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Related my fanfictions are 二人し居らば 壱, 弐, 参, 四, 伍.
花曇りの、やさしい午後である。
大気はまだ幾分冷たいが、柔らかな風は春の匂いを含んでいた。
淡い陽に混じって、これからやって来る本当の春、その麗らかな予感が、体中に伝わってくる。
今年も桜が、咲いている。
一年で最も美しい数日がいまこのときだと、娟は思う。
染井吉野は、花を間近で見ると限りなく白に近い。それが、退いて樹全体を眺めると、淡くほんのりと、うすくれなゐに見える。「はんなり」という独特の表現が相応しく、花それ自体が淡く光っているように群れ咲いている。
美しかった。
「いやいや…美しいものですな」
ご老公が溜め息を洩らした。
はい、とみなが惚れ惚れと一様にうなずく。
今日、幾度目の同じ遣り取りであろう。だがそれが、あまりにも理で、自然だった。
「…今年もまた、桜が咲いたんですねぇ」
何をいまさらとは思う。それでも娟は、しみじみと声に出していた。だって桜が咲いたのだ。めくるめく激しさで、あのように悲愴な事態が一行に降り懸かっても、やはり桜は、今年も咲いたのだ。
娟はこの日、懸念を払って至極幸福そうな主が、ただ嬉しかった。
「さ、ご隠居さま?」
傍らの銚子を取り、主の盃を満たす。とくとくと鳴る音すら、心地よい。
酌を受けたご老公が、にこにこと娟を見た。
「お娟も飲みなさい」
「いただいてます」
娟はにっこりと微笑んだ。
ご機嫌の新吉が、座をちょこまかと動き回っていた。
ご老公と言葉遊びをしたと思えば、拾い集めた花びらを娟に降らせ、いまは格之進となにやら笑い合っている。あっちへ行ったりこっちへ来たり、まるで雀の子のように可愛らしい。
そんな少年が今日、一貫して行っているのが、傷癒えきらぬ助三郎の世話焼きだ。元来やさしい性質なのだろう。風が吹けば寒くないかと訊き、膳の魚がことさら精がつくと聞けば、自分の分を食べさせようとした。
その新吉が、助三郎の盃が空いていることに気づき、小さな両手で大事そうに銚子を手にした。
「はい、助さん!」
きらきらした目で、にこにこと見つめる。
「おう、すまん」
助三郎は形相を崩したが、割って入った者がある。
「駄目だ、新吉」
と、当然ながらそれは、格之進である。やさしい顔で少年を止めた彼は、一変、眉根を寄せた渋い顔で助三郎を見た。
「いい加減にしないか、助さん」
助三郎の方は、それを当然とは思わないのだろう。新吉に盃を差し出したまま、ぶすりと言って格之進を睨んだ。
「どうして…!」
「どうしてもこうしてもない。当前だ」
言いざまに、助三郎の手からひょいと盃を取り上げた。
「おい、格さん…!」
助三郎が盃を奪い返そうと上体を寄せる。その動きが傷に障ったのだろう。声は出さなかったが、助三郎は苦痛に顔を顰め、胸に手を当てた。
「ほら、それだ」
鬼の首を取ったような格之進。彼は素気無く続けた。
「まだ全快というわけではないんだ。酒は体に障る。大人しく甘いものでも食べているんだな」
「そんな殺生な…!」
助三郎が情けない声を上げた。
「俺の快気祝いだろ?今日くらい好きなだけ飲ませてくれてもいいじゃないか」
「なにを云っている!これはご隠居のための花見だ。本当なら、お前はまだ寝床のなかなんだぞ。だが、お前にも気分転換が必要だからと、ご隠居のたっての仰せで、出てこられたんだ」
しかめっ面で格之進は言うが、真実は異なる。
桜はいまが満開、明日はどうやら降りそうな空模様だ。花冷えになるやもしれぬ。とすれば、本調子でない助三郎を連れ出し、桜を見せてやるには今日しかない。そう言ってご老公を説き伏せたのは、他ならない格之進である。
そんなことはおくびにも出さず、彼の小言は続いていた。
「まったく太々しいにも程が有る。なにがお前のための祝いだ。身の程を弁えんか」
「いやしかし俺…」
「傷だって、まだ痛むのだろう。調子に乗るな」
「しかし格さ…」
「しかしではない」
幾度も助三郎を遮って、格之進が言う。
「いままで大目に見て黙っていたが、もう四杯目だぞ」
「え、」
怪訝そうに、助三郎が目をしばたたいた。
