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「考え事か?」
背後から唐突に、気さくな声がした。
助三郎だ。
黙って、格之進は振り向いた。
果たして、旅籠の浴衣姿の助三郎が軒の影から姿を現わした。心地よい下駄の音を響かせて中庭を横切り、彼はそばへやって来た。
「もう日誌は書いたのか?」
「あ、」
隣に並んだ助三郎の肩の辺りを見ながら、格之進はそのことを思い出した。珍しいことにすっかり忘れていた。
「忘れていた」
「忘れていた?日誌を書くのを?お前が?」
一瞬目を丸くした助三郎は、驚きとも皮肉ともとれる微笑で反問した。
「どうかしたのか」
「いや、特には」
正直に云ったのだが、納得していない証拠に助三郎は苦笑した。しかしそれ以上はとやかく云わず、代わりに夜空を見て彼はこう云った。
「きれいな月だな」
「うん」
と格之進はさっきまで眺めていた月を見上げる。
いま助三郎がきれいだと云ったその月を、格之進は助三郎に似ていると思っていたところだ。忌々しいから口にはすまいと決める。
すっきりとした夜空に浮かぶ月は、透明に白く、冴えている。たなびく二筋の雲を銀に光らせていた。
「葉が光っている」
助三郎が云った。
見ると、彼は月ではなく、庭の植え込みの木や竹藪の葉を見ていた。
夜、青白い月の光に照らされる庭木の緑はどこか清冽な感じがする。葉が静かに呼吸している息吹が聞こえてきそうだ。
夕方降った雨のせいで土と草、いや苔の匂いがする。
「助さん」
格之進は彼と並んで庭木を眺めたまま、呼んだ。
「ああ?」
「朔矢さんのことだが」
「ああ」
「弟のために、命を捨てようとした」
「そうだな」
と、ごく静かに助三郎がうなずいた。
格之進は彼を見た。
なんの感情も読み取れない表情で助三郎は、月光にてかてか光っている植木の葉を見ている。まるですべてをわかっているような顔にも見えた。
その端正な横顔を見つめて格之進は、ちょっと引っ掛かっていたことを言葉にしてみる。
「兄弟でも、子供でも、亭主や女房でもいい。とにかく、そういった大事な誰かが死んだら自分も生きていけないというのは、危険じゃないだろうか」
今日、朔矢はそう云った。
弟が死んだら生きていけない。生きている意味はない。だから止めてくれるな、と。
その瞳に宿っていた強い意志の力を思い出す。己を滅ぼしかねない情愛。若さや愚かさだけではない何か尊いものがそこにはあった。
だが――
「そういう人がいると知りながら生きていくことは、恐ろしくないかな」
それが、格之進の正直な思いだ。愚かとも浅はかとも思わない。だが、単純に美しい兄弟愛だとも、思えなかった。
こんな世の中だ。人は容易く死ぬ。
病で死に、火事で死に、洪水で死に、飢饉で死に、ケンカや事故、物取り、ときにやくざや武士に殺されもする。死は、常にそこにある。
人生五十年。だが、天寿を全うする者がどれくらいいるだろか。
にもかかわらず、この人が死んだら自分は生きていけないと思う。思い込む誰かがいる。その人は明日にも死ぬかもしれないのに。
「格さん」
助三郎が名前を呼んでから、首を回して格之進を見た。
「お前にはそういう人、いないのか」
「そういう人?」
「この人が死んだら俺は生きていけないと思う、そういう人さ」
むしろ穏やかな声で助三郎が尋ねた。なんでもないことのように。天気の話でもするように。
格之進は考えた。わからない。いるような気もする。
いや、どうだろう?例えば、両親が死ねば格之進は悲しむ。苦しむだろう。だが、彼ら亡き後も生きてはいけるだろうと思う。兄妹も同様な気がした。それほど狂おしく愛した女も、まだいない。
「お前には、いるのか」
格之進は助三郎に尋ねた。奇妙なことに、少しどきどきしていた。
助三郎は薄く微笑した。美しいが、肯定とも否定ともとれない微笑だ。
「助さん」
困惑して、呼ぶ。
こういう顔を助三郎がするときは大抵、格之進は肩透かしを食う。
案の定、助三郎は決定的な答えを避けた。
「この人が死んだら生きていけないと思うような誰かを作ってしまうこと…」
諳んじるように云いながら助三郎は、その静かな眼差しを藍を濃くしたような夜空へ向けた。その声は低すぎず、澄んでいて静かだ。
