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昨夜の雨に洗われた大気が澄み、空が晴れ渡っている。
真っ白いさらしが何本も、幟(のぼり)のように心地よくはためく町医者の庭先で、彼は独り、途方に暮れていた。
「……弱ったな」
声に出して呟いたことに後から気づき、すっと息を吸い込んで姿勢を正す。青空に清々しいさらしの白を見据えた。それでも次には、もう一度、弱ったなと腹の中で低く繰り返していた。
事態を打開、改善するために己に出来ることがないという状況はタチが悪い。
藩政や幕政、世の中の仕組みといったことは埒外としても、彼は、大抵のことは己の努力次第で何とかなると考える男である。傲慢でも自信過剰でもない。実際、これまで彼はそうして生きてきた。才能と見られがちだが、むしろ意志の強さと努力の結果だと彼自身は思っている。
己にできることがあるなら邁進すればよい。単純なことだ。
だがいま彼は、なす術を知らなかった。
そういうわけで彼、佐々木助三郎はいま、かつてなかったほど途方に暮れ、弱り果てている。
そう自覚したとき、怒りとも嘆きともつかぬ激しい感情のうねりが腹の底から突き上がってきた。助三郎は我知らず、拳を傍らの大木の幹に打ちつけた。
「つっ…!」
皮膚を裂く痛みに声を洩らす。見ると、乾いて割れた皮がごつごつと突き出た堅い幹を力任せに殴りつけた甲に大小の傷が生まれ、血が滲みはじめている。
ったく…!と、助三郎は口の中で毒づいた。こういう時は、何から何まで巧くいかぬものらしい。
「助さん!」
呼ばれて振り向くと、風に舞うさらしの間を縫うように、ひょこひょこと新助がやって来る。
「捜しちゃいましたよ。こんなところで何してるんです?」
その問いには答えず、着物の袖に手を突っ込んで腕を組みながら、助三郎は別のことを尋ねた。
「格さんは?」
「ご隠居と、将棋を指してますよ」
「…将棋をねぇ」
忌々しいほど晴れやかな空を睨んで、助三郎は盛大な溜め息をついた。なにを呑気に、と思う。
ご隠居も格さんも、何故あんなにのんびり平然としているのか――。
恨めしいような心地で、助三郎は訝る。
「でーっかい溜め息ですねぇ。一体どうしたんです?」
きょとんとした新助が真下から覗き込むように見上げてきて、そのあまりの呑気さに、助三郎はつい声を荒げた。
「どうしたもこうしたもないだろう!」
ひゃっと新助が首を竦めた。眉を八の字にし、口を尖らせて文句を言う。
「なんで怒るんですかぁ!?」
「お前が呑気だからだ!」
腕を解きながら一歩詰め寄って、助三郎は怒鳴りつけた。八つ当たりだとわかっていたが、止まらない。
「格さんに、覚えがないんだぞ!」
新助は助三郎の勢いに海老反りになった。
「そんなに怒鳴らなくったって知ってますよ…!」
「本当にわかっているのか!?」
と更に、三度(みたび)、助三郎は怒鳴った。
「自分のことも、ご隠居のこともお前のことも、この、俺のことも! なにも覚えていないんだぞ!」
一気に言った助三郎は、己の言葉に再度、辛酸を嘗める思いがして奥歯を噛んだ。くそっ!と腹のうちで強く唾棄する。
つまり、そういうことなのだ。
格之進が覚えを失くした。それが発覚して、すでに三日になろうとしている。
あの日格之進は、見ず知らずの、全くの他人に向ける品定めのような眼差しを助三郎に当てた。訝しげに眉根を寄せて、彼は言ったのだ。
「お前は誰だ? 俺の、なんなんだ」
助三郎はたじろいだ。
覚えた衝撃は半端ではなかった。決して大袈裟ではなく、まるで己の人格や歴史を否定されたような気がした。大地が揺らいだが如き動揺と困惑。
助三郎には、お娟や新助たちのように、冗談だろうと笑うことはできなかったし、なに馬鹿なこと云ってんだ、と茶化すことも不可能だった。
あれほど呆然としたことが、かつてあったろうか。いや、ないに違いない、と助三郎は苦々しく思う。
最初の衝撃から立ち直ると、次に来たのは怒りに近い苛立ちだった。
まっさらな少年のようにきょとんとしている格之進を相手に、始めはあれこれ説明し、訴えた。だが次第に、無性に腹立たしくなってきて、ここ暫らくは、ろくに口も利いていない。
覚えを失くしたのは、なにも格之進の意思ではない。当然だ。それはわかっている。わかってはいるが、助三郎はどうしても、腹立たしいような情けないような思いに駆られる。
一体どうしたら、全てを忘れてしまえるんだ!? しかも何故、それで平然としているんだ!?
