質が嗜好品として好まれる例もある。酒のアルコールやたばこのニコチン、コーヒーや茶のカフェインなどだ。ニコチンを直接食べたときの致死量は青酸カリより少ない可能性がある。船山教授は「人は毒が好きなのだと思う」と話す。
毒から新薬を探す研究は今も続く。北将樹名古屋大学教授は珍しい動物の持つ毒の研究に取り組む。「植物や微生物などの毒の研究はやりつくされている」と、希少な生物資源に注目した理由を説明する。カモノハシが持つ神経にまひを起こす毒などが鎮痛剤開発につながると期待する。
人は歴史の中で毒を良い面でも悪い面でも用いてきた。毒の特性を理解し、いかに正しく役立てていくか。今後も知恵が試される。(小玉祥司)

◆マスタードガス(Mustard gas)は、化学兵器のひとつ。2,2'-硫化ジクロロジエチル(2,2'-Dichloro Diethyl Sulfide)という化合物を主成分とする。
第一次世界大戦のイープル戦線で初めて使われたため、イペリット(Yperite)とも呼ばれる。
抗がん剤の起源が化学兵器イペリットである事は、厳然たる事実です。
イペリットとは
糜爛(びらん)性の毒ガスの硫化ジクロロエチルのこと。 第一次大戦でドイツ軍がベルギーのイーペルで初めて使用。純粋物は無色無臭であるが、工業製品はからし臭があるのでマスタードガス
※フィクションにおける扱い
1996年のアメリカ映画『ザ・ロック』では、テロを企てる海兵隊の武器として、この液体を内蔵したミサイルが登場した。この映画の中では「このガスを少しでも吸い込んだり、皮膚に付着すると、すぐさま全身を激しい痙攣が襲い、内臓を吐き出す」、「スプーン1杯で半径500メートル以内にいる人間を殺すことができる」など、テロや化学兵器の脅威を説くため、いささか誇張・演出的な表現で紹介されていた。また劇中では球状のガラス製カプセルに封入されていたが、実際はステンレス製カプセルに封入される。
アメリカのテレビドラマ『24 -TWENTY FOUR-』では、「セントックスVX」と称された神経ガスがアメリカ合衆国本土に対して使われるというテロ計画がエピソードの中に存在する。このエピソードでもセントックスVXを天然ガスのパイプラインを通して散布することにより、およそ20万人を殺害できるとされていた。

◆The nitrogen mustards are cytotoxic chemotherapy agents that are a derivative of mustard gas. Although their common use is medicinal, in principle these compounds can also be deployed as chemical warfare agents. Nitrogen mustards are nonspecific DNA alkylating agents. Nitrogen mustard gas was stockpiled by several nations during the Second World War, but it was never used in combat. As with all types of mustard gas, nitrogen mustards are powerful and persistent blister agents and the main examples (HN1, HN2, HN3) are therefore classified as Schedule 1 substances within the Chemical Weapons Convention. Production and use is therefore strongly restricted.
During World War II nitrogen mustards were studied at the Yale School of Medicine by Alfred Gilman and Louis Goodman, and classified human clinical trials of nitrogen mustards for the treatment of lymphoma started in December 1942. Also during World War II, an incident during the air raid on Bari, Italy, led to the release of mustard gas that affected several hundred soldiers and civilians. Medical examination of the survivors showed a decreased number of lymphocytes(リンパ嚢胞). After World War II was over, the Bari incident and the Yale group's studies eventually converged prompting a search for other similar compounds. Due to its use in previous studies, the nitrogen mustard known as "HN2" became the first chemotherapy drug mustine(ムスチン=メクロレタミン;ナイトロジェンマスタードと呼ばれるマスタードガスの硫黄原子を窒素に置き換えた有機化合物の一種。HN-2とも呼ばれる。アルキル化作用を持ち、抗がん剤として使われた).
Nitrogen mustards are not related to the mustard plant or its pungent essence(カラシという植物、またはその刺激臭のある成分), allyl isothiocyanate(アリルイソチオシアン酸); the name comes from the pungent smell of chemical weapons preparations.



◆パラケルスス
テオフラストゥス・(フォン)・ホーエンハイム(Theophrastus (von) Hohenheim)
**生誕**1493年11月11日あるいは12月17日スイスアインジーデルン
**死没**1541年9月24日(満47歳没)オーストリア帝国(現:オーストリア)ザルツブルク
**病死説または暗殺説**
**国籍**スイス
**出身校**バーゼル大学フェラーラ大学
**活動地域**スイス、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ、スウェーデン、デンマーク、ロシア、小アジアなど様々な国を放浪
**研究分野**化学、医学、生理学、錬金術、占星術、神学、秘教
**学位**フェラーラ大学(1526年頃)
**称号**「医化学の祖」「毒性学の父」「医学界のルター」
**特筆すべき概念**アルケウス
**主な業績**
錬金術(化学)の医療への利用
水銀など鉱物薬の利用
三原質(水銀、硫黄、塩)の再発見・四元素説の新解釈
**主要な作品**
『ウォルメン・パラミルム(Volumen paramirum)』、『パラグラヌム(Paragranum)』、『オプス・パラミルム(Opus paramirum)』からなる「パラ三部作」
**影響を受けた人物**
ヨハンネス・トリテミウス
**影響を与えた人物**
ヨハン・ルドルフ・グラウバー
ヤン・ファン・ヘルモント
フランシスクス・シルヴィウス
ヴァレンティン・ヴァイゲル
ヤーコプ・ベーメ
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
ロバート・ブラウニング
アルトゥル・シュニッツラー
ホルヘ・ルイス・ボルヘス

パラケルスス(スイスドイツ語:Paracelsus)こと本名:テオフラストゥス・(フォン)・ホーエンハイム(Theophrastus (von) Hohenheim1493年11月10日または12月17日 - 1541年9月24日)は、スイスアインジーデルン出身の医師、化学者、錬金術師、神秘思想家。悪魔使いであったという伝承もあるが、根拠はない。後世ではフィリップス・アウレオールス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム(Philippus Aureolus Theophrastus Bombastus von Hohenheim)という長大な名が本名として広まったが、存命中一度も使われていない。バーゼル大学で医学を講じた1年間を例外に、生涯のほとんどを放浪して過ごした。
当時の主流であったスコラ哲学的解釈に対して自然の直接の探求を主張し、大宇宙と小宇宙(人間)の照応を基盤とする統一的世界観を、崩壊した中世農民世界の断片から形成することを目指した。そのためあらゆる領域で従来の考えと戦わねばならず、彼の著作のほとんどは論争書となった。パラケルススの研究は文献研究より実践によるものであった。医学においては、西洋医学の基本概念である四体液説に反対し、人間の肉体に対する天の星(星辰)の影響を認める医療占星術の流れを汲んで、独特の原理に基づく治療法・診断法を唱えた。錬金術の研究から、これまでの医学に化学を導入し、酸化鉄や水銀(梅毒の治療に使った)、アンチモン、鉛、銅、ヒ素などの金属の化合物を初めて医薬品に採用した。この業績から「医化学の祖」と呼ばれる。梅毒(フランス病)や鉱山労働者の職業病である鉱山病、精神病理などの個別研究も多く行った。当時梅毒の薬とされたユソウボク(癒瘡木、グアヤック)が梅毒に効果がないことを明らかにし、グアヤック(英:Guaiacum)の輸入ビジネスに関わり巨万の富を得ていたフッガー家を敵に回した。また、パラケルススを賞賛する人たちからは「医学界のルター」と呼ばれたが、パラケルススは「私をあんな下らない異端者と一緒にするな。」と言い放ったと言われる。パラケルスス自身はカトリックであり、彼の思想はルターの福音主義とも人文主義とも異なる秘教主義的哲学の流れをくむ、魔術的自然哲学であった。
化学者としては、スコラ哲学的解釈を嫌い、当時主流だった四大元素説に反対し、万物の根源は水銀(液体性)、硫黄(燃焼性)、塩(個体性)からなるとする「三原質説」を提唱したことで知られ、疾病は三原質の不均衡から生じるとして鉱物の調合による医薬品の開発に努めた。他にも人間の体質は「からさ、甘さ、苦さ、酸っぱさ」と言う根源的な特質に支配されるという説を唱えたことや、アヘン剤を開発したことでも知られる。また、医科学に携わる人間を指す「スパギリスト(spagyrist)」という言葉を作っている。
錬金術師としては、これまで金を作ることが主流だった錬金術の目的について、普遍医薬(不老不死の霊薬または万能薬。賢者の石とも呼ばれる)や医薬品を生成すべきと主張し、自身がアルカナと呼ぶ自然の事物の深奥にやどるエッセンスが普遍医薬に導くと考えた。錬金術に関する第五精髄や秘薬の生成法が書かれた『アルキドクセン』と言う本も執筆している(参考:普遍医薬#パラケルススと普遍医薬)。
復興した地中海精神を北方に導入し、南と北の接点となった。同時に中世ドイツの神秘家が考えた魂の救済(=治癒)の計画を、具体物である人間の肉体に当てはめることで中世的なものと近代的なものを媒介した。神秘思想家としては、体と魂を結合する霊的な気体とされる「アルケウス」の提唱で知られ、新プラトン主義(ネオプラトニズム)に影響を受けて全宇宙を一つの生きた全体(有機体とも)と考え、水銀を宇宙の始原物質とした。

