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旅籠の二階の一室で、格之進は窓の手摺に寄って夜を眺めていた。
いま、月は雲に隠れている。
闇夜ではないが、見下ろす庭も、夜道も暗い。松が二本、空に向かって雄雄しく梢を伸ばしている。幽かに海が匂う。
静かな夜だ。
時おり、一つ二つと蛙の声がした。夏も近いのだろう。もうすぐ、降るような大合唱が夜陰の空気を震わす季節がくる。
覚えとは不思議なものだ。
ふと、格之進は思う。そうした季節の巡りについて、格之進はきちんとわかっている。言葉や文字にも不自由はしていない。この数日で幾度か稽古をしたが、武芸の腕もまったく以前と変わらないと助三郎のお墨付きだ。
それにも拘らず、自らの名や素性、過去といったものをなにも覚えていないのである。家族は無論、敬愛する主のことも、そしてそのご老公が誠の友だと言った助三郎のことも。
「誠の友、か……」
声に出して呟き、格之進は夜空から、松の枝ぶりへ視線を落とした。背中にまだ、その誠の友だという助三郎のぬくもりが残っている。
「頼む格さん…」
先刻の助三郎の言葉が、前触れなく格之進に去来した。
「思い出してくれ。頼む。俺だよ、助三郎だ……」
その声は真摯だった。切実だったが、格之進には応えようがなかった。己の肩にぐったりと凭れた助三郎の、苦しげな呼吸に大きく上下する背を、格之進は言葉なく、見ていた。
参ったな……
なにやら途方に暮れる思いで深い溜め息を洩らし、格之進は夜空を覆う雲の群を見つめる。
助三郎について、格之進はなに一つ、覚えていない。一欠けらの思い出もない。にも拘わらず、彼の一挙手一投足が格之進を揺り動した。
人を思うときの感情の起伏、増幅の幅が、そのまま相手への思いの強さだ。
では助さんは、俺にとって一体なんなのだ。
心からそう嘆息する格之進は、知らずに再び、ご老公の言葉を反芻する。
「誠の友か……」
ふと背後で、聞き取れないほどの幽かな声、ほとんど息を吐(つ)くだけの声がして、格之進は室内を振り向いた。
助三郎が眠っている。
静かな寝顔だ。先刻、格之進がぎょっとしたほど冷えきっていた体温は徐々に戻り、旅籠に着いた時には、背中の彼は、まるで眠いときの幼児(おさなご)のように温かかった。
背負って四半刻も歩いただろうか。
背中に感じる助三郎の鼓動は規則正しかった。その力強さに安堵を覚えながら、格之進は新助と並んで歩いた。助三郎は重かったが、それは心地のよい重さだった。意味のある重さだった。
あれほど蒼白だった顔も、いまは健やかな常の顔色に戻っている。表情も穏やかで、実に健やかな寝顔だ。
ヤクザ者になり切って侍から話を聞きだした時のような如才なさ、臨機応変さを見せたと思えば、先刻のようなしだらなさを見せもする。こうして子供のように、あどけない顔で眠りもする。
まったくどういう男なのだ、と格之進はまた一つ、長い吐息を吐いた。
「助さんはな、」
と、酔った助三郎を連れ帰り、事の次第を手短に述べた格之進にご老公が言った声が、ふと蘇る。
「助さんはな、」
つい、助三郎の不甲斐なさを並べ立てていた格之進の言葉を遮ったご老公の声には、どこか嘆息があった。
その声音に、格之進は、安物の布団に上体を起こしている主の前で、少しばかり居住まいを正した。
「はい」
真っ直ぐに格之進を見たご老公の眉には憂いが宿っていた。その目にふと、情愛と共に、慈悲、いや憐憫に近いものが掠めた。ご老公は言った。
「格さんが眠りつづけたある日な、助さんは格さんの為に、両手をついて、私に頼み事をしました」
「手を、ついて」
格之進の呟きに首肯して、ご老公はやんわりと言葉を継いだ。
「藩公に頼んで、お城の御殿医を呼んでくれるようにじゃよ。格さんを診てもらう為にです」
「ご隠居…!」
「なんとしても格さんを救いたい、失うわけにはゆかぬと、その一念だったんじゃろう」
ご老公の言葉に、格之進の心は震えた。その心に、助三郎の声が木魂(こだま)する。
頼む格さん…思い出してくれ。頼む。俺だよ、助三郎だ……
助さん、と格之進は思う。
「覚えがあってもなくても、格さんは実直で朴訥じゃ。厳格で、融通の利かぬところも以前と全く変わらぬから、」
そう言いながらご老公は、まるで出来の悪い息子をいとをしむような眼差しで、格之進を見た ――と、格之進は思う。目許を和らげたご老公の言葉は、ごく穏やかに続いた。
「助さんの行状が腑に落ちなかったり、腹を据えかねたりするかもしれませんがな……じゃが、助さんの気持ちもな、少し考えてみてはどうですかな」
ふと、助三郎のうつろな笑みが浮かんだ。それだけ吐いてまだ酔っているのかと言った格之進に、助三郎が見せた自嘲的な、空しげな嗤(わら)いだった。
格之進は目を伏せて考え込み、ご老公の、膝の上の両手の甲に視線を止めた。皺の刻まれた、その温かく優しい手。
「助さんと格さんはな、」
ご老公が言った。
視線を上げると、ご老公はさも愛しそうに目尻の皺を深くしていた。そのままの微笑で、ご老公は言った。
「性質が異なり、意見を違(たが)わすことも勿論あります。じゃがな、そうしたこともまた、二人の絆を深めてきたと思いますぞ。私は本当に様々なことに恵まれておるが、助さん」
と言って、ご老公は言葉を変えた。
「助三郎とお主、格之進を、共に臣下に持つことをこの上ない僥倖と思っておる」
