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"新助…!"
握り飯に塩を付けようとして壺を倒した新助に、懐かしい声がした。忌々しげな、しかし同時に親しみに満ちた口調。声は続いた。
"ったく!なにやってんだお前は〜!ほんっとドンくさいよな!"
「助さん」
呟いて新助は、広がった塩を寄せ集めようとした手を思わず止めてしまった。
"新助!なにをしている!さっさと戻さんか。塩は貴重なんだぞ!"
今度は格之進だ。
「わかってますよ!」
新助は口を尖らせ、声に出して文句を言う。
「もう!助さんも格さんも!二人してほんっと五月蝿いんだから〜!」
次の瞬間、圧倒的な静けさが広がった。土間がひんやりとして空気が冷たく、独りを実感させる。
きょときょとと、新助は周囲を見回した。
ここは江戸。よろず屋を営む実家の台所だ。助三郎と格之進の姿があろうはずはない。
肩を落とした新助は、広がった塩をぼんやりと眺める。はあ〜っと大きな溜め息が出た。その大きさに自分で呆れるほど、溜め息は盛大だった。
「……へんだな?」
自身を励ますように、もう一度、声に出した。
今日は朝から妙な感じだ。やけに助三郎と格之進が甦ってくる。
夢のせいかもしれない。
「起きろ新助!いつまで寝ているつもりだ!」
と助三郎に布団を引っ剥がされる夢をみた。夢のなかで、夢とわかっていたような気がする。新助は甘えた声を出した。
「夕べ飲み過ぎたんですよ〜。もうちょっと寝かせといてくださいよ〜」
「またかお前は!」
そう言って顔を覗き込んでくる助三郎の双眸が眩しくて、新助は開きかけた目を細めた。
「…助さん」
「なんで俺を誘わない?」
ぐっと顔を近づけて、助三郎が睨んだ。
「だって、そんなこと云ったって助さん…」
「だいたいな、二日酔いになるまで飲むなと云うんだ…!酒はいい加減にしておけよ?」
尋ねておきながら、ぐずぐずと答えだした新助の話を丸で聞かずに、助三郎が先を続けた。新助の腕を取り、ぐいと乱暴に引き起こす。
「しゃんとしろしゃんと!」
「助さん!人のことが云えるのかまったく!」
と、そこへ格之進も登場した。
その怒声が、頭にがんがん響いた。助三郎から布団を奪い返すと、それを頭から引っ被って勢いよく枕に戻る。
安物の綿を通して、二人の会話が聞こえる。
「どういう意味だよ。夕べは一滴も飲んでいないぞ!」
助三郎が実に不満げな声を出すと、格之進がきっぱりと言った。
「夜中に抜け出したことを、この俺が知らないと思っているのか…!」
「馬鹿を云うな」
助三郎が抗弁した。うんざりとした語調で、彼の声が続く。
「俺は、夕べは出かけちゃいない。昼間、あれだけご隠居に扱き使われたんだぞ?疲れ果てて眠っていたさ」
しかし格之進も譲らない。
「いや、確かにごそごそ起き出して、こそこそと出かけた」
布団の端から覗くと、眉間に皺を寄せて渋い顔をした格之進と、情けない顔の助三郎という、見慣れた光景があった。その二人の向こうに、青空が広がって見えた。
優しい青。ごく薄い、まるで絽のような雲が淡く流れている。
江戸じゃない。どこか他所の国でもない。水戸の空だ。
枕の上から、助三郎と格之進越しに空を眺めて、新助は何故かそう思いつく。
水戸の、秋の空。
あの空の下、ご老公と芋を掘り、アキと栗を拾った。助三郎、格之進と岩魚や山女を釣りに行った。あの空の下には、お娟もいたし、助三郎の母上、静枝様もいた。山野辺様も早月さんもいた。美しいもみじを、みなで眺めもした。
そんなことを思ってしみじみする新助の懐古をよそに、助三郎が嘆息した。
「勘弁してくれよ、言い掛かりだ…!そりゃ格さんの夢じゃないのか?」
憤慨極まりない格之進の声が大きくなる。
「なにを云う!俺は助さんの夢など見ん」
「ほ〜」
「なんだ…!」
「別に」
「なんだその顔は!」
「別に」
「助さん!云いたいことがあるならはっきり云わんか」
格之進が熱り立ち、助三郎が面倒そうに首を振った。
「別になんでもないと云っているだろう」
「ならばそのヘラヘラした顔はやめんか」
「またそうやって難癖をつける。格さんは何時だって何だって俺の…」
「お前が一向に日頃の行いを正さんから、そうなるんだ」
助三郎に最後まで言わさず、格之進が断じた。
取り留めのない彼らの会話は、まるで子守唄のように心地よかった。
新助は安堵し、幸福な、小さな子供のような心持ちになった。それで、夢のなかでそのまますやすやと寝入ってしまい、実際に目覚めたときに少し後悔した。
たとえ夢でも、起きて、話をすればよかった。二人に聞いて欲しいことが山ほど溜まっている。
どうしてるかな、助さん格さん。
両手で塩を掻き集めながら、新助は思う。西山荘、あるいは水戸城で、変わらぬ日々だろうか。それともまた諸国を漫遊中だろうか。江戸にいるなら、会いに来てくれても良さそうなものだ。
……どうして、別れたんだろ?