助三郎の怒りに応えるかのように、傍らで、藍の花が揺れた。さわ、と。
萼(がく)に絣のような模様をつけた山紫陽花だ。その楚々とした佇まいに助三郎は、棘々した己の心を諌められた気がした。
「なんだかずいぶん質素な感じの紫陽花ですねぇ」
助三郎が目を留めていることに気づいたのだろう。腰を屈めて覗きながら、新助が言った。
「山紫陽花だからな」
助三郎は言った。
ああ、と頷いて、新助がくるりと助三郎を振り仰ぐ。
「花師(はなし)が作った花じゃないってことで?」
泰平の世、植木職人とは別に、花卉(かき)を生業とし、花師と自称する町人が現われていた。自生する山野草や樹木に手を加え、改良し交配し、より美しく、より人の目を楽しませる花を咲かせる者たちだ。いまや江戸は無論、あらゆる城下や商人の町で彼らは盛況である。
山紫陽花は多様な変種を持つ。よって園芸種が数多く作出されており、より大輪の鮮やかなものが人びとに好まれている。
尤も紫陽花に限らず、昨今はどんな花も華やかなものが流行りのようだ。
「所詮、交配種が自生種に勝ることなど出来はせんだろう」
いつだったか、ご老公の供をして朝顔の花競べへ出かけた折に格之進がむっつりと言った言葉を、唐突に思い出した。
実に格之進らしい面白味のなさだ。
極論を言えば助三郎とて、同感である。自生種には派手さはないが、人の手が加えられていない凛とした美しさと品格、強さがある。侍ならば、そうした本来の美を愛でたいものだ。
だが、交配種の出来栄えを競い合う場を訪れてそれを言っては、元も子もないではないか。そういう訳であの折も常の如く、いちいち愚にもつかない口論をしたものだった。
「まただよ…! ほんっとに格さんはミもフタも無いことを云うよな」
と呆れた助三郎に格之進は、花や交配がというよりも助三郎が不埒だとばかり鼻を膨らませた。
「交配種など、ちゃらちゃらと下手に着飾った女子(おなご)のようなものだ」
「…格さん」
助三郎は思わず脱力した。風雅だ典雅だと目を細めているご老公に聞かせてやりたいと思う間に、格之進が更に言った。
「まあ? 美人と見ればすぐさま鼻の下を伸ばす助さんのことだ。そうした花が好みでも不思議はないがな」
助三郎を斜に見て、ふふんと格之進は笑った。
思い出して、助三郎はむっとする。
口を開けば嫌味か小言ばかり。格之進はいつだってあの調子だ。
まったくあいつは俺を何だと思っているんだ!と忌々しく思った助三郎だったが、次にははたと、いまのあいつは俺が誰かもわからないんだった、と情けなくなる。
「オイラあとで宿を探しに行ってきます」
隣で新助が言った。
「先生が、もうここにいなくてもいいって云うんで」
そりゃそうだろう、と助三郎は思う。あの町医者ときたらまるで役立たずだ。
うーむ、と唸った医者は腕組みをし、特に手はないと言った。来るか来ぬかわかりもせぬ「覚えが戻る日」を待つしかないと。それまでは気楽に、気長に、格之進の素性や経歴、様々な思い出を話してやるがいい、と呑気に言うのだった。
冗談ではない、と助三郎は思った。
冗談ではない。いったい何年、苦楽を共に旅をし、命すら預け合って生きてきたと思う。それを今更、自己紹介から始めろというのか。
そんな理不尽なことがあっていいものか…!
全身の骨が軋むほど強く、助三郎は思う。指が白くなるほど拳を握り締め、顎が痛くなるほど、奥歯を噛みしめた。
「でもだって、どうしようもないじゃないですか」
新助が、間の抜けた声でのんびりと言った。
「先生も、そのうち思い出すのを待つしかないって云ってるし」
「そのうちってな、新助…」
思わずがっくりと肩を落としてしまいながら、助三郎は情けない声を出した。
二年も三年も、あるいは何十年も覚えの戻らなかった話もある。全くの別人として生きていた例も聞く。
「ご隠居も格さんもそうだが、お前、なんでそう呑気なんだ」
溜め息と一緒に、助三郎は新助を見た。
「だって助さん、考えても焦っても仕方ないじゃないですか」
のほほん、と新助が応えた。
「体はすっかり元気なんだし、普通に暮らすのに必要なことは普通に出来るし…。それに、オイラはどっちかってーと、いまの格さんの方が好きですよ」
助三郎は黙って新助を睨んだ。
はたはたと、さらしが音を立てている。風に揺れて触れ合う草葉の音もした。晴れた空には、絽(ろ)のような薄い雲が淡く流れている。
「えーと、だって、厳(いかめ)しい顔してないし、嫌味だって窮屈なことだって云わないし、それに…」
と新助が指折り論(あげつら)う。
「馬鹿云え…!」
助三郎は乱暴に遮った。
「厳しい顔をせず、嫌味も云わん格さんなど、俺たちの知っている格さんではないだろう!」
「はぁまあそうですけど…」
視線を宙に漂わせ、新助は曖昧に相槌を打った。その惚けた顔つきは安穏として、どうでも良さそうだ。
助三郎は頭を抱えたくなる。
なにがそんなに問題なんだろ?