生涯
1493年11月11日あるいは、11月10日、12月17日にスイスの巡礼地である山村アインジーデルンに、ドイツ人の放浪の医師であった父ヴィルヘルムと、無名の教会隷民の娘の間に生まれた。10歳頃に母を亡くしている。母の死後はオーストリアのフィラッハに引っ越し、ここで基礎教育を受ける。父のヴィルヘルムは市医や鉱物学校の講師として務めながらパラケルススに自然哲学や医学、化学を教えた。また少年時代を鉱山学校で過ごしていたため、金属や坑夫、それに関する病に関心を示したとされる。そしてドイツの修道院長で隠秘学者であったヨハンネス・トリテミウスの元で魔術の理論も学んでいる。
1508年頃より放浪を始めたとされ、1510年頃にバーゼル大学で学び、次にフェラーラ大学医学部に入学し、ニッコロ・マナルディの人文主義医学に触れる。1515年あるいは1516年頃に医学の博士号を得て同大学を卒業した後、一旦は父の元に戻って化学を研究した。パラケルススは大学での学問に失望し、各地を遍歴することでその地方に伝わる民間伝承から様々な事柄を学んだ方が有効だと考えた(そのため、先述した通りパラケルススが本当にフェラーラ大学で学位を修得したかについては、疑問視する意見もある。)医師としてお金を溜めながら1516年から1526年頃にかけてウィーン、ケルン、パリ、モンペリエなどのヨーロッパ各地を遍歴した(大遍歴時代)。この間にパラケルススを自称するようになったといわれている。
ヨーロッパ各地を遍歴中、スペインを経てイギリスに辿り着き、陸軍の軍医として携わった。この時、戦場で耳を切り落とされた兵士がマムシの油などの不潔な薬を塗って治療しているのを見たパラケルススは「人間には自然治癒力がある。刀傷を治すには刀に薬を塗ると良い。」と教えたという伝承が残っている(参考:武器軟膏)。また、オランダでも軍医として活動した。
1524年にザルツブルクで農民鉱夫連合軍の蜂起に立ち会ってこれを扇動した。
1526年頃の夏に、バーゼル大学の医学部教授に就任すると共にバーゼルの町医者となった。なお、この時パラケルススの治療を受けた有名な人物に、スイスの印刷業者ヨハン・フローベン(英語版)やオランダの人文主義者デジデリウス・エラスムスなどがおり、交流している。バーゼル大学医学部の教授になったパラケルススは、1527年6月7日にバーゼル大学中に「これまでの医学を転換させる」と宣言した張り紙を貼り付け、学生を驚かせたと言われる。そして彼の講義は、大学や教会で学問に用いられたラテン語ではなく、ドイツ一般的に使われたドイツ語で講義を行った。また当時の大学教授は赤い帽子を被り、ガウンを着て、指に金の指環をはめて講義を行っていたが、パラケルススはこの規則を破って黒いベレー帽を被り、薬品で汚れた服で講義を行ったり、同年の6月24日にはギリシャの医学者ガレノスや『医学典範』で知られたペルシャの医学者イブン・スィーナー(ラテン語名ではアヴィケンナ、アヴィセンナ)、スペインの哲学者イブン・ルシュド(ラテン語名ではアヴェロエス)など、権威ある医学書、ルネサンスに入って再評価されつつある重要な学者たちの書いた本を学生の前で燃やしたため、一気にバーゼル中を巻き込んだ大問題となったという逸話が残っている(真偽は不明)。
二年後の1528年2月には大学を追放され、バーゼルからも追放されたため、ライン川やドナウ川方面へと放浪を続けた。その間に書かれた主な著作に「パラ三部作」と呼ばれるうち、2番目に書かれた『パラグラヌム』などが挙げられる。
1541年9月24日にザルツブルクにて満47歳で没した(48歳とも)。亡くなった理由としては単に病死した説や、居酒屋で喧嘩をして殺されたと言う説や、暗殺されたと言う説が挙げられた。遺体はザルツブルクにある聖セバスチャン墓地に埋葬された。
19世紀はじめにドイツの解剖学者サミュエル・トーマス・フォン・ゼンメリング(英語版)がパラケルススの遺体を掘り出して死因について調査を行ったところ、頭蓋骨の後頭部に外傷が見受けられ、暗殺されたと言う説を裏付けたとされるが、その後にカール・アバーレと言う人物が四回にも渡ってパラケルススの遺体を調査した結果、後頭部の外傷はくる病によるものだと診断された。
名前
「パラケルスス」と言う自称は、ペンネームのようなものだと考えられている。おそらく1516年頃に彼がフェラーラ大学(英語版)で医学の博士号を修得後、『医学論』で知られる古代ローマの医学者「アウルス・コルネリウス・ケルススすら凌ぐ」と言う意味合いで名乗るようになったとも言われる。博士号については、当時の博士号授与者の名簿に彼の名前が見当たらないため、本当にフェラーラ大学で博士号を修得したのかが疑問視され大きな謎となっている。本名の「ホーエンハイム(Hohenheim=ドイツ語で「高い家」)」をラテン語化して「パラケルスス」と本人自ら作ったとする説も存在する。なお、後世では「フィリップス・アウレオールス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム(Philippus Aureolus Theophrastus Bombastus von Hohenheim)」という名が本名として知られるが、パラケルススを研究する菊地原洋平は、この名は彼の存命中には一度も使われていない述べている。
本名の「テオフラストゥス・(フォン)・ホーエンハイム」の「テオフラストゥス」の部分は、パラケルススの父で医師だったヴィルヘルム・フォン・ホーエンハイムが尊敬していた古代ギリシアの鉱物学者(鉱物学者よりかは植物学者、「植物学の祖」として有名)テオプラストスに因んで名付けたと言われている。そして本名に「フォン」が付いているため、パラケルススの祖先は貴族であったことも伺える(ただし、フォンを付けない表記もある)。また、後世で本名とされた名の「ボンバストゥス」の部分は、パラケルススを誇大妄想狂やペテン師と考えた人々から、後世に「誇大妄想狂」を意味する言葉にもなった。
思想
神秘思想家としては、体と魂を結合する霊的な気体とされる「アルケウス」の提唱で知られ、後に「ガス」と言う言葉の考案者でもあるフランドルの医師ヤン・ファン・ヘルモントに影響を与えた。この「アルケウス」は人体に内在しているとされ、例えば胃のアルケウスは食べた物の中から栄養分と栄養分でないものに分離し、栄養分を同化するとし、肺のアルケウスは空気を一種の栄養分として吸収していると考えた。
彼の思想は新プラトン主義の系譜を引く自然神秘主義としての側面を持っており、自然を神によって生み出されたものとして捉えている。神においてある第一質料=大神秘から硫黄、水銀、塩の3つの元素の働きが展開することによって四大元素(地、水、火、空気)が生まれ、ここから万物が生み出されるとした。全宇宙を一つの生きた全体(有機体とも)と考え、水銀を宇宙の始原物質とした。
パラケルススの思想にはマクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙たる人間)の照応と言う世界観が根底にある。マクロコスモスとしては地上世界、天上世界(星の世界)、霊的世界の3つを考え、それに対応するミクロコスモスである人間を身体、精気、魂に分けて考えている。地上界-身体と天上界-精気は目に見える世界であり、それを支配する霊的世界-魂は目に見えない世界であるとした。
格言
パラケルススは「毒性学の父」と呼ばれた。「全てのものは毒であり、毒でないものなど存在しない。その服用量こそが毒であるか、そうでないかを決めるのだ」 (ドイツ語: Alle Dinge sind Gift und nichts ist ohne Gift; allein die Dosis macht es, dass ein Ding kein Gift ist.) あるいは「服用量が毒を作る」 (ラテン語: sola dosis facit venenum) という格言は、パラケルススによるものである。
著作
村瀬天出夫の概算によれば、現代のハードカバーにして30巻ほどになるという膨大な量の原稿を書き残したが、ほとんどが生前出版されなかった。そうした原稿は現在「パラケルスス文書」と呼ばれる。彼の死の約20年後、ドイツの医師たちがパラケルスス医学を広めるために、これらを出版しようと活動し脚光を浴びた。死後約50年後に全集として出版された。生前に出版されたのは以下のリストのうち一部である。パラケルスス自身による手稿は一切現存していない。遍歴の人生を歩んだため膨大な手稿を持ち運ぶことは不可能であり、その原稿は散逸してたり、死蔵されていた。のちのパラケルスス主義者の運動は、そういった原稿を発掘する運動でもあった。なお、パラケルススの著作は、真作と死後に作られた偽作が混同されてきた歴史があり、その真贋の研究が現在も行われている。以下のリストも同様である。
主要な著書
「パラ三部作」(いずれも書名に“para”が入っている)
『ウォルメン・パラミルム(Volumen paramirum)』(1520年ころ、邦訳『奇蹟の医書』訳:大槻 真一郎 工作舎、ISBN 487502116X)
病気の原因として「自然因」「天体因」「毒因」「精神因」「神因」を挙げ、これら5つが人の心身から宇宙まで繋がっていると説いている。
『パラグラヌム(Paragranum)』(1530年。邦訳『奇蹟の医の糧』訳:大槻 真一郎、沢元 亙 工作舎 、ISBN 4875023820)
医術には3つの基礎があり、その3つとは、哲学(四大元素が必要)、天文学(天の運行に則る必要)、錬金術(アルカナが必要)である。加えて医術には、神の意思に従う倫理が必要であると説いている。
『オプス・パラミルム(Opus paramirum)』(1531年、三原質説が展開されている)
その他の著書
『理性を奪う病』(1525〜1526年)
『アルキドクセン』(1526年。邦訳『アルキドクセン パラケルスス錬金術による製薬術の原論 第五精髄、秘薬(第一物質、賢者の石、生命の水銀、チンキ剤)、変成物、特効薬、霊薬、外用薬』訳:澤元亙、監修:由井寅子 、ホメオパシー出版、2013年)
『フランス病論』(1529年):梅毒の研究書。ドイツ人は梅毒をフランス病と呼んでいた。
『癲癇(てんかん)』(1530〜1531年)
『目に見えない病気』(『不可視病論』とも。1531年。近代最初の精神病理研究、精神疾患の原因とその治療法についての著作。邦訳『目に見えない病気-いかにして目に見えないものを目に見えるかのようにして見るか-』訳:澤元亙、監修:由井寅子 、ホメオパシー出版、2012年)
『鉱山病論』(1534年):鉱山労働者の職業病の研究書。
『大外科学』(1536年):外科医としての著作。
『医師の迷宮(Labyrinthus medicorum errantium)』(1538年ごろ。パラケルススの医師として、キリスト者としての天職を集大成した著作。邦訳『医師の迷宮 -これなくして医師はいかにしても真の医師になることができない-』訳:澤元亙、ホメオパシー出版、2010年)
