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「ご隠居」
助三郎が呼んだ。
その声に含まれる深刻さが、格之進の胃の腑を掻きまわす。日誌を書く手を止めて、格之進は陰影の濃い助三郎の顔を見た。
「どうしました、助さん?」
ご老公の反問はむしろ気楽な口調だった。雰囲気を中和しようとする意図があってのことと格之進には思えたが、助三郎の放つ重さの方が濃かった。
助三郎は膝を進めて、ご老公の前に正座した。
「新之助さんに、」
と、助三郎は言った。
「新之助さんに、名乗るわけには参りませんか」
「助さん…!」
心底ぎょっとした。筆を放り出し、机の前を立って、格之進は助三郎の隣に膝をつく。
「討たれるつもりか!?」
そうに違いないと思った。
「そんなことは云っていない」
格之進に顔を向けて、助三郎は否定した。しかしその声は強張っていた。
「俺はただ、名乗って果し合いを受けると云っているんだ」
ほぼ反射的に、格之進は上体を近づける。
「新之助さんの腕では、お前は倒せない」
彼らは東新之助の太刀筋を見ている。助三郎の方が格段、上だ。勝負にはなるまい。
その新之助に、自分が仇だと名乗ると言う助三郎の真意が、彼を返り討ちに遭わせることにあるとは思えないからこそ、格之進は恐れを抱く。新之助のために討たれる覚悟と思えるからだ。
自分の感じすぎではない、いやな気配があると格之進は思う。忍び寄ってくる、気を許すと呑み込まれる不毛の気配だ。
「助さん」
強く、名を呼んだ。
格之進がずいと迫った分、助三郎は上体を退いた。
「このままでは、あの人はこれからも俺を探して放浪し、虚しい仇討ちの旅を続けることになる。国へ帰ることも出来ないんだ」
助三郎の声はひどく切迫していた。
「しかし助さん、」
「五年だ、格さん」
助三郎が格之進の言葉を遮った。そこにはわずかだが苛立ちがあった。焦燥に近いものが。
「若く、爽やかな侍だったはずの東新之助が、父を殺され、仇討ちを誓って国を出た。どこにいるとも知れぬ仇を探して、諸国を放浪してきた。食うや食わずの旅だ。その間に国元では母が死に、幼い弟も死んだ。新之助さんはその死に目にも会えなかった」
助三郎の声は苛立ちに満ちていたが、その目に浮かんでいるのは苛立ちでも非難でもなく、悲しみだった。ただ、悲しみと痛みだった。
「…助さん」「なんのためだ」
と、助三郎。
「助さん」
格之進がひるんだのは、助三郎の瞳が本当に切実だったからだ。
外では雨がしきりと降っている。
格之進が黙っていると、助三郎は自ら答えを口にした。
「すべて、俺を討つためだ。ただ、そのためだけに、東新之助はすべてを捨ててさ迷ってきた」
「だからと云って助さん、」
「どんな形ででもいい」
助三郎はそう言って、もう一度格之進の言葉を遮った。その目には、ひたむきな表情が浮かんでいる。
「どんな形ででもいいんだ。とにかく、もう五年も続いてきた仇討ちの旅を終わらせてやりたい」
格之進を見てそう呻いた助三郎は、ご老公に視線を移した。
「そう思うのは、私の驕りでしょうか、ご隠居。傲慢でしょうか」
喘ぐような声だった。
「…どんな形ででも、と云うことはつまり、」
柔和な眼差しをすうっと細めて、ご老公が言った。
「返り討ちに遭わせてでも、と云っているんですか」
助三郎が目を伏せた。喉仏が大きく動く。
「助さん」
とご老公に促され、さらに寸刻を経てから、助三郎は小さな咳のように返事をした。
「…はい」
その視線は落ちたままだ。そのまま、呻くように彼は言った。
「おっしゃられる、通りです」
ご老公が助三郎を見つめる。かなり長いこと、じっと見つめた。それからご老公は断言した。
「助さんにそれが出来るとは、思えませんな」
「ご隠居…!」
と、助三郎が視線を上げた。
「格さんが懸念するのもわかります。新之助さんのために命を捨てるつもりですか、助さん」
ご老公は真っ直ぐに助三郎の目を見つめて、そう切り込んだ。
助三郎は答えない。
仮に新之助の腕が助三郎と互角ならあるいは、格之進も、助三郎本人も、こんな考えには悩まされなかったかもしれない。結果が予測できぬならむしろ、武士として真剣勝負に挑むまでだ。だが、剣を交えぬうちから、勝負は見えている。
では、助三郎のような男がそのような決闘に挑むとき、なにを考えているだろう?