額に片手をあて、ふうっと息を吐き出す悩ましげな助三郎を眺めて、新助は不思議に思う。彼は概して自信に満ち、明るく屈託がない。そんな彼にしょっちゅうどやし付けられている新助だから、どうも調子が狂う。
「助さん、手をどうしたんです? 血が出てますよ」
助三郎の右手の甲に赤いものを見て、新助は尋ねた。
だが助三郎は、ろくに新助を見もしなかった。さらしが風に戯れるのを睨んだまま、短くぶっきら棒に言う。
「どうもせん」
「だけど血が出てますってば」
言いながら新助は彼の手首を掴もうと手を伸ばした。滲んでいる程度ではなく、血が指の間を流れはじめていたからだ。
新助を見てもいなかったくせに、助三郎はそつなく反応する。
「よせ」
と五月蝿そうに、実に邪険に言って上体を背け、新助に腕を取らせるようなことはなかった。
「手当てした方がいいのに…」
新助は脹れた。
たかが手の引っ掻き傷がなんだと云うんだ、とでも言いたげに、助三郎がごく束の間、新助を見た。足元を無邪気に跳ね回る犬を見るような眼差しだ。俺の気も知らずにお前はまったく呑気でいいな、と。
一体なにがそれほど問題なんだろうかと、もう一度、新助は思う。
実は昨夜、新助はその問いをご老公にぶつけてみた。「水魚の紲(すいぎょのきずな)というようなものかな」と独り微笑したご老公は、多くを語らなかった。新助はますます訳がわからなくなった。
「助さん」
「…なんだ」
「すいぎょのきずなって、なんですか?」
「水魚の紲?」
眉を寄せた助三郎が、怪訝そうに新助を見下ろした。乱暴に言葉を続ける。
「なんだいったい…!相変わらず藪から棒だな、お前って奴は」
「なんでもいいですよ。それってどーいうことですか?」
「水と魚のように、親密で離れがたい交わりを喩えた言葉だよ」
面倒そうに、助三郎が言った。それでも彼は説明してくれた。
「お前が水なら、相手はそこを泳ぎ、彩りを与える魚。お前が魚なら、相手はお前を満たし、生かす水。互いに、己が己である為になくてはならぬ存在だ。水魚の交わり、水魚の紲とは、そうした一対の絆のことを喩えた古い言葉だ」
ははぁ、と新助は納得する。
それが一体なんなんだ、とばかり助三郎は新助を一瞥し、辟易と嘆息した。
すっかり参っている助三郎には申し訳ないが、新助は、むしろ興味深く彼を見上げる。
助三郎は、まるで自分自身が覚えを失くしたように、所在なげだ。常の自信と余裕は影を潜めている。ご老公の喩えを借りれば、つまり、互いに「己」である為になくてはならない存在である相手が己のことをわからない為に、足場が揺らいでいるということなのかもしれない。
でもだからって、とそれでも新助は首を傾げる。
そもそもは格之進が、子供を助けて早馬に蹴られたことが始まりだった。もう二十日余り前になるだろうか。
そのとき一行は、昼を終えて飯屋(めしや)を出たところだった。
荒々しい蹄の音が聞こえた時、ご老公と早月は店先の長椅子に座り、お娟と新助はその傍らに立っており、まだ中で、笑顔の美しい娘と何事か話している助三郎を待っていた。彼に腹を立てる格之進は道端に仁王立っていたように、新助は思う。
蹄の音はアッという間に近づき、侍の怒声がし、何事かと通りを振り向いた新助は、迫り来る馬と、その正面に立ち竦む子供を見た。
あとはあまり覚えていない。
子供を抱きかかえた格之進が道の向こうへ転がり、砂塵が立ち、馬が嘶(いなな)き、格之進の被っていた手拭いが宙に舞った。
新助は、心の臓が止まるかと思うくらいぎょっとして、硬直した。
それはみな、同様だった。心底肝を冷やして凍りついた一同のなかでただ一人、即座に反応したのは助三郎だ。当然といえば当然である。反射神経や身体能力からして別格なのだ。が、彼の剣幕はそうしたこととは別のものを垣間見せもした。
「格さん!」
暖簾をくぐったところだった助三郎は、行李や笠をかなぐり捨て、ご老公や新助らの間を抜ける形で、通りへ飛び出した。
「格さん!」
と、子供を抱きしめたまま転がっている格之進の肩に手を掛けた。
「…大丈夫だ。俺はなんともない」
大きく息を吐き出しながら格之進が振り向き、助三郎を見た。