「酒は一杯だけと、そう約束しなかったか、助さん?」
形勢不利の助三郎は、口を噤んで応えない。
「しただろう!だから俺は、起きてもいいと云ったんだ。それを黙っていれば、いい気になって…!一体どれだけ飲むつもりだ」
格之進が息巻いた。不本意極まりない様子だ。
「……いちいち数えているとは律儀だな」
目を伏せた助三郎が、口の中でぶつぶつと言った。
「いや、律儀というより懐が狭い。了見が狭い。二言目には侍、侍と云うくせに、格さんは全く細かすぎる」
「侍が物事に細かくて何が悪い。約束を違(たが)えておいて、何を云っている…!」
格之進の声が大きくなった。
「しかし格さん、俺はもう元…」
「元気なものか!」
と再び、格之進が助三郎を遮った。
「そんなに飲んで、あとで辛いのは助さんだぞ!思ったより未だずいぶんと肌寒い。これでは、夜には熱が出るかもしれん。ご隠居、早々に切り上げましょう」
そうですな、とご老公がにこにこ頷く。
助三郎と格之進の、相も変らぬ取り留めの無い掛け合いには、娟もご老公同様に微笑を禁じえなかった。ほんとうに、何も変わっていないんだわ。そう、嬉しくなるのだ。
「そう云うなよ格さん。ずっと大人しく寝ていただろ?今日くらい大目に見る寛大さはないのか?もう一杯だけ。な?」
と助三郎に上目遣いに目を覗き込まれた格之進が、顔を背けた。
「駄目だ」
「格さん」
「駄目だと云ったら駄目だ」
格之進は断じて取り合わなかった。
桜を見せてやりたい。気晴らしをさせてやりたい。とはいえ本当なら、格之進は助三郎に、一滴たりとも飲ませたくないのだろう。
元気な口を利くが、助三郎は決してまだ本調子ではなかった。その証しに、たった三杯の盃で、彼は既に酔いはじめている。瞳が常に増して美しい。赤みを帯びた目尻が艶っぽさを醸し出していた。
花見になど連れ出せば、助三郎は調子に乗って、手に負えないのは目に見えていた。いま格之進は、己の仏心を少々、後悔しているのかもしれない。苛立っているのは、むしろ己に対してなのかもしれない。
助三郎が、酔いで潤んだ美しい目で、今度はご老公を、じっ、と見た。
「…ご隠居」
と、哀願され、ご老公が困った顔をする。
「うむ、」
「この分からず屋に、なんとか云ってくれませんか。毎日毎日、枕元で説教。ようやく外へ出してくれたと思えばやっぱり説教」
助三郎がほとほとと嘆く。
「せっかくの花見なのに、またぞろ説教ですよ?」
「まぁ、飲みたい気持ちはわかりますがな、」
ご老公がにこやかに言った。娟の酌を受けながら、顔の皺をますます深くして格之進を見やる。
「格さんの気持ちもわかります。助さんが心配なのは私も同じですぞ」
「……はあ」
主に言われて、助三郎が肩を落とす。
と、桜がさわさわと騒ぎだした。風が強まってきたのだろう。雪かと思うほどの花びらが、いちどきに舞い降りてきた。
はっと言葉を呑み、みな一様に花を振り仰ぐ。手を差し延べもする。数え切れぬ花びらが舞い散らい、みなの髷や着物の肩、膝を飾った。
さらさらと、桜が散る。
天を仰ぐ一同に、等しく桜が降りそそぐ。さらさらと。
「…美しいな」
吐息と共に助三郎が、誰にともなく言った。
ああ、と格之進が肯った。
淡い花びらが、助三郎の藍染の着物に映える。
長いこと浴衣姿だったから、きちんと着物を着て、髷を結い直した助三郎の姿は、誰の心をも明るくした。
容赦なく小言を繰り出しはしても、格之進こそが、健やかそうな助三郎を喜んでいることは確かだ。助三郎を見守る横顔は穏やかである。その心は鎮まり、あるべき処へ腰を据えているように見えた。
助三郎と格之進に、花が降る。さらさらと降りそそぐ。
娟は、二人を眺めていた目を頭上の桜へ遣った。
本当に、なにが起きても、桜は咲くんだわ。
心からの感慨と共に、そう思った。天地が引っ繰り返るが如き事態が起こっても、気づくと桜はまた、咲き誇っている。
あの夜、格之進がご老公に刃を向けた。何年も前の様な気がするし、つい昨夜のような気もする。
そして娟は、真を貫こうとする助三郎と格之進を目の当たりにした。
その全てが一挙に蘇ってくると、とくとくと胸が鳴り、身体が熱くなった。娟は思わず目を閉じる。
俺は侍だ。侍なんだ、助さん…!
