takes place in the 3rd story "昼行灯とあっぱれ女房" of the 38th part,
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墓標になる大きめの石を、それが簡単に倒れぬように、盛り上げた土中に三分の一ほども埋めて備えた格之進が上体を起こしながら振り向いた。
「これでよし」
「ああ」
立ち木に鍬を立てかけながら墓を見やって、助三郎はうなずいた。
墓を掘ったのは実に久しぶりだ。
無縁仏の上、無名の墓である。彼らに銀の仏像を託し、隠し銀山の存在を告げて死んだ男が、ここに眠っている。
近くの寺に埋葬を頼むこともできたが、男は公儀のために働く隠密だった。思案ののち、渓流を見下ろす林の一角によい場所を見つけて彼らの手で埋葬したのだ。
助三郎と格之進は墓を見下ろして、思わず、黙してしまう。
彼らと同様、旅装姿の町人に身を窶していた男は、まだ若かった。助三郎と格之進からは、まだ少年の域を出ていないようにも見えた。きりりとした男前だった。彼は幕府天領の銀山を内偵中に、何者かに斬られて死んだ。
溢れる緑のなかの新しい墓は明るい陽射しを受けて、どこまでも平穏な眺めだった。さわさわと風が木々の葉を渡る音、爽やかな渓流のせせらぎの音にまぎれて鳥のさえずりも聞こえてくる。
ふと助三郎は、暗がりで眼を光らせ、狐狸に喩えられるような隠密として闇のなかで生きてきたであろう若者が、つい先刻、自分の腕のなかで死んだということの現実味が遠のくような気がした。
ここは、こんなにも光に満ちているではないか、と。
それでも、抱き起こした手を濡らした彼の血の温かさが、まだ助三郎に残っていた。あの血の赤や生温かさ、天領の町に影を落とす暗雲の方が現実なのだ。
「なにか身元を示すものは?」
汚れた手を叩きながら格之進が、男が持っていた振り分け行李に視線をやった。
先刻、なかを検めた助三郎は首を振る。
「なにもない」
「そうか…」
呟いて、格之進は今しがた自分が男のために選んだ、ごつごつと見栄えのよい石に視線を戻した。
「遺された家族に、知らせや遺品を送ることができればよいのにな」
嘆息のようだった。
「ああ」
と、助三郎もうなずいた。
もっとも、二人は知っていた。
公儀隠密とはそうしたものだ。いや、公儀に限らず、いずれの隠密も同様だ。その務めが極秘裏に行われねばならぬものであればあるほど、身元の知れるものなど携行はしない。
よって、単独行動の場合、あるいは全滅した場合、どこで誰に殺されても、その死を公儀、あるいはお抱えの藩が知る由もなければ、肉親にも知らされることなどない。隠密は人知れず野垂れ死ぬ身だ。「帰ってこない」という、ただ一言で、その死が表現される。
「哀れだな」
思わず、助三郎は言っていた。
公儀のため、人らしい幸せと無縁に生き、己の命を賭けて働き、公儀のために死ぬ。だが、その働きも、存在も、死すら、誰も知らない。
「そう生まれついているとはいえ、か…」
遠い目をして格之進がうなずいた。だが彼は思いなおしたように表情を改め、すっと目を細めて墓を見下ろした。
「名も知らぬ相手だが、助さん。少なくとも、俺たちが覚えていよう」
「格さん」
思わず、助三郎は微笑んでいた。格之進を健気だと思う。
「そうだな。この男のことも、この男の働きも、俺たちが覚えていよう」
「ああ」
にこっと格之進がうなずいたとき、
「お花を供えてあげて」
と、声がした。
二人は同時に振り向く。
「お娟」
うっそうと繁っている緑を掻き分けるようにして、花を抱いた彼女がやって来た。
「ああ、きれいだな」
と、格之進が目を細めた。花の美しさにというよりも、お娟の優しさにだろう。