手を止めて、新助は思った。
彼らと別れて江戸に留まり、ずっと出来ずにいた親孝行をと。それは自分で決めたことだ。後悔はしていない。
それでも時おり、本当に時おりだが、新助は無性に恋しくなる。ご老公、助三郎と格之進、お娟との日々、西山荘の、そしてあの旅の思い出が。
懐かしかった。恋しさが一気に溢れた。
あの数年は新助の人生のなかで、そこだけ色合いの異なる歳月だ。特別な意味を持つ。まるで、春のなかの春。楽しかったことも嬉しかったことも、歩き疲れたり、暑さや寒さに音を上げた思い出すら、眩しい輝きと共に蘇る。
「ほんと、楽しかったな。いろいろあったなぁ」
つい、独り言ちた。
「新助?お弁当はできたのかい?」
唐突に声を掛けられて、新助は、えっと振り向いた。
母だった。忙しなく土間へ降りながら新助の手元を見て、目を丸くする。呆れた、しかし情の滲む声で、母はからからと笑った。
「いやだよ、なんて大きくて不恰好なおにぎりなの…!」
刹那、またしても助三郎の顔が浮かんだ。
いつか助三郎が、同じように言って、笑った。同じように、呆れと愛しさの滲んだ声だった。

新助は、濡れ縁にすわっている助三郎を見つけた。
五ツ半(午前九時)過ぎ。晩秋の大気は清澄で、陽射しも澄んで美しい。
旅装を解き、着流しの助三郎は柱に背を預けていた。一見、寛いだふうに見える。しかし、立てた片膝にもたせた自身の右手を見るともなく眺める眼つきは、遠目にも厳しかった。その横顔には険があり、肩口や頬に射す柔らかい陽にそぐわない。
旅籠の飼い猫だろうか。白猫が一匹、傍らに寝転んでいる。
丸い陽溜まりの中に一人と一匹。助三郎はその存在に頓着していない様子だが、猫の方は伸ばした背をぴったりと助三郎の脚に押しつけ、気持ち良さそうに目を閉じていた。
十間ほども離れた勝手口の脇に佇む新助の気配に、助三郎はすぐに気づいた。疲れた顔が、新助を見ると、少し変わった。
「なにしてるんですかー助さん?」
歩み寄っていくと、猫が薄目を開けて見た。興味なさそうに、すぐにまた、うっとりと目を閉じる。
「はい、おにぎり」
助三郎の前に立って、新助は運んできた盆を差し出した。握り飯が三つのった皿と湯気を立てている湯のみがのっている。
「作ってもらったから、食べません?」
身体を新助の方へ向けながら、ごく無造作に、助三郎が胡坐を掻いた。そんな所作にも、彼に漂う品が損なわれることはない。助三郎はしばし握り飯を眺めていたが、やがて、くすっと笑った。
「本当に作ってもらったのか」
「そーですよ?」
「嘘をつけ」
盆から視線を上げて新助を見る。その眼差しが和み、微笑んでいた。彼は言った。
「こんなにデカくて不恰好な握り飯が作れるのは、お前くらいなもんだろう」
「あれ、ばれました?」
新助は笑った。助三郎の言う通り、実は台所へお邪魔して残った飯を失敬し、自分で握ってきたのだ。
「ちゃんと手洗って握ったから、食べてくださいよ助さん。具はねぇ、おかかと、鮭と、昆布ですよ。朝食べてないんでしょう?腹へってるんでしょ?」
「腹は減っちゃいないが、」
呟いた助三郎が、ごく静かに微笑した。
「…そうだな、折角だから食うよ」
「はいどうぞ」
と、新助は彼の目の前に盆を突き出した。
「どれが昆布だ?」
「左端の」
ほんの一瞬ではあるが、助三郎は無言で、顔の前できちんと両手を合わせてから、握り飯の一つに手を出した。
盆を彼の隣へ置いて、新助は、それを間に挟む形で濡れ縁に腰掛ける。握り飯を頬張る助三郎の横顔を眺めた。
彼はいつも、豪快に、しかし品を損なわずに咀嚼し、実に美味そうにものを食べる。見ている方まで元気が出る気がするのだが、どうも今日は様子が違った。
元気づけたくて握り飯を持ってきた。
だけどこんなんじゃ子供騙しだ、と新助は思う。やっぱり昨日、なにかあったんだ。と、それを確信したに過ぎない。新助なら、元気がないのは空きっ腹のせいで、腹が膨れれば元気になる。だが、そう単純ではないのだ。
ご老公の遣いで三日ほど別行動だった助三郎が一行に追いついたのは、つい半刻(一時間)ほど前、みなが朝餉を終えて暫くのことだ。
昨日、明るいうちに合流する手はずだったから、格之進は夕べから不機嫌で、ようやく戻った助三郎に、常のように小言を並べ立てた。だが、それに対する助三郎の反応は、常とは異なっていた。
「もういい。どうとでも云ってくれ」
聞く耳を持たずに無責任さを糾す格之進に、助三郎はそう言い捨てた。荒涼とした声だった。
うん、いつもの助さんなら、あんな反応しない。
じっと見ていると、助三郎がわずかばかり、新助に視線をくれた。
「なんだ」
「いえ別に!」
慌てて体ごと、勢いよくくるっと正面を向くと、助三郎が笑った。しかしそれが、力がふっと抜けるような笑い方だったから、新助は悲しくなる。それが正直に顔に出たのだろう。
助三郎が、思い直したように声を大きくした。
「なんだ新助!なにをしょんぼりしている…!」
しょんぼりしてるのは助さんだ。と、新助は悲しく思う。
「だって助さんが元気ないから」
正直に、言っていた。
「なんだそれは…!俺は元気だぞ」
助三郎は相好を崩したが、目は笑っていなかった。
「嘘ですよ」
口を尖らせて強く言うと、助三郎は笑みを引っ込めて、黙った。ほんの暫らく新助の顔を見つめたが、すぐに目を庭木に転じた。そのまま、なにも言わない。思い出したように、手に残っている握り飯を乱暴に頬張った。
盆を取り上げて彼に差し出す。
「助さん、お茶」
ああ、と無造作に湯飲みを掴んで、助三郎が茶を喫する。彼はわりと猫舌だ(と、新助は思う)。だが、かなり熱いはずのほうじ茶を、その熱に気づかぬようにごくごく飲んだ。
「熱くないですか」
新助が言うと、
「うあっち…!」
と悲鳴を上げて、助三郎が飛び上がった。その手から放り出された湯飲みが勢いよく地面に転がった。
「助さん!」
「先に云えよ!」
「だってあんまり平然と…」
「くっそ、火傷したじゃないか…!」
ひーひー言いながら新助の抗弁を遮った助三郎を背に、新助は湯飲みを拾って井戸へ飛んでいく。急いで水を汲んで戻り、助三郎に差し出した。
「はい」
おう、と受け取って、一気に飲み干す。
「大丈夫ですか?」
いや、と助三郎が首を左右に振った。眉根を寄せ、端正な顔を顰めている。
「大丈夫じゃない。口のなかも喉も、たぶん胃の腑まで火傷をしたぞ。ひどいもんだ」
本気なんだかふざけているんだか、よくわからない。
「…全然気づかないでごくごく飲んじゃうなんて、助さん変ですよ」
ふくれっ面で新助が言うと、図星だからだろう。助三郎はむっと黙り、顔を背けた。
しんとして、風が聞こえた。
空が果てしない。透徹の青を湛えた高みを風が渡っていく。
新助は所在無く、気づくと童のように両足をぶらぶら振っていた。
にぃ。
不意に、猫が鳴いた。見れば、胡坐を掻く助三郎の膝頭に前脚をのせ、真下から顔を見上げている。銀色のひげを震わせて、にぃ、ともう一声。