『大天文学(アストロノミア・マグナ)または明敏なる哲学(フイロソフイア・サガクス)』(1537 - 38年) :医学的著作の集大成で、彼の根本思想である大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)に関する哲学の書。未完。
『ヘルバリウス(本草学)』(邦訳『ヘルバリウス』訳:澤元亙、監修:由井寅子、ホメオパシー出版、2015年。 『ヘルバリウス』の全体、『自然物について』の一部、『マケル薬草詩注解』の全体を収録。)
『ニンフ、シルフ、ピグミー、サラマンダー、その他の精霊についての書 (Liber de Nymphis, Sylphis, Pygmaeis et Salamandris et de caeteris Spiritibus)』(通称『妖精の書』。エーテルで構成された擬人的な自然霊について論じている。)
『聖餐論』(神学書)
邦訳は他に、戦前に作られたズートホフ(Karl Sudhoff)版からのアンソロジー(テーマ別抜粋集)であるJ.ヤコビ編 『自然の光』(大橋博司、訳、人文書院、1984年)があり、『キリスト教神秘主義著作集 16』 (教文館、1993年)に、岡部雄三による「聖ヨハネ草について」、「磁石の力について」、「魔術について」、「神と人の合一について」の邦訳が収録されている。医学書、錬金術書のほかにも、莫大な神学的原稿が残され、福音書や詩編の詳しい注解や説教などがあり、現在も研究が続けられている。
その他のエピソード ・伝承
植物薬が主であった時代に治療に錬金術(化学)を導入し鉱物・化合物を薬として利用する、1500年近く主流であった四体液説を否定するといった、パラケルススの型破りな思想・行動は受け入れられにくかった。聖域的なドグマを廃し、すべてを議論し直すことを望んだため、多くの敵を持ち人生は争いの連続となり、著作の出版も困難になるほどであった。波乱に満ちた人生は錬金術師としての名声とも相まって伝説化し、様々な噂が立つこととなった。例えば、パラケルススが「賢者の石」を生成したという話は典型的な伝説の一つである。「ホムンクルス」(人造人間)の生成にも成功したと言われる。パラケルススは常に剣あるいは杖を持っていたともいわれ、柄に「Azoth」と書かれていたため「アゾット剣」と呼ばれ、この剣(杖)には賢者の石が入っていたとも言われている。
悪魔使いであったともいわれる。「アゾット剣」の中に悪魔を封じ込めており、悪魔に物体を黄金に変えさせるなどをして使役したと伝わっている。いつかは不明であるがインスブルックに居たパラケルススは悪魔の声を聞き、すぐ近くにある十字架に囲われていたモミの木に悪魔が封印されていることを知ると、この悪魔を騙して救出し、それから「アゾット剣」の中にもう一度封じ込めたと言う伝説が残っている。
一説にはタロットカードの「魔術師」のモデルとされることがあるが定かではない。
パラケルススは様々な場所を遍歴しているのにも関わらず、女性遍歴に関する話題が挙がらないことから「パラケルススは勃起不全(インポテンツ)だった」と言う説や、同性愛者だったと根も葉もないことをでっち上げてパラケルススを馬鹿にしたと伝わっている。その他、幼い頃に豚にペニスを食いちぎられたりなどと言った伝説も存在する。またパラケルススは大の酒好きだったとされ、パラケルススの死因の一つに居酒屋で泥酔した挙句喧嘩になって命を落としたと言う説も存在する。
上記のようなパラケルススを侮辱したエピソードが多いが、中にはパラケルススから黄金を貰ったと言う貧しい農家の話もある。それはパラケルススがインスブルックの近くを放浪中に貧しい農家の息子を治療した際に、息子の母が「何もございませんが、先生、ジャガイモの揚げたものを召し上がって下さい。」と言いパラケルススをもてなした。彼はこのご馳走に感動し、農家の暖炉の上に置いてあった一本の火かき棒を取ると、アゾット剣の鍔の容器から黄色い軟膏を取り出して、火かき棒に塗り付け、錆びた鉄の火かき棒が、たちまち黄金に変わったと言う。そしてパラケルススは「これを持って金細工屋へ行くと良い。高く売れる。」と言った後に農家を立ち去ったと言われている。ただし、パラケルススの錬金術は医療面での利用が主であり、黄金の製造を目的とはしていない。
後の影響
学問
彼の実証的であると同時に神秘主義的哲学的医術は、医師・占星術師・数学者・宇宙研究家でヘルメス的カバラ(英語版)・薔薇十字団の支持者として知られるロバート・フラッド (医師)(英語版)などに影響を与えた。パラケルススの死後には、医化学派、パラケルスス派が形成され、パラケルスス派の思想は全ヨーロッパに広まった。(パラケルスス派はカトリックだったパラケルススと異なり、プロテスタントだった。)パラケルススの名を冠する偽書も書かれた。
ヘルモント父子に影響を与え、「アルケウス」と言う考えは後にフランドルの医師ヤン・ファン・ヘルモントに受け継がれた。息子はフランシス・メリクリウス・ファン・ヘルモント(英語版)。
ドイツの神秘思想家ヴァレンティン・ヴァイゲル(英語版)とヤーコプ・ベーメは、パラケルススの神秘思想に影響を受けた。
「世界初の化学工学者」と呼ばれるドイツの薬剤師ヨハン・ルドルフ・グラウバーはウィーンで発疹チフスに罹患し、ノイシュタットの泉の水がチフスに効果があると住民から聞いて治癒した。この時、パラケルススも以前にノイシュタットの泉の水を研究していたことを知ったグラウバーは感銘を受け「パラケルススの後継者」になることを目指した。
17世紀ドイツ人科学者のヨハン・ベッヒャーに影響を与えた。ベッヒャーは、燃焼を説明する理論「フロギストン説」の起源とされる。(詳細はフロギストン説#前史を参照)
心理学者カール・グスタフ・ユングは、パラケルススの思想には「無意識の心理学」の萌芽があると考え、『長寿論』(長寿の書、De vita longa)を分析した。
代替医療の一つ「ホメオパシー」は、パラケルススの思想・医学に着想を得たといわれる
近現代の研究
パラケルススの研究は、16世紀末のフーザー(J.Huser)による全集編纂があり、現代の古典的な研究としては、ズートホフ(Karl Sudhoff、1853 - 1938)による医学・哲学論文の全集、ゴルトアマー(Kurt Goldammer、1916 - 1997)の神学・哲学論集の刊行などがある。パラケルススの神学的内容の論文は長く出版されず、20 世紀になってから編集がはじまった 。ルネサンス思想史家のヒロ・ヒライは、Karl Sudhoffらの先行研究は素晴らしいが、パラケルススの真作と偽作の区別をあまりつけずに利用していたという問題点があると述べている。これにより、パラケルススの著作には理論的に不整合なアイデアが多く混在し、内的な矛盾が特徴であるかのように考えられてきた。20世紀半ばのW.パーゲルの優れた総合的作品でさえ、この問題によって大きくその再考を迫られている。
パラケルススに縁のある地では、その地とパラケルススの結びつきや、パラケルスス主義などを研究した論文や論集も多く出ており、中にはパラケルスス専門の研究協会を設立・運営している地もある。ヒロ・ヒライによると、特に成功している組織は以下の二つである。
スイス・パラケルスス協会(Schweizerischen Paracelsus-Gesellschaft、略称:SPG):1942年パラケルススの生誕地スイス・アインジーデルンに設立。1944年から機関紙『ノヴァ・アクタ・パラケルシカ』(Nova acta paracelsica)を発行。機関紙は、1986年から新体制になり、『ノヴァ・アクタ・パラケルシカ (新シリーズ)』 (Nova acta paracelsica (Neue Folge))が年1回発行されている。
国際パラケルスス協会(Internationale Paracelsus-Gesellschaft、略称:IPG):オーストリアのザルツブルグにて1951年に設立。1960年から機関紙『ザルツブルグ・パラケルスス研究紀要』(Salzburger Beitraege zur Paracelsusforchung)を発行している。
創作
錬金術師として高名であり、さまざまな伝承があるため、創作物でしばしば取り上げられている。
パラケルススが生成したと言われる「ホムンクルス」の伝説は後にドイツの作家ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに影響を与え、1833年に発表された『ファウスト』にも主人公の弟子ヴァーグナーが「ホムンクルス」の生成に成功する描写がある。
イギリスの詩人ロバート・ブラウニングは1835年にパラケルススを題材にした『パラケルスス』と言う長い詩を書いている。
オーストリアの小説家アルトゥル・シュニッツラーは1899年にパラケルススを題材にした『パラケルスス』と言う詩を書いている。
1943年ドイツで、パラケルススのバーゼル時代を扱った映画 『パラケルスス』 が公開された。監督ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト、主演ヴェルナー・クラウス。
アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスはパラケルススを主人公にした短編小説『パラケルススのバラ』と言う小説を書いている。
ゴーストハンターシリーズのコンピュータゲーム『パラケルススの魔剣』(1994年、ノベライズ版あり)や、中里融司 著、小畑健 イラストのライトノベル『狂科学ハンターREI〈3〉パラケルススの秘石』 〈電撃文庫〉メディアワークス、1997年 では、パラケルススゆかりの品が物語のキーアイテムとして登場する。
荒川弘の漫画『鋼の錬金術師』に登場する主人公エドワード・エルリックの父親であるヴァン・ホーエンハイムは、パラケルススの本名「ファン・ホーエンハイム」が由来である。
伊藤智砂 著、武東実香 イラスト『指先にくちづけて―パラケルスス・パラミールム』 〈もえぎ文庫〉 学研、2005年は、パラケルススとホムンクルスのヘルメスが主人公のBLライトノベル。遍歴からバーゼル時代を描いている。
五代ゆうのライトノベル『パラケルススの娘』に登場するヒロインであるクリスティーナ・モンフォーコンは自身を「パラケルススの娘」と自称している。
アークシステムワークスの2D対戦型格闘ゲーム『GUILTY GEARシリーズ』に登場するアバが持つ斧である「パラケルス」はパラケルススが由来とされる。
任天堂がゲームキューブのローンチタイトルとして2001年に発表したソフト『ルイージマンション』ではパラケルススの三原質に肖って「炎のエレメント、水のエレメント、氷のエレメント」について書かれた「パラケルスのしょ」と言う書物が存在する

