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「しっかりしろ…!」
瀕死のくノ一を抱き起こした助三郎が呻くように、言った。
「逝ってはならん、頼む…!」
それは懇願に、聞こえた。
格之進は刹那、ざわっと全身に鳥肌を覚えた。総毛立っていた。
「助さん…!」
と、格之進は背後から彼の肩を、強く掴んだ。そうせずには、いられなかったのだ。怖れに近いものを感じていた。いますぐ、助三郎とこの女を引き離したいと切望した。
「助さん!」
「助…助さん……佐々木、さま…」
同じ必死さで、女が助三郎を呼んだ。助三郎のではなく、格之進のそれと同じ、必死さで。
不意に、格之進は気づいた。
柳沢吉保によって放たれたこの隠密が、真実、助三郎を想っていることを。はじめは確かに、ご老公暗殺のために一行に近づいてきた。だが彼女は惹かれてしまったのだ。くノ一として、性技によって陥落すべき相手であった助三郎に。
いつからだろう。
格之進は思う。思えばいつか、彼女が助三郎を見つめる眼差しは変わっていた。まるで、助三郎が生きていることを、息をしてそこに存在することを確かめるような眼差し。助さん、と名を呼ぶ声に秘められていた思慕。
だがもう遅い。
助かる傷でないことは、格之進にも助三郎にも、無論、女自身にも明らかである。
くノ一の、漆黒の双眸が、まるで幻のように助三郎を映している。
「わたしのような女に…この汚れたわたしに、そのようなことを云ってくれて、」
女は苦しく息をついだ。
「うれしい…」
事実、彼女は汚れない武家娘や商家の娘ではない。弱く純粋な百姓の娘でも、無論、ない。血にまみれた忍びである。幕政を私する権力者のために、人を欺き騙し、殺め、時に夜鷹(よたか)として己の身を売って働いてきたくノ一だ。
そうだ。いったい誰が、このような女に、死ぬなと言うだろう?引き止めるだろう?
身も心も穢れた女だ。
彼女の正体を知ったとき、格之進はそう思った。
汚れ仕事をする忍びを蔑むわけでは決して、ない。だが彼女は、仕える主の不正義を知りつつ、長く、ただその手先となって働いてきた。それが、格之進は許せない。
そう生まれついた彼女の不幸を慮る余裕は、この場合、格之進にはなかった。何故なら、助三郎を騙そうとした、裏切った、そのことに怒りを覚えるからだ。
けしからん女だと心から憤慨した。汚らわしいと、思ったのだ。
だがいま、彼女は、これまで格之進が見知ったどんな女人よりも美しく、清浄に見えた。大名の姫君よりも、大店のお嬢さまよりも、ずっと。
「助さん…」
そう助三郎を呼ぶ彼女は、弥勒のような顔をしていた。尊いほどに美しく、慈愛に満ちていた。
その眼差しにあるものは、敵として出会うしかなかった己の運命への悲しみでも怒りでもない。ただ、助三郎の存在そのものへの敬意であり憧憬であり、感謝だ。
彼女は言った。
「あなたの、その言葉を聞くために…ただ、そのためだけに…わたしは、生まれてきたんだね……」
「もうなにも、云うな…」
助三郎が呻く。
「好きだった……心から…」
そう言って、彼女はふっと淋しげに微笑した。
「心など…持たずに生まれたと、思っていたのに……」
言葉ない助三郎の指が、女の双眸から零れた涙を拭った。
「生まれてきて、よかった……」
諦念からだろう。すでに彼女の顔に苦痛はなかった。美しく、しかしどこまでも悲しく、くノ一は微笑んだ。光が飛び散るような微笑だった。
「あなたに…会えて、わたしは……」
それが彼女の、最期の言葉だった。
くノ一がこときれ、その場の時間が静止した。
「…助さん」
格之進は呼んだ。無意識だった。
片膝に彼女を抱いていた助三郎が、花でも手折るようにそっと、細い亡骸を大地に横たえる。そのまま、彼は静止した。
誰も動けず、無言だった。格之進もご老公も、お娟もなにも言えなかったし、助三郎も黙していた。涙もないようだった。
空を渡ってゆく風が、泣いている。ただ、それだけだ。
どれほどの間、そうしていただろう。
「……格さん」
助三郎が呼んで、格之進ははっとした。
「あ、ああ」
「肩が痛い」
惚けたような声で助三郎が言った。
格之進はまだ、助三郎の背後から、彼の肩を力任せに掴んでいたのだ。言われて気づいたが、自分でも驚くほどの力を込めていた。女や子供ならば肩が砕けても不思議はないほどの力だ。
「すまん…!」
慌てて力を抜く。抜きはした。だが格之進は、その手を助三郎から放すことができなかった。
くノ一は静かに微笑んでいる。その死に顔は、はっとするほど清冽に美しかった。