木漏れ日のなかの墓をひどく優しい眼差しで見やったお娟は、振り仰ぐように助三郎と格之進を見あげた。
「こんな場所に、こんなふうに葬ってもらえて、きっと喜んでいるよ」
まるで身内を埋葬してもらったかのような表情で、お娟は言った。
「そうならばよいが」
「そうよ」
美しく微笑んだお娟は、袂を押さえて墓の前に膝を折った。摘んできた白い野菊と桔梗を墓前に供え、手を合わせる。
彼女の背後左右で片膝をついて、助三郎も格之進も目を閉じて手を合わせた。
もう終わったんだ、と助三郎は語りかける。
お前の、闇に生きた隠密人生は終わった。だからゆっくり休むがいい。成仏してくれ。
そう語りかけ、祈るが、この仏にそれが可能だろうかとも、助三郎は思う。己の務めを果たすことなく、半ばで敵に気取られて殺されたのだ。さぞ悔しかったろう。無念だったろう。
「さ、戻らなくちゃね」
お娟が墓石を見たまま、どこか淋しそうに言った。
「そうだな」
と答えながら助三郎は、この墓の下に埋められた若者と同じ忍びの者に生まれついたお娟を見た。表情は見えない。だが、その白いうなじまでが、彼女の声同様にひっそりと淋しげに見えた。
「往こう」
と言って、格之進がすっくと立ち上がった。
誘われるように助三郎とお娟も立った。
のんびりしてはいられない。ご老公のもとへ戻り、隠し銀山の件で代官所へ出向くことになっているのだ。
仇は討ってやる。
最後にもう一度、名のない墓を見つめて、助三郎は腹のなかで念じた。
仇は討ってやる。命がけでお前が掴んできたことを無駄にはせぬ。お前の果たせなかった務めは、俺たちが引き継ぐ。隠し銀山の陰謀を暴き、天領に不正がないように、必ず、俺たちが。だから、ゆっくり眠るんだ――
「助さん」
格之進に促され、助三郎はきびすを返して彼に従った。
背後で、木々がざわっと揺れた。助三郎の祈りに答えたように。
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墓標になる大きめの石を、それが簡単に倒れぬように、盛り上げた土中に三分の一ほども埋めて備えた格之進が上体を起こしながら振り向いた。
「これでよし」
「ああ」
立ち木に鍬を立てかけながら墓を見やって、助三郎はうなずいた。
墓を掘ったのは実に久しぶりだ。
無縁仏の上、無名の墓である。彼らに銀の仏像を託し、隠し銀山の存在を告げて死んだ男が、ここに眠っている。
近くの寺に埋葬を頼むこともできたが、男は公儀のために働く隠密だった。思案ののち、渓流を見下ろす林の一角によい場所を見つけて彼らの手で埋葬したのだ。
助三郎と格之進は墓を見下ろして、思わず、黙してしまう。
彼らと同様、旅装姿の町人に身を窶していた男は、まだ若かった。助三郎と格之進からは、まだ少年の域を出ていないようにも見えた。きりりとした男前だった。彼は幕府天領の銀山を内偵中に、何者かに斬られて死んだ。
溢れる緑のなかの新しい墓は明るい陽射しを受けて、どこまでも平穏な眺めだった。さわさわと風が木々の葉を渡る音、爽やかな渓流のせせらぎの音にまぎれて鳥のさえずりも聞こえてくる。
ふと助三郎は、暗がりで眼を光らせ、狐狸に喩えられるような隠密として闇のなかで生きてきたであろう若者が、つい先刻、自分の腕のなかで死んだということの現実味が遠のくような気がした。
ここは、こんなにも光に満ちているではないか、と。
それでも、抱き起こした手を濡らした彼の血の温かさが、まだ助三郎に残っていた。あの血の赤や生温かさ、天領の町に影を落とす暗雲の方が現実なのだ。
「なにか身元を示すものは?」
汚れた手を叩きながら格之進が、男が持っていた振り分け行李に視線をやった。
先刻、なかを検めた助三郎は首を振る。
「なにもない」