格さん!お前が腹を切るなら、俺も切る。
激しかった。あまりにも、激しかった。
虚空無幻斎の妖術に操られた格之進がご老公を襲い、その責めを負って腹を切ろうとした。助三郎は命懸けでそれを止めようとした。あのたった数日の間に、二人のなかで繰り返された懊悩、葛藤、覚悟と決意。流された涙と血。
なんと激しく、愚直で、なお切なく、直向きな真であったことか。
あのような出来事を経て尚、以前と変わらずに、他愛無いことで遣り合う二人が微笑ましく、また頼もしい。彼らの乗り越えたものを思うと、感慨は一層深かった。精神の強さ、互いを思う力の強さを、娟は思い知る。
なればこそ、いま、穏やかな表情で、並んで桜を見上げている二人が、思わず泣けてきそうになるほどに愛しく、尊かった。
桜を眺める二人の、静穏な表情が眩しい。
「あ、見ろ格さん」
助三郎が、空の盃を手にとって格之進に差し出した。
朱塗りの盃には、花びらが一枚、入っていた。
助三郎はそれを格之進に見せ、あとは何とも言わず、しかし、その明るい目で見つめる。彼は全く悪びれていなかった。
「な?」
「花の酒…。粋じゃありませんか」
娟は言ったが、格之進に睨まれて首を竦める。
双眸に茶目っ気を満たし、助三郎が格之進の目を覗き込む。
「この一杯で、今日はもう飲まん。いいだろう?」
「まったく…!」
根負けした格之進が、天を仰いで大きく嘆息した。それから睨(ね)めつけるように助三郎を見据える。
「具合が悪くなっても、俺は、面倒をみてやらんぞ。いいんだな!?」
「おう。心配要らん」
と、助三郎が請け負った。嬉しそうに頬を弛める彼は、酒を飲めることよりも、格之進が折れたことが嬉しいのかもしれない。
酒が満たされると、花びらが小さな水面で揺れる。
その酒を、助三郎は一気にあおった。喉を落ちていく辛口の酒に、くう、と実にいい顔をする。
「おい、助さん」
一方の格之進が渋い顔をした。
「それで最後にするんだろう、一気に空けてしまってど…」
最後まで聞かずに助三郎が、酒を飲み干し、空になった盃を格之進にぐいと突きつけた。
「…なんだ」
面食らった格之進が、顎を引く。
「格さんもやれ」
と、更にぐいと盃を押しやる。
「人の世話ばかり焼いていて、殆ど飲んでいないだろう。ほら、」
「…ああ」
突きつけられた盃を、当惑しながらも格之進が受け取った。
助三郎が酒を注ぐ。格之進の目を真っ直ぐに見て、助三郎は言った。
「飲めよ、格さん」
肯った格之進は先刻の助三郎のように一気にぐっと酒を干した。そして一言、心の底から、しみじみと唸った。
「美味い…!」
二人は束の間、見つめあった。どちらも無言であった。
頭上の桜だけがさわさわと音を立て、花びらを降らせている。ただ、さらさらと。
吾が背子と二人し居れば山高み里には月は照らずともよし――
ややあって、格之進がうなずいた。強い首肯であった。
助三郎もうなずいた。
二人に桜が降っている。苦難を越えた彼らの強さとやさしさを、彼らの真を、彼らの絆を祝福するかのように、絶え間なく桜が降りしきる。
美しかった。
桜吹雪も、その向こうの淡い空も、助三郎と格之進も、ご老公も、幼くあどけない新吉の瞳も、なにもかも、美しかった。目に映る全てが、起こったことの全てが、この世ならぬほどに、美しい。
佐々木助三郎と渥美格之進。
尚いっそう育まれた絆で、彼らはこれからも共に、水戸光圀公に仕えてゆくのだろう。
ああ、桜が、ほんとうにきれい…!
