takes place after the 2nd episode "嵐を呼ぶ瀬戸内の謎!" of
the 38th part,
I own no rights to "水戸黄門", no copyright infringement is intended.
なにを捨て なんのため愛すのが 生きること
―― Yutaka Ozaki, 1988
「すまなかった」
と格之進が頭を下げて、助三郎は驚き、困惑する。
「格さんが詫びる必要などない。そう言ったではないか」
「ともかく詫びる」
「どうして」
「どうしてもだ」
口を尖らせて格之進が主張し、助三郎は閉口した。
「子供じみているな、格さんは」
言いながら、自然と笑みが浮かんだ。
こうした格之進の気質に、ときおり助三郎が救われているのは確かである。
先日彼らは珍しく口論に至ったが、その後も格之進に腹を立てていると思われていたこと、素気ないと言われたことに、助三郎は正直なところ、驚きとともに自戒を覚えた。
あのとき俺は、と、眉目秀麗とはこういう顔を云うのだろうと思わせる格之進の、その額の理知をぼんやりと見て、助三郎は思った。
あのとき俺は、なにを、どんな言葉を格之進から期待していたんだろうか。
あの旅籠の一室で、あのとき。
赤津の侍たちは山内志保を先頭に立たせ、花崎藩に戦を仕掛けようとしている。武士の一分を通そうと、赤津の名誉のため、裕之進の無念を晴らすために、猪突しようとしている。そしてそれを止めようとした自分を、藩士たちも志保も拒んだと、格之進に訴えたときのことだ。
「それは違うぞ、助さん」
振り向きながらそう言った格之進は、理解できないという顔をしていた。まったく理解できない、という顔を。
少なくとも、それは助三郎の期待した反応ではなかった。
「兄を殺され、藩を奪われそうになっている志保殿の、命を捨てるという覚悟はわかるだろう…!」
糺すような強い口調で格之進はそう、つづけた。そんなことは当たり前だろう、と言わんばかりだ。
「藩を召し上げられそうになっている若者が、命を捨ててかかろうというのもわかる」
それは助三郎とて、わかっていた。そういった誇り、その種の覚悟は、武士ならば当然なのだ。だが、だからといって、と助三郎が反論しようとしたとき、格之進がきっぱりと断じた。
「安易に止めるのは間違っている」
刹那、全身の骨がぎしっと軋んだ。突如として自分のなかに生まれた激情が、格之進に対するものなのか、自分自身に対するものなのか、あるいは志保か赤津の侍たちか、それとも状況そのものに対する怒りなのか、助三郎には、まるでわからなかった。
「それじゃ格さん…!」
と立ち上がった助三郎は、わけのわからない焦燥に駆られ、全身で訴えていた。
「俺たちはなんのためにこんな遠くまでやって来たんだ!赤津藩を救うためだろう!? なにもしないうちにみんな死んでしまってもいいと言うのか!?」
「そんなことは言っておらん!」
声を荒げて、格之進も立ち上がった。不服そうに、苛立たしげに、彼は言った。
「俺は、志保殿の気持ちや、侍が命を捨てるとはどういうことか、ただそれを言っているだけだ!」
返す言葉は何一つ、出てこなかった。
格之進の目を睨んだ自分の視線がひどく恨めしげなものになったと自分でわかったから、すぐに目を反らした。助三郎はきつく目を閉じた。網膜の奥が熱かった。昂ぶった感情を鎮めるために、それと意識する必要があった。これほどのことは、ここ数年なかったことだ。
格之進は正しい。助三郎は彼が好きだ。だが、燕麦で育ったような彼の無垢さは、ときに残酷だ。
いずれにせよ、以後の助三郎はただ、己の思考に気を取られていたに過ぎない。
ふとしたときに、赤津で抱いた暗澹とした気持ちがよみがえってきていた。ただ、それだけなのだ。
考えずにいられなかった。
武士とはなんなのか。いやむしろ、武士として、己が尊ぶべきものはなんなのか。守るべきは、なんなのか。
あの騒動の折、赤津では、国を守るべき武士たちが、国を救う方策を模索するのではなく、進んで国を滅びへ導こうとしていた。武士の一分が立たぬといきり立ち、負けを承知の戦を仕掛けて領民までを死なせようとしていた。
それが武士なのか、と助三郎は苦く思う。