「いや、危なかったな」
「勘弁してくれよ、まったく…!」
助三郎は情けない声を出して大仰に言い、大きく、実に大きく嘆息した。
新助が彼らに到達したのはその時だ。
「格さん、血!」
格之進の米神に一筋の血が流れるのを見た新助は、ぎょっとして声を上げた。
が、既に格之進に大事はないと悟った助三郎の注意はまず、彼の腕のなかの子供へ向いていた。助三郎は尋ねた。
「大丈夫か、坊主」
「…うん」
こっくりと頷くその子を格之進から受け取るようにして助三郎は、小さな体を、片膝をつく自身の眼前に立たせた。
「立てるか? どこか痛くしていないか」
少年は自身の体をまさぐり、首を振った。
「平気みたい」
「そうか、よかったな」
汚れた片頬をぺしぺしと叩きながら、助三郎はこの上なく優しい微笑を浮かべた。少年の目を格之進へ促しながら、彼は言った。
「おじさんに、礼が云えるか?」
「ありがとう」
と少年が言うのと、むっとした格之進の声は一緒だった。
「誰がおじさんだ!?」
「傷を見せろ」
格之進の言葉を無視してそう言った助三郎は、言い終えた時には既に、片手で格之進の顎を掴んで米神の傷を自分の方へ向けていた。
格之進が邪険に、その助三郎の手を払う。
「放せ…!これくらい、舐めておけば治る」
「舐めておけばって、格さん…」
助三郎が声を立てて笑った。
「米神だぞ、自分じゃ舐められまい。誰が舐めるんだ。俺は舐めんぞ」
「なっ…!」
格之進の額に青筋が立った。
「なにを馬鹿なことを云っているんだ! 俺は言葉の綾で云ったまでだ…!」
「わかったよ。なにもそんなに怒らんでもいいだろう」
呆れたように言って助三郎はもう一度、明るく笑った。
と、実に他愛もない、馬鹿馬鹿しいような会話を交わした。馬の蹄で米神を切った格之進は少々出血したが、その時はぴんぴんしていたのだ。
それが一刻ほどして調子が悪そうなことに助三郎が気づき、医者に行く行かないで揉めるうちに格之進は突然、昏倒した。
町医者に運び込んで手拭いを取ると、一条の切り傷のみだった米神に青痣が大きく広がっていた。医者は、皮膚の内側、頭蓋の内側で出血しているのではないかと診たて、自分に出来ることはないと言ったのだ。
武芸を極める一環として、またご老公の供をして諸国を巡るという務めの上での要もあるから、格之進にも助三郎にも、ある程度の医術の心得がある。打ち身や骨折、刀傷や銃創の扱いは知っている。多少の病ならば対応も出来る。だがこれは助三郎にはお手上げだった。それはそうだろう。医者もお手上げだったのだ。
意識のない格之進を前に居並んで、一行はただ、途方に暮れた。
Afterword,
今日は久しぶりに小説を書こうと思って、でも書きたいお話がいっぱいあって、なに書こう!? と思っていたら、折よくコメントにリクエストをいただいていました。
助さんが怪我をして格さんが介抱し心配する 『涙』 & 『涙 Vol.2』 とは「反対に、格さんが重傷を負ったりとかして何かあって、助さんが心配したり看病したりするというシチュエーション」 byさくら様。リクエストありがとうございます。
んじゃ、そんな感じのお話を…と思っていたのに、このような展開に。なんか違う。しかも「助さんが心配したり看病したりする」ところまで行っていないのに、なんだかもうこんなに長いし。
気がついたらお話書いたのすごく久しぶり。ちょっとどきどき。…?楽しんでいただけると良いのですが
拙い小説を最後まで読んでくださる皆さまに心から感謝しています。いつもありがとうございます

(C) TJ Hendricks
山紫陽花。その名も「伊予絞り」。
花も美しいですが、なんて粋な名前でしょうか。
山紫陽花は実に様々だけれど、
共通する、優しいのに凛とした感じや、ひっそりとした佇まいが好きです。
明日もよい日で、たくさんの笑顔がありますように。
昨夜の雨に洗われた大気が澄み、空が晴れ渡っている。
真っ白いさらしが何本も、幟(のぼり)のように心地よくはためく町医者の庭先で、彼は独り、途方に暮れていた。
「……弱ったな」