我知らず、娟はしず、と立ち上がった。
「お娟?」
「どうした」
助三郎と格之進が振り仰いだ。
一同の前へ出て、神々しいほどの桜樹を背に、扇を手にして、娟は膝をつく。
「舞を一差し」
「お娟…?」
助三郎が首を傾げた。
「どういう風の吹き回しだ?」
「助さんと格さんに」
それだけ言って艶やかに微笑んで見せると、娟は舞った。
助三郎と格之進の真に、彼らの絆に。また愛すべき人びとの幸を祈って、娟は舞った。せめてこの袖の一振りなりと、突き上げる思いのままに、娟は舞った。
ひるがえす袖の先から、桜の花びらがまるで雪のように降る。さらさらと。絶え間なくただ、さらさらと。
命二つの中に生きたる桜哉
松尾芭蕉

Afterword,
「今年も桜のお話を」と、「『二人し居らば』の続きを」と、久しぶりにリクエストをいただいて珍しくその気になり、ちょっと書いてみました。一篇で、両方のリクエストにお応えしちゃおう!と。いえ別に横着したわけではなくて、ちょうどいい感じに書けそうな気がしたので。
でも、どうということのないお花見の話になってしまいました。拙い小説を最後まで読んでくださった方、どうもありがとうございます。
今年も桜が咲いていますね。
なんだか今年は桜が、いつもより、もっと心に染みます。
今日も遊びに来てくれてありがとう。
明日が今日よりも、少しでも良い日でありますように。桜がやさしく降り注ぎますように。
Related my fanfictions are 二人し居らば 壱, 弐, 参, 四, 伍.
花曇りの、やさしい午後である。
大気はまだ幾分冷たいが、柔らかな風は春の匂いを含んでいた。
淡い陽に混じって、これからやって来る本当の春、その麗らかな予感が、体中に伝わってくる。
今年も桜が、咲いている。
一年で最も美しい数日がいまこのときだと、娟は思う。
染井吉野は、花を間近で見ると限りなく白に近い。それが、退いて樹全体を眺めると、淡くほんのりと、うすくれなゐに見える。「はんなり」という独特の表現が相応しく、花それ自体が淡く光っているように群れ咲いている。
美しかった。
「いやいや…美しいものですな」
ご老公が溜め息を洩らした。
はい、とみなが惚れ惚れと一様にうなずく。
今日、幾度目の同じ遣り取りであろう。だがそれが、あまりにも理で、自然だった。
「…今年もまた、桜が咲いたんですねぇ」
何をいまさらとは思う。それでも娟は、しみじみと声に出していた。だって桜が咲いたのだ。めくるめく激しさで、あのように悲愴な事態が一行に降り懸かっても、やはり桜は、今年も咲いたのだ。
娟はこの日、懸念を払って至極幸福そうな主が、ただ嬉しかった。
「さ、ご隠居さま?」
傍らの銚子を取り、主の盃を満たす。とくとくと鳴る音すら、心地よい。
酌を受けたご老公が、にこにこと娟を見た。
「お娟も飲みなさい」
「いただいてます」
娟はにっこりと微笑んだ。
ご機嫌の新吉が、座をちょこまかと動き回っていた。
ご老公と言葉遊びをしたと思えば、拾い集めた花びらを娟に降らせ、いまは格之進となにやら笑い合っている。あっちへ行ったりこっちへ来たり、まるで雀の子のように可愛らしい。
そんな少年が今日、一貫して行っているのが、傷癒えきらぬ助三郎の世話焼きだ。元来やさしい性質なのだろう。風が吹けば寒くないかと訊き、膳の魚がことさら精がつくと聞けば、自分の分を食べさせようとした。
その新吉が、助三郎の盃が空いていることに気づき、小さな両手で大事そうに銚子を手にした。
「はい、助さん!」
きらきらした目で、にこにこと見つめる。
「おう、すまん」
助三郎は形相を崩したが、割って入った者がある。
「駄目だ、新吉」
と、当然ながらそれは、格之進である。やさしい顔で少年を止めた彼は、一変、眉根を寄せた渋い顔で助三郎を見た。