「しっかりしろ…!」
瀕死のくノ一を抱き起こした助三郎が呻くように、言った。
「逝ってはならん、頼む…!」
それは懇願に、聞こえた。
格之進は刹那、ざわっと全身に鳥肌を覚えた。総毛立っていた。
「助さん…!」
と、格之進は背後から彼の肩を、強く掴んだ。そうせずには、いられなかったのだ。怖れに近いものを感じていた。いますぐ、助三郎とこの女を引き離したいと切望した。
「助さん!」
「助…助さん……佐々木、さま…」
同じ必死さで、女が助三郎を呼んだ。助三郎のではなく、格之進のそれと同じ、必死さで。
不意に、格之進は気づいた。
柳沢吉保によって放たれたこの隠密が、真実、助三郎を想っていることを。はじめは確かに、ご老公暗殺のために一行に近づいてきた。だが彼女は惹かれてしまったのだ。くノ一として、性技によって陥落すべき相手であった助三郎に。
いつからだろう。
格之進は思う。思えばいつか、彼女が助三郎を見つめる眼差しは変わっていた。まるで、助三郎が生きていることを、息をしてそこに存在することを確かめるような眼差し。助さん、と名を呼ぶ声に秘められていた思慕。
だがもう遅い。
助かる傷でないことは、格之進にも助三郎にも、無論、女自身にも明らかである。
くノ一の、漆黒の双眸が、まるで幻のように助三郎を映している。
「わたしのような女に…この汚れたわたしに、そのようなことを云ってくれて、」
女は苦しく息をついだ。
「うれしい…」
事実、彼女は汚れない武家娘や商家の娘ではない。弱く純粋な百姓の娘でも、無論、ない。血にまみれた忍びである。幕政を私する権力者のために、人を欺き騙し、殺め、時に夜鷹(よたか)として己の身を売って働いてきたくノ一だ。
そうだ。いったい誰が、このような女に、死ぬなと言うだろう?引き止めるだろう?
身も心も穢れた女だ。
彼女の正体を知ったとき、格之進はそう思った。
汚れ仕事をする忍びを蔑むわけでは決して、ない。だが彼女は、仕える主の不正義を知りつつ、長く、ただその手先となって働いてきた。それが、格之進は許せない。
そう生まれついた彼女の不幸を慮る余裕は、この場合、格之進にはなかった。何故なら、助三郎を騙そうとした、裏切った、そのことに怒りを覚えるからだ。
けしからん女だと心から憤慨した。汚らわしいと、思ったのだ。
だがいま、彼女は、これまで格之進が見知ったどんな女人よりも美しく、清浄に見えた。大名の姫君よりも、大店のお嬢さまよりも、ずっと。
「助さん…」
そう助三郎を呼ぶ彼女は、弥勒のような顔をしていた。尊いほどに美しく、慈愛に満ちていた。
その眼差しにあるものは、敵として出会うしかなかった己の運命への悲しみでも怒りでもない。ただ、助三郎の存在そのものへの敬意であり憧憬であり、感謝だ。
彼女は言った。
「あなたの、その言葉を聞くために…ただ、そのためだけに…わたしは、生まれてきたんだね……」
「もうなにも、云うな…」
助三郎が呻く。
「好きだった……心から…」
そう言って、彼女はふっと淋しげに微笑した。
「心など…持たずに生まれたと、思っていたのに……」
言葉ない助三郎の指が、女の双眸から零れた涙を拭った。
「生まれてきて、よかった……」
諦念からだろう。すでに彼女の顔に苦痛はなかった。美しく、しかしどこまでも悲しく、くノ一は微笑んだ。光が飛び散るような微笑だった。
「あなたに…会えて、わたしは……」
それが彼女の、最期の言葉だった。
くノ一がこときれ、その場の時間が静止した。
「…助さん」
格之進は呼んだ。無意識だった。
片膝に彼女を抱いていた助三郎が、花でも手折るようにそっと、細い亡骸を大地に横たえる。そのまま、彼は静止した。
誰も動けず、無言だった。格之進もご老公も、お娟もなにも言えなかったし、助三郎も黙していた。涙もないようだった。
空を渡ってゆく風が、泣いている。ただ、それだけだ。
どれほどの間、そうしていただろう。
「……格さん」
助三郎が呼んで、格之進ははっとした。
「あ、ああ」
「肩が痛い」
惚けたような声で助三郎が言った。
格之進はまだ、助三郎の背後から、彼の肩を力任せに掴んでいたのだ。言われて気づいたが、自分でも驚くほどの力を込めていた。女や子供ならば肩が砕けても不思議はないほどの力だ。
「すまん…!」
慌てて力を抜く。抜きはした。だが格之進は、その手を助三郎から放すことができなかった。
くノ一は静かに微笑んでいる。その死に顔は、はっとするほど清冽に美しかった。
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