声に出して呟いたことに後から気づき、すっと息を吸い込んで姿勢を正す。青空に清々しいさらしの白を見据えた。それでも次には、もう一度、弱ったなと腹の中で低く繰り返していた。
事態を打開、改善するために己に出来ることがないという状況はタチが悪い。
藩政や幕政、世の中の仕組みといったことは埒外としても、彼は、大抵のことは己の努力次第で何とかなると考える男である。傲慢でも自信過剰でもない。実際、これまで彼はそうして生きてきた。才能と見られがちだが、むしろ意志の強さと努力の結果だと彼自身は思っている。
己にできることがあるなら邁進すればよい。単純なことだ。
だがいま彼は、なす術を知らなかった。
そういうわけで彼、佐々木助三郎はいま、かつてなかったほど途方に暮れ、弱り果てている。
そう自覚したとき、怒りとも嘆きともつかぬ激しい感情のうねりが腹の底から突き上がってきた。助三郎は我知らず、拳を傍らの大木の幹に打ちつけた。
「つっ…!」
皮膚を裂く痛みに声を洩らす。見ると、乾いて割れた皮がごつごつと突き出た堅い幹を力任せに殴りつけた甲に大小の傷が生まれ、血が滲みはじめている。
ったく…!と、助三郎は口の中で毒づいた。こういう時は、何から何まで巧くいかぬものらしい。
「助さん!」
呼ばれて振り向くと、風に舞うさらしの間を縫うように、ひょこひょこと新助がやって来る。
「捜しちゃいましたよ。こんなところで何してるんです?」
その問いには答えず、着物の袖に手を突っ込んで腕を組みながら、助三郎は別のことを尋ねた。
「格さんは?」
「ご隠居と、将棋を指してますよ」
「…将棋をねぇ」
忌々しいほど晴れやかな空を睨んで、助三郎は盛大な溜め息をついた。なにを呑気に、と思う。
ご隠居も格さんも、何故あんなにのんびり平然としているのか――。
恨めしいような心地で、助三郎は訝る。
「でーっかい溜め息ですねぇ。一体どうしたんです?」
きょとんとした新助が真下から覗き込むように見上げてきて、そのあまりの呑気さに、助三郎はつい声を荒げた。
「どうしたもこうしたもないだろう!」
ひゃっと新助が首を竦めた。眉を八の字にし、口を尖らせて文句を言う。
「なんで怒るんですかぁ!?」
「お前が呑気だからだ!」
腕を解きながら一歩詰め寄って、助三郎は怒鳴りつけた。八つ当たりだとわかっていたが、止まらない。
「格さんに、覚えがないんだぞ!」
新助は助三郎の勢いに海老反りになった。
「そんなに怒鳴らなくったって知ってますよ…!」
「本当にわかっているのか!?」
と更に、三度(みたび)、助三郎は怒鳴った。
「自分のことも、ご隠居のこともお前のことも、この、俺のことも! なにも覚えていないんだぞ!」
一気に言った助三郎は、己の言葉に再度、辛酸を嘗める思いがして奥歯を噛んだ。くそっ!と腹のうちで強く唾棄する。
つまり、そういうことなのだ。
格之進が覚えを失くした。それが発覚して、すでに三日になろうとしている。
あの日格之進は、見ず知らずの、全くの他人に向ける品定めのような眼差しを助三郎に当てた。訝しげに眉根を寄せて、彼は言ったのだ。
「お前は誰だ? 俺の、なんなんだ」
助三郎はたじろいだ。
覚えた衝撃は半端ではなかった。決して大袈裟ではなく、まるで己の人格や歴史を否定されたような気がした。大地が揺らいだが如き動揺と困惑。
助三郎には、お娟や新助たちのように、冗談だろうと笑うことはできなかったし、なに馬鹿なこと云ってんだ、と茶化すことも不可能だった。
あれほど呆然としたことが、かつてあったろうか。いや、ないに違いない、と助三郎は苦々しく思う。
最初の衝撃から立ち直ると、次に来たのは怒りに近い苛立ちだった。
まっさらな少年のようにきょとんとしている格之進を相手に、始めはあれこれ説明し、訴えた。だが次第に、無性に腹立たしくなってきて、ここ暫らくは、ろくに口も利いていない。
覚えを失くしたのは、なにも格之進の意思ではない。当然だ。それはわかっている。わかってはいるが、助三郎はどうしても、腹立たしいような情けないような思いに駆られる。
一体どうしたら、全てを忘れてしまえるんだ!? しかも何故、それで平然としているんだ!?