「いい加減にしないか、助さん」
助三郎の方は、それを当然とは思わないのだろう。新吉に盃を差し出したまま、ぶすりと言って格之進を睨んだ。
「どうして…!」
「どうしてもこうしてもない。当前だ」
言いざまに、助三郎の手からひょいと盃を取り上げた。
「おい、格さん…!」
助三郎が盃を奪い返そうと上体を寄せる。その動きが傷に障ったのだろう。声は出さなかったが、助三郎は苦痛に顔を顰め、胸に手を当てた。
「ほら、それだ」
鬼の首を取ったような格之進。彼は素気無く続けた。
「まだ全快というわけではないんだ。酒は体に障る。大人しく甘いものでも食べているんだな」
「そんな殺生な…!」
助三郎が情けない声を上げた。
「俺の快気祝いだろ?今日くらい好きなだけ飲ませてくれてもいいじゃないか」
「なにを云っている!これはご隠居のための花見だ。本当なら、お前はまだ寝床のなかなんだぞ。だが、お前にも気分転換が必要だからと、ご隠居のたっての仰せで、出てこられたんだ」
しかめっ面で格之進は言うが、真実は異なる。
桜はいまが満開、明日はどうやら降りそうな空模様だ。花冷えになるやもしれぬ。とすれば、本調子でない助三郎を連れ出し、桜を見せてやるには今日しかない。そう言ってご老公を説き伏せたのは、他ならない格之進である。
そんなことはおくびにも出さず、彼の小言は続いていた。
「まったく太々しいにも程が有る。なにがお前のための祝いだ。身の程を弁えんか」
「いやしかし俺…」
「傷だって、まだ痛むのだろう。調子に乗るな」
「しかし格さ…」
「しかしではない」
幾度も助三郎を遮って、格之進が言う。
「いままで大目に見て黙っていたが、もう四杯目だぞ」
「え、」
怪訝そうに、助三郎が目をしばたたいた。
「酒は一杯だけと、そう約束しなかったか、助さん?」
形勢不利の助三郎は、口を噤んで応えない。
「しただろう!だから俺は、起きてもいいと云ったんだ。それを黙っていれば、いい気になって…!一体どれだけ飲むつもりだ」
格之進が息巻いた。不本意極まりない様子だ。
「……いちいち数えているとは律儀だな」
目を伏せた助三郎が、口の中でぶつぶつと言った。
「いや、律儀というより懐が狭い。了見が狭い。二言目には侍、侍と云うくせに、格さんは全く細かすぎる」
「侍が物事に細かくて何が悪い。約束を違(たが)えておいて、何を云っている…!」
格之進の声が大きくなった。
「しかし格さん、俺はもう元…」
「元気なものか!」
と再び、格之進が助三郎を遮った。
「そんなに飲んで、あとで辛いのは助さんだぞ!思ったより未だずいぶんと肌寒い。これでは、夜には熱が出るかもしれん。ご隠居、早々に切り上げましょう」
そうですな、とご老公がにこにこ頷く。
助三郎と格之進の、相も変らぬ取り留めの無い掛け合いには、娟もご老公同様に微笑を禁じえなかった。ほんとうに、何も変わっていないんだわ。そう、嬉しくなるのだ。
「そう云うなよ格さん。ずっと大人しく寝ていただろ?今日くらい大目に見る寛大さはないのか?もう一杯だけ。な?」
と助三郎に上目遣いに目を覗き込まれた格之進が、顔を背けた。
「駄目だ」
「格さん」
「駄目だと云ったら駄目だ」
格之進は断じて取り合わなかった。
桜を見せてやりたい。気晴らしをさせてやりたい。とはいえ本当なら、格之進は助三郎に、一滴たりとも飲ませたくないのだろう。
元気な口を利くが、助三郎は決してまだ本調子ではなかった。その証しに、たった三杯の盃で、彼は既に酔いはじめている。瞳が常に増して美しい。赤みを帯びた目尻が艶っぽさを醸し出していた。
花見になど連れ出せば、助三郎は調子に乗って、手に負えないのは目に見えていた。いま格之進は、己の仏心を少々、後悔しているのかもしれない。苛立っているのは、むしろ己に対してなのかもしれない。