◆Paracelsus
**Born**Philip von Hohenheim 11 November 1493 or 17 December 1493 Egg, near Einsiedeln, Schwyz (present-day Switzerland)
**Died**24 September 1541 (aged 47)Salzburg, Archbishopric of Salzburg (present-day Austria)
**Other names**Theophrastus von Hohenheim; Phillipus Areolus; Bombastus
**Alma mater**University of Ferrara
**Era**Renaissance philosophy
**Region**Western Philosophy
**School**Renaissance humanism
**Notable ideas**Toxicology"The dose makes the poison"" Air is the arche"

Paracelsus (/ˌpærəˈsɛlsəs/; late 1493 – 24 September 1541), born Philippus Aureolus Theophrastus Bombastus von Hohenheim, was a Swiss physician, alchemist and astrologer of the German Renaissance.
He was a pioneer in several aspects of the "medical revolution" of the Renaissance, emphasizing the value of observation in combination with received wisdom. He is credited as the "father of toxicology".
He also had a substantial impact as a prophet or diviner, his "Prognostications" being studied by Rosicrucians in the late 16th and 17th centuries. Paracelsianism is the early modern medical movement inspired by the study of his works.

Paracelsus was born and raised in the village of Einsiedeln in Switzerland. His father Wilhelm Bombast was a chemist and physician originally from Hohenheim in Swabia (County of Württemberg). His mother was Swiss and probably a bondswoman of Einsiedeln Abbey; she presumably died in his childhood. In 1502 the family moved to Villach, Carinthia where Paracelsus' father worked as a physician, attending to the medical needs of the pilgrims and inhabitants of the cloister.
Paracelsus was educated by his father in botany, medicine, mineralogy, mining, and natural philosophy. He also received a profound humanistic and theological education from local clerics and the convent school of St. Paul's Abbey in the Lavanttal. He specifically accounts for being tutored by Johannes Trithemius, abbot of Sponheim. At the age of 16 he started studying medicine at the University of Basel, later moving to Vienna. He gained his doctorate degree from the University of Ferrara in 1515 or 1516.
Between 1517 and 1524, he worked as a military surgeon, in Venetian service in 1522. In this capacity he travelled widely across Europe, and possibly as far as Constantinople. It is possible that he adopted the name Paracelsus, first recorded in 1529, during this period. Paracelsus is most likely a latinization of Hohenheim (based on celsus "high, tall"), but it was long interpreted as the claim of "surpassing Celsus".
He settled in Salzburg in 1524 but had to leave in the following year due to his support of the German Peasants' War. In 1525, he was active at the University of Freiburg. In 1526 he bought the rights of citizenship in Strasbourg to establish his own practice. But soon after he was called to Basel to the sickbed of Johann Froben or Frobenius, a successful printer and publisher. Based on historical accounts, Paracelsus cured Frobenius. During that time, the Dutch Renaissance humanist Erasmus von Rotterdam, also at the University of Basel, witnessed the medical skills of Paracelsus, and the two scholars initiated a letter dialogue on medical and theological subjects.
In 1527, Paracelsus is a licensed physician in Basel with the privilege of lecturing at the University of Basel. Basel at the time was a center of Renaissance humanism, and Paracelsus here came into contact with Erasmus of Rotterdam, Wolfgang Lachner and Johannes Oekolampad. Paracelsus' lectures at Basel university unusually were held in German, not Latin. He stated that he wanted his lectures to be available to everyone. He also published harsh criticism of the Basel physicians and apothecaries, creating political turmoil to the point of his life being threatened. In a display of his contempt for conventional medicine, Paracelsus publicly burned editions of the works of Galen and Avicenna. He was prone to many outbursts of abusive language, abhorred untested theory, and ridiculed anybody who placed more importance on titles than practice ('if disease put us to the test, all our splendor, title, ring, and name will be as much help as a horse's tail'). During his time as a professor at University of Basel, he invited barber-surgeons, alchemists, apothecaries, and others lacking academic background to serve as examples of his belief that only those who practiced an art knew it: 'The patients are your textbook, the sickbed is your study.' Paracelsus was compared with Martin Luther because of his openly defiant acts against the existing authorities in medicine. Paracelsus rejected that comparison. Famously Paracelsus said, "I leave it to Luther to defend what he says and I will be responsible for what I say. That which you wish to Luther, you wish also to me: You wish us both in the fire." Being threatened with an unwinnable lawsuit, he left Basel for the Alsace in February 1528.
Paracelsus now took up the life of an itinerant physician once again. In 1529 he prepared his Paramirum and Paragranum for print, but the work remained unpublished. He spent 1530 in the Upper Palatinate, Bavaria and Swabia. During 1531 to 1535, he seems to have been active mostly in Tyrol and Switzerland, in 1536 again in Swabia and Bavaria. Paracelsus remained a productive writer, producing medical, theological, prophetic, and magical works, but had problems finding a publisher. In 1530, at the instigation of the medical faculty at the University of Leipzig, the city council of Nürnberg prohibited the printing of Paracelsus' works. In 1536, he regained fame with the publication of his Die grosse Wundartznei ("The Great Surgery Book") was published in Ulm, Augsburg and Frankfurt. His Astronomia magna (also known as Philosophia sagax) was completed in 1537, but published only in 1571. It is a treatise on hermeticism, astrology, divination, theology and demonology and laid the basis of Paracelsus' later fame as a "prophet". His motto Alterius non sit qui suus esse potest ("Let no man belong to another who can belong to himself") is inscribed on a 1538 portrait by Augustin Hirschvogel.
In 1541, Paracelsus moved to Salzburg, probably on the invitation of Ernest of Bavaria, where he died on 24 September. He was buried in St Sebastian cemetery in Salzburg. His remains were relocated inside St Sebastian church in 1752. After his death, the movement of Paracelsianism was seized upon by many wishing to subvert the traditional Galenic physics, and his therapies became more widely known and used. His autographs have been lost, but fortunately many of his works which remained unpublished during his lifetime were edited by Johannes Huser of Basel during 1589–1591. His works were frequently reprinted and widely read during the late 16th to early 17th century, and although his "occult" reputation remained controversial, his medical contributions were universally recognized, with e.g. a 1618 pharmacopeia by the Royal College of Physicians in London including "Paracelsian" remedies.
Philosophy
As a physician of the early 16th century, Paracelsus held a natural affinity with the Hermetic, Neoplatonic, and Pythagorean philosophies central to the Renaissance, a world-view exemplified by Marsilio Ficino and Pico della Mirandola. Paracelsus rejected the magic theories of Heinrich Cornelius Agrippa and Nicolas Flamel in his Archidoxes of Magic. Astrology was a very important part of Paracelsus' medicine and he was a practicing astrologer – as were many of the university-trained physicians working at that time in Europe. Paracelsus devoted several sections in his writings to the construction of astrological talismans for curing disease. He also invented an alphabet called the Alphabet of the Magi, for engraving angelic names upon talismans. Paracelsus largely rejected the philosophies of Aristotle and Galen, as well as the theory of humours. Although he did accept the concept of the four elements as water, air, fire, and earth, he saw them merely as a foundation for other properties on which to build.
Contributions to medicine
Chemistry
Paracelsus was one of the first medical professors to recognize that physicians required a solid academic knowledge in the natural sciences, especially chemistry. Paracelsus pioneered the use of chemicals and minerals in medicine. From his study of the elements, Paracelsus adopted the idea of tripartite alternatives to explain the nature of medicine, taking the place of a combustible element (sulphur), a fluid and changeable element (mercury), and a solid, permanent element (salt.) The first mention of the mercury, sulphur, salt model was in the Opus paramirum dating to about 1530 Paracelsus believed that the principles sulphur, mercury, and salt contained the poisons contributing to all diseases. He saw each disease as having three separate cures depending on how it was afflicted, either being caused by the poisoning of sulphur, mercury, or salt. Paracelsus drew the importance of sulphur, salt and mercury from medieval alchemy, where they all occupied a prominent place. He demonstrated his theory by burning a piece of wood. The fire was the work of sulphur, the smoke was mercury, and the residual ash was salt. Paracelsus also believed that mercury, sulphur, and salt provided a good explanation for the nature of medicine because each of these properties existed in many physical forms. The tria prima also defined the human identity. Sulfur embodied the soul, (the emotions and desires); salt represented the body; mercury epitomised the spirit (imagination, moral judgment, and the higher mental faculties). By understanding the chemical nature of the tria prima, a physician could discover the means of curing disease. With every disease, the symptoms depended on which of the three principals caused the ailment. Paracelsus theorized that materials which are poisonous in large doses may be curative in small doses; he demonstrated this with the examples of magnetism and static electricity, wherein a small magnet can attract much larger metals.
He was probably the first to give the element zinc (zincum) its modern name, in about 1526, likely based on the sharp pointed appearance of its crystals after smelting (zinke translating to "pointed" in German). Paracelsus invented chemical therapy, chemical urinalysis, and suggested a biochemical theory of digestion. Paracelsus used chemistry and chemical analogies in his teachings to medical students and to the medical establishment, many of whom found them objectionable.
Paracelsus in the beginning of the sixteenth century had unknowingly observed hydrogen as he noted that in reaction when acids attack metals, gas was a by-product. Later, Théodore de Mayerne repeated Paracelsus’s experiment in 1650 and found that the gas was flammable. However neither Paracelsus nor de Mayerne proposed that hydrogen could be a new element.
Hermeticism
His hermetical views were that sickness and health in the body relied on the harmony of Man (microcosm) and Nature (macrocosm). He took a different approach from those before him, using this analogy not in the manner of soul-purification but in the manner that humans must have certain balances of minerals in their bodies, and that certain illnesses of the body had chemical remedies that could cure them. As a result of this hermetical idea of harmony, the universe's macrocosm was represented in every person as a microcosm. An example of this correspondence is the doctrine of signatures used to identify curative powers of plants. If a plant looked like a part of the body, then this signified its ability to cure this given anatomy. Therefore, the root of the orchid looks like a testicle and can therefore heal any testicle associated illness. Paracelsus mobilized the microcosm-macrocosm theory to demonstrate the analogy between the aspirations to salvation and health. As humans must ward off the influence of evil spirits with morality, they also must ward off diseases with good health.
Paracelsus believed that true anatomy could only be understood once the nourishment for each part of the body was discovered. He believed that therefore, one must know the influence of the stars on these particular body parts. Diseases were caused by poisons brought from the stars. However, 'poisons' were not necessarily something negative, in part because related substances interacted, but also because only the dose determined if a substance was poisonous or not. Paracelsus claimed the complete opposite of Galen, in that like cures like. If a star or poison caused a disease, then it must be countered by another star or poison. Because everything in the universe was interrelated, beneficial medical substances could be found in herbs, minerals and various chemical combinations thereof. Paracelsus viewed the universe as one coherent organism pervaded by a uniting lifegiving spirit, and this in its entirety, Man included, was 'God'. His views put him at odds with the Church, for which there necessarily had to be a difference between the Creator and the created.
Discoveries and treatments
It is said that Paracelsus was also responsible for the creation of laudanum, an opium tincture very common until the 19th century. Although it is not historically proven that he was the first to apply laudanum, an analgesic opium preparation, he first encountered this drug on an also speculative visit to Constantinople.
He invented, or at least named a sort of liniment, opodeldoc, a mixture of soap in alcohol, to which camphor and sometimes a number of herbal essences, most notably wormwood, were added. Paracelsus's recipe forms the basis for most later versions of liniment.