「…ご老公」
と、格之進は主を見つめる。
ご老公は、心がそこに吸い込まれそうな深い目をしていた。
「二人はな、誠の友じゃ。子供じみたことで云い合ったりしながらな、常に磨き合い、高め合い、支え、補い合って、同じ使命に生きてきた。互いになくてはならぬ存在じゃ。水と魚のようにな」
どちらが水でどちらが魚というのではないのだろうことは、格之進にもわかる。状況によって、一方が水となり、他方が魚となる。失い難く、離れ難い、半身。魂に悦びや活力を与え、充填し合う存在。
「水魚の如く」
格之進は、諳んじた。
「そうじゃよ、格さん」
ご老公が大きく肯った。
「助さんはそんな友を、格さんを失ってなるものかと、それはもう、必死に看病をしておりましたぞ。あんな助さんは、私もこれまで見たことがありませんでしたな。ろくに眠らず、ろくに食事も摂らず、思い詰めてな。幾度、説き伏せて横にさせたかしれません」
ご老公が困ったように、しかしどこまでも愛しそうに微笑んだ。下げた目尻と深い眼差しが優しい。冗談めかせて、言葉を続ける。
「いや、珍しく助さんに手を焼かされましたな、実際」
「…ご隠居」
「ところがじゃ」
と前置きして、ひっそりとご老公は言った。
「ようやく目覚めたと思えば、格さんはなにも覚えていなかった。どんな心境であろうかの」
その想像に、格之進は奥歯を噛んだ。
ともあれ、とご老公は声音を変えた。どこか楽しそうに目を細める。
「助さんの世話を焼いておる様子は以前と全く変わりませんしな……」
そう言われても、格之進は以前のことはわからない。曖昧に頷いた。
「はぁ、」
「覚えておらずとも、助さんがなにか意味のある存在だとは感じておるわけでしょう」
と、ご老公が格之進の目を覗き込んだ。
「そう思います」
格之進は頷いた。既に、それは自分でも良くわかっていた。
「その気持ちがあれば充分じゃ」
と言って、眼差しで頷いたご老公がゆっくりと微笑した。まるで柔らかく大きな花びらが、ふんわりと広がるような表情の変化だった。そのままの微笑みで、ご老公は言った。
「それだけわかっておれば、なにも心配はいりません」
「ご隠居」
「いずれ、すべて元の鞘に収まるじゃろう」
なにも問題はないという口調でご老公は言った。
「覚えのことも、助さんのことも、気長にな」
夜は何事もなく静まり返り、何事もなく平穏な一日が終わるような気配がする。
それでも今宵、この夜のなかで幾つの命が終わり、幾つの命が生まれ、幾人が泣いているだろう。幾人が笑っているだろう。
人の営みの全てを否応なく包み込んで、夜は等しく全ての人にやって来て、更けてゆく。馬に蹴られて死にかけようが、覚えを失くそうが。己が誰だかわからずとも、腹が減って眠くなる。
だが今宵、格之進は珍しく眠れそうになかった。
珍しく、と思って、ふと苦笑が浮かんだ。覚えを失くして以降も、格之進はきちんと定刻に床に入り、きちんと眠りに落ちていて、助三郎に嫌味を言われた。どういう神経をしているのかと。
「こっちの気も知らずにすやすや眠りやがって…!」
忌々しげに言った助三郎を思い出し、格之進はやれやれと額を擦った。
手慰みに日誌でも書いてみようかと、ふと思い立つ。
諸国を巡る旅の間、毎日欠かさずに書いているという日誌は、なにかを思い出す切っ掛けになりはせぬかと、もう幾度読み返したか知れない。これまでのところ、効果はなかったが。
最初に日誌を読んだとき、格之進はかなり困惑した。
事件や陰謀や、土地土地のご政道について。領民の暮らしぶりや、各地の気候や名所、名産や名物。一行が触れ合った様々な人びとについて。それはよくわかるのだが、一方で、かなりの頻度で、助三郎に関する記述があったからである。
やれ助三郎が町娘に鼻の下を伸ばしただの、やれ今度は人妻だの、はたまた博打場で散財したのだの、どこぞの侍に肩入れをし過ぎて危険な目に遭ったのだの、格之進を出し抜いてご老公を悪所へ連れ出しただのと。
今日のような日に、覚えを失くす前の俺なら、なにを書くだろう。助三郎がだらしなく酔っ払い、吐いて絡んで大変だった、とでも書くだろうか。
己の想像に薄い微苦笑を洩らしながら格之進は、眠る助三郎を見やった。
そのときだ。さあっと辺りに透明な光が満ち、助三郎に降り注いだ。まるで光の網が放たれたようだった。格之進の背後の夜空で雲が流れ、月が姿を現わしたのだ。
俺は助さんを思い出すだろうか。
澄んだ月光に照らし出される助三郎の、その端正な寝顔を眺めて、格之進は思った。
ご老公を思い出すだろうか? 彼らとの歴史を。もし、もしも覚えが戻らなかった場合、俺は以前の俺とは違う人間なのだろうか。覚えのないまま、ご老公や助三郎と、以前と同じ絆で結ばれることはあるのだろうか。
答えは遠く、誰にもわからない。
それでも、助三郎を眺める格之進の気分は絶望でも諦念でも自棄でもなく、むしろ安定した穏やかなものだった。
助三郎の寝顔は美しく、なにか神聖なもののように見えた。
ご老公もそうだが、大切な人の寝顔はみな等しく温かく、価値あるものとして美しく目に映る。妻子はない(と教えられている)が、あれば、我が子の寝顔も同様なのだろう。目を細めて見つめ、無意識のうちに、どんな夢をみているだろうかと思い巡らせ、健やかな眠りを祈る。
覚えはない。
いまの格之進にあるものは、ただ、ご老公や助三郎に対する心だった。思いだった。