助三郎の怒りに応えるかのように、傍らで、藍の花が揺れた。さわ、と。
萼(がく)に絣のような模様をつけた山紫陽花だ。その楚々とした佇まいに助三郎は、棘々した己の心を諌められた気がした。
「なんだかずいぶん質素な感じの紫陽花ですねぇ」
助三郎が目を留めていることに気づいたのだろう。腰を屈めて覗きながら、新助が言った。
「山紫陽花だからな」
助三郎は言った。
ああ、と頷いて、新助がくるりと助三郎を振り仰ぐ。
「花師(はなし)が作った花じゃないってことで?」
泰平の世、植木職人とは別に、花卉(かき)を生業とし、花師と自称する町人が現われていた。自生する山野草や樹木に手を加え、改良し交配し、より美しく、より人の目を楽しませる花を咲かせる者たちだ。いまや江戸は無論、あらゆる城下や商人の町で彼らは盛況である。
山紫陽花は多様な変種を持つ。よって園芸種が数多く作出されており、より大輪の鮮やかなものが人びとに好まれている。
尤も紫陽花に限らず、昨今はどんな花も華やかなものが流行りのようだ。
「所詮、交配種が自生種に勝ることなど出来はせんだろう」
いつだったか、ご老公の供をして朝顔の花競べへ出かけた折に格之進がむっつりと言った言葉を、唐突に思い出した。
実に格之進らしい面白味のなさだ。
極論を言えば助三郎とて、同感である。自生種には派手さはないが、人の手が加えられていない凛とした美しさと品格、強さがある。侍ならば、そうした本来の美を愛でたいものだ。
だが、交配種の出来栄えを競い合う場を訪れてそれを言っては、元も子もないではないか。そういう訳であの折も常の如く、いちいち愚にもつかない口論をしたものだった。
「まただよ…! ほんっとに格さんはミもフタも無いことを云うよな」
と呆れた助三郎に格之進は、花や交配がというよりも助三郎が不埒だとばかり鼻を膨らませた。
「交配種など、ちゃらちゃらと下手に着飾った女子(おなご)のようなものだ」
「…格さん」
助三郎は思わず脱力した。風雅だ典雅だと目を細めているご老公に聞かせてやりたいと思う間に、格之進が更に言った。
「まあ? 美人と見ればすぐさま鼻の下を伸ばす助さんのことだ。そうした花が好みでも不思議はないがな」
助三郎を斜に見て、ふふんと格之進は笑った。
思い出して、助三郎はむっとする。
口を開けば嫌味か小言ばかり。格之進はいつだってあの調子だ。
まったくあいつは俺を何だと思っているんだ!と忌々しく思った助三郎だったが、次にははたと、いまのあいつは俺が誰かもわからないんだった、と情けなくなる。
「オイラあとで宿を探しに行ってきます」
隣で新助が言った。
「先生が、もうここにいなくてもいいって云うんで」
そりゃそうだろう、と助三郎は思う。あの町医者ときたらまるで役立たずだ。
うーむ、と唸った医者は腕組みをし、特に手はないと言った。来るか来ぬかわかりもせぬ「覚えが戻る日」を待つしかないと。それまでは気楽に、気長に、格之進の素性や経歴、様々な思い出を話してやるがいい、と呑気に言うのだった。
冗談ではない、と助三郎は思った。
冗談ではない。いったい何年、苦楽を共に旅をし、命すら預け合って生きてきたと思う。それを今更、自己紹介から始めろというのか。
そんな理不尽なことがあっていいものか…!
全身の骨が軋むほど強く、助三郎は思う。指が白くなるほど拳を握り締め、顎が痛くなるほど、奥歯を噛みしめた。
「でもだって、どうしようもないじゃないですか」
新助が、間の抜けた声でのんびりと言った。
「先生も、そのうち思い出すのを待つしかないって云ってるし」
「そのうちってな、新助…」
思わずがっくりと肩を落としてしまいながら、助三郎は情けない声を出した。
二年も三年も、あるいは何十年も覚えの戻らなかった話もある。全くの別人として生きていた例も聞く。
「ご隠居も格さんもそうだが、お前、なんでそう呑気なんだ」
溜め息と一緒に、助三郎は新助を見た。
「だって助さん、考えても焦っても仕方ないじゃないですか」
のほほん、と新助が応えた。
「体はすっかり元気なんだし、普通に暮らすのに必要なことは普通に出来るし…。それに、オイラはどっちかってーと、いまの格さんの方が好きですよ」
助三郎は黙って新助を睨んだ。
はたはたと、さらしが音を立てている。風に揺れて触れ合う草葉の音もした。晴れた空には、絽(ろ)のような薄い雲が淡く流れている。
「えーと、だって、厳(いかめ)しい顔してないし、嫌味だって窮屈なことだって云わないし、それに…」
と新助が指折り論(あげつら)う。
「馬鹿云え…!」
助三郎は乱暴に遮った。
「厳しい顔をせず、嫌味も云わん格さんなど、俺たちの知っている格さんではないだろう!」
「はぁまあそうですけど…」
視線を宙に漂わせ、新助は曖昧に相槌を打った。その惚けた顔つきは安穏として、どうでも良さそうだ。
助三郎は頭を抱えたくなる。
なにがそんなに問題なんだろ?