そんなものが、武士なのか。
武士であること、そして己の剣に誇りを抱く助三郎であるからこそ、その疑問と懐疑は彼を迷わせた。
「助さん」
格之進が呼んだ。
「上の空なんだな」
と言って彼は薄く笑った。彼に似合わない、どこか自嘲的な表情だ。
「ああ、すまん」
反射的に助三郎は言っていた。この態度が格之進をして、助三郎が腹を立てていると思わせたのだろうからだ。
「さっきから言っているように、」
と助三郎は言った。
「格さんに腹を立てているわけではないんだ」
本当のことなのに、自分でも言い訳がましく聞こえた。
格之進がじっと助三郎を見た。漆黒の、まるで忠犬のような、真っ直ぐな眼差しだ。
「ただ俺は」
思わず言いかけて、そこで助三郎は奥歯を噛んだ。弱さを吐露することに、どうしても抵抗がある。武士とは往々にそうしたものだ。相手が親友であれ、親兄弟であれ。
「俺は?」
と、しかし鸚鵡返しに格之進が反問した。
「俺は、なんだ?」
助三郎は黙った。
「助さん?」
上体を近づける格之進の、形のいい眉と唇に、濃い影が宿っていた。不審げ、というよりも心配そうな顔だ。
「どうしたんだ」
「いや、」
「どうしたんだ」
格之進はそう繰り返した。他に言葉がないようだった。
助三郎は観念する。息をついてから、
「少しわからなくなったんだ」
と、助三郎は言った。
「迷っている」
「助さん…!?」
ぎょっとした声を、格之進は出した。
そうだろう。武士たるもの、迷いなどあるべきではない。
「…迷うって、なにをだ?」
格之進は怖々と尋ねた。不安げだった。
「侍として守るべきものとは、いったいなにか。なんのための、剣であり、この命なのか。己が命を捨てることは簡単だ。だが、」
一気に言っていたが、そこで助三郎は目を閉じた。
なにを捨てるべきなのか。なにを捨て、なんのため愛すのが、生きることだろう。「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」侍として、と、助三郎は思う。
「助さん」
「…なんのための、武術だ、格さん」
と言いながらまぶたを開いて、助三郎は自分の手を見た。
「俺たちが日々鍛錬し、剣術や柔術を極め、己を磨いているのは一体なんのためだ」
格之進は黙っている。
「侍の身勝手な意地のために戦を起こし、領民を苦しめるためではなかろう」
「助さん」
「彼らを守るためではないのか」
「つまり、」
と、息を吐くように格之進が言った。
「まだ赤津でのことを考えているんだな、助さん」
格之進の瞳に同情に近いものが掠めたように見えたが、それは助三郎の感じすぎだったのかもしれない。
しかし、格之進が言った。
「辛いだろうな」
反射的に眉をひそめていた。
「なにがだ?」
注意深く、助三郎は尋ねた。
「あ、いや…」
決まり悪そうに、格之進は言葉を濁した。
「別に深い意味はなかった。ただ助さんの感じ方は、苦しみが多いだろうと思ったのだ」
助三郎は黙る。
「つまり、武士の一分だ、誇りだと言って、血気に逸る方が簡単じゃないか。むしろ楽だと思える」
格之進は言い足した。そして胡坐をかく両膝に腕を休めると、目を細めて、しだれる草の先端にとまっている虫を見つめた。
「侍は傲慢だな、確かに」
「格さん」
「己の誇りのために、領民に災いをもたらす戦も辞さぬのだから」
むしろ穏やかに、格之進が言った。
「誇り、か…」
その言葉を繰り返して、助三郎は空を見た。
意思的なきっかりと白い雲が流れていく。
その雲の行方を追いながら、助三郎は言った。
「誇りを侍は尊び、ときにそのために命を捨てるが、そもそも誇りとは一体なんだ。本人はそのために必死になるが、それは他人には理解できないし、他人から見れば大したことではない。誇りは、言葉を変えれば意地と同じだ」
誇りだ意地だについては同意も反駁もせず、格之進はこう言った。
「意地のために戦を起こされては、民百姓はたまったものではないな」
「だが、侍が戦を拒むのは本末転倒だろうな。侍が命を惜しむのは、潔くはない」
助三郎は呻いた。それもまた助三郎を悩ます。俺は女々しいのか。俺の考えは侍らしくないのだろうか、と。
川面で揺れている光を睨んで、助三郎は答えを探す。