「そもそも、東新一郎が佐々木助三郎に討たれたというのは事実なのか」
すでに議論はそこには無かったが、格之進は言った。
「真相も定かではないのだろう」
「俺にはわからん」
助三郎は言った。それは、わからないというよりも、どちらでもいいというように響いた。そんなことはもう、どうでもいいのだというように。
新之助の探す仇が水戸藩士、佐々木助三郎だと知ったとき、一行は既に新之助と親しくなり過ぎていた。
殊に助三郎と新之助は不思議と惹かれ合うものがあったようで、助三郎が新之助を弟のように見ていることに格之進は気づいていたし、新之助も身分を省みず、ちりめん問屋の手代でしかない"助さん"を慕っていた。因果なものだ。
「助さん」
「新之助さんは立派な侍です、ご隠居」格之進には応えず、そう言って助三郎はご老公を見た。
「誠実で潔い若者です」
「助さん」
「私を討たぬ限り、あの人はあてのない旅を続けるんです。このまま、知らぬ顔で擦れ違うことは、私には…」
助三郎の声が震えた。
「……私には、できません」
「…助さん」
嘆息と共に、ご老公が助三郎を呼んだ。
「お願いします、ご隠居」
助三郎は呻いた。すがるように見つめたと、彼は自分でわかっているのだろうかと格之進は思う。格之進は、助三郎がこんな表情、こんな視線を持っているということをこの瞬間まで知らなかった。
格之進は途方に暮れ、ご老公を見る。
ご老公は黙って助三郎を見つめていた。
雨の匂いがする。闇が匂いを浮き立たせるのは何故だろう。匂いも、静寂も。湿った空気が室内に忍び込んでくる。
「あなたはお父上よりも、お強いのですか」
と、今朝、助三郎が新之助に問うていた。
くたびれた袴姿の新之助はその問いに、首を横に振って答えた。
「父が私の剣の師だった。私は父には決して及ばなかった。父からは一本も取れたことがない」
「あなたの剣がお父上に劣るのであれば、」
と、助三郎は言った。
「仇など討てないのではありませんか、新之助さん」
町人――と新之助は思っている――の指摘に、新之助がぐっと奥歯を噛んだ。
助三郎の言う通りである。父に敵わなかった新之助が、その父を倒した相手に敵うはずはない。新之助は父の仇に敵わず、返り討ちに遭うだろう。
「仇を追う間に、あなたは少しでも強くなったのですか」
助三郎が尋ねた。
拳を握りしめたまま、うつむいた新之助が押し黙る。
年若く聡明な、しかし疲れ果て、飢えた野良犬のような侍に、助三郎はさらに言った。
「強くなってもいないのに、あなたは何を、したかったのです。仇を見つけて、何をしようとしているのです」
「父の、仇を…」
「お父上よりも弱いまま?」
と、助三郎が言った。
「討てるわけがないじゃありませんか」
「町人のお主にはわからぬことだ…!」
新之助が声を荒げた。
「なるほど、お主は強い。だが、町人が遊び半分にする剣術と、侍は違うのだ。侍には侍の掟がある。たとえ返り討ちに遭おうと、私は父の仇を見つけ出し、挑まねばならぬのだ。そうせぬ限り、私は国へは帰れない。藩を離れているから知行ももらえず、家族は困窮している。仇討ちを果たさねば、私は家名の継承すら許されぬ」
「…新之助さん」
「佐々木助三郎を討ち果たす以外に、道はないのだ!たとえ死んでも!」
新之助が全身で叫んだ。
血を吐くような叫びとは、ああしたものを言うのだろうと、格之進は思った。そして、その叫びが助三郎にもたらしたものを想像すると苦しくなるのだ。
仇、として追われることには、それだけで迫ってくる負の波動があるように思う。その理由の如何を問わず。この世のどこかに、すべてを投げ打って自分を追う者がいる。必ず探し出して討ち果たすと誓った者がいる。その凄まじい想念は限りなく呪いに近くはないだろうか?太平楽の助三郎をして、自ら討たれようと思わせるほどの思念だ。
やり切れない。
「助さん」
長い沈黙のあとにご老公が助三郎を呼んで、格之進の意識はいまへ立ち戻った。
「は、」
短く助三郎が応えた。
「軽はずみなことは、」
と言いかけて、ご老公は言い直した。
「いや…よほど考えた末に云っているのだとはわかります。わかりますがな、待ちなさい」
「ご隠居」
助三郎が反駁しようとしたが、ご老公はそれを許さなかった。視線だけで助三郎を制して、ご老公は言った。
「助さんの命は、助さん一人のものではありませんぞ」
う、と助三郎が喉を詰まらせた。
その通りだったからだろう。事実、佐々木助三郎の命は彼自身のものだけではない。藩のものであり、なによりもご老公のものでもある。
「私の云う意味がわかりますな?」
末の息子を見るような眼差しで、ご老公が助三郎の両目を覗き込む。
「…はい」
喘ぐように、助三郎がうなずいた。
「助さんに死なれては私が困ります」
冗談めかせてご老公は言い、格之進を見た。
「格さんだって、そりゃあ困るでしょう」
「はぁ、」
助三郎が情けない声を出して格之進を見た。
視線が合った助三郎の目は充血し、ひどく疲れて見えた。彼の懊悩の激しさを垣間見て格之進が胸を痛めたとき、助三郎が所在なげに薄く微笑った。格之進がこれまで見たことのない、それは不自然な、ぎこちない微笑だった。

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私好みのストーリーラインです。と云うか、助格ファンなら、みんな期待しそうなお話ですね。あるとよいですね、本っ当に。










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