「……なんだ。どこから来た」
と、助三郎。はじめて猫の存在に気づいたように、呆気に取られて見下ろした。
にぃ、と更に一声、応えるように鳴いてから、猫は助三郎の膝を登り、胡坐のくぼみにぴったりと納まった。腿に顎をのせて気持ちよさそうに目を閉じる。その顔がどこか微笑んでいるように見えた。
「……新助」
黙って猫の動きを見ていた助三郎が、その視線を猫に落としたまま、呼んだ。
「へい?」
「この猫はなんだ」
「さぁ?ここの飼い猫でしょう?」
新助は首を傾げた。
「昨日まで、おいら達にはこれっぽっちも近寄ってきませんでしたけど…助さんが好きみたいですね。さっきからずっとそこにいたじゃないですか」
ふうん、と助三郎はどこか上の空だ。大きな手が、猫の頭を乱暴に一撫でした。
猫は動かず、目を閉じたまま喉を鳴らした。いかにも居心地がよさそうだ。
助三郎は猫を追いたてはしなかったが、それ以上かまうでもなく、風の行方を追うように目を漂わせた。
「ここか、助さん」
とそのとき、母屋の影から格之進の声がした。
「格さん」
歩み寄ってくる格之進は、その片手に盆を持っている。濡れ縁に並んですわる二人を見て、彼は笑った。
「なんだ、新助に先を越されたか」
言いながらやって来て、助三郎の眼前に盆を差し出した。
「ほら助さん」
握り飯が、やはり何故か三つと湯気を立てるほうじ茶、そして漬物の小皿が付いている。
助三郎は黙って受け取ったが、困った顔をした。しばし手元を眺め、それから傍らの、新助の持ってきた盆を見やった。そこにもまだ、大きな握り飯が二つ鎮座している。
「…こんなに食えん」
「まあ、そうだろうな」
白い歯を見せて、格之進が笑った。さっきは頭ごなしに悪かったとは、言わない。それで昨日なにがあったのだとも、尋ねない。それでも彼が、聞く耳を持たずに責めたことを多少なりとも反省し、また助三郎を慮っていることは容易に伝わってきた。
そして助三郎が、その格之進に慰められていることも確かだった。
いいな、と新助は思う。あからさまな言葉を必要としない彼らの繋がりを、なにやら羨ましく思う。
と、助三郎が新助に、格之進の持ってきた握り飯を提示した。
「見てみろ新助、これが握り飯ってもんだ」
実に形良く握られている。しかも三つが三つ、正確無比に同じ大きさで、同じ形だ。不恰好で、大きさも形も不揃いな新助の握り飯とはてんで違う。
「格さんは手がでっかいから…!」
新助は膨れた。
「そこだよ」
助三郎が実に尤もらしく頷く。彼はとくとくと、言った。
「自分の手を見てみろ、新助。手の大きさに合った量の飯を取ればいいものを、欲張って多く取るから、きちんと握れず、形が整わんのだ」
新助は益々、ぶすっと膨れた。それはそうだけど、と思う。
「だが助さん」
と、二人の前に立つ格之進が口を挟んだ。
「なにも新助は、自分の為に欲張ったわけではないぞ」
「格さん」
「助さんの為だろう」
格之進の言葉に、助三郎が口を噤む。
格之進は尚も言った。
「助さんに食べてもらおうと、助さんを元気付けたいと思うから、ついつい沢山の飯を取ってしまったんじゃないか。なあ新助」
新助は照れ、首を縮めて助三郎の顔を窺った。
「握り飯のこの不恰好さこそが、新助の、助さんへの思い遣りの表われだ」
格之進の口調はしごく真面目だ。
そこまで言われて、新助は肩を窄めて小さくなる。尤も、褒められているんだか貶されているんだかよくわからない。
すっかり項垂れた助三郎に、格之進が蘊蓄を並べ始める。
「だいたいな、助さん。握り飯、と俺達は云うが、本当は「おにぎり」なんだぞ?」
「なんの話だ…格さん」
項垂れたまま、助三郎が溜め息をついた。
「鬼を切ると書いて、「鬼切り」だ。禍を退ける、という意味だ。握る者が、食べる者の無事を願い、幸せを祈り、心を込めて握る、それが握り飯なんだ」
格之進の語調はその性分故か、どうも説教めく。一本気な言葉だった。
それでも助三郎が感じ入ったふうな顔を上げ、つくづくと格之進を見た。無意識だろうか。その長い指が、猫の耳の辺りを撫ぜている。心地よさそうな猫の長いひげや眉毛では、埃の粒がきらきら光っていた。
「…格さん」
「文句を云うな。罰が当たるぞ」
助三郎を見下ろして、格之進はそう締めくくった。
助三郎が黙ったまま、新助の握り飯を見た。横顔の彼は、少し困ったような、照れたような、どこか子供じみた表情(かお)をしていた。やがて目を上げて、彼は新助を見た。
「すまん新助。美味かったよ」
新助が照れまくり、言葉が吹き飛んであわあわとなったとき、助三郎が悪戯っぽい目を格之進に向けた。それなら格さんも、と彼は言った。
「格さんも、俺の無事を願い、幸せを祈って、心を込めて、これを握ったってことだな?」
助三郎が、格之進の言った言葉の一語一句を句切って、念を押す。
今度は格之進があわを食って半歩、後じさった。
「俺の話ではない!新助の握り飯の話だ!」
「いやいや格さんのこの完っ璧な山形のおにぎりには負けますよ〜!」
新助は言った。
「なんでこんなにおんなじ形なんです?海苔の張り方までばっちりおんなじ!」
「それに引き換え、お前のはまたぶっさいくだよな〜」
と、助三郎。言葉は乱暴だが、好意と感謝が込められた声だった。握り飯を見比べて、感心しきりに彼が続ける。
「ほんっと気性が表われているよな。しかも二人してこのデカさだ!稽古の後だって、こんなには食えんぞ。俺を相撲取りとでも思っているのか、二人して」
「だから!それもこれも、全てお前の為を思ってのことだろう…!なにを感心している」
「ほんとですよね格さん!」
格之進を振り仰いでから、新助は助三郎の笑顔を眩しく睨んだ。
そうして三人で他愛ない会話を続けた。声を立てて、笑った。
あれは、どこの旅籠だったろう。風に潮の匂いが混じっていたように思う。海辺の町だったろうか。冬の訪れを予感させるような、澄んだ美しい朝だった。

会いたいなぁ。
新助は思う。会いに行こうかなと、思った。西山荘を訪ねてみようか。
西山荘。流れて咲く桜、頭上に枝を広げる紅葉、雪を被ってひっそりと実をつけている南天や、松の緑。文机に向かうご老公の背中。風呂釜に薪をくべながら聞いたお娟の唄声。格之進の小言、助三郎の悪戯っぽい笑顔。――懐かしさが込み上げ、帰らぬ歳月を思った。
会いたいと、新助は強く思う。
しかし、いまや新助にとって西山荘は敷居が高い。
如何に親しく過ごした年月があっても、市井に暮らすいまとなっては、水戸のご老公はあまりに恐れ多い存在だ。水臭いぞ、と自分に言ってみても、どうしても遠慮が先に立った。
助三郎と格之進にしても武士、徳川御三家に名を連ねる水戸藩の歴とした藩士である。水戸城はもちろん、将軍様の住まう江戸城にも登城している侍なのだ。
あの頃は、信じられないほど気さくに接していた。だが本来ならば、町人である新助は彼らとは身分が違う。その間には、厳然とした隔たりがあった。
"なにを下らんことを云っているんだお前は!"