助三郎が、酔いで潤んだ美しい目で、今度はご老公を、じっ、と見た。
「…ご隠居」
と、哀願され、ご老公が困った顔をする。
「うむ、」
「この分からず屋に、なんとか云ってくれませんか。毎日毎日、枕元で説教。ようやく外へ出してくれたと思えばやっぱり説教」
助三郎がほとほとと嘆く。
「せっかくの花見なのに、またぞろ説教ですよ?」
「まぁ、飲みたい気持ちはわかりますがな、」
ご老公がにこやかに言った。娟の酌を受けながら、顔の皺をますます深くして格之進を見やる。
「格さんの気持ちもわかります。助さんが心配なのは私も同じですぞ」
「……はあ」
主に言われて、助三郎が肩を落とす。
と、桜がさわさわと騒ぎだした。風が強まってきたのだろう。雪かと思うほどの花びらが、いちどきに舞い降りてきた。
はっと言葉を呑み、みな一様に花を振り仰ぐ。手を差し延べもする。数え切れぬ花びらが舞い散らい、みなの髷や着物の肩、膝を飾った。
さらさらと、桜が散る。
天を仰ぐ一同に、等しく桜が降りそそぐ。さらさらと。
「…美しいな」
吐息と共に助三郎が、誰にともなく言った。
ああ、と格之進が肯った。
淡い花びらが、助三郎の藍染の着物に映える。
長いこと浴衣姿だったから、きちんと着物を着て、髷を結い直した助三郎の姿は、誰の心をも明るくした。
容赦なく小言を繰り出しはしても、格之進こそが、健やかそうな助三郎を喜んでいることは確かだ。助三郎を見守る横顔は穏やかである。その心は鎮まり、あるべき処へ腰を据えているように見えた。
助三郎と格之進に、花が降る。さらさらと降りそそぐ。
娟は、二人を眺めていた目を頭上の桜へ遣った。
本当に、なにが起きても、桜は咲くんだわ。
心からの感慨と共に、そう思った。天地が引っ繰り返るが如き事態が起こっても、気づくと桜はまた、咲き誇っている。
あの夜、格之進がご老公に刃を向けた。何年も前の様な気がするし、つい昨夜のような気もする。
そして娟は、真を貫こうとする助三郎と格之進を目の当たりにした。
その全てが一挙に蘇ってくると、とくとくと胸が鳴り、身体が熱くなった。娟は思わず目を閉じる。
俺は侍だ。侍なんだ、助さん…!
格さん!お前が腹を切るなら、俺も切る。
激しかった。あまりにも、激しかった。
虚空無幻斎の妖術に操られた格之進がご老公を襲い、その責めを負って腹を切ろうとした。助三郎は命懸けでそれを止めようとした。あのたった数日の間に、二人のなかで繰り返された懊悩、葛藤、覚悟と決意。流された涙と血。
なんと激しく、愚直で、なお切なく、直向きな真であったことか。
あのような出来事を経て尚、以前と変わらずに、他愛無いことで遣り合う二人が微笑ましく、また頼もしい。彼らの乗り越えたものを思うと、感慨は一層深かった。精神の強さ、互いを思う力の強さを、娟は思い知る。
なればこそ、いま、穏やかな表情で、並んで桜を見上げている二人が、思わず泣けてきそうになるほどに愛しく、尊かった。
桜を眺める二人の、静穏な表情が眩しい。
「あ、見ろ格さん」
助三郎が、空の盃を手にとって格之進に差し出した。
朱塗りの盃には、花びらが一枚、入っていた。
助三郎はそれを格之進に見せ、あとは何とも言わず、しかし、その明るい目で見つめる。彼は全く悪びれていなかった。
「な?」
「花の酒…。粋じゃありませんか」
娟は言ったが、格之進に睨まれて首を竦める。
双眸に茶目っ気を満たし、助三郎が格之進の目を覗き込む。
「この一杯で、今日はもう飲まん。いいだろう?」
「まったく…!」
根負けした格之進が、天を仰いで大きく嘆息した。それから睨(ね)めつけるように助三郎を見据える。
「具合が悪くなっても、俺は、面倒をみてやらんぞ。いいんだな!?」