額に片手をあて、ふうっと息を吐き出す悩ましげな助三郎を眺めて、新助は不思議に思う。彼は概して自信に満ち、明るく屈託がない。そんな彼にしょっちゅうどやし付けられている新助だから、どうも調子が狂う。
「助さん、手をどうしたんです? 血が出てますよ」
助三郎の右手の甲に赤いものを見て、新助は尋ねた。
だが助三郎は、ろくに新助を見もしなかった。さらしが風に戯れるのを睨んだまま、短くぶっきら棒に言う。
「どうもせん」
「だけど血が出てますってば」
言いながら新助は彼の手首を掴もうと手を伸ばした。滲んでいる程度ではなく、血が指の間を流れはじめていたからだ。
新助を見てもいなかったくせに、助三郎はそつなく反応する。
「よせ」
と五月蝿そうに、実に邪険に言って上体を背け、新助に腕を取らせるようなことはなかった。
「手当てした方がいいのに…」
新助は脹れた。
たかが手の引っ掻き傷がなんだと云うんだ、とでも言いたげに、助三郎がごく束の間、新助を見た。足元を無邪気に跳ね回る犬を見るような眼差しだ。俺の気も知らずにお前はまったく呑気でいいな、と。
一体なにがそれほど問題なんだろうかと、もう一度、新助は思う。
実は昨夜、新助はその問いをご老公にぶつけてみた。「水魚の紲(すいぎょのきずな)というようなものかな」と独り微笑したご老公は、多くを語らなかった。新助はますます訳がわからなくなった。
「助さん」
「…なんだ」
「すいぎょのきずなって、なんですか?」
「水魚の紲?」
眉を寄せた助三郎が、怪訝そうに新助を見下ろした。乱暴に言葉を続ける。
「なんだいったい…!相変わらず藪から棒だな、お前って奴は」
「なんでもいいですよ。それってどーいうことですか?」
「水と魚のように、親密で離れがたい交わりを喩えた言葉だよ」
面倒そうに、助三郎が言った。それでも彼は説明してくれた。
「お前が水なら、相手はそこを泳ぎ、彩りを与える魚。お前が魚なら、相手はお前を満たし、生かす水。互いに、己が己である為になくてはならぬ存在だ。水魚の交わり、水魚の紲とは、そうした一対の絆のことを喩えた古い言葉だ」
ははぁ、と新助は納得する。
それが一体なんなんだ、とばかり助三郎は新助を一瞥し、辟易と嘆息した。
すっかり参っている助三郎には申し訳ないが、新助は、むしろ興味深く彼を見上げる。
助三郎は、まるで自分自身が覚えを失くしたように、所在なげだ。常の自信と余裕は影を潜めている。ご老公の喩えを借りれば、つまり、互いに「己」である為になくてはならない存在である相手が己のことをわからない為に、足場が揺らいでいるということなのかもしれない。
でもだからって、とそれでも新助は首を傾げる。
そもそもは格之進が、子供を助けて早馬に蹴られたことが始まりだった。もう二十日余り前になるだろうか。
そのとき一行は、昼を終えて飯屋(めしや)を出たところだった。
荒々しい蹄の音が聞こえた時、ご老公と早月は店先の長椅子に座り、お娟と新助はその傍らに立っており、まだ中で、笑顔の美しい娘と何事か話している助三郎を待っていた。彼に腹を立てる格之進は道端に仁王立っていたように、新助は思う。
蹄の音はアッという間に近づき、侍の怒声がし、何事かと通りを振り向いた新助は、迫り来る馬と、その正面に立ち竦む子供を見た。
あとはあまり覚えていない。
子供を抱きかかえた格之進が道の向こうへ転がり、砂塵が立ち、馬が嘶(いなな)き、格之進の被っていた手拭いが宙に舞った。
新助は、心の臓が止まるかと思うくらいぎょっとして、硬直した。
それはみな、同様だった。心底肝を冷やして凍りついた一同のなかでただ一人、即座に反応したのは助三郎だ。当然といえば当然である。反射神経や身体能力からして別格なのだ。が、彼の剣幕はそうしたこととは別のものを垣間見せもした。
「格さん!」
暖簾をくぐったところだった助三郎は、行李や笠をかなぐり捨て、ご老公や新助らの間を抜ける形で、通りへ飛び出した。
「格さん!」
と、子供を抱きしめたまま転がっている格之進の肩に手を掛けた。
「…大丈夫だ。俺はなんともない」