俺は女々しいか。潔くないのだろうか。
「だが助さんが惜しんでいるのは己の命ではないぞ」
強い口調で格之進がそう言い、助三郎は顔を上げて彼を見た。
「格さん」
「あの時もそうだったじゃないか。赤津で、あの時、助さんが惜しんでいたのは領民の命であり、志保さんや若い藩士たちの命だった。例えば水戸藩のため、ご老公のため、上様のため、民百姓のためにも、助さんは死ねる。俺はそれを知っている。だが、他人を死なせることは、全く意味が異なるということだろう?他人を巻き込むべきではないし、剣を持たぬ者たちを守ること、そのために命を賭けることこそ、侍の義務なのではないかと、そういうことだろう?」
珍しく饒舌に、一気に格之進は言った。その目にはひたむきな表情が浮かんでいる。じっと助三郎を見つめて、さらに格之進は言った。
「俺は、助さんはむしろ潔いのだと思う」
その言葉は、格之進が意図した以上に、助三郎の心に染みた。
「格さん…」
と見つめると、彼ははにかんだ。
「しゃべりすぎた」
と言って、視線を川面へやった。
助三郎も川を見た。その心に格之進の言葉が光明のように響いている。
俺は、助さんはむしろ潔いのだと思う。
二人はしばらく無言だった。ただ並んですわったまま、流れてゆく川の水を眺めていた。じっと見ていると、自分が流れていくように思えてくる。いくつもの魚の影が泳ぐのも見えた。瑞々しい、甘いような匂いがして、周囲で草が確かに息づいているのを肌で感じる。
高い空で鳶が一声鳴いた。
なにを捨て、なんのため愛すのが、生きること。
武士が命を捨てるのは大事ななにかを守るためだが、それは国であったり、主であったり、武士としての誇りであったりする。だが、そのためだけに盲目になって無辜の命まで犠牲にする事態を招くことは傲慢でしかなく、武士の愚かさを示すことでもあるのだ。
俺は、ときには侍の誇りすら捨てることのできる強さを手に入れたい、と助三郎は思う。
弱き者、正しき者を救うために、命は無論のこと、自らの誇りすら投げ打てる精神の強さを、佐々木助三郎は欲した。
「ともかく、」
と格之進が言った。
「なにごとも臨機応変が大事ということだな」
きっぱりとした言い方だった。
思わず、助三郎は声を立てて笑った。臨機応変は格之進の不得手の一つだからだ。一事が万事杓子定規なのが格之進である。
「どうして笑う?」
子供じみた不平の顔で格之進が言った。膨れている。
「格さんは可愛いなぁ」
他に言いようがなくて助三郎が、ますます笑いながらそう言うと、格之進はムッとした顔になった。
「なんだそれは。俺を馬鹿にしているのか」
「そうじゃない」
くっくと笑いながら、助三郎は言った。
「褒めているんだ」
「どこがだ、いったい…!」
「まあいいじゃないか」
「よくないぞ、助さん。だいたい助さんはいつもそうだ。そうやって一人で納得して…」
と格之進はまだ不満を述べたが、その顔は助三郎の笑顔につられて笑い出していた。彼の笑顔はきれいで威力がある。骨格の美しい、頼もしくて聡明な笑顔だ。
助三郎はなんとなく幸福な気分になる。草の匂いに満ちた空気を臓腑いっぱいに吸い込んだ。
「助さん、格さん!」
屈託ない新助の声がして、助三郎と格之進は同時に、同じ仕草で振り向いた。
大きく手を振りながら、新助が声を張り上げる。
「ご隠居さまが、そろそろ出発しませんかって!」
「おう!」
と同じように答えて、助三郎と格之進はすっくと立ち上がった。
木立の下でご老公とお娟、志保がこちらを見ている。新助は十数歩、助三郎たちの方へ歩み寄ってきていた。全員が、笑顔だ。
助三郎は歩き出す前に格之進を見た。
同じ瞬間、格之進も助三郎を見ていた。目が合うと、彼は晴れやかに笑った。雲間からぱっと日が射したようだ。
「行こうか、格さん」
助三郎は彼の笑顔を写し取ったように笑いかけて、言った。
ああ、と格之進がうなずき、二人は、微笑でこちらを見ている主人の方へ歩き出した。
彼らの旅はまだ、はじまったばかりである。
なにを捨て、なんのため愛すのが、生きること――
終わります
もしもここまで読んでくださった奇特な方がいたら、礼を云います。ありがとう。
尚、またしても出た回想のお二方の口論は無論、第2話から。よって台詞は桐花に帰属しません。