また、助三郎の声がした。
そういえば、江戸で別れる前夜、彼にそう言われた。
江戸に残ると自分で決めたくせに、助三郎と格之進にそう告げたとき、新助は異様な淋しさに襲われた。悲しくなったのだ。
ややもすると新助は、二人に反対して欲しかったのかもしれない。本心は、引き止めて欲しかったのかもしれない。そんな気がした。
彼らは束の間、意外そうな顔を見せはした。へぇ、という顔を見合わせた。しかしどちらも、新助を止めはしなかった。それどころか、いいことだと頷いた顔は、むしろ満足そうだった。
それで悲しくなった新助が、水戸は遠いですね、二度と会えないかもしれませんねだのと溢すと、助三郎が言ったのだ。
「薄情な奴だな!」
言いざま助三郎は、手にしていた猪口を音を立てて膳へ戻した。
薄情なのは助さん格さんじゃないか。
二人の前で畏まり、膝の上で両手を握りしめて、新助はそう思った。おいらが江戸に残るっていうのに、大して驚きもせず、疑問もなにもなく、すんなり、はいそうですか、だ!薄情にも程がある。
だが新助がなにか言う前に、助三郎の言葉は続いた。
「二度と会えないかもだと?会いに来ないつもりか?水戸はそう遠くないぞ。たとえ遠くたってだな、会いに来るのが友ってもんだろう!」
友!?? と新助は思った。
「とっ、友っ!?」
身を乗り出して鸚鵡返した声が、ひっくり返っていた。
「なんだ、違うのか」
と格之進。咎める声だった。
だけど、と新助は四つん這いになって二人に迫り、訴えた。
「だけど、だけど助さん格さんはお侍様じゃないですか!おいらは町人、しがないよろず屋ですよ!身分が違いますよ。おいそれと会いにいけませんよ!」
「なにを下らんことを云っているんだお前は!」
乱暴に、助三郎が言った。苛立たしげであり、嘆かわしげでもあった。
格之進も大きく嘆息した。
「まったくだ!ご老公のお側で、お前は一体なにを見、なにを学んできたんだ!」
腕を組み、うんうんと肯う助三郎が、新助を睨んだ。
「身分だと?」
「助さん」
「俺たちはもう、そんなものを越えた仲なんじゃないのか。この数年、どれほど苦楽を共にした?何べん一緒に飲みに行った?」
助三郎の言葉に、今度は格之進が頷いた。
「何べんも何べんも、この俺が口を酸っぱくして説教をしても、全く懲りずにな!幾度二人でこの俺を出し抜いた?」
彼らの言い様に、新助はもう、泣き笑いの顔になっていた。
「それを、もうこれっきりか。まったく冷たい奴だ…!」
と、助三郎。茶目っ気に満ちた目で、新助を睨んでいる。
「…じゃあほんとに、ほんとに会いに行ってもいいんで?」
「当たり前だろう!」
格之進が背中を叩いた。その勢いで前にのめった新助を、助三郎の片腕が受け止めた。そのまま、彼は言った。
「忘れるな、新助」
真摯な声だった。黒い瞳が明快に輝いていた。
「俺たちはいつだって待っている。帰って来るもいい、ただ会いに来るもいい。いつでも好きに訪ねてこい」
「助さん」
「かつてお前は、ご老公について旅をすることを自分で決めた。今回もそうだ。自分で決め、自分で歩いている。お前は結構、見どころのある男だと思うぞ」
助三郎の目が温かい。
彼らが新助に対し、あれほどまで真剣で親身な口調になることは多くない。それだけに、力があった。
「意外にもな…!」
笑い皺を深く刻んで、格之進がくっきりと強く、笑った。
感極まって新助は大泣きした。
わかった、わかったと、助三郎が幾度も新助の肩を叩いた。
あの夜、だからこそ、助三郎も格之進も、江戸に残る自分を止めないのだということが、新助にもわかった。
二人は新助を一人前の男として認めてくれていた。自分のことを自分で決め、実行しようとする新助を、むしろ評価してくれていた。その決定を尊重してくれていた。別れることを寂しく思っていないからではなく、新助が好きだからこそ、手放そうとしてくれたのだ。
あのとき、新助は感激した。嬉しかった。自分のことが少し、誇らしく思えた。
「…助さん、格さん」
呟いたとき、窓枠に止まった雀が元気に鳴いて、はっと現に立ち戻る。反射的に首を回して見やると、驚いた雀が軽やかに羽ばたいていった。その飛翔に誘われた新助の目に、空の青がぱっと飛び込んできた。
高く、そして青い。
この空の下に、助三郎と格之進がいる。そしてご老公がいる。
「水戸はそう遠くないぞ。たとえ遠くたってだな、会いに来るのが友ってもんだろう!」
かつて助三郎がそう言った。友なのかと反駁した新助に、違うのかと格之進は不服そうだった。
先の副将軍・水戸光圀公の家臣、世に並びなき剣術の達人と柔術の達人、佐々木助三郎と渥美格之進が、新助を「友」と、呼んでくれた。
会いに行こう。
助さんと格さんに、会いに行こう。

疾(と)く過ぎゆくな 春のなかの、春
"新助…!"
