Related episode is "将軍を狙った男" the 1st of the 33rd part,
takes place after the 14th episode.
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「どうしました、助さん」
ご老公が言った。
それで格之進は助三郎を見たが、当の本人はご老公に呼ばれたことに気づいていないようだ。
片手に湯飲みを持ったまま、助三郎は茶を飲むでもなく、その濃い緑の液体を睨んでいる。厳しい表情にきつい眼差しだった。
旅籠の一室。夕餉の席である。
「助さん?」
数秒を置いて、格之進は少し声を大きくして彼を呼んだ。
「なんだ?」
と普通に、助三郎が顔を上げる。
格之進は無性に悲しくなった。
「ご隠居がお呼びだ」
視線をご老公に向けて助三郎の注意を促す。
「なんでしょう、ご隠居」
助三郎は湯飲みを置きながら、ごく普通の仕草でご老公を見た。彼は自分が心ここにあらずだったことを認識していないのだろう。
「どこか体の具合でも悪いのですかな」
そう言ってご老公は助三郎の膳に視線を落とした。
「ほとんど食べていないようですが」
「え、」
とご老公の視線を追って自分の膝の前に視線をやった助三郎は、少し決まり悪そうな顔でご老公を見て首を左右に振った。
「いえ…そんなことはありません。少しぼーっとしておりました。申し訳ありません」
「心配事でもありますかな?助さん」
と、ご老公。
にっこり、と助三郎は微笑した。
「いいえ」
断言だった。それはご老公に対してすら、これ以上の質問を拒絶する微笑だ。答えるつもりはないと、その柔らかい笑みが云っている。
「そうですかな」
ご老公の声も視線も柔和だったが、その眼差しは助三郎の表情の一変も見逃すまいと注がれている。
「はい」
助三郎はうなずき、取って付けたように椀と箸を持って白い飯を口に運んだ。その仕草、表情は普段どおりの穏やかさに満ちている。それでもその全身はこれ以上訊くなという空気を放っているように思えた。
ご老公は黙って、そんな助三郎を見る。それ以上、訊こうとはしなかった。
もっとも、ご老公とて何が助三郎を悩ましているのか重々承知だろうと格之進は思う。
そうだ。格之進にも、わかっていた。
彼らは明日、いよいよ鳥取に入る。入らずとも、その地へ近づいたこの数日、彼らはある豪商の名を頻繁に耳にするようになった。
西海屋甚左衛門。
忌まわしいその名は、諸外国との密貿易や将軍暗殺未遂事件といった本来の問題よりもむしろ、ある男を格之進に思い出させる。ならば、それは助三郎には数倍の効用をもって作用しているはずだ。
工藤祐馬。
間違いなく、助三郎はあの男のことを考えている。あの男のことを思い出しているのだ。
格之進は不思議だった。
死して尚、なぜあの男はこうまで助三郎の心を捕らえるのか。なぜあの男だけが、格之進が不安を覚えるほどに助三郎を惑わすのか。あまたの女も、剣の師や同門の仲間すら、格之進と助三郎の絆を揺るがすことはできないというのに。なぜ、あの男だけが――
「助さん」
それと知らぬ間に、格之進は彼を呼んでいた。
いつの間にか、助三郎はまた静止していた。椀と箸を持つ両手が膝にのっていて、視線は正面に座っている格之進の腹の辺りに注がれているが、決してそこを見ているわけではない。
「助さん」
「あ、ああ」
はっと視線を上げて格之進を見たときには、助三郎はいつも通りの表情を浮かべている。
「なんだ、格さん」
その邪気のない顔。その漆黒の瞳。どこまでもシラを切るつもりなのだ。
「…っつ」
格之進は息を詰めて言葉を失う。
「格さん?」
と助三郎は小首を傾げてこちらを見た。
「なんでもない」
むっつりと云って、格之進はすっかり冷めた茶を啜った。なにも語らない助三郎が腹立たしくもあったが、むしろ心許ないような不安が格之進の心を満たしている。
西海屋甚左衛門は、祐馬の仇だ。
祐馬の人生を狂わせたのは十数年前の黒川藩のお家騒動だが、少年だった彼を拾い、育て、憎悪を植付けて将軍暗殺の道具に仕立て上げたのは西海屋であり、用済みと祐馬抹殺を命じたのも西海屋だった。
工藤祐馬は助三郎の腕のなかで死んだ。
助三郎は涙を見せなかった。だが、むしろ涙のない分、助三郎の痛みと悲しみ、怒り、救えなかった無念とを、格之進は感じた。骨が軋むような激しい、多くの感情が交錯した、彼の苦渋を。
駿府を発って以来、助三郎が祐馬、あるいは西海屋の名を口に出したことはない。だが、いやだからこそ、あの一連の出来事がいまも彼のなかで生傷のままであろうと思われた。
西海屋甚左衛門を前にして助三郎がどう反応するか、格之進には予想もつかない。
明日は鳥取である。
目的地へ足を踏み入れることを、格之進がこんなにまで憂いたことはない。
takes place after the 14th episode.