His work Die große Wundarzney is a forerunner of antisepsis. This specific empirical knowledge originated from his personal experiences as an army physician in the Venetian wars. Paracelsus demanded that the application of cow dung, feathers and other obnoxious concoctions to wounds be surrendered in favor of keeping the wounds clean, stating, "If you prevent infection, Nature will heal the wound all by herself." During his time as a military surgeon, Paracelsus was exposed to the crudity of medical knowledge at the time, when doctors believed that infection was a natural part of the healing process. He advocated for cleanliness and protection of wounds, as well as the regulation of diet. Popular ideas of the time opposed these theories and suggested sewing or plastering wounds Historians of syphilitic disease credit Paracelsus with the recognition of the inherited character of syphilis. In his first medical publication, a short pamphlet of syphilis treatment that was also the most comprehensive clinical description the period ever produced, he wrote a clinical description of syphilis in which he maintained that it could be treated by carefully measured doses of mercury. Similarly, he was the first to discover that the disease could only be contracted by contact.
Hippocrates put forward the theory that illness was caused by an imbalance of the four humors: blood, phlegm, black bile and yellow bile. These ideas were further developed by Galen into an extremely influential and highly persistent set of medical beliefs that were to last until the mid-1850s. Contrarily, Paracelsus believed in three humors: salt (representing stability), sulfur (representing combustibility), and mercury (representing liquidity); he defined disease as a separation of one humor from the other two. He believed that body organs functioned alchemically, that is, they separated pure from impure. The dominant medical treatments in Paracelsus' time were specific diets to help in the "cleansing of the putrefied juices" combined with purging and bloodletting to restore the balance of the four humors. Paracelsus supplemented and challenged this view with his beliefs that illness was the result of the body being attacked by outside agents. He objected to excessive bloodletting, saying that the process disturbed the harmony of the system, and that blood could not be purified by lessening its quantity.
Paracelsus gave birth to clinical diagnosis and the administration of highly specific medicines. This was uncommon for a period heavily exposed to cure-all remedies. The Germ Theory was anticipated by him as he proposed that diseases were entities in themselves, rather than states of being. Paracelsus first introduced the black hellebore to European pharmacology and prescribed the correct dosage to alleviate certain forms of arteriosclerosis. Lastly, he recommended the use of iron for 'poor blood' and is credited with the creation of the terms, 'chemistry,' 'gas,' and 'alcohol'
One of his most overlooked achievements was the systematic study of minerals and the curative powers of alpine mineral springs. His countless wanderings also brought him deep into many areas of the Alps, where such therapies were already practiced on a less common scale than today. Paracelsus' major work On the Miners' Sickness and Other Diseases of Miners documented the occupational hazards of metalworking including treatment and prevention strategies.
Toxicology
Paracelsus extended his interest in chemistry and biology to what is now considered toxicology. He clearly expounded the concept of dose response in his Third Defense, where he stated that "Solely the dose determines that a thing is not a poison." (Sola dosis facit venenum "Only the dose makes the poison") This was used to defend his use of inorganic substances in medicine as outsiders frequently criticized Paracelsus' chemical agents as too toxic to be used as therapeutic agents. His belief that diseases locate in a specific organ was extended to inclusion of target organ toxicity; that is, there is a specific site in the body where a chemical will exert its greatest effect. Paracelsus also encouraged using experimental animals to study both beneficial and toxic chemical effects.
Psychosomatism
In his work Von den Krankeiten Paracelsus writes: "Thus, the cause of the disease chorea lasciva is a mere opinion and idea, assumed by imagination, affecting those who believe in such a thing. This opinion and idea are the origin of the disease both in children and adults. In children the case is also imagination, based not on thinking but on perceiving, because they have heard or seen something. The reason is this: their sight and hearing are so strong that unconsciously they have fantasies about what they have seen or heard." Paracelsus called for the humane treatment of the mentally ill as he saw them not to be possessed by evil spirits, but merely 'brothers' ensnared in a treatable malady."
Reception and legacy
Full-body portrait from the Dutch edition of Gottfried Arnold's History of the Church and of Heresy (1701), engraving by Romeyn de Hooghe.
The oldest surviving portrait Paracelsus is a woodcut by Augustin Hirschvogel, published in 1538, still during Paracelsus' lifetime. A still older painting by Quentin Matsys has been lost, but at least three 17th-century copies survive, one by an anonymous Flemish artist, kept in the Louvre, one by Peter Paul Rubens, kept in Brussels, and one by a student of Rubens', now kept in Uppsala. Another portrait by Hirschvogel, dated 1540, claims to show Paracelsus "at the age of 47" (sue aetatis 47), i.e. less than a year before his death. In this portrait, Paracelsus is shown as holding his sword, gripping the spherical pommel with the right hand. Above and below the image are the mottos Alterius non sit qui suus esse potest ("Let no man belong to another who can belong to himself") and Omne donum perfectum a Deo, inperfectum a Diabolo ("All perfect gifts are from God, [all] imperfect [ones] from the Devil"); later portraits give a German rendition in two rhyming couplets (Eines andern Knecht soll Niemand sein / der für sich bleiben kann allein /all gute Gaben sint von Got / des Teufels aber sein Spot). Posthumous portraits of Paracelsus, made for publications of his books during the second half of the 16th century, often show him in the same pose, holding his sword by its pommel.
In the so-called "Rosicrucian portrait", published with Philosophiae magnae Paracelsi (Heirs of Arnold Birckmann, Cologne, 1567), is closely based on the 1540 portrait by Hirschvogel, adding a variety of additional elements: the pommel of the sword is inscribed by Azoth, and next to the figure of Paracelsus, attributed arms are shown, described by Franz Hartmann (1887) as "representing a beam of silver, upon which are ranged three black balls", surrounded by a border of eight crosses patty. Shown in the background are "early Rosicrucian symbols", including the head of a child protruding from the ground (indicating rebirth). The portrait is possibly a work by Frans Hogenberg, acting under the directions of Theodor Birckmann (1531/33–1586)
Paracelsianism and Rosicrucianism
Further information: Paracelsianism
Paracelsus was especially venerated by German Rosicrucians, who treated him as a prophet and developed a field of systematic study of his writings sometimes referred to as "Paracelsianism" (more rarely "Paracelsism"). Francis Bacon warned against Paracelsus and the Rosicrucians, judging that "the ancient opinon that man was microcosmus" had been "fantastically strained by Paracelsus and the alchemists". "Paracelsism" also produced the first complete edition of Paracelsus' works. Johannes Huser of Basel (c. 1545-1604) gathered autographs and manuscript copies, and prepared an edition in ten volumes during 1589–1591.
The prophecies contained in Paracelsus' works on astrology and divination began to be separately edited as Prognosticon Theophrasti Paracelsi in the early 17th century. His prediction of a "great calamity just beginning" indicating the End Times was later associated with the Thirty Years' War, and the identification of Gustavus Adolphus of Sweden as the "Lion from the North" is based in one of Paracelsus' "prognostications" referencing Jeremiah 5:6.
Carl Gustav Jung studied Paracelsus intensively. His work Mysterium Conjunctionis further drew from alchemical symbolism as a tool in psychotherapy. Following Paracelsus' path, it was Jung who first theorised that the symbolic language of alchemy was an expression of innate but unconscious psychological processes.
In literature and drama
A number of fictionalised depictions of Paracelsus have been published in modern literature. The first presentation of Paracelsus' life in the form of a historical novel was published in 1830 by Dioclès Fabre d'Olivet (1811-1848, son of Antoine Fabre d'Olivet), Robert Browning wrote a long poem based on the life of Paracelsus, entitled Paracelsus, published 1835. Meinrad Lienert (1915) published a tale of Paracelsus' sword, attributed to Gall Morel. Arthur Schnitzler wrote a verse play Paracelsus in 1899. Erwin Guido Kolbenheyer wrote a novel trilogy (Paracelsus-Trilogie), published during 1917–26.
Martha Sills-Fuchs (1896-1987) wrote three völkisch plays with Paracelsus as the main character during 1936–1939 in which Paracelsus is depicted as the prophetic healer of the German people. The German drama film Paracelsus was made in 1943, directed by Georg Wilhelm Pabst. Also in 1943, Richard Billinger wrote a play Paracelsus for the Salzburg Festival.[48] Mika Waltari's Mikael Karvajalka (1948) has a scene fictionalising Paracelsus' acquisition of his legendary executioner's sword. Paracelsus is the main character of Jorge Luis Borges's short story La rosa de Paracelso (anthologized 1983).
Works
Library resources about
Paracelsus
Aurora thesaurusque philosophorum, 1577
Published during his lifetime
Die große Wundarzney Ulm, 1536 (Hans Varnier); Augsburg (Haynrich Stayner (=Steyner)), 1536; Frankfurt/ M. (Georg Raben/ Weygand Hanen), 1536.
Vom Holz Guaico, 1529.
Von der Frantzösischen kranckheit Drey Bücher, 1530.
Vonn dem Bad Pfeffers in Oberschwytz gelegen, 1535.
Posthumous publications
Wundt unnd Leibartznei. Frankfurt/ M., 1549 (Christian Egenolff); 1555 (Christian Egenolff); 1561 (Chr. Egenolff Erben).
Aureoli Theophrasti Paracelsi schreiben Von Tartarjschen kranckheiten, nach dem alten nammen, Vom grieß sand vnnd [unnd] stein, Basel, c. 1563.
Das Buch Paragranvm Avreoli Theophrasti Paracelsi : Darinnen die vier Columnae, als da ist, Philosophia, Astronomia, Alchimia, vnnd Virtus, auff welche Theophrasti Medicin fundirt ist, tractirt werden, Frankfurt, 1565.
Opvs Chyrvrgicvm, Frankfurt, 1565.
Ex Libro de Nymphis, Sylvanis, Pygmaeis, Salamandris, et Gigantibus etc. Nissae Silesiorum, Excudebat Ioannes Cruciger (1566)
Von den Krankheiten so die Vernunfft Berauben. Basel, 1567.
Philosophia magna, tractus aliquot, Cöln, 1567.
Philosophiae et Medicinae utriusque compendium, Basel, 1568.
Archidoxa. Translated into Latin by Adam Schröter. Kraków: Maciej Wirzbięta, 1569.
Zwölff Bücher, darin alle gehaimnüß der natur eröffnet, 1570
Astronomia magna: oder Die gantze Philosophia sagax der grossen und kleinen Welt , Frankfurt, 1571.
De natura rerum libri septem : Opuscula verè aurea ; Ex Germanica lingua in Latinam translata per M. Georgium Forbergium Mysium philosophiae ac medicinae studiosum, 1573.
Metamorphosis Theophrasti Paracelsi : Dessen werck seinen meister loben wirt, Basel, 1574.
Von der Wundartzney: Ph. Theophrasti von Hohenheim, beyder Artzney Doctoris, 4 Bücher. (Peter Perna), 1577.
Kleine Wundartzney. Basel (Peter Perna), 1579.
Opus Chirurgicum, Bodenstein, Basel, 1581.
Huser quart edition (medicinal and philosophical treatises), ten volmes, Basel, 1589–1591; Huser's edition of Paracelsus' surgical works was published posthumously in Strasbourg, 1605.
Kleine Wund-Artzney. Straßburg (Ledertz), Benedictus Figulus. 1608.
Opera omnia medico-chemico-chirurgica, Genevae, Vol. 3, 1658.
Prognosticon Theophrasti Paracelsi, vol. 4 of VI Prognostica Von Verenderung vnd zufaelligem Glueck vnd Vnglueck der ... Potentaten im Roemischen Reich, Auch des Tuercken vnd Pabst ed. Henricus Neotechnus, 1620.
Modern editions
Paracelsus: Sämtliche Werke: nach der 10 Bändigen Huserschen Gesamtausgabe (1589-1591) zum erstenmal in neuzeitliches deutsch übersetzt, mit Einleitung, Biographie, Literaturangaben und erklärenden Anmerkungen. Edited by Bernhard Aschner. 4 volumes. Jena : G. Fisher, 1926-1932.
Paracelsus: Sämtliche Werke. Edited by Karl Sudhoff, Wilhelm Matthiessen, and Kurt Goldammer. Part I (Medical, scientific, and philosophical writings), 14 volumes (Munich and Berlin, 1922-1933). Part II (Theological and religious writings), 7 volumes (Munich and Wiesbaden, 1923-1986).
Theophrastus Paracelsus: Werke. Edited by Will-Erich Peuckert, 5 vols. Basel and Stuttgart: Schwabe Verlag, 1965-1968.
Selected English translations
Paracelsus: His Life and Doctrines Franz Hartmann, New York: Theosophical Publishing Co., 1918
Wouter Hanegraaff (Ed.): Paracelsus (Theophrastus Bombastus von Hohenheim, 1494-1541). Essential Theoretical Writings. Edited and translated with a Commentary and Introduction by Andrew Weeks. Brill, Leiden/Boston 2008, ISBN 978-90-04-15756-9.
Paracelsus: Selected Writings ed. with an introduction by Jolande Jacobi, trans. Norbert Guterman, New York: Pantheon, 1951 reprinted Princeton 1988
The Hermetic And Alchemical Writings Of Paracelsus, Two Volumes, translated by Arthur Edward Waite, London, 1894. (in Google books), see also a revised 2002 edition (preview only) Partial contents: Coelum Philosophorum; The Book Concerning The Tincture Of The Philosophers; The Treasure of Treasures for Alchemists; The Aurora of the Philosophers; Alchemical Catechism.
The Archidoxes of Magic by Theophrastus Paracelsus, translated by Robert Turner. Facsimile reprint of the 1656 edition with introduction by Stephen Skinner, Ibis Publishing, 2004.
Paracelsus: Essential Readings. Selected and translated by Nicholas Goodrick-Clarke. Berkeley, CA: North Atlantic Books, 1999.
Paracelsus: Theophrastus Bombastus von Hohenheim, 1493-1541: Essential Theoretical Writings. Ed. and trans. by Andrew Weeks. Leiden: Brill, 2008.
Online bibliographies
Digital library, University of Braunschweig
Zürich Paracelsus Project
Dana F. Sutton, An Analytic Bibliography of Online Neo-Latin Texts, Philological Museum, University of Birmingham — A collection of "digital photographic reproductions", or online editions of the Neo-Latin works of the Renaissance.