握り飯に塩を付けようとして壺を倒した新助に、懐かしい声がした。忌々しげな、しかし同時に親しみに満ちた口調。声は続いた。
"ったく!なにやってんだお前は〜!ほんっとドンくさいよな!"
「助さん」
呟いて新助は、広がった塩を寄せ集めようとした手を思わず止めてしまった。
"新助!なにをしている!さっさと戻さんか。塩は貴重なんだぞ!"
今度は格之進だ。
「わかってますよ!」
新助は口を尖らせ、声に出して文句を言う。
「もう!助さんも格さんも!二人してほんっと五月蝿いんだから〜!」
次の瞬間、圧倒的な静けさが広がった。土間がひんやりとして空気が冷たく、独りを実感させる。
きょときょとと、新助は周囲を見回した。
ここは江戸。よろず屋を営む実家の台所だ。助三郎と格之進の姿があろうはずはない。
肩を落とした新助は、広がった塩をぼんやりと眺める。はあ〜っと大きな溜め息が出た。その大きさに自分で呆れるほど、溜め息は盛大だった。
「……へんだな?」
自身を励ますように、もう一度、声に出した。
今日は朝から妙な感じだ。やけに助三郎と格之進が甦ってくる。
夢のせいかもしれない。
「起きろ新助!いつまで寝ているつもりだ!」
と助三郎に布団を引っ剥がされる夢をみた。夢のなかで、夢とわかっていたような気がする。新助は甘えた声を出した。
「夕べ飲み過ぎたんですよ〜。もうちょっと寝かせといてくださいよ〜」
「またかお前は!」
そう言って顔を覗き込んでくる助三郎の双眸が眩しくて、新助は開きかけた目を細めた。
「…助さん」
「なんで俺を誘わない?」
ぐっと顔を近づけて、助三郎が睨んだ。
「だって、そんなこと云ったって助さん…」
「だいたいな、二日酔いになるまで飲むなと云うんだ…!酒はいい加減にしておけよ?」
尋ねておきながら、ぐずぐずと答えだした新助の話を丸で聞かずに、助三郎が先を続けた。新助の腕を取り、ぐいと乱暴に引き起こす。
「しゃんとしろしゃんと!」
「助さん!人のことが云えるのかまったく!」
と、そこへ格之進も登場した。
その怒声が、頭にがんがん響いた。助三郎から布団を奪い返すと、それを頭から引っ被って勢いよく枕に戻る。
安物の綿を通して、二人の会話が聞こえる。
「どういう意味だよ。夕べは一滴も飲んでいないぞ!」
助三郎が実に不満げな声を出すと、格之進がきっぱりと言った。
「夜中に抜け出したことを、この俺が知らないと思っているのか…!」
「馬鹿を云うな」
助三郎が抗弁した。うんざりとした語調で、彼の声が続く。
「俺は、夕べは出かけちゃいない。昼間、あれだけご隠居に扱き使われたんだぞ?疲れ果てて眠っていたさ」
しかし格之進も譲らない。
「いや、確かにごそごそ起き出して、こそこそと出かけた」
布団の端から覗くと、眉間に皺を寄せて渋い顔をした格之進と、情けない顔の助三郎という、見慣れた光景があった。その二人の向こうに、青空が広がって見えた。
優しい青。ごく薄い、まるで絽のような雲が淡く流れている。
江戸じゃない。どこか他所の国でもない。水戸の空だ。
枕の上から、助三郎と格之進越しに空を眺めて、新助は何故かそう思いつく。
水戸の、秋の空。
あの空の下、ご老公と芋を掘り、アキと栗を拾った。助三郎、格之進と岩魚や山女を釣りに行った。あの空の下には、お娟もいたし、助三郎の母上、静枝様もいた。山野辺様も早月さんもいた。美しいもみじを、みなで眺めもした。
そんなことを思ってしみじみする新助の懐古をよそに、助三郎が嘆息した。
「勘弁してくれよ、言い掛かりだ…!そりゃ格さんの夢じゃないのか?」
憤慨極まりない格之進の声が大きくなる。
「なにを云う!俺は助さんの夢など見ん」
「ほ〜」
「なんだ…!」
「別に」
「なんだその顔は!」
「別に」
「助さん!云いたいことがあるならはっきり云わんか」
格之進が熱り立ち、助三郎が面倒そうに首を振った。
「別になんでもないと云っているだろう」
「ならばそのヘラヘラした顔はやめんか」
「またそうやって難癖をつける。格さんは何時だって何だって俺の…」
「お前が一向に日頃の行いを正さんから、そうなるんだ」
助三郎に最後まで言わさず、格之進が断じた。
取り留めのない彼らの会話は、まるで子守唄のように心地よかった。
新助は安堵し、幸福な、小さな子供のような心持ちになった。それで、夢のなかでそのまますやすやと寝入ってしまい、実際に目覚めたときに少し後悔した。
たとえ夢でも、起きて、話をすればよかった。二人に聞いて欲しいことが山ほど溜まっている。
どうしてるかな、助さん格さん。
両手で塩を掻き集めながら、新助は思う。西山荘、あるいは水戸城で、変わらぬ日々だろうか。それともまた諸国を漫遊中だろうか。江戸にいるなら、会いに来てくれても良さそうなものだ。
……どうして、別れたんだろ?