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「どうしました、助さん」
ご老公が言った。
それで格之進は助三郎を見たが、当の本人はご老公に呼ばれたことに気づいていないようだ。
片手に湯飲みを持ったまま、助三郎は茶を飲むでもなく、その濃い緑の液体を睨んでいる。厳しい表情にきつい眼差しだった。
旅籠の一室。夕餉の席である。
「助さん?」
数秒を置いて、格之進は少し声を大きくして彼を呼んだ。
「なんだ?」
と普通に、助三郎が顔を上げる。
格之進は無性に悲しくなった。
「ご隠居がお呼びだ」
視線をご老公に向けて助三郎の注意を促す。
「なんでしょう、ご隠居」
助三郎は湯飲みを置きながら、ごく普通の仕草でご老公を見た。彼は自分が心ここにあらずだったことを認識していないのだろう。
「どこか体の具合でも悪いのですかな」
そう言ってご老公は助三郎の膳に視線を落とした。
「ほとんど食べていないようですが」
「え、」
とご老公の視線を追って自分の膝の前に視線をやった助三郎は、少し決まり悪そうな顔でご老公を見て首を左右に振った。
「いえ…そんなことはありません。少しぼーっとしておりました。申し訳ありません」
「心配事でもありますかな?助さん」
と、ご老公。
にっこり、と助三郎は微笑した。
「いいえ」
断言だった。それはご老公に対してすら、これ以上の質問を拒絶する微笑だ。答えるつもりはないと、その柔らかい笑みが云っている。
「そうですかな」
ご老公の声も視線も柔和だったが、その眼差しは助三郎の表情の一変も見逃すまいと注がれている。
「はい」
助三郎はうなずき、取って付けたように椀と箸を持って白い飯を口に運んだ。その仕草、表情は普段どおりの穏やかさに満ちている。それでもその全身はこれ以上訊くなという空気を放っているように思えた。
ご老公は黙って、そんな助三郎を見る。それ以上、訊こうとはしなかった。
もっとも、ご老公とて何が助三郎を悩ましているのか重々承知だろうと格之進は思う。
そうだ。格之進にも、わかっていた。
彼らは明日、いよいよ鳥取に入る。入らずとも、その地へ近づいたこの数日、彼らはある豪商の名を頻繁に耳にするようになった。
西海屋甚左衛門。
忌まわしいその名は、諸外国との密貿易や将軍暗殺未遂事件といった本来の問題よりもむしろ、ある男を格之進に思い出させる。ならば、それは助三郎には数倍の効用をもって作用しているはずだ。
工藤祐馬。
間違いなく、助三郎はあの男のことを考えている。あの男のことを思い出しているのだ。
格之進は不思議だった。
死して尚、なぜあの男はこうまで助三郎の心を捕らえるのか。なぜあの男だけが、格之進が不安を覚えるほどに助三郎を惑わすのか。あまたの女も、剣の師や同門の仲間すら、格之進と助三郎の絆を揺るがすことはできないというのに。なぜ、あの男だけが――
「助さん」
それと知らぬ間に、格之進は彼を呼んでいた。
いつの間にか、助三郎はまた静止していた。椀と箸を持つ両手が膝にのっていて、視線は正面に座っている格之進の腹の辺りに注がれているが、決してそこを見ているわけではない。
「助さん」
「あ、ああ」
はっと視線を上げて格之進を見たときには、助三郎はいつも通りの表情を浮かべている。
「なんだ、格さん」
その邪気のない顔。その漆黒の瞳。どこまでもシラを切るつもりなのだ。
「…っつ」
格之進は息を詰めて言葉を失う。
「格さん?」
と助三郎は小首を傾げてこちらを見た。
「なんでもない」
むっつりと云って、格之進はすっかり冷めた茶を啜った。なにも語らない助三郎が腹立たしくもあったが、むしろ心許ないような不安が格之進の心を満たしている。
西海屋甚左衛門は、祐馬の仇だ。
祐馬の人生を狂わせたのは十数年前の黒川藩のお家騒動だが、少年だった彼を拾い、育て、憎悪を植付けて将軍暗殺の道具に仕立て上げたのは西海屋であり、用済みと祐馬抹殺を命じたのも西海屋だった。
工藤祐馬は助三郎の腕のなかで死んだ。
助三郎は涙を見せなかった。だが、むしろ涙のない分、助三郎の痛みと悲しみ、怒り、救えなかった無念とを、格之進は感じた。骨が軋むような激しい、多くの感情が交錯した、彼の苦渋を。
駿府を発って以来、助三郎が祐馬、あるいは西海屋の名を口に出したことはない。だが、いやだからこそ、あの一連の出来事がいまも彼のなかで生傷のままであろうと思われた。
西海屋甚左衛門を前にして助三郎がどう反応するか、格之進には予想もつかない。
明日は鳥取である。
目的地へ足を踏み入れることを、格之進がこんなにまで憂いたことはない。
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