それを失くすのはひどく恐ろしいことに思えたが、覚えくらい実はどうということはないのではないかと、格之進には思える。
助三郎を大切に思う、その気持ちがあれば、それだけわかっておればなにも心配はいらぬと、ご老公も仰っていたではないか。
そうだ、と格之進は思った。
明日、事件が片づいたら、助さんと飲みに行こう。
煙硝が臭い、銃声が響いた。
はっと視線を巡らせた格之進は、奉行が、肩に赤い風車を受けて短筒を取り落とすのを見た。だが同時に、その現(うつつ)よりも圧倒的な威力を持って、ある光景が格之進を襲った。
ご老公を庇って銃弾を受けて仰け反り、崖下の川へ転落する助三郎。
後から思えば、煙硝と銃声が呼び起こした記憶だったのだろう。いずれにせよ、その光景が有無を言わせぬ暴力的な勢いで格之進に迫った。
肉体的な痛みを感じるほどの衝撃に、全身が凍りつく。
次に音が来た。銃声、幾重にも助三郎の名を呼ぶ仲間たちの声、水音。飛び込んだ水の冷たさと、捕まえた助三郎の肉の感触も蘇ってきた。
そして己の激しい、激しすぎる感情。怒りにも似た絶大な恐怖だ。
助さん!!! と――
それが切っ掛けだった。
どかん、と一気に途轍もない情報の塊が押し寄せた。そのあまりの勢いと容量に、格之進は激しい眩暈を覚えた。
「ちょっと待て…!」
圧倒され、混乱し、格之進は呻いた。
眼前に迫った役人が白刃を振り下ろしたのは、そのときだ。
格之進がその両手首を寸前で受け止め、鳩尾に膝蹴りを食い込ませて裏拳で殴り飛ばしたのは、単なる本能である。勝手に身体が動いただけのことで、格之進が見ているのは猛烈な勢いで頭を巡る「過去」だった。
自身の倒した相手と同時に、格之進は額を押さえ、がくっとその場に膝を落としていた。
「嘘、だろう…」
低く呻く。信じ難かった。一瞬のうちに、全て、忽然と蘇っていた。
頭を押さえ、きつく目を閉じる。鼓動が速くなっていた。記憶の嵐に頭が爆発して、鼻血が出ているのではないかと思う。落ち着け、落ち着くんだ、と格之進は自身に命じた。
と、鋭い殺気が奔(はし)った。
はっと顔を上げると、振り翳された抜き身が、生きている銀の蛇の如く視界を掠めた。斬られる、と格之進は思った。
だが寸前に、すっと飛び込んで来た影が、格之進を殺そうとしていた刃を受け止めた。
ギィン!と鋭い鋼(はがね)の音がして、ぱっと火花が散った。
「格さん!」
と、それは助三郎だった。
「どうした!? 大丈夫か!」
格之進は応えられなかった。
こちらの異変を感じ取って、攻撃の勢いが増す。
独り、助三郎が応戦する。襲いくる役人や浪人者を片っ端から打ち倒しながら、しかし彼の気はむしろ格之進に向いている。彼の背後で、格之進はそれを感じとることができた。
「助さん…!」
己を庇って戦う彼を、依然、畳に片膝をついたままで、格之進は呆然と見つめた。
その動き、その表情、その気迫。
あらゆる歴史を湛えて、助三郎はそこにいた。あまりにも厳然と。神々しいほどだ。
「なんとか云え、格さん!」
背を向けたまま、叱りつけるように言った助三郎が、すっ、と脇差を正眼に構えた。
迫る寄せ手の足が一斉に止まる。助三郎の気迫に気圧されて動けないのだ。
助さん、と思う。
激流のようにうわっと、彼との歴史の一つ一つが格之進に押し寄せた。
格之進が印籠をすられた時、いつになく激しく口論をした。その会話の全て、助三郎の視線や表情、声。彼に殴られた、痛烈なあの痛み。口の中に広がった血の味。取り戻した印籠を差し出した彼の手。乱れた髷で、痣と血で汚れた顔に、照れたような笑みを浮かべた、助三郎のあの目。二度と遺書など書いてくれるなと、そう言った彼の眼差し。
いつか旅の途中で町娘に惚れた格之進の心中を、格之進以上に理解していた助三郎。なぜわかると問うと、何年一緒に旅をしている、と言って笑った。予想に反し、からかいもせずに相談にのってくれた、あの時の助三郎の、親身さ。夕日に染め上げられた笑顔。
格之進の小言に振り向く、迷惑そうな顔。
子供や女子や老人と接する時の彼の、落ちてくる初雪か、小鳥の羽根でも受け止めるような優しさ。
剣を構えた、静かで、かつ炯々とした双眸。
少年のように素直な喜びを湛えた目、
哀しみに煙る目、
悪戯っぽい茶目っ気に満ちた目も。
凛とした真っ直ぐな背筋。
人の心をとらえる笑顔。
よく通る声。
格さん、と名を呼ぶ、その声。
なにもかも。
しかしそれは、そのような言葉の羅列、格之進の下手な日誌の記述のようなものではなく、温度と匂い、いや五感の全てを伴う情報の渦だった。一瞬のうちに、そうした全てが流れとなって押し寄せ、格之進を圧倒して過(よ)ぎっていった。
ああ、助さんだ。
剣を構え、その気迫だけで敵を寄せつけずにいる彼の背を見つめて、格之進は実感する。
お前がいてよかった、いや、いないわけがなかったのだ、という感慨が胸に迫った。そしてその存在に感謝と尊敬すらを抱く。信頼と情愛があとからあとから溢れ出た。
なんてことだ、と思う。昨夜のご老公の言葉が、いま、身に染みてわかった。
医者もお手上げで、格之進が意識のなかった十日近くの間、助三郎はなにを考えていただろう。
かつて格之進が、このまま助三郎を失うかもしれぬと畏れた、あの息の根が止まるほどの思い。それを、此度は己が助三郎に味合わせたであろうことは容易に知れた。