手を止めて、新助は思った。
彼らと別れて江戸に留まり、ずっと出来ずにいた親孝行をと。それは自分で決めたことだ。後悔はしていない。
それでも時おり、本当に時おりだが、新助は無性に恋しくなる。ご老公、助三郎と格之進、お娟との日々、西山荘の、そしてあの旅の思い出が。
懐かしかった。恋しさが一気に溢れた。
あの数年は新助の人生のなかで、そこだけ色合いの異なる歳月だ。特別な意味を持つ。まるで、春のなかの春。楽しかったことも嬉しかったことも、歩き疲れたり、暑さや寒さに音を上げた思い出すら、眩しい輝きと共に蘇る。
「ほんと、楽しかったな。いろいろあったなぁ」
つい、独り言ちた。
「新助?お弁当はできたのかい?」
唐突に声を掛けられて、新助は、えっと振り向いた。
母だった。忙しなく土間へ降りながら新助の手元を見て、目を丸くする。呆れた、しかし情の滲む声で、母はからからと笑った。
「いやだよ、なんて大きくて不恰好なおにぎりなの…!」
刹那、またしても助三郎の顔が浮かんだ。
いつか助三郎が、同じように言って、笑った。同じように、呆れと愛しさの滲んだ声だった。

新助は、濡れ縁にすわっている助三郎を見つけた。
五ツ半(午前九時)過ぎ。晩秋の大気は清澄で、陽射しも澄んで美しい。
旅装を解き、着流しの助三郎は柱に背を預けていた。一見、寛いだふうに見える。しかし、立てた片膝にもたせた自身の右手を見るともなく眺める眼つきは、遠目にも厳しかった。その横顔には険があり、肩口や頬に射す柔らかい陽にそぐわない。
旅籠の飼い猫だろうか。白猫が一匹、傍らに寝転んでいる。
丸い陽溜まりの中に一人と一匹。助三郎はその存在に頓着していない様子だが、猫の方は伸ばした背をぴったりと助三郎の脚に押しつけ、気持ち良さそうに目を閉じていた。
十間ほども離れた勝手口の脇に佇む新助の気配に、助三郎はすぐに気づいた。疲れた顔が、新助を見ると、少し変わった。
「なにしてるんですかー助さん?」
歩み寄っていくと、猫が薄目を開けて見た。興味なさそうに、すぐにまた、うっとりと目を閉じる。
「はい、おにぎり」
助三郎の前に立って、新助は運んできた盆を差し出した。握り飯が三つのった皿と湯気を立てている湯のみがのっている。
「作ってもらったから、食べません?」
身体を新助の方へ向けながら、ごく無造作に、助三郎が胡坐を掻いた。そんな所作にも、彼に漂う品が損なわれることはない。助三郎はしばし握り飯を眺めていたが、やがて、くすっと笑った。
「本当に作ってもらったのか」
「そーですよ?」
「嘘をつけ」
盆から視線を上げて新助を見る。その眼差しが和み、微笑んでいた。彼は言った。
「こんなにデカくて不恰好な握り飯が作れるのは、お前くらいなもんだろう」
「あれ、ばれました?」
新助は笑った。助三郎の言う通り、実は台所へお邪魔して残った飯を失敬し、自分で握ってきたのだ。
「ちゃんと手洗って握ったから、食べてくださいよ助さん。具はねぇ、おかかと、鮭と、昆布ですよ。朝食べてないんでしょう?腹へってるんでしょ?」
「腹は減っちゃいないが、」
呟いた助三郎が、ごく静かに微笑した。
「…そうだな、折角だから食うよ」
「はいどうぞ」
と、新助は彼の目の前に盆を突き出した。
「どれが昆布だ?」
「左端の」
ほんの一瞬ではあるが、助三郎は無言で、顔の前できちんと両手を合わせてから、握り飯の一つに手を出した。
盆を彼の隣へ置いて、新助は、それを間に挟む形で濡れ縁に腰掛ける。握り飯を頬張る助三郎の横顔を眺めた。
彼はいつも、豪快に、しかし品を損なわずに咀嚼し、実に美味そうにものを食べる。見ている方まで元気が出る気がするのだが、どうも今日は様子が違った。
元気づけたくて握り飯を持ってきた。
だけどこんなんじゃ子供騙しだ、と新助は思う。やっぱり昨日、なにかあったんだ。と、それを確信したに過ぎない。新助なら、元気がないのは空きっ腹のせいで、腹が膨れれば元気になる。だが、そう単純ではないのだ。
ご老公の遣いで三日ほど別行動だった助三郎が一行に追いついたのは、つい半刻(一時間)ほど前、みなが朝餉を終えて暫くのことだ。
昨日、明るいうちに合流する手はずだったから、格之進は夕べから不機嫌で、ようやく戻った助三郎に、常のように小言を並べ立てた。だが、それに対する助三郎の反応は、常とは異なっていた。
「もういい。どうとでも云ってくれ」
聞く耳を持たずに無責任さを糾す格之進に、助三郎はそう言い捨てた。荒涼とした声だった。
うん、いつもの助さんなら、あんな反応しない。
じっと見ていると、助三郎がわずかばかり、新助に視線をくれた。
「なんだ」
「いえ別に!」
慌てて体ごと、勢いよくくるっと正面を向くと、助三郎が笑った。しかしそれが、力がふっと抜けるような笑い方だったから、新助は悲しくなる。それが正直に顔に出たのだろう。
助三郎が、思い直したように声を大きくした。
「なんだ新助!なにをしょんぼりしている…!」
しょんぼりしてるのは助さんだ。と、新助は悲しく思う。
「だって助さんが元気ないから」
正直に、言っていた。
「なんだそれは…!俺は元気だぞ」
助三郎は相好を崩したが、目は笑っていなかった。
「嘘ですよ」
口を尖らせて強く言うと、助三郎は笑みを引っ込めて、黙った。ほんの暫らく新助の顔を見つめたが、すぐに目を庭木に転じた。そのまま、なにも言わない。思い出したように、手に残っている握り飯を乱暴に頬張った。
盆を取り上げて彼に差し出す。
「助さん、お茶」
ああ、と無造作に湯飲みを掴んで、助三郎が茶を喫する。彼はわりと猫舌だ(と、新助は思う)。だが、かなり熱いはずのほうじ茶を、その熱に気づかぬようにごくごく飲んだ。
「熱くないですか」
新助が言うと、
「うあっち…!」
と悲鳴を上げて、助三郎が飛び上がった。その手から放り出された湯飲みが勢いよく地面に転がった。
「助さん!」
「先に云えよ!」
「だってあんまり平然と…」
「くっそ、火傷したじゃないか…!」
ひーひー言いながら新助の抗弁を遮った助三郎を背に、新助は湯飲みを拾って井戸へ飛んでいく。急いで水を汲んで戻り、助三郎に差し出した。
「はい」
おう、と受け取って、一気に飲み干す。
「大丈夫ですか?」
いや、と助三郎が首を左右に振った。眉根を寄せ、端正な顔を顰めている。
「大丈夫じゃない。口のなかも喉も、たぶん胃の腑まで火傷をしたぞ。ひどいもんだ」
本気なんだかふざけているんだか、よくわからない。
「…全然気づかないでごくごく飲んじゃうなんて、助さん変ですよ」
ふくれっ面で新助が言うと、図星だからだろう。助三郎はむっと黙り、顔を背けた。
しんとして、風が聞こえた。
空が果てしない。透徹の青を湛えた高みを風が渡っていく。
新助は所在無く、気づくと童のように両足をぶらぶら振っていた。
にぃ。
不意に、猫が鳴いた。見れば、胡坐を掻く助三郎の膝頭に前脚をのせ、真下から顔を見上げている。銀色のひげを震わせて、にぃ、ともう一声。