the 38th part,
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なにを捨て なんのため愛すのが 生きること
―― Yutaka Ozaki, 1988
「すまなかった」
と格之進が頭を下げて、助三郎は驚き、困惑する。
「格さんが詫びる必要などない。そう言ったではないか」
「ともかく詫びる」
「どうして」
「どうしてもだ」
口を尖らせて格之進が主張し、助三郎は閉口した。
「子供じみているな、格さんは」
言いながら、自然と笑みが浮かんだ。
こうした格之進の気質に、ときおり助三郎が救われているのは確かである。
先日彼らは珍しく口論に至ったが、その後も格之進に腹を立てていると思われていたこと、素気ないと言われたことに、助三郎は正直なところ、驚きとともに自戒を覚えた。
あのとき俺は、と、眉目秀麗とはこういう顔を云うのだろうと思わせる格之進の、その額の理知をぼんやりと見て、助三郎は思った。
あのとき俺は、なにを、どんな言葉を格之進から期待していたんだろうか。
あの旅籠の一室で、あのとき。
赤津の侍たちは山内志保を先頭に立たせ、花崎藩に戦を仕掛けようとしている。武士の一分を通そうと、赤津の名誉のため、裕之進の無念を晴らすために、猪突しようとしている。そしてそれを止めようとした自分を、藩士たちも志保も拒んだと、格之進に訴えたときのことだ。
「それは違うぞ、助さん」
振り向きながらそう言った格之進は、理解できないという顔をしていた。まったく理解できない、という顔を。
少なくとも、それは助三郎の期待した反応ではなかった。
「兄を殺され、藩を奪われそうになっている志保殿の、命を捨てるという覚悟はわかるだろう…!」
糺すような強い口調で格之進はそう、つづけた。そんなことは当たり前だろう、と言わんばかりだ。
「藩を召し上げられそうになっている若者が、命を捨ててかかろうというのもわかる」
それは助三郎とて、わかっていた。そういった誇り、その種の覚悟は、武士ならば当然なのだ。だが、だからといって、と助三郎が反論しようとしたとき、格之進がきっぱりと断じた。
「安易に止めるのは間違っている」
刹那、全身の骨がぎしっと軋んだ。突如として自分のなかに生まれた激情が、格之進に対するものなのか、自分自身に対するものなのか、あるいは志保か赤津の侍たちか、それとも状況そのものに対する怒りなのか、助三郎には、まるでわからなかった。
「それじゃ格さん…!」
と立ち上がった助三郎は、わけのわからない焦燥に駆られ、全身で訴えていた。
「俺たちはなんのためにこんな遠くまでやって来たんだ!赤津藩を救うためだろう!? なにもしないうちにみんな死んでしまってもいいと言うのか!?」
「そんなことは言っておらん!」
声を荒げて、格之進も立ち上がった。不服そうに、苛立たしげに、彼は言った。
「俺は、志保殿の気持ちや、侍が命を捨てるとはどういうことか、ただそれを言っているだけだ!」
返す言葉は何一つ、出てこなかった。
格之進の目を睨んだ自分の視線がひどく恨めしげなものになったと自分でわかったから、すぐに目を反らした。助三郎はきつく目を閉じた。網膜の奥が熱かった。昂ぶった感情を鎮めるために、それと意識する必要があった。これほどのことは、ここ数年なかったことだ。
格之進は正しい。助三郎は彼が好きだ。だが、燕麦で育ったような彼の無垢さは、ときに残酷だ。
いずれにせよ、以後の助三郎はただ、己の思考に気を取られていたに過ぎない。
ふとしたときに、赤津で抱いた暗澹とした気持ちがよみがえってきていた。ただ、それだけなのだ。
考えずにいられなかった。
武士とはなんなのか。いやむしろ、武士として、己が尊ぶべきものはなんなのか。守るべきは、なんなのか。
あの騒動の折、赤津では、国を守るべき武士たちが、国を救う方策を模索するのではなく、進んで国を滅びへ導こうとしていた。武士の一分が立たぬといきり立ち、負けを承知の戦を仕掛けて領民までを死なせようとしていた。
それが武士なのか、と助三郎は苦く思う。
そんなものが、武士なのか。
武士であること、そして己の剣に誇りを抱く助三郎であるからこそ、その疑問と懐疑は彼を迷わせた。