「おう。心配要らん」
と、助三郎が請け負った。嬉しそうに頬を弛める彼は、酒を飲めることよりも、格之進が折れたことが嬉しいのかもしれない。
酒が満たされると、花びらが小さな水面で揺れる。
その酒を、助三郎は一気にあおった。喉を落ちていく辛口の酒に、くう、と実にいい顔をする。
「おい、助さん」
一方の格之進が渋い顔をした。
「それで最後にするんだろう、一気に空けてしまってど…」
最後まで聞かずに助三郎が、酒を飲み干し、空になった盃を格之進にぐいと突きつけた。
「…なんだ」
面食らった格之進が、顎を引く。
「格さんもやれ」
と、更にぐいと盃を押しやる。
「人の世話ばかり焼いていて、殆ど飲んでいないだろう。ほら、」
「…ああ」
突きつけられた盃を、当惑しながらも格之進が受け取った。
助三郎が酒を注ぐ。格之進の目を真っ直ぐに見て、助三郎は言った。
「飲めよ、格さん」
肯った格之進は先刻の助三郎のように一気にぐっと酒を干した。そして一言、心の底から、しみじみと唸った。
「美味い…!」
二人は束の間、見つめあった。どちらも無言であった。
頭上の桜だけがさわさわと音を立て、花びらを降らせている。ただ、さらさらと。
吾が背子と二人し居れば山高み里には月は照らずともよし――
ややあって、格之進がうなずいた。強い首肯であった。
助三郎もうなずいた。
二人に桜が降っている。苦難を越えた彼らの強さとやさしさを、彼らの真を、彼らの絆を祝福するかのように、絶え間なく桜が降りしきる。
美しかった。
桜吹雪も、その向こうの淡い空も、助三郎と格之進も、ご老公も、幼くあどけない新吉の瞳も、なにもかも、美しかった。目に映る全てが、起こったことの全てが、この世ならぬほどに、美しい。
佐々木助三郎と渥美格之進。
尚いっそう育まれた絆で、彼らはこれからも共に、水戸光圀公に仕えてゆくのだろう。
ああ、桜が、ほんとうにきれい…!
我知らず、娟はしず、と立ち上がった。
「お娟?」
「どうした」
助三郎と格之進が振り仰いだ。
一同の前へ出て、神々しいほどの桜樹を背に、扇を手にして、娟は膝をつく。
「舞を一差し」
「お娟…?」
助三郎が首を傾げた。
「どういう風の吹き回しだ?」
「助さんと格さんに」
それだけ言って艶やかに微笑んで見せると、娟は舞った。
助三郎と格之進の真に、彼らの絆に。また愛すべき人びとの幸を祈って、娟は舞った。せめてこの袖の一振りなりと、突き上げる思いのままに、娟は舞った。
ひるがえす袖の先から、桜の花びらがまるで雪のように降る。さらさらと。絶え間なくただ、さらさらと。
命二つの中に生きたる桜哉
松尾芭蕉

Afterword,
「今年も桜のお話を」と、「『二人し居らば』の続きを」と、久しぶりにリクエストをいただいて珍しくその気になり、ちょっと書いてみました。一篇で、両方のリクエストにお応えしちゃおう!と。いえ別に横着したわけではなくて、ちょうどいい感じに書けそうな気がしたので。
でも、どうということのないお花見の話になってしまいました。拙い小説を最後まで読んでくださった方、どうもありがとうございます。
今年も桜が咲いていますね。
なんだか今年は桜が、いつもより、もっと心に染みます。
今日も遊びに来てくれてありがとう。
明日が今日よりも、少しでも良い日でありますように。桜がやさしく降り注ぎますように。
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まだまだ見ごろですね。すてきな春を














RYUJI's Works 



















































