「……なんだ。どこから来た」
と、助三郎。はじめて猫の存在に気づいたように、呆気に取られて見下ろした。
にぃ、と更に一声、応えるように鳴いてから、猫は助三郎の膝を登り、胡坐のくぼみにぴったりと納まった。腿に顎をのせて気持ちよさそうに目を閉じる。その顔がどこか微笑んでいるように見えた。
「……新助」
黙って猫の動きを見ていた助三郎が、その視線を猫に落としたまま、呼んだ。
「へい?」
「この猫はなんだ」
「さぁ?ここの飼い猫でしょう?」
新助は首を傾げた。
「昨日まで、おいら達にはこれっぽっちも近寄ってきませんでしたけど…助さんが好きみたいですね。さっきからずっとそこにいたじゃないですか」
ふうん、と助三郎はどこか上の空だ。大きな手が、猫の頭を乱暴に一撫でした。
猫は動かず、目を閉じたまま喉を鳴らした。いかにも居心地がよさそうだ。
助三郎は猫を追いたてはしなかったが、それ以上かまうでもなく、風の行方を追うように目を漂わせた。
「ここか、助さん」
とそのとき、母屋の影から格之進の声がした。
「格さん」
歩み寄ってくる格之進は、その片手に盆を持っている。濡れ縁に並んですわる二人を見て、彼は笑った。
「なんだ、新助に先を越されたか」
言いながらやって来て、助三郎の眼前に盆を差し出した。
「ほら助さん」
握り飯が、やはり何故か三つと湯気を立てるほうじ茶、そして漬物の小皿が付いている。
助三郎は黙って受け取ったが、困った顔をした。しばし手元を眺め、それから傍らの、新助の持ってきた盆を見やった。そこにもまだ、大きな握り飯が二つ鎮座している。
「…こんなに食えん」
「まあ、そうだろうな」
白い歯を見せて、格之進が笑った。さっきは頭ごなしに悪かったとは、言わない。それで昨日なにがあったのだとも、尋ねない。それでも彼が、聞く耳を持たずに責めたことを多少なりとも反省し、また助三郎を慮っていることは容易に伝わってきた。
そして助三郎が、その格之進に慰められていることも確かだった。
いいな、と新助は思う。あからさまな言葉を必要としない彼らの繋がりを、なにやら羨ましく思う。
と、助三郎が新助に、格之進の持ってきた握り飯を提示した。
「見てみろ新助、これが握り飯ってもんだ」
実に形良く握られている。しかも三つが三つ、正確無比に同じ大きさで、同じ形だ。不恰好で、大きさも形も不揃いな新助の握り飯とはてんで違う。
「格さんは手がでっかいから…!」
新助は膨れた。
「そこだよ」
助三郎が実に尤もらしく頷く。彼はとくとくと、言った。
「自分の手を見てみろ、新助。手の大きさに合った量の飯を取ればいいものを、欲張って多く取るから、きちんと握れず、形が整わんのだ」
新助は益々、ぶすっと膨れた。それはそうだけど、と思う。
「だが助さん」
と、二人の前に立つ格之進が口を挟んだ。
「なにも新助は、自分の為に欲張ったわけではないぞ」
「格さん」
「助さんの為だろう」
格之進の言葉に、助三郎が口を噤む。
格之進は尚も言った。
「助さんに食べてもらおうと、助さんを元気付けたいと思うから、ついつい沢山の飯を取ってしまったんじゃないか。なあ新助」
新助は照れ、首を縮めて助三郎の顔を窺った。
「握り飯のこの不恰好さこそが、新助の、助さんへの思い遣りの表われだ」
格之進の口調はしごく真面目だ。
そこまで言われて、新助は肩を窄めて小さくなる。尤も、褒められているんだか貶されているんだかよくわからない。
すっかり項垂れた助三郎に、格之進が蘊蓄を並べ始める。
「だいたいな、助さん。握り飯、と俺達は云うが、本当は「おにぎり」なんだぞ?」
「なんの話だ…格さん」
項垂れたまま、助三郎が溜め息をついた。
「鬼を切ると書いて、「鬼切り」だ。禍を退ける、という意味だ。握る者が、食べる者の無事を願い、幸せを祈り、心を込めて握る、それが握り飯なんだ」
格之進の語調はその性分故か、どうも説教めく。一本気な言葉だった。
それでも助三郎が感じ入ったふうな顔を上げ、つくづくと格之進を見た。無意識だろうか。その長い指が、猫の耳の辺りを撫ぜている。心地よさそうな猫の長いひげや眉毛では、埃の粒がきらきら光っていた。
「…格さん」
「文句を云うな。罰が当たるぞ」
助三郎を見下ろして、格之進はそう締めくくった。
助三郎が黙ったまま、新助の握り飯を見た。横顔の彼は、少し困ったような、照れたような、どこか子供じみた表情(かお)をしていた。やがて目を上げて、彼は新助を見た。
「すまん新助。美味かったよ」
新助が照れまくり、言葉が吹き飛んであわあわとなったとき、助三郎が悪戯っぽい目を格之進に向けた。それなら格さんも、と彼は言った。
「格さんも、俺の無事を願い、幸せを祈って、心を込めて、これを握ったってことだな?」
助三郎が、格之進の言った言葉の一語一句を句切って、念を押す。
今度は格之進があわを食って半歩、後じさった。
「俺の話ではない!新助の握り飯の話だ!」
「いやいや格さんのこの完っ璧な山形のおにぎりには負けますよ〜!」
新助は言った。
「なんでこんなにおんなじ形なんです?海苔の張り方までばっちりおんなじ!」
「それに引き換え、お前のはまたぶっさいくだよな〜」
と、助三郎。言葉は乱暴だが、好意と感謝が込められた声だった。握り飯を見比べて、感心しきりに彼が続ける。
「ほんっと気性が表われているよな。しかも二人してこのデカさだ!稽古の後だって、こんなには食えんぞ。俺を相撲取りとでも思っているのか、二人して」
「だから!それもこれも、全てお前の為を思ってのことだろう…!なにを感心している」
「ほんとですよね格さん!」
格之進を振り仰いでから、新助は助三郎の笑顔を眩しく睨んだ。
そうして三人で他愛ない会話を続けた。声を立てて、笑った。
あれは、どこの旅籠だったろう。風に潮の匂いが混じっていたように思う。海辺の町だったろうか。冬の訪れを予感させるような、澄んだ美しい朝だった。

会いたいなぁ。
新助は思う。会いに行こうかなと、思った。西山荘を訪ねてみようか。
西山荘。流れて咲く桜、頭上に枝を広げる紅葉、雪を被ってひっそりと実をつけている南天や、松の緑。文机に向かうご老公の背中。風呂釜に薪をくべながら聞いたお娟の唄声。格之進の小言、助三郎の悪戯っぽい笑顔。――懐かしさが込み上げ、帰らぬ歳月を思った。
会いたいと、新助は強く思う。
しかし、いまや新助にとって西山荘は敷居が高い。
如何に親しく過ごした年月があっても、市井に暮らすいまとなっては、水戸のご老公はあまりに恐れ多い存在だ。水臭いぞ、と自分に言ってみても、どうしても遠慮が先に立った。
助三郎と格之進にしても武士、徳川御三家に名を連ねる水戸藩の歴とした藩士である。水戸城はもちろん、将軍様の住まう江戸城にも登城している侍なのだ。
あの頃は、信じられないほど気さくに接していた。だが本来ならば、町人である新助は彼らとは身分が違う。その間には、厳然とした隔たりがあった。
"なにを下らんことを云っているんだお前は!"