「そうか…」
呟いて、格之進は今しがた自分が男のために選んだ、ごつごつと見栄えのよい石に視線を戻した。
「遺された家族に、知らせや遺品を送ることができればよいのにな」
嘆息のようだった。
「ああ」
と、助三郎もうなずいた。
もっとも、二人は知っていた。
公儀隠密とはそうしたものだ。いや、公儀に限らず、いずれの隠密も同様だ。その務めが極秘裏に行われねばならぬものであればあるほど、身元の知れるものなど携行はしない。
よって、単独行動の場合、あるいは全滅した場合、どこで誰に殺されても、その死を公儀、あるいはお抱えの藩が知る由もなければ、肉親にも知らされることなどない。隠密は人知れず野垂れ死ぬ身だ。「帰ってこない」という、ただ一言で、その死が表現される。
「哀れだな」
思わず、助三郎は言っていた。
公儀のため、人らしい幸せと無縁に生き、己の命を賭けて働き、公儀のために死ぬ。だが、その働きも、存在も、死すら、誰も知らない。
「そう生まれついているとはいえ、か…」
遠い目をして格之進がうなずいた。だが彼は思いなおしたように表情を改め、すっと目を細めて墓を見下ろした。
「名も知らぬ相手だが、助さん。少なくとも、俺たちが覚えていよう」
「格さん」
思わず、助三郎は微笑んでいた。格之進を健気だと思う。
「そうだな。この男のことも、この男の働きも、俺たちが覚えていよう」
「ああ」
にこっと格之進がうなずいたとき、
「お花を供えてあげて」
と、声がした。
二人は同時に振り向く。
「お娟」
うっそうと繁っている緑を掻き分けるようにして、花を抱いた彼女がやって来た。
「ああ、きれいだな」
と、格之進が目を細めた。花の美しさにというよりも、お娟の優しさにだろう。
木漏れ日のなかの墓をひどく優しい眼差しで見やったお娟は、振り仰ぐように助三郎と格之進を見あげた。
「こんな場所に、こんなふうに葬ってもらえて、きっと喜んでいるよ」
まるで身内を埋葬してもらったかのような表情で、お娟は言った。
「そうならばよいが」
「そうよ」
美しく微笑んだお娟は、袂を押さえて墓の前に膝を折った。摘んできた白い野菊と桔梗を墓前に供え、手を合わせる。
彼女の背後左右で片膝をついて、助三郎も格之進も目を閉じて手を合わせた。
もう終わったんだ、と助三郎は語りかける。
お前の、闇に生きた隠密人生は終わった。だからゆっくり休むがいい。成仏してくれ。
そう語りかけ、祈るが、この仏にそれが可能だろうかとも、助三郎は思う。己の務めを果たすことなく、半ばで敵に気取られて殺されたのだ。さぞ悔しかったろう。無念だったろう。
「さ、戻らなくちゃね」
お娟が墓石を見たまま、どこか淋しそうに言った。
「そうだな」
と答えながら助三郎は、この墓の下に埋められた若者と同じ忍びの者に生まれついたお娟を見た。表情は見えない。だが、その白いうなじまでが、彼女の声同様にひっそりと淋しげに見えた。
「往こう」
と言って、格之進がすっくと立ち上がった。
誘われるように助三郎とお娟も立った。
のんびりしてはいられない。ご老公のもとへ戻り、隠し銀山の件で代官所へ出向くことになっているのだ。
仇は討ってやる。
最後にもう一度、名のない墓を見つめて、助三郎は腹のなかで念じた。
仇は討ってやる。命がけでお前が掴んできたことを無駄にはせぬ。お前の果たせなかった務めは、俺たちが引き継ぐ。隠し銀山の陰謀を暴き、天領に不正がないように、必ず、俺たちが。だから、ゆっくり眠るんだ――
「助さん」
格之進に促され、助三郎はきびすを返して彼に従った。
背後で、木々がざわっと揺れた。助三郎の祈りに答えたように。
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