そして、ようやく意識を取り戻したと思えばなにもかも忘れていた格之進に、助三郎がどれほどの困惑や失望、苛立ちを覚えたか。それすらも、いまや己の感情のように、手に取るようにわかった。
すまん、と格之進は念(おも)った。
「格さんっ!」
助三郎の力強い片手が、肩に置かれた。ぐっ、と肩を掴む助三郎の力、その肉の確かさ。
助三郎は逼迫した様子だが、それは敵の渦中にあるからではなく、むしろ、格之進を案じてのことだった。この乱闘の最中で茫然自失の格之進を。
「痛むのか、頭が?」
と助三郎が、格之進の顔を覗き込む。
直後、その隙を突いた寄せ手の刃がきらめき、一人が掛け声と共に斬りかかってきた。
その侍の胴を片手討ちで払った助三郎が繰り返し、格之進を呼んだ。
「格さん!」
「いや、違う」
格之進はしっかりと応えた。
「俺は大丈夫だ。ただ、」
「ただ?」
と、助三郎が振り向いた。
目が合った。
直(なお)き心そのもののような、澄んだ黒耀石の瞳。
この瞳を忘れていた己、彼が誰だかわからなかった己が信じられない。全く信じられなかった。
「なんだ格さん。どうした!大丈夫なのか!」
絞り込むように見つめて、助三郎が辛抱強く繰り返す。直後に彼は、背後から匕首(あいくち)を手に突っ込んできたヤクザ者の鳩尾に、鮮やかな後ろ蹴りを食らわせた。続けて、左の浪人が振り下ろした刀を峰で受け止める。
鋼が激しく鳴った。
相手の刀が鍔元から折れて、飛んだ。勢いよく柱に突き刺さったその刃が、再び寄せ手の躊躇を生み、動きを止める。
「格さん!」
振り向いた助三郎の左頬、頬骨に沿って赤い線が走っていた。折れた刀の、こぼれ飛んだ細かな鉄片が頬を掠め、皮膚を切ったのだろう。彼は繰り返し、格之進を呼んだ。
「格さん!」
ああ、と格之進は頷いて立ち上がる。蘇った大量の記憶に襲われ、掻き回され圧倒されて混沌とした意識が去り、格之進もはや明亮だった。
「すまん。大丈夫だ」
これが終わったら、と助三郎を見つめて思い、格之進は幸福に近い温かさを胸に感じた。
これが終わったら、一体なにからお前に話そう。
「助さん!格さん!」
凛としたご老公の声が二人を呼んだ。いつものように、その言葉が続いた。
「もういいでしょう!」
そうだ、いつものように。
そう思って格之進は安堵した。なにもかも、己の手中に戻ってきている。
「格さん…!」
と助三郎が、格之進の様子を確認した。
「大丈夫だ」
もう一度言って強く頷くと、助三郎は黙って肯った。その眼差しには揺るぎない信頼がある。彼は突進してきた役人を刀の峰で払い除けながら、すっと踵を返した。
「静まれ!」
鋭い声を発し、途上の敵を蹴散らして進む助三郎の背後に続いて、格之進は以前と同じ世界へ踏み出した。
いや、同じではない。
格之進は思う。覚えを失くす前よりも、主が、仲間たちの存在が意味を持つ世界。なにもかもが一層息づき、輝きを増した世界だ。
「静まれ!静まれぇ!」
何事もなかったように、以前と同じようにそう言い放ち、主の元へ駆けながら、格之進は思う。
この世の喜びも悲しみも、人の美しさも醜さも、なにもかも、ご老公のお傍で、ずっとお前と共に見ていたい。
それは祈りに似ていた。
馬に蹴られて死んだかもしれない己がいまも生きていること。かつて銃弾を受けて死んだかもしれない助三郎が、生きて共にいること。この泰平の世にあって、共に白刃の下を生きてきた。共に高め合い、補い合い、あのお方をお守りして世の悪を正してきた。これまでも、これからも。
そうだ、これからも、と格之進は思う。
ばらばらと動く役人や浪人たちの右往左往する無駄な動きの中で、美しく律せられた旋律のような動きの、助三郎の後ろ姿が際立っている。
その向こうにご老公の姿が見えた。毅然と立ち、周囲の動きに気を配りながらも、その深い目は助三郎と格之進を見ている。
命懸けでお仕えするそのお人が、どんどん近づいてくる。
印籠を取り出そうと懐に右手を入れながら、不謹慎にも、格之進の胸が弾んだ。
あのお方の傍らで、俺たちは共に生きていく。水魚の如く。
Afterword,
気長に続きを待ってくださった皆さま、ありがとうございました。
記憶喪失となると、書きたい場面がどんどん出てきてしまいますが、とにかく今回は強行に終わらせました。思い出した格さんに去来したのはご存知、格さん不覚消えた印籠と格さん切ない柳川慕情。
『参』で、切なすぎとか、楽しいお話希望とか、ご意見をいただきました。それじゃあ…と、格さんの記憶がないのをいいことに、助さんと新助が在ること無いこと吹き込んで一騒動、なお話を書いてみたら、悪乗りしすぎでアブナイお話になってしまった。
やはり『水魚〜』は、どうしてもこんな展開になってしまったと思います。
相変わらずの拙い小説を最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
素敵な毎日と笑顔を、皆さまに祈ります。
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旅籠の二階の一室で、格之進は窓の手摺に寄って夜を眺めていた。
いま、月は雲に隠れている。
闇夜ではないが、見下ろす庭も、夜道も暗い。松が二本、空に向かって雄雄しく梢を伸ばしている。幽かに海が匂う。
静かな夜だ。