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March 24 [Fri], 2017, 0:50
政策空転懸念 日本でも 「働き方」など重要法案多く
日米で「政策空転リスク」が株安要因として浮上してきた。23日の東京市場は日経平均株価が一時、1カ月ぶりに1万9000円を割り込んだ。米国ではオバマケア(医療保険制度改革法)の撤廃を巡って、トランプ大統領と議会が対立。日本でも森友学園問題を巡って国会が空転し、経済関連の重要法案が棚ざらしになるリスクが意識され始めた。
この日は人材派遣のフルキャストホールディングスや求人サイト運営のディップなど「働き方改革関連銘柄」が逆行安した。長時間労働の是正などが進めば、業績の押し上げにつながるとみられている銘柄群だ。アンビションなど民泊関連銘柄も売られた。
森友学園問題を巡る国会での議論は長引きかねない情勢だ。籠池泰典理事長の証人喚問を経ても実態解明にはほど遠い。野党は安倍昭恵首相夫人に焦点をあてており、与野党対立が激化する恐れがある。
そうなれば働き方改革関連法案のほか、民泊にお墨付きを与える住宅宿泊事業法案なども成立時期が極めて不透明になってしまう。そんな投資家の懸念をこの日の市場は鮮明に映し出した。
欧米政治に大衆迎合の旋風が吹くなかでも、安倍政権の政治基盤は安定し、外国人投資家の評価を集めてきた。それだけに、「『政治プレミアム』がはげれば外国人の買いは細る」と、智剣・Oscarグループの大川智宏主席ストラテジストは警戒する。
国内勢も警戒感を強め始めた。フィデリティ投信で中小型株ファンドを運用する松井亮介ポートフォリオマネジャーは「足元で内規で定めるぎりぎりまで現金を増やした」と話す。日経平均で1万8000円を割り込むような暴落を予想する声は少数派。とはいえ、日米への政策期待は膨張から収縮に向かいつつある。
そんな投資家の懸念を象徴するようにある警戒サインが13日の米ニューヨーク証券取引所で点灯したのは見逃せない。「ヒンデンブルグ・オーメン」(ヒンデンブルグの予兆)と呼ばれるもので、第2次世界大戦前にドイツの飛行船、ヒンデンブルグ号が起こした事故が語源だ。52週間の最高値・最安値の数や移動平均など複数の条件が同時に成立することを指し、これが生じると株価は5%超の調整局面に向かうとされる。
2015年12月2日にこのサインが点灯した際は1カ月後の16年始から調整局面が始まった経緯がある。「今後1カ月くらいは米国発の世界同時株安への警戒が必要だ」とeワラント証券の小野田慎投資情報室長は話す。
米国が一段の利上げに向かうなか、財政をはじめとする政策への期待が市場を支えてきた。その局面で政策を実現する場である議会が日米で揺れている。市場でじわりと強まる「株安懸念」に対し、せめて心の準備はしておいた方がいいのかもしれない。
(関口慶太)