「助さん」
格之進が呼んだ。
「上の空なんだな」
と言って彼は薄く笑った。彼に似合わない、どこか自嘲的な表情だ。
「ああ、すまん」
反射的に助三郎は言っていた。この態度が格之進をして、助三郎が腹を立てていると思わせたのだろうからだ。
「さっきから言っているように、」
と助三郎は言った。
「格さんに腹を立てているわけではないんだ」
本当のことなのに、自分でも言い訳がましく聞こえた。
格之進がじっと助三郎を見た。漆黒の、まるで忠犬のような、真っ直ぐな眼差しだ。
「ただ俺は」
思わず言いかけて、そこで助三郎は奥歯を噛んだ。弱さを吐露することに、どうしても抵抗がある。武士とは往々にそうしたものだ。相手が親友であれ、親兄弟であれ。
「俺は?」
と、しかし鸚鵡返しに格之進が反問した。
「俺は、なんだ?」
助三郎は黙った。
「助さん?」
上体を近づける格之進の、形のいい眉と唇に、濃い影が宿っていた。不審げ、というよりも心配そうな顔だ。
「どうしたんだ」
「いや、」
「どうしたんだ」
格之進はそう繰り返した。他に言葉がないようだった。
助三郎は観念する。息をついてから、
「少しわからなくなったんだ」
と、助三郎は言った。
「迷っている」
「助さん…!?」
ぎょっとした声を、格之進は出した。
そうだろう。武士たるもの、迷いなどあるべきではない。
「…迷うって、なにをだ?」
格之進は怖々と尋ねた。不安げだった。
「侍として守るべきものとは、いったいなにか。なんのための、剣であり、この命なのか。己が命を捨てることは簡単だ。だが、」
一気に言っていたが、そこで助三郎は目を閉じた。
なにを捨てるべきなのか。なにを捨て、なんのため愛すのが、生きることだろう。「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」侍として、と、助三郎は思う。
「助さん」
「…なんのための、武術だ、格さん」
と言いながらまぶたを開いて、助三郎は自分の手を見た。
「俺たちが日々鍛錬し、剣術や柔術を極め、己を磨いているのは一体なんのためだ」
格之進は黙っている。
「侍の身勝手な意地のために戦を起こし、領民を苦しめるためではなかろう」
「助さん」
「彼らを守るためではないのか」
「つまり、」
と、息を吐くように格之進が言った。
「まだ赤津でのことを考えているんだな、助さん」
格之進の瞳に同情に近いものが掠めたように見えたが、それは助三郎の感じすぎだったのかもしれない。
しかし、格之進が言った。
「辛いだろうな」
反射的に眉をひそめていた。
「なにがだ?」
注意深く、助三郎は尋ねた。
「あ、いや…」
決まり悪そうに、格之進は言葉を濁した。
「別に深い意味はなかった。ただ助さんの感じ方は、苦しみが多いだろうと思ったのだ」
助三郎は黙る。
「つまり、武士の一分だ、誇りだと言って、血気に逸る方が簡単じゃないか。むしろ楽だと思える」
格之進は言い足した。そして胡坐をかく両膝に腕を休めると、目を細めて、しだれる草の先端にとまっている虫を見つめた。
「侍は傲慢だな、確かに」
「格さん」
「己の誇りのために、領民に災いをもたらす戦も辞さぬのだから」
むしろ穏やかに、格之進が言った。
「誇り、か…」
その言葉を繰り返して、助三郎は空を見た。
意思的なきっかりと白い雲が流れていく。
その雲の行方を追いながら、助三郎は言った。
「誇りを侍は尊び、ときにそのために命を捨てるが、そもそも誇りとは一体なんだ。本人はそのために必死になるが、それは他人には理解できないし、他人から見れば大したことではない。誇りは、言葉を変えれば意地と同じだ」
誇りだ意地だについては同意も反駁もせず、格之進はこう言った。
「意地のために戦を起こされては、民百姓はたまったものではないな」
「だが、侍が戦を拒むのは本末転倒だろうな。侍が命を惜しむのは、潔くはない」
助三郎は呻いた。それもまた助三郎を悩ます。俺は女々しいのか。俺の考えは侍らしくないのだろうか、と。
川面で揺れている光を睨んで、助三郎は答えを探す。
俺は女々しいか。潔くないのだろうか。
「だが助さんが惜しんでいるのは己の命ではないぞ」
強い口調で格之進がそう言い、助三郎は顔を上げて彼を見た。