時おり、一つ二つと蛙の声がした。夏も近いのだろう。もうすぐ、降るような大合唱が夜陰の空気を震わす季節がくる。
覚えとは不思議なものだ。
ふと、格之進は思う。そうした季節の巡りについて、格之進はきちんとわかっている。言葉や文字にも不自由はしていない。この数日で幾度か稽古をしたが、武芸の腕もまったく以前と変わらないと助三郎のお墨付きだ。
それにも拘らず、自らの名や素性、過去といったものをなにも覚えていないのである。家族は無論、敬愛する主のことも、そしてそのご老公が誠の友だと言った助三郎のことも。
「誠の友、か……」
声に出して呟き、格之進は夜空から、松の枝ぶりへ視線を落とした。背中にまだ、その誠の友だという助三郎のぬくもりが残っている。
「頼む格さん…」
先刻の助三郎の言葉が、前触れなく格之進に去来した。
「思い出してくれ。頼む。俺だよ、助三郎だ……」
その声は真摯だった。切実だったが、格之進には応えようがなかった。己の肩にぐったりと凭れた助三郎の、苦しげな呼吸に大きく上下する背を、格之進は言葉なく、見ていた。
参ったな……
なにやら途方に暮れる思いで深い溜め息を洩らし、格之進は夜空を覆う雲の群を見つめる。
助三郎について、格之進はなに一つ、覚えていない。一欠けらの思い出もない。にも拘わらず、彼の一挙手一投足が格之進を揺り動した。
人を思うときの感情の起伏、増幅の幅が、そのまま相手への思いの強さだ。
では助さんは、俺にとって一体なんなのだ。
心からそう嘆息する格之進は、知らずに再び、ご老公の言葉を反芻する。
「誠の友か……」
ふと背後で、聞き取れないほどの幽かな声、ほとんど息を吐(つ)くだけの声がして、格之進は室内を振り向いた。
助三郎が眠っている。
静かな寝顔だ。先刻、格之進がぎょっとしたほど冷えきっていた体温は徐々に戻り、旅籠に着いた時には、背中の彼は、まるで眠いときの幼児(おさなご)のように温かかった。
背負って四半刻も歩いただろうか。
背中に感じる助三郎の鼓動は規則正しかった。その力強さに安堵を覚えながら、格之進は新助と並んで歩いた。助三郎は重かったが、それは心地のよい重さだった。意味のある重さだった。
あれほど蒼白だった顔も、いまは健やかな常の顔色に戻っている。表情も穏やかで、実に健やかな寝顔だ。
ヤクザ者になり切って侍から話を聞きだした時のような如才なさ、臨機応変さを見せたと思えば、先刻のようなしだらなさを見せもする。こうして子供のように、あどけない顔で眠りもする。
まったくどういう男なのだ、と格之進はまた一つ、長い吐息を吐いた。
「助さんはな、」
と、酔った助三郎を連れ帰り、事の次第を手短に述べた格之進にご老公が言った声が、ふと蘇る。
「助さんはな、」
つい、助三郎の不甲斐なさを並べ立てていた格之進の言葉を遮ったご老公の声には、どこか嘆息があった。
その声音に、格之進は、安物の布団に上体を起こしている主の前で、少しばかり居住まいを正した。
「はい」
真っ直ぐに格之進を見たご老公の眉には憂いが宿っていた。その目にふと、情愛と共に、慈悲、いや憐憫に近いものが掠めた。ご老公は言った。
「格さんが眠りつづけたある日な、助さんは格さんの為に、両手をついて、私に頼み事をしました」
「手を、ついて」
格之進の呟きに首肯して、ご老公はやんわりと言葉を継いだ。
「藩公に頼んで、お城の御殿医を呼んでくれるようにじゃよ。格さんを診てもらう為にです」
「ご隠居…!」
「なんとしても格さんを救いたい、失うわけにはゆかぬと、その一念だったんじゃろう」
ご老公の言葉に、格之進の心は震えた。その心に、助三郎の声が木魂(こだま)する。
頼む格さん…思い出してくれ。頼む。俺だよ、助三郎だ……
助さん、と格之進は思う。
「覚えがあってもなくても、格さんは実直で朴訥じゃ。厳格で、融通の利かぬところも以前と全く変わらぬから、」
そう言いながらご老公は、まるで出来の悪い息子をいとをしむような眼差しで、格之進を見た ――と、格之進は思う。目許を和らげたご老公の言葉は、ごく穏やかに続いた。
「助さんの行状が腑に落ちなかったり、腹を据えかねたりするかもしれませんがな……じゃが、助さんの気持ちもな、少し考えてみてはどうですかな」
ふと、助三郎のうつろな笑みが浮かんだ。それだけ吐いてまだ酔っているのかと言った格之進に、助三郎が見せた自嘲的な、空しげな嗤(わら)いだった。
格之進は目を伏せて考え込み、ご老公の、膝の上の両手の甲に視線を止めた。皺の刻まれた、その温かく優しい手。
「助さんと格さんはな、」
ご老公が言った。
視線を上げると、ご老公はさも愛しそうに目尻の皺を深くしていた。そのままの微笑で、ご老公は言った。
「性質が異なり、意見を違(たが)わすことも勿論あります。じゃがな、そうしたこともまた、二人の絆を深めてきたと思いますぞ。私は本当に様々なことに恵まれておるが、助さん」
と言って、ご老公は言葉を変えた。
「助三郎とお主、格之進を、共に臣下に持つことをこの上ない僥倖と思っておる」
「…ご老公」
と、格之進は主を見つめる。
ご老公は、心がそこに吸い込まれそうな深い目をしていた。
「二人はな、誠の友じゃ。子供じみたことで云い合ったりしながらな、常に磨き合い、高め合い、支え、補い合って、同じ使命に生きてきた。互いになくてはならぬ存在じゃ。水と魚のようにな」