また、助三郎の声がした。
そういえば、江戸で別れる前夜、彼にそう言われた。
江戸に残ると自分で決めたくせに、助三郎と格之進にそう告げたとき、新助は異様な淋しさに襲われた。悲しくなったのだ。
ややもすると新助は、二人に反対して欲しかったのかもしれない。本心は、引き止めて欲しかったのかもしれない。そんな気がした。
彼らは束の間、意外そうな顔を見せはした。へぇ、という顔を見合わせた。しかしどちらも、新助を止めはしなかった。それどころか、いいことだと頷いた顔は、むしろ満足そうだった。
それで悲しくなった新助が、水戸は遠いですね、二度と会えないかもしれませんねだのと溢すと、助三郎が言ったのだ。
「薄情な奴だな!」
言いざま助三郎は、手にしていた猪口を音を立てて膳へ戻した。
薄情なのは助さん格さんじゃないか。
二人の前で畏まり、膝の上で両手を握りしめて、新助はそう思った。おいらが江戸に残るっていうのに、大して驚きもせず、疑問もなにもなく、すんなり、はいそうですか、だ!薄情にも程がある。
だが新助がなにか言う前に、助三郎の言葉は続いた。
「二度と会えないかもだと?会いに来ないつもりか?水戸はそう遠くないぞ。たとえ遠くたってだな、会いに来るのが友ってもんだろう!」
友!?? と新助は思った。
「とっ、友っ!?」
身を乗り出して鸚鵡返した声が、ひっくり返っていた。
「なんだ、違うのか」
と格之進。咎める声だった。
だけど、と新助は四つん這いになって二人に迫り、訴えた。
「だけど、だけど助さん格さんはお侍様じゃないですか!おいらは町人、しがないよろず屋ですよ!身分が違いますよ。おいそれと会いにいけませんよ!」
「なにを下らんことを云っているんだお前は!」
乱暴に、助三郎が言った。苛立たしげであり、嘆かわしげでもあった。
格之進も大きく嘆息した。
「まったくだ!ご老公のお側で、お前は一体なにを見、なにを学んできたんだ!」
腕を組み、うんうんと肯う助三郎が、新助を睨んだ。
「身分だと?」
「助さん」
「俺たちはもう、そんなものを越えた仲なんじゃないのか。この数年、どれほど苦楽を共にした?何べん一緒に飲みに行った?」
助三郎の言葉に、今度は格之進が頷いた。
「何べんも何べんも、この俺が口を酸っぱくして説教をしても、全く懲りずにな!幾度二人でこの俺を出し抜いた?」
彼らの言い様に、新助はもう、泣き笑いの顔になっていた。
「それを、もうこれっきりか。まったく冷たい奴だ…!」
と、助三郎。茶目っ気に満ちた目で、新助を睨んでいる。
「…じゃあほんとに、ほんとに会いに行ってもいいんで?」
「当たり前だろう!」
格之進が背中を叩いた。その勢いで前にのめった新助を、助三郎の片腕が受け止めた。そのまま、彼は言った。
「忘れるな、新助」
真摯な声だった。黒い瞳が明快に輝いていた。
「俺たちはいつだって待っている。帰って来るもいい、ただ会いに来るもいい。いつでも好きに訪ねてこい」
「助さん」
「かつてお前は、ご老公について旅をすることを自分で決めた。今回もそうだ。自分で決め、自分で歩いている。お前は結構、見どころのある男だと思うぞ」
助三郎の目が温かい。
彼らが新助に対し、あれほどまで真剣で親身な口調になることは多くない。それだけに、力があった。
「意外にもな…!」
笑い皺を深く刻んで、格之進がくっきりと強く、笑った。
感極まって新助は大泣きした。
わかった、わかったと、助三郎が幾度も新助の肩を叩いた。
あの夜、だからこそ、助三郎も格之進も、江戸に残る自分を止めないのだということが、新助にもわかった。
二人は新助を一人前の男として認めてくれていた。自分のことを自分で決め、実行しようとする新助を、むしろ評価してくれていた。その決定を尊重してくれていた。別れることを寂しく思っていないからではなく、新助が好きだからこそ、手放そうとしてくれたのだ。
あのとき、新助は感激した。嬉しかった。自分のことが少し、誇らしく思えた。
「…助さん、格さん」
呟いたとき、窓枠に止まった雀が元気に鳴いて、はっと現に立ち戻る。反射的に首を回して見やると、驚いた雀が軽やかに羽ばたいていった。その飛翔に誘われた新助の目に、空の青がぱっと飛び込んできた。
高く、そして青い。
この空の下に、助三郎と格之進がいる。そしてご老公がいる。
「水戸はそう遠くないぞ。たとえ遠くたってだな、会いに来るのが友ってもんだろう!」
かつて助三郎がそう言った。友なのかと反駁した新助に、違うのかと格之進は不服そうだった。
先の副将軍・水戸光圀公の家臣、世に並びなき剣術の達人と柔術の達人、佐々木助三郎と渥美格之進が、新助を「友」と、呼んでくれた。
会いに行こう。
助さんと格さんに、会いに行こう。

疾(と)く過ぎゆくな 春のなかの、春
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って呼ぶんですね。すてき



ありがとうございます

凄く懐かしくてちょっと悲しくなりました



ステキなお話ありがとうございます
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