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格之進は助三郎と新助と連れ立って、川沿いの通りを歩いていた。
柳が揺れ、吹く風が心地いい。
彼らはこの午後早く、城下の旅籠に入った。これまでのところ、これといって妙な話は耳に入って来ず、比較的平穏なお国柄なのだろうかと思う。そう行く先々で卑劣な悪事にばかり出くわすのは気持ちのいいものではない。
心なしか潮の匂いがした。川を潮が上げているのかもしれない。そういう刻限のはずである。
「格さん」
前方の川面が白くさざめくのを眺めたまま助三郎が呼んだ。
彼と同じように、やはり自分たちと同じ方向へ流れていく川の流れに向けていた視線を、格之進は助三郎に移した。
「今夜は一杯飲みに行かないか?」
助三郎がそう言って、子供の他愛ない駄々に遭った親のように、格之進はそれと知らずに微苦笑を洩らした。小言めいた言葉が喉まで上がってきたのだが、新助が先に口を開いた。
「助さん、オイラは?」
「ええ?」
迷惑そうに助三郎が新助を見る。彼は邪険に言った。
「行きたいのか、お前も」
「当たり前じゃないですかぁ…!」
「どーするかなぁ」
視線を遊ばせて助三郎が言う。からかっているのが格之進にはわかるのだが、当人にはわからないらしく、新助は助三郎の袖を取るようにしてすがった。
「なんでですかぁ、助さん!そりゃないですよ〜」
助三郎が笑った。緩やかに揺れる肩や微笑を浮べる口元、その明るく穏やかで、どこかしら悪戯っぽい眼差しも、なにもかもが格之進を微笑ませる。
「連れてってくださいよー助さん」
「いや、俺は格さんと男の話がしたいんだ」
「オイラも男ですよっ」
と、新助。
お前は男というより犬みたいだよな。
組んだ両腕を着物の袖に入れてのんびりと歩く助三郎の周りを忙しなく右に左に動きながら懇願の眼差しを向けている新助を眺めて、格之進はそう思う。新助はどうにも犬っぽい。
「どうする格さん。新助も連れていくか?」
と、助三郎が格之進を見た。
「俺は行くとは云っていないぞ」
格之進がにべもなく答えると、助三郎は足を止めた。
「格さん」
三歩先へ歩いてしまってから、格之進は立ち止まり、半身振り向いた。
「だいたい、ご隠居をお一人にはできないだろう…!」
「いやしかし格さん、」
と助三郎が格之進に並んで抗弁しかけたとき、背後で、それまでの人びとの賑わいとは明らかに異なる大声が上がった。
反射的に振り返ると、疎らな人垣の向こうで、五人連れの武士が平伏した百姓の母子を怒鳴りつけている。なにやら無礼があったらしい。居合わせた人びとは武士を相手の諍いに助勢できようはずもなく、去りはしないが、遠巻きに固唾を飲んでいた。
「この無礼者が!」
一人の武士が言いざま母親の肩口を蹴り飛ばし、転がった彼女を見下して大刀を抜き放った。
「そこへ直れ!成敗してくれる!」
既に、格之進と助三郎は弾かれたように地を蹴り、走っていた。
が、間に合わなかった。
駆ける二人の目に映ったのは、翻った白刃が、倒れている母親の前に立ちふさがった年端も行かぬ子供の小さな体を薙ぐ光景だった。格之進と助三郎の視界ですべてが奇妙にゆっくりと動き、鮮血がぱっと散った。
全身の血が逆流するような気がした。
「清吉っ!」
母親の悲鳴と同時に、刀を受けて泳ぐように後方へ倒れる子供の体を抱きとめたのは、助三郎。
同じ瞬間格之進は、腰を落とした防御の構えで、助三郎と母子を庇う形で武士たちの前に立ち塞がった。
「な、なんだ、貴様ら!」
武士の一人が言った。
格之進は応えず、彼らの出方を窺いながらも、その意識はむしろ子供と、その子を地面に横たえる助三郎に向いていた。
「清吉!清吉っ!」
「落ち着いて。少し離れてください!」
泣き叫び、すがり付く母親を宥めながら助三郎が手拭いを裂き、止血にかかるのを格之進は背後に聞いていた。
「助さんっ!」
「新助、手拭いを寄越せ!」
ようやく追いついてきた新助に、助三郎が怒鳴った。
「へい!」
滑り込むように助三郎の傍らに両膝をついた新助が、わたわたと従う。
「なんのつもりだ、貴様ら!」
一人の武士が言った。
「出過ぎたマネをするな!」
格之進は応えなかった。武士たちの攻撃に備えていたが、この状況に割り込んできた丸腰の町人に、彼らはむしろ驚き、唖然としている。格之進が、最も後方に立つ男のことが気になったのは、組んだ両手を袖に入れたまま、相手の力量を測るような視線を格之進と助三郎に向けているからだ。
背後で助三郎が言った。
「直ぐ医者に連れて行きなさい」
「でもっ、」
「止血しました。急いで医者にかかれば助かるかもしれない。早く!」