どちらが水でどちらが魚というのではないのだろうことは、格之進にもわかる。状況によって、一方が水となり、他方が魚となる。失い難く、離れ難い、半身。魂に悦びや活力を与え、充填し合う存在。
「水魚の如く」
格之進は、諳んじた。
「そうじゃよ、格さん」
ご老公が大きく肯った。
「助さんはそんな友を、格さんを失ってなるものかと、それはもう、必死に看病をしておりましたぞ。あんな助さんは、私もこれまで見たことがありませんでしたな。ろくに眠らず、ろくに食事も摂らず、思い詰めてな。幾度、説き伏せて横にさせたかしれません」
ご老公が困ったように、しかしどこまでも愛しそうに微笑んだ。下げた目尻と深い眼差しが優しい。冗談めかせて、言葉を続ける。
「いや、珍しく助さんに手を焼かされましたな、実際」
「…ご隠居」
「ところがじゃ」
と前置きして、ひっそりとご老公は言った。
「ようやく目覚めたと思えば、格さんはなにも覚えていなかった。どんな心境であろうかの」
その想像に、格之進は奥歯を噛んだ。
ともあれ、とご老公は声音を変えた。どこか楽しそうに目を細める。
「助さんの世話を焼いておる様子は以前と全く変わりませんしな……」
そう言われても、格之進は以前のことはわからない。曖昧に頷いた。
「はぁ、」
「覚えておらずとも、助さんがなにか意味のある存在だとは感じておるわけでしょう」
と、ご老公が格之進の目を覗き込んだ。
「そう思います」
格之進は頷いた。既に、それは自分でも良くわかっていた。
「その気持ちがあれば充分じゃ」
と言って、眼差しで頷いたご老公がゆっくりと微笑した。まるで柔らかく大きな花びらが、ふんわりと広がるような表情の変化だった。そのままの微笑みで、ご老公は言った。
「それだけわかっておれば、なにも心配はいりません」
「ご隠居」
「いずれ、すべて元の鞘に収まるじゃろう」
なにも問題はないという口調でご老公は言った。
「覚えのことも、助さんのことも、気長にな」
夜は何事もなく静まり返り、何事もなく平穏な一日が終わるような気配がする。
それでも今宵、この夜のなかで幾つの命が終わり、幾つの命が生まれ、幾人が泣いているだろう。幾人が笑っているだろう。
人の営みの全てを否応なく包み込んで、夜は等しく全ての人にやって来て、更けてゆく。馬に蹴られて死にかけようが、覚えを失くそうが。己が誰だかわからずとも、腹が減って眠くなる。
だが今宵、格之進は珍しく眠れそうになかった。
珍しく、と思って、ふと苦笑が浮かんだ。覚えを失くして以降も、格之進はきちんと定刻に床に入り、きちんと眠りに落ちていて、助三郎に嫌味を言われた。どういう神経をしているのかと。
「こっちの気も知らずにすやすや眠りやがって…!」
忌々しげに言った助三郎を思い出し、格之進はやれやれと額を擦った。
手慰みに日誌でも書いてみようかと、ふと思い立つ。
諸国を巡る旅の間、毎日欠かさずに書いているという日誌は、なにかを思い出す切っ掛けになりはせぬかと、もう幾度読み返したか知れない。これまでのところ、効果はなかったが。
最初に日誌を読んだとき、格之進はかなり困惑した。
事件や陰謀や、土地土地のご政道について。領民の暮らしぶりや、各地の気候や名所、名産や名物。一行が触れ合った様々な人びとについて。それはよくわかるのだが、一方で、かなりの頻度で、助三郎に関する記述があったからである。
やれ助三郎が町娘に鼻の下を伸ばしただの、やれ今度は人妻だの、はたまた博打場で散財したのだの、どこぞの侍に肩入れをし過ぎて危険な目に遭ったのだの、格之進を出し抜いてご老公を悪所へ連れ出しただのと。
今日のような日に、覚えを失くす前の俺なら、なにを書くだろう。助三郎がだらしなく酔っ払い、吐いて絡んで大変だった、とでも書くだろうか。
己の想像に薄い微苦笑を洩らしながら格之進は、眠る助三郎を見やった。
そのときだ。さあっと辺りに透明な光が満ち、助三郎に降り注いだ。まるで光の網が放たれたようだった。格之進の背後の夜空で雲が流れ、月が姿を現わしたのだ。
俺は助さんを思い出すだろうか。
澄んだ月光に照らし出される助三郎の、その端正な寝顔を眺めて、格之進は思った。
ご老公を思い出すだろうか? 彼らとの歴史を。もし、もしも覚えが戻らなかった場合、俺は以前の俺とは違う人間なのだろうか。覚えのないまま、ご老公や助三郎と、以前と同じ絆で結ばれることはあるのだろうか。
答えは遠く、誰にもわからない。
それでも、助三郎を眺める格之進の気分は絶望でも諦念でも自棄でもなく、むしろ安定した穏やかなものだった。
助三郎の寝顔は美しく、なにか神聖なもののように見えた。
ご老公もそうだが、大切な人の寝顔はみな等しく温かく、価値あるものとして美しく目に映る。妻子はない(と教えられている)が、あれば、我が子の寝顔も同様なのだろう。目を細めて見つめ、無意識のうちに、どんな夢をみているだろうかと思い巡らせ、健やかな眠りを祈る。
覚えはない。
いまの格之進にあるものは、ただ、ご老公や助三郎に対する心だった。思いだった。
それを失くすのはひどく恐ろしいことに思えたが、覚えくらい実はどうということはないのではないかと、格之進には思える。
助三郎を大切に思う、その気持ちがあれば、それだけわかっておればなにも心配はいらぬと、ご老公も仰っていたではないか。
そうだ、と格之進は思った。
明日、事件が片づいたら、助さんと飲みに行こう。