「失いたくない誰かを所有することは、勇気のいることだ」
つまり、恐ろしいことだと助三郎も思うのか。
「失うものがなければ、怖いものなど何もないからな。逆に云えば、失いたくないものができてはじめて、怖いものができる」
そう云って助三郎はもう一度、格之進を見た。真っ直ぐに見た。
「でも俺は、それが幸せってことだと思う」
「助さん」
助三郎の名を呼ぶ自分の声がほとんど感嘆になっていることに、あとから気づいた。
ときどき感心する。
格之進からすると、助三郎はときに軽薄だと、浮ついていると思うことがあるくらいなのに、やはりそうではないのだ。助三郎は、自分が知っていると思っているよりも多くのことをわかっている。
彼はさらに云った。
「自分を取り囲むもの…自分の持ち物の価値を知っていることは大事なことだ」
「自分の持ち物の価値、か…」
格之進は繰り返した。
「そう」
くすっと助三郎が笑った。その目に、すっと悪戯っぽい色が掠める。
「たとえば俺は、ご隠居の価値を知っている。お前の価値もな」
え、と格之進は思う。それはどういう意味かと考える前に、助三郎が云った。
「もう中へ入ろう。日誌を書くならさっさと書いてしまえよ」
「助さん」
「明日は日高の山越えだ。ちゃんと眠っておかないとご隠居に負かされるぞ」
冗談めかせた助三郎は、格之進の返事を待たずにきびすを返した。
「ちょっと待てよ、助さん!」
格之進は追いすがった。
「どーういうことだよ、俺の価値って…!」
「云ったとおりだ」
いい加減っぽく助三郎は云ったが、それは全く、いい加減にも素っ気なくも響かないのだった。彼の性質が根本的に誠実だからだろう。
「助さん…!」
名前を呼ぶと、振り向いて助三郎は声を立てて笑った。
その笑顔は真っ直ぐに格之進の心に入ってくる。やはり、あの冴えて美しい月とそっくりな気がした。
いま、この夜を共にしていることがすべてだ。
過ぎ去っていくものの価値。指の隙間からこぼれる泉の水や海辺の砂のように、それは、持ちつづけられないからこその貴重さと美しさ、愛しさに満ちている。
「考え事か?」
背後から唐突に、気さくな声がした。
助三郎だ。
黙って、格之進は振り向いた。
果たして、旅籠の浴衣姿の助三郎が軒の影から姿を現わした。心地よい下駄の音を響かせて中庭を横切り、彼はそばへやって来た。
「もう日誌は書いたのか?」
「あ、」
隣に並んだ助三郎の肩の辺りを見ながら、格之進はそのことを思い出した。珍しいことにすっかり忘れていた。
「忘れていた」
「忘れていた?日誌を書くのを?お前が?」
一瞬目を丸くした助三郎は、驚きとも皮肉ともとれる微笑で反問した。
「どうかしたのか」
「いや、特には」
正直に云ったのだが、納得していない証拠に助三郎は苦笑した。しかしそれ以上はとやかく云わず、代わりに夜空を見て彼はこう云った。
「きれいな月だな」
「うん」
と格之進はさっきまで眺めていた月を見上げる。
いま助三郎がきれいだと云ったその月を、格之進は助三郎に似ていると思っていたところだ。忌々しいから口にはすまいと決める。
すっきりとした夜空に浮かぶ月は、透明に白く、冴えている。たなびく二筋の雲を銀に光らせていた。
「葉が光っている」
助三郎が云った。
見ると、彼は月ではなく、庭の植え込みの木や竹藪の葉を見ていた。
夜、青白い月の光に照らされる庭木の緑はどこか清冽な感じがする。葉が静かに呼吸している息吹が聞こえてきそうだ。
夕方降った雨のせいで土と草、いや苔の匂いがする。
「助さん」
格之進は彼と並んで庭木を眺めたまま、呼んだ。
「ああ?」
「朔矢さんのことだが」
「ああ」
「弟のために、命を捨てようとした」
「そうだな」
と、ごく静かに助三郎がうなずいた。
格之進は彼を見た。
なんの感情も読み取れない表情で助三郎は、月光にてかてか光っている植木の葉を見ている。まるですべてをわかっているような顔にも見えた。
その端正な横顔を見つめて格之進は、ちょっと引っ掛かっていたことを言葉にしてみる。
「兄弟でも、子供でも、亭主や女房でもいい。とにかく、そういった大事な誰かが死んだら自分も生きていけないというのは、危険じゃないだろうか」
今日、朔矢はそう云った。