「でもそんなお金は…」
「そんなことは、あとから我々がなんとでもします!急ぎなさい」
母親を急かした助三郎はその返事を待たず、新助に言った。
「お前が背負っていくんだ」
「へい!」
「急げ!」
「へいっ!」
子供を背負った新助と母親が駆け出してゆき、立ち上がった助三郎が格之進に並んだ。その両手が、着物の胸や袖が、子供の血で鮮やかに濡れている。その子を斬った武士を、助三郎は真っ直ぐに見据えた。
彼が発する怒りの空気に、格之進は少なからず動揺を覚えた。
助三郎が、これほどの怒りを露わにしたことがあっただろうか。むしろ無言な分、動きがない分、その怒りの激しさを格之進は感じた。助三郎はいつになく、本気で、怒っている。
「助さん」
武士たちを見たまま、格之進は囁くように彼を呼んだ。
助三郎は反応せず、武士を見据える視線も動かさなかった。瞬きすら忘れているようだ。格之進が五人全員へ注意を注いでいるのに対し、助三郎は子供を斬った武士だけを見ている。
「文句があるのか!」
武士が恫喝した。しかし言葉とは裏腹に、男は明らかに、助三郎に気圧されている。一つの武器も持たず、ただ静かに立って見据えているだけの助三郎に。
「なぜ斬った」
低く、助三郎が言った。格之進が自分の聞き間違いかと思ったほど、彼の声は冷たく響いた。
「貴様らには関わりない!無礼討ちだ!」
「か弱い子供を問答無用で斬り捨てて、無礼討ちですか」
格之進は言いながら、助三郎の前に立とうと、半歩前へ出た。
格之進も怒りで爆発しそうだった。全身を熱く感じるほど、怒りを覚えていた。それでも、助三郎の怒りに触れて、格之進はむしろそのことに気を取られた。助三郎の怒りは、子供を斬った武士へのそれと同時に、それを許した、防げなかった彼自身へも向けられているように感じられた。格之進は助三郎を、抑えたかった。
しかし、二人の感情を逆撫でする言葉を武士の一人がさらに吐いた。
「何の理由が要る。百姓など、何人死んでも問題ではないわ」
どこまでも、不遜な口調だった。
その瞬間の助三郎の感情の変化を、格之進は確かに、感じた。温度の変化として感じたのだ。燃え滾っていたものが、すっと冷えた。だがそれは、怒りが冷めたわけではない。炎は高温なほど赤ではなく、青く滾る。ある臨界を越えたかのように、助三郎はすっと冷えてゆくように見えた。
「それは、」
相手を睨み据えて、格之進は言った。
「聞き捨てなりませんね」
誰が言っても許せる言葉ではない。だが、彼らは浪人でも無頼の者でもなかった。出で立ちからして歴とした藩士だ。それが、百姓など何人死んでもかまわないと公言する。これは尚のこと聞き捨てならない。
そのとき助三郎が呻くように言った。
「許さんぞ、貴様ら」
その声に秘められたものに、格之進は正直、ぎょっとした。
それをわからぬ者、読めぬ者がいる。
「ええ、生意気な!」
子供を斬った武士の隣、助三郎の右斜め前方に立っていた男の刀が鞘を離れ、やおら襲いかかってきた。
別の相手に全身全霊を向けていたにもかかわらず、助三郎は動いた。ごく本能的な反応だ。それができるから、彼も格之進も、他より武術に優れていると言える。
ともかく助三郎は、ごく近距離から討ちかかってきた武士の懐に滑り込み、柄を握る相手の両手首を下から抑え込むと、驚くような鮮やかさで大刀を奪った。そのままの一動作で、彼は奪った刀の柄を男の鳩尾に食い込ませた。
すべてが一瞬の出来事だった。
男が呻きながら膝をついたときには、すでに助三郎は奪った刀を下段に構え、子供を斬った武士と正面に対峙していた。
「町人の分際で、侍と剣を交えようと云うのか!」
上擦った声で武士は言った。
「是非に」
助三郎の声はどこまでも無感情で、そして不敵だった。ぞっとするほど冷たい声だった。
「虫けらのように殺される恐怖を、貴様にも教えてやる」
低く、感情を押し殺した声で助三郎が言った。その切っ先がわずかに、上がった。彼は刃を返していない。
「助さん」
格之進は無意識に、呼んでいた。
斬るはずはない。なにがあろうと、どんなに卑劣な大罪人であろうと、彼らが、彼が、人を殺めることはない。それに、常のように初めから刃を返して峰を向けていては、斬る気はないと相手に告げるようなものだから、「虫けらのように殺される恐怖」を知悉させることはできない。
だが?と、格之進は思った。
着流しの町人と紋付袴の武士が抜き身を手に対峙している。
武士は血のりの付いた刀を中段に構えているが、明らかに、助三郎に気圧されていた。斬りかかろうにも、かかれずにいる。
助三郎は動かない。