煙硝が臭い、銃声が響いた。
はっと視線を巡らせた格之進は、奉行が、肩に赤い風車を受けて短筒を取り落とすのを見た。だが同時に、その現(うつつ)よりも圧倒的な威力を持って、ある光景が格之進を襲った。
ご老公を庇って銃弾を受けて仰け反り、崖下の川へ転落する助三郎。
後から思えば、煙硝と銃声が呼び起こした記憶だったのだろう。いずれにせよ、その光景が有無を言わせぬ暴力的な勢いで格之進に迫った。
肉体的な痛みを感じるほどの衝撃に、全身が凍りつく。
次に音が来た。銃声、幾重にも助三郎の名を呼ぶ仲間たちの声、水音。飛び込んだ水の冷たさと、捕まえた助三郎の肉の感触も蘇ってきた。
そして己の激しい、激しすぎる感情。怒りにも似た絶大な恐怖だ。
助さん!!! と――
それが切っ掛けだった。
どかん、と一気に途轍もない情報の塊が押し寄せた。そのあまりの勢いと容量に、格之進は激しい眩暈を覚えた。
「ちょっと待て…!」
圧倒され、混乱し、格之進は呻いた。
眼前に迫った役人が白刃を振り下ろしたのは、そのときだ。
格之進がその両手首を寸前で受け止め、鳩尾に膝蹴りを食い込ませて裏拳で殴り飛ばしたのは、単なる本能である。勝手に身体が動いただけのことで、格之進が見ているのは猛烈な勢いで頭を巡る「過去」だった。
自身の倒した相手と同時に、格之進は額を押さえ、がくっとその場に膝を落としていた。
「嘘、だろう…」
低く呻く。信じ難かった。一瞬のうちに、全て、忽然と蘇っていた。
頭を押さえ、きつく目を閉じる。鼓動が速くなっていた。記憶の嵐に頭が爆発して、鼻血が出ているのではないかと思う。落ち着け、落ち着くんだ、と格之進は自身に命じた。
と、鋭い殺気が奔(はし)った。
はっと顔を上げると、振り翳された抜き身が、生きている銀の蛇の如く視界を掠めた。斬られる、と格之進は思った。
だが寸前に、すっと飛び込んで来た影が、格之進を殺そうとしていた刃を受け止めた。
ギィン!と鋭い鋼(はがね)の音がして、ぱっと火花が散った。
「格さん!」
と、それは助三郎だった。
「どうした!? 大丈夫か!」
格之進は応えられなかった。
こちらの異変を感じ取って、攻撃の勢いが増す。
独り、助三郎が応戦する。襲いくる役人や浪人者を片っ端から打ち倒しながら、しかし彼の気はむしろ格之進に向いている。彼の背後で、格之進はそれを感じとることができた。
「助さん…!」
己を庇って戦う彼を、依然、畳に片膝をついたままで、格之進は呆然と見つめた。
その動き、その表情、その気迫。
あらゆる歴史を湛えて、助三郎はそこにいた。あまりにも厳然と。神々しいほどだ。
「なんとか云え、格さん!」
背を向けたまま、叱りつけるように言った助三郎が、すっ、と脇差を正眼に構えた。
迫る寄せ手の足が一斉に止まる。助三郎の気迫に気圧されて動けないのだ。
助さん、と思う。
激流のようにうわっと、彼との歴史の一つ一つが格之進に押し寄せた。
格之進が印籠をすられた時、いつになく激しく口論をした。その会話の全て、助三郎の視線や表情、声。彼に殴られた、痛烈なあの痛み。口の中に広がった血の味。取り戻した印籠を差し出した彼の手。乱れた髷で、痣と血で汚れた顔に、照れたような笑みを浮かべた、助三郎のあの目。二度と遺書など書いてくれるなと、そう言った彼の眼差し。
いつか旅の途中で町娘に惚れた格之進の心中を、格之進以上に理解していた助三郎。なぜわかると問うと、何年一緒に旅をしている、と言って笑った。予想に反し、からかいもせずに相談にのってくれた、あの時の助三郎の、親身さ。夕日に染め上げられた笑顔。
格之進の小言に振り向く、迷惑そうな顔。
子供や女子や老人と接する時の彼の、落ちてくる初雪か、小鳥の羽根でも受け止めるような優しさ。
剣を構えた、静かで、かつ炯々とした双眸。
少年のように素直な喜びを湛えた目、
哀しみに煙る目、
悪戯っぽい茶目っ気に満ちた目も。
凛とした真っ直ぐな背筋。
人の心をとらえる笑顔。
よく通る声。
格さん、と名を呼ぶ、その声。
なにもかも。
しかしそれは、そのような言葉の羅列、格之進の下手な日誌の記述のようなものではなく、温度と匂い、いや五感の全てを伴う情報の渦だった。一瞬のうちに、そうした全てが流れとなって押し寄せ、格之進を圧倒して過(よ)ぎっていった。
ああ、助さんだ。
剣を構え、その気迫だけで敵を寄せつけずにいる彼の背を見つめて、格之進は実感する。
お前がいてよかった、いや、いないわけがなかったのだ、という感慨が胸に迫った。そしてその存在に感謝と尊敬すらを抱く。信頼と情愛があとからあとから溢れ出た。
なんてことだ、と思う。昨夜のご老公の言葉が、いま、身に染みてわかった。
医者もお手上げで、格之進が意識のなかった十日近くの間、助三郎はなにを考えていただろう。
かつて格之進が、このまま助三郎を失うかもしれぬと畏れた、あの息の根が止まるほどの思い。それを、此度は己が助三郎に味合わせたであろうことは容易に知れた。
そして、ようやく意識を取り戻したと思えばなにもかも忘れていた格之進に、助三郎がどれほどの困惑や失望、苛立ちを覚えたか。それすらも、いまや己の感情のように、手に取るようにわかった。
すまん、と格之進は念(おも)った。
「格さんっ!」
助三郎の力強い片手が、肩に置かれた。ぐっ、と肩を掴む助三郎の力、その肉の確かさ。