大きく息を吐き出しながら格之進が振り向き、助三郎を見た。
「いや、危なかったな」
「勘弁してくれよ、まったく…!」
助三郎は情けない声を出して大仰に言い、大きく、実に大きく嘆息した。
新助が彼らに到達したのはその時だ。
「格さん、血!」
格之進の米神に一筋の血が流れるのを見た新助は、ぎょっとして声を上げた。
が、既に格之進に大事はないと悟った助三郎の注意はまず、彼の腕のなかの子供へ向いていた。助三郎は尋ねた。
「大丈夫か、坊主」
「…うん」
こっくりと頷くその子を格之進から受け取るようにして助三郎は、小さな体を、片膝をつく自身の眼前に立たせた。
「立てるか? どこか痛くしていないか」
少年は自身の体をまさぐり、首を振った。
「平気みたい」
「そうか、よかったな」
汚れた片頬をぺしぺしと叩きながら、助三郎はこの上なく優しい微笑を浮かべた。少年の目を格之進へ促しながら、彼は言った。
「おじさんに、礼が云えるか?」
「ありがとう」
と少年が言うのと、むっとした格之進の声は一緒だった。
「誰がおじさんだ!?」
「傷を見せろ」
格之進の言葉を無視してそう言った助三郎は、言い終えた時には既に、片手で格之進の顎を掴んで米神の傷を自分の方へ向けていた。
格之進が邪険に、その助三郎の手を払う。
「放せ…!これくらい、舐めておけば治る」
「舐めておけばって、格さん…」
助三郎が声を立てて笑った。
「米神だぞ、自分じゃ舐められまい。誰が舐めるんだ。俺は舐めんぞ」
「なっ…!」
格之進の額に青筋が立った。
「なにを馬鹿なことを云っているんだ! 俺は言葉の綾で云ったまでだ…!」
「わかったよ。なにもそんなに怒らんでもいいだろう」
呆れたように言って助三郎はもう一度、明るく笑った。
と、実に他愛もない、馬鹿馬鹿しいような会話を交わした。馬の蹄で米神を切った格之進は少々出血したが、その時はぴんぴんしていたのだ。
それが一刻ほどして調子が悪そうなことに助三郎が気づき、医者に行く行かないで揉めるうちに格之進は突然、昏倒した。
町医者に運び込んで手拭いを取ると、一条の切り傷のみだった米神に青痣が大きく広がっていた。医者は、皮膚の内側、頭蓋の内側で出血しているのではないかと診たて、自分に出来ることはないと言ったのだ。
武芸を極める一環として、またご老公の供をして諸国を巡るという務めの上での要もあるから、格之進にも助三郎にも、ある程度の医術の心得がある。打ち身や骨折、刀傷や銃創の扱いは知っている。多少の病ならば対応も出来る。だがこれは助三郎にはお手上げだった。それはそうだろう。医者もお手上げだったのだ。
意識のない格之進を前に居並んで、一行はただ、途方に暮れた。
Afterword,
今日は久しぶりに小説を書こうと思って、でも書きたいお話がいっぱいあって、なに書こう!? と思っていたら、折よくコメントにリクエストをいただいていました。
助さんが怪我をして格さんが介抱し心配する 『涙』 & 『涙 Vol.2』 とは「反対に、格さんが重傷を負ったりとかして何かあって、助さんが心配したり看病したりするというシチュエーション」 byさくら様。リクエストありがとうございます。
んじゃ、そんな感じのお話を…と思っていたのに、このような展開に。なんか違う。しかも「助さんが心配したり看病したりする」ところまで行っていないのに、なんだかもうこんなに長いし。
気がついたらお話書いたのすごく久しぶり。ちょっとどきどき。…?楽しんでいただけると良いのですが
拙い小説を最後まで読んでくださる皆さまに心から感謝しています。いつもありがとうございます

(C) TJ Hendricks
山紫陽花。その名も「伊予絞り」。
花も美しいですが、なんて粋な名前でしょうか。
山紫陽花は実に様々だけれど、
共通する、優しいのに凛とした感じや、ひっそりとした佇まいが好きです。
明日もよい日で、たくさんの笑顔がありますように。
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