●ヒンデンブルグ・オーメンとは何か?
ヒンデンブルグ・オーメンは、「ヒンデンブルグの予兆」とも呼ばれ、米国株式市場のテクニカル的な株価暴落の前兆とされるシグナル(サイン)をいいます。これは、高値・安値銘柄数や移動平均線などを基に算出するテクニカル分析の概念(株価の先行きに警鐘を鳴らすもの)の一つで、盲目の物理数学者であるジム・ミーカ(Jim Miekka)が導き出したと言われています。
当初は、株式市場の分析家らは「サドベリの強気と弱気(Sudbury Bull & Bear)」と呼んでいましたが、今日では、「ヒンデンブルグ・オーメン(Hindenburg Omen)」と呼ばれることが多いです。また、その呼称は、1937年5月6日に米国のニュージャージー州レイクハースト海軍飛行場で発生したドイツの飛行船「ヒンデンブルク号」の爆発・炎上事故に由来し、オーメンとは「良くないことが起こる前兆」という意味があります。
一般にヒンデンブルグ・オーメンは、リーマンショック後の2010年8月に現れた際に、マーケットで話題となって知られるようになり、当時は、バーナンキンFRB議長が「QE2(量的緩和第2弾)」を示唆したことで暴落は回避されました。
●ヒンデンブルグ・オーメンの発生条件
現在、ヒンデンブルグ・オーメンの発生条件には諸説がありますが、直近では、以下の四つの条件が同じ日に起こった時に発生するとされています。また、一度発生すれば向こう30営業日は有効ですが、マクラレンオシレーターがプラスとなれば無効となります。
1.ニューヨーク証券取引所(NYSE)での52週高値更新銘柄と52週安値更新銘柄の数が共にその日の値上がり・値下がり銘柄合計数の2.8%以上
2.NYSEインデックスの値が50営業日前を上回っている
3.短期的な騰勢を示すマクラレンオシレーターの値がマイナス
4.52週高値更新銘柄数が52週安値更新銘柄数の二倍を超えない
ヒンデンブルグ・オーメンの発生と暴落(過去検証)
過去のデータによれば、ヒンデンブルグ・オーメンが確認された後、以下のようなことが起こると言われています。また、本シグナルが発生しても暴落しないケースもありますが、1985年以降では、米株式市場が暴落した際は、いずれの場合も本シグナルが現れたそうです。
・77%の確率で株価は5%以上下落する
・パニック売りとなる可能性は41%と算出されている
・重大なクラッシュとなる可能性は24%と算出されている