助三郎は逼迫した様子だが、それは敵の渦中にあるからではなく、むしろ、格之進を案じてのことだった。この乱闘の最中で茫然自失の格之進を。
「痛むのか、頭が?」
と助三郎が、格之進の顔を覗き込む。
直後、その隙を突いた寄せ手の刃がきらめき、一人が掛け声と共に斬りかかってきた。
その侍の胴を片手討ちで払った助三郎が繰り返し、格之進を呼んだ。
「格さん!」
「いや、違う」
格之進はしっかりと応えた。
「俺は大丈夫だ。ただ、」
「ただ?」
と、助三郎が振り向いた。
目が合った。
直(なお)き心そのもののような、澄んだ黒耀石の瞳。
この瞳を忘れていた己、彼が誰だかわからなかった己が信じられない。全く信じられなかった。
「なんだ格さん。どうした!大丈夫なのか!」
絞り込むように見つめて、助三郎が辛抱強く繰り返す。直後に彼は、背後から匕首(あいくち)を手に突っ込んできたヤクザ者の鳩尾に、鮮やかな後ろ蹴りを食らわせた。続けて、左の浪人が振り下ろした刀を峰で受け止める。
鋼が激しく鳴った。
相手の刀が鍔元から折れて、飛んだ。勢いよく柱に突き刺さったその刃が、再び寄せ手の躊躇を生み、動きを止める。
「格さん!」
振り向いた助三郎の左頬、頬骨に沿って赤い線が走っていた。折れた刀の、こぼれ飛んだ細かな鉄片が頬を掠め、皮膚を切ったのだろう。彼は繰り返し、格之進を呼んだ。
「格さん!」
ああ、と格之進は頷いて立ち上がる。蘇った大量の記憶に襲われ、掻き回され圧倒されて混沌とした意識が去り、格之進もはや明亮だった。
「すまん。大丈夫だ」
これが終わったら、と助三郎を見つめて思い、格之進は幸福に近い温かさを胸に感じた。
これが終わったら、一体なにからお前に話そう。
「助さん!格さん!」
凛としたご老公の声が二人を呼んだ。いつものように、その言葉が続いた。
「もういいでしょう!」
そうだ、いつものように。
そう思って格之進は安堵した。なにもかも、己の手中に戻ってきている。
「格さん…!」
と助三郎が、格之進の様子を確認した。
「大丈夫だ」
もう一度言って強く頷くと、助三郎は黙って肯った。その眼差しには揺るぎない信頼がある。彼は突進してきた役人を刀の峰で払い除けながら、すっと踵を返した。
「静まれ!」
鋭い声を発し、途上の敵を蹴散らして進む助三郎の背後に続いて、格之進は以前と同じ世界へ踏み出した。
いや、同じではない。
格之進は思う。覚えを失くす前よりも、主が、仲間たちの存在が意味を持つ世界。なにもかもが一層息づき、輝きを増した世界だ。
「静まれ!静まれぇ!」
何事もなかったように、以前と同じようにそう言い放ち、主の元へ駆けながら、格之進は思う。
この世の喜びも悲しみも、人の美しさも醜さも、なにもかも、ご老公のお傍で、ずっとお前と共に見ていたい。
それは祈りに似ていた。
馬に蹴られて死んだかもしれない己がいまも生きていること。かつて銃弾を受けて死んだかもしれない助三郎が、生きて共にいること。この泰平の世にあって、共に白刃の下を生きてきた。共に高め合い、補い合い、あのお方をお守りして世の悪を正してきた。これまでも、これからも。
そうだ、これからも、と格之進は思う。
ばらばらと動く役人や浪人たちの右往左往する無駄な動きの中で、美しく律せられた旋律のような動きの、助三郎の後ろ姿が際立っている。
その向こうにご老公の姿が見えた。毅然と立ち、周囲の動きに気を配りながらも、その深い目は助三郎と格之進を見ている。
命懸けでお仕えするそのお人が、どんどん近づいてくる。
印籠を取り出そうと懐に右手を入れながら、不謹慎にも、格之進の胸が弾んだ。
あのお方の傍らで、俺たちは共に生きていく。水魚の如く。
Afterword,
気長に続きを待ってくださった皆さま、ありがとうございました。
記憶喪失となると、書きたい場面がどんどん出てきてしまいますが、とにかく今回は強行に終わらせました。思い出した格さんに去来したのはご存知、格さん不覚消えた印籠と格さん切ない柳川慕情。
『参』で、切なすぎとか、楽しいお話希望とか、ご意見をいただきました。それじゃあ…と、格さんの記憶がないのをいいことに、助さんと新助が在ること無いこと吹き込んで一騒動、なお話を書いてみたら、悪乗りしすぎでアブナイお話になってしまった。
やはり『水魚〜』は、どうしてもこんな展開になってしまったと思います。
相変わらずの拙い小説を最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
素敵な毎日と笑顔を、皆さまに祈ります。
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本当に!



の続き、ずっと待ってました!ありがとうございます。うれしい〜
コメントしてしまってすみませんでした。なんとなくまだあんまり元気じゃないような気がします。大丈夫ですか?だってオールスター感謝祭の感想はなんとなく・・・いつもよりずっと・・・うまく言えませんが、なんか違ってて、辛そうかなって思ったし、ずっと前の水戸黄門の感想もまだ更新していらっしゃらないし。あっ












RYUJI's Works 



















































