「格さん」
「あの時もそうだったじゃないか。赤津で、あの時、助さんが惜しんでいたのは領民の命であり、志保さんや若い藩士たちの命だった。例えば水戸藩のため、ご老公のため、上様のため、民百姓のためにも、助さんは死ねる。俺はそれを知っている。だが、他人を死なせることは、全く意味が異なるということだろう?他人を巻き込むべきではないし、剣を持たぬ者たちを守ること、そのために命を賭けることこそ、侍の義務なのではないかと、そういうことだろう?」
珍しく饒舌に、一気に格之進は言った。その目にはひたむきな表情が浮かんでいる。じっと助三郎を見つめて、さらに格之進は言った。
「俺は、助さんはむしろ潔いのだと思う」
その言葉は、格之進が意図した以上に、助三郎の心に染みた。
「格さん…」
と見つめると、彼ははにかんだ。
「しゃべりすぎた」
と言って、視線を川面へやった。
助三郎も川を見た。その心に格之進の言葉が光明のように響いている。
俺は、助さんはむしろ潔いのだと思う。
二人はしばらく無言だった。ただ並んですわったまま、流れてゆく川の水を眺めていた。じっと見ていると、自分が流れていくように思えてくる。いくつもの魚の影が泳ぐのも見えた。瑞々しい、甘いような匂いがして、周囲で草が確かに息づいているのを肌で感じる。
高い空で鳶が一声鳴いた。
なにを捨て、なんのため愛すのが、生きること。
武士が命を捨てるのは大事ななにかを守るためだが、それは国であったり、主であったり、武士としての誇りであったりする。だが、そのためだけに盲目になって無辜の命まで犠牲にする事態を招くことは傲慢でしかなく、武士の愚かさを示すことでもあるのだ。
俺は、ときには侍の誇りすら捨てることのできる強さを手に入れたい、と助三郎は思う。
弱き者、正しき者を救うために、命は無論のこと、自らの誇りすら投げ打てる精神の強さを、佐々木助三郎は欲した。
「ともかく、」
と格之進が言った。
「なにごとも臨機応変が大事ということだな」
きっぱりとした言い方だった。
思わず、助三郎は声を立てて笑った。臨機応変は格之進の不得手の一つだからだ。一事が万事杓子定規なのが格之進である。
「どうして笑う?」
子供じみた不平の顔で格之進が言った。膨れている。
「格さんは可愛いなぁ」
他に言いようがなくて助三郎が、ますます笑いながらそう言うと、格之進はムッとした顔になった。
「なんだそれは。俺を馬鹿にしているのか」
「そうじゃない」
くっくと笑いながら、助三郎は言った。
「褒めているんだ」
「どこがだ、いったい…!」
「まあいいじゃないか」
「よくないぞ、助さん。だいたい助さんはいつもそうだ。そうやって一人で納得して…」
と格之進はまだ不満を述べたが、その顔は助三郎の笑顔につられて笑い出していた。彼の笑顔はきれいで威力がある。骨格の美しい、頼もしくて聡明な笑顔だ。
助三郎はなんとなく幸福な気分になる。草の匂いに満ちた空気を臓腑いっぱいに吸い込んだ。
「助さん、格さん!」
屈託ない新助の声がして、助三郎と格之進は同時に、同じ仕草で振り向いた。
大きく手を振りながら、新助が声を張り上げる。
「ご隠居さまが、そろそろ出発しませんかって!」
「おう!」
と同じように答えて、助三郎と格之進はすっくと立ち上がった。
木立の下でご老公とお娟、志保がこちらを見ている。新助は十数歩、助三郎たちの方へ歩み寄ってきていた。全員が、笑顔だ。
助三郎は歩き出す前に格之進を見た。
同じ瞬間、格之進も助三郎を見ていた。目が合うと、彼は晴れやかに笑った。雲間からぱっと日が射したようだ。
「行こうか、格さん」
助三郎は彼の笑顔を写し取ったように笑いかけて、言った。
ああ、と格之進がうなずき、二人は、微笑でこちらを見ている主人の方へ歩き出した。
彼らの旅はまだ、はじまったばかりである。
なにを捨て、なんのため愛すのが、生きること――
終わります

もしもここまで読んでくださった奇特な方がいたら、礼を云います。ありがとう。
尚、またしても出た回想のお二方の口論は無論、第2話から。よって台詞は桐花に帰属しません。
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