*Definition of 'Hindenburg Omen'
A technical indicator named after the famous crash of the German airship of the late 1930s. The Hindenburg omen was developed to predict the potential for a financial market crash. It is created by monitoring the number of securities that form new 52-week highs relative to the number of securities that form new 52-week lows - the number of securities must be abnormally large. This criteria is deemed to be met when both numbers are greater than 2.2% of the total number of issues that trade on the NYSE (for that specific day).

**Breaking down of 'Hindenburg Omen'
Traders use an abnormally high number of 52-week highs/lows because it suggests that market participants are starting to become unsure of the market's future direction and therefore could be due for a major correction. Proponents of this indicator argue that it has been very accurate in predicting sharp sell-offs in the past and that there are few indicators that can predict a market crash as accurately.

Read more: Hindenburg Omen Definition | Investopedia

B.D. came again, and...

April 13 [Sat], 2013, 0:00
Though not so many things have changed in my recent life,
suddenly upcoming into my head,
viewpoints have changed in many times in short term,
I think it's so difficult to tell them in words.
Symptoms of overeating has changed again as well as that "itcy",
but I don't feel like focus them, and like to say;
but, before those things, I think I have to see other than them.

**Very sorry to have left you for weeks though I thought to write to you, Aki-san?

**I totally agree to you that C&A has wonderful pieces
also in Album and C/W. I got to feel like listen to them again!
**I always think especially to young people, recently got advanced,
or went to higher education.
I really hope they have chances to listen to or watch or see wonderful pieces;
books, various music, pictures, paints, drawings, movies and mangas.
In life, the period that one can learn what does not be useful in a very short time
won't last so long...


**Welcome back to you! I thought I'd had an illusion of you.
Yes, we can get happy without limit if we can change the way of receipt this real life,
no matter how we have much, many symptoms-
I really hope all of with this disease to make sure such possibility in their each heart!


While all of this going on, I'm getting old and now 35.
As I get older, year by year I feel how dare I keep on living in such way.
Since when I was a teenager, I have believed really various things -
then couldn't cling to and gave up, suffered much each time,
repeated the same thing so many time.
Now I think I've been haste to live all the time.
Some says this world, life is a class of learning of soul,
I shouldn't have crammed such many things to learn for this short term.
I should say to myself, remaining half of my life,
I can go slow, don't have to be haste in that way.

Recovergraphy of bulimia 2012.08.26.ver.

August 26 [Sun], 2012, 16:55
Before connecting to Center:
Overeating and vomiting; all day long, 10,000 yen a day, for 16 years.
After consultation: Overeating and vomiting; Completely stopped in 220 days;
Symptomatic relief: in 2,404 days;
Amount of overeating and time is 10% of the symptomatic peak in spring of 2000 (22 y.o.).
Cost: after consultation, saved 19,000,000 yen; 300,000 yen a month, 36,500,000 yen per decade.


I have had no symptoms of overeating on 3 or 4 days in a week, but the state of mind hasn't been very good.
It must be easier if I can do overeat, but think it's bothersome and painful, at the end went to bed.
I can't find any reason, something like a sorrow and loneliness come to feel,
I can't say to insecurity, but rather strong sense of fatigue is most of the time,
I can't do things that I can complete soon if I start to try.

Do not think of.
Do not scratch itchy places.
Do not play with the tip of your hair and nails.
Just do sense everything you're touch now.
Just take everything up, with all sensory organs sharpen up.

Without overeating, I can do that now.
Now the impulse of overeating has got weaken and decreased enough.
Already the state of body and mind have got to be, NOT equal to the abnormality of the symptom.
When I was feeling strong impulse for overeating, I could not do such things,
because the things were too strong and heavy to feel out, the level was over bodily limit.

Just for "feeling"... What we should do to learn that?
However this bulimic sufferers live to, wishing recovery, wishing more "normal" life,
this's the most important thing to learn, I think.

Even that, as different as fingerprints, hundreds patients, hundreds types,
thousands patients, thousands types, each patient should find the way of that.
When a patient discovered and expressed as much as she can, that must be a clue of some people
to find the way.
So I think to express is very important for both of self and the all.

From the morning, opened all windows fully open and let the winds go thorough,
but it's 33 degree C's hot blast! My T is totally sweaty,
and on my cushion covered with towel, oo in shape of hip printed.
P R
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