弟が死んだら生きていけない。生きている意味はない。だから止めてくれるな、と。
その瞳に宿っていた強い意志の力を思い出す。己を滅ぼしかねない情愛。若さや愚かさだけではない何か尊いものがそこにはあった。
だが――
「そういう人がいると知りながら生きていくことは、恐ろしくないかな」
それが、格之進の正直な思いだ。愚かとも浅はかとも思わない。だが、単純に美しい兄弟愛だとも、思えなかった。
こんな世の中だ。人は容易く死ぬ。
病で死に、火事で死に、洪水で死に、飢饉で死に、ケンカや事故、物取り、ときにやくざや武士に殺されもする。死は、常にそこにある。
人生五十年。だが、天寿を全うする者がどれくらいいるだろか。
にもかかわらず、この人が死んだら自分は生きていけないと思う。思い込む誰かがいる。その人は明日にも死ぬかもしれないのに。
「格さん」
助三郎が名前を呼んでから、首を回して格之進を見た。
「お前にはそういう人、いないのか」
「そういう人?」
「この人が死んだら俺は生きていけないと思う、そういう人さ」
むしろ穏やかな声で助三郎が尋ねた。なんでもないことのように。天気の話でもするように。
格之進は考えた。わからない。いるような気もする。
いや、どうだろう?例えば、両親が死ねば格之進は悲しむ。苦しむだろう。だが、彼ら亡き後も生きてはいけるだろうと思う。兄妹も同様な気がした。それほど狂おしく愛した女も、まだいない。
「お前には、いるのか」
格之進は助三郎に尋ねた。奇妙なことに、少しどきどきしていた。
助三郎は薄く微笑した。美しいが、肯定とも否定ともとれない微笑だ。
「助さん」
困惑して、呼ぶ。
こういう顔を助三郎がするときは大抵、格之進は肩透かしを食う。
案の定、助三郎は決定的な答えを避けた。
「この人が死んだら生きていけないと思うような誰かを作ってしまうこと…」
諳んじるように云いながら助三郎は、その静かな眼差しを藍を濃くしたような夜空へ向けた。その声は低すぎず、澄んでいて静かだ。
「失いたくない誰かを所有することは、勇気のいることだ」
つまり、恐ろしいことだと助三郎も思うのか。
「失うものがなければ、怖いものなど何もないからな。逆に云えば、失いたくないものができてはじめて、怖いものができる」
そう云って助三郎はもう一度、格之進を見た。真っ直ぐに見た。
「でも俺は、それが幸せってことだと思う」
「助さん」
助三郎の名を呼ぶ自分の声がほとんど感嘆になっていることに、あとから気づいた。
ときどき感心する。
格之進からすると、助三郎はときに軽薄だと、浮ついていると思うことがあるくらいなのに、やはりそうではないのだ。助三郎は、自分が知っていると思っているよりも多くのことをわかっている。
彼はさらに云った。
「自分を取り囲むもの…自分の持ち物の価値を知っていることは大事なことだ」
「自分の持ち物の価値、か…」
格之進は繰り返した。
「そう」
くすっと助三郎が笑った。その目に、すっと悪戯っぽい色が掠める。
「たとえば俺は、ご隠居の価値を知っている。お前の価値もな」
え、と格之進は思う。それはどういう意味かと考える前に、助三郎が云った。
「もう中へ入ろう。日誌を書くならさっさと書いてしまえよ」
「助さん」
「明日は日高の山越えだ。ちゃんと眠っておかないとご隠居に負かされるぞ」
冗談めかせた助三郎は、格之進の返事を待たずにきびすを返した。
「ちょっと待てよ、助さん!」
格之進は追いすがった。
「どーういうことだよ、俺の価値って…!」
「云ったとおりだ」
いい加減っぽく助三郎は云ったが、それは全く、いい加減にも素っ気なくも響かないのだった。彼の性質が根本的に誠実だからだろう。
「助さん…!」
名前を呼ぶと、振り向いて助三郎は声を立てて笑った。
その笑顔は真っ直ぐに格之進の心に入ってくる。やはり、あの冴えて美しい月とそっくりな気がした。
いま、この夜を共にしていることがすべてだ。
過ぎ去っていくものの価値。指の隙間からこぼれる泉の水や海辺の砂のように、それは、持ちつづけられないからこその貴重さと美しさ、愛しさに満ちている。
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