やがて相手の武士に焦りが見えはじめた。わずかだが、刀が揺れる。
そのとき、仲間の不利を見かねたのか、ここまで抜刀していなかった三名が鞘を払った。
鞘走る音につづき、悲鳴と驚愕の声がさざ波のように広がった。身を縮めた人びとが後じさったので、騒動を囲む輪が大きくなった。
それが全てを、動かした。
子供を斬った武士の左右に位置した二人が、己を奮い立たせるような掛け声と共にそれぞれ、格之進と助三郎に斬りかかってきた。
すっと上体を落とし、上段に振りかざされた剣の下に潜り込んで格之進が肘鉄を食らわせたときには、助三郎の前でも彼の相手が崩れていた。助三郎の剣はそのままの流れで、背後から彼に斬りかかった第二の男の胴を払った。
寸秒で三人の仲間を倒され、子供を斬った武士は怯んだ。それでも、倒した男の上体が崩れるのを背にくるりと振り向いた助三郎の鋭く光る視線が注がれたとき、武士は奇声を発して突きを繰り出した。
恐怖に駆り立てられた猪突など、助三郎には赤子の手を捻るも同然だったろう。彼の動きはごく僅かで、まったく無駄がなく、素早い。軽く切っ先をかわした助三郎は、その刀を繰り出してきた相手の両腕、小手を、打った。それは格之進にすら、斬るように、見えた。
男は恐らく、腕を斬り落とされたと錯覚したに違いない ――それが「峰打ち」の本来の意図である。痛みよりも恐怖による悲鳴を洩らし、男の両膝が、その大刀と共に地に落ちた。だが、彼は腕を失ってはいなかった。
助三郎は斬る寸前に刀を返し、峰で打ったのだ。
それでも、骨を砕かれた激痛に、すでに膝をついている男はそのまま地に蹲るかに思われた。
しかし助三郎はその隙すら与えず、男の喉元に切っ先を突きつけた。
「覚悟しろ」
どこまでも冷徹に、助三郎が言った。その凄みのある声、目つきは、格之進も知らないものだ。
男の顔は苦痛と恐怖に歪み、脂汗に塗れ、それとわかるほど全身で震えている。
助三郎がどうするつもりか、珍しくこのとき、格之進は定かではなかった。恐怖を味あわせているだけなのか、斬るつもりなのか。感情に任せて人を殺める助三郎ではない。しかし、
「助さん…!」
格之進は呼んだ。叫ぶのと、囁くのとを、同時にしていた。
その男を殺してあの子が助かるわけではない。歴とした大名の家中を斬れば、事は水戸藩、あるいはご老公にまで及ぶ。なにより、何があろうと、俺はお前に人を殺させたくない。お前の、強く美しく、誇り高い剣の腕を、こんな男の血で汚したくはない。
そうした思いを、言葉として口に出す必要は、彼らにはなかった。言わなくとも、伝わることはある。言わない方が伝わることも、ある。
「助さん」
もう一度、格之進は名前だけを呼んだ。
助三郎は無言だったが、すっと息を吸った。さらに寸秒の間、彼は動かなかったがやがて一歩退き、それから、刀を退いた。そのままの挙動で、彼は刀を打ち捨てた。
大仰な音を立てて刀が地に落ちる。
それまで膝で立っていた武士の腰が抜け、その場へへたり込もうとするのへ、
「失せろ…!」
声を抑えて、しかし鋭く、格之進は一喝した。
「くそっ!覚えておれっ」
はじめに助三郎に刀を奪われた武士が、残った強がりをどうにか奮い起こして罵倒し、五人の武士はよろよろと立ち上がって踵を返し、人垣を払うように掻き分けて走り出した。
「やれやれ」
格之進は溜め息と一緒に呟いて、退散する武士たちを見送った。
「とんでもない侍だな」
嘆息したが、悲しいかな、あの手の武士がそう少なくないという現実も知っていた。
助三郎は応えない。
手負い故かまだそう遠くへは行っていない、よろよろと走る武士たちを、格之進は目を細めて見た。
「問題になるかな」
知らずと、自問のように呟いていた。
「かまうもんか!」
吐き捨てられた助三郎の言葉の乱暴さに、格之進はどきりとした。見ると、彼の握りしめた拳、まだ乾かない血に汚れたそれが、怒りに震えている。
あの男の喉元に突きつけた切っ先を退くことに、助三郎がどれほどの努力を要したかに思い至り、格之進は苦しくなった。
全身の理性をかき集めて、彼はそうしたに違いない。
「助さん」
格之進は彼の肩に手を置いた。
「町医者を探そう。あの子が心配だ」
「…ああ」
声だけで返事をしたが、助三郎は動かなかった。
「助さん。汚れを落として、着替えねば」
言いながら格之進が、助三郎の肩に置いた手に力を込めると、彼はようやく格之進を見てうなずいた。
「ああ」
と、喘ぐように。目の合った漆黒の双眸は怒りよりも悲しみに、満ちていた。
格之進は助三郎と新助と連れ立って、川沿いの通りを歩いていた。
柳が揺れ、吹く風が心地いい。
彼らはこの午後早く、城下の旅籠に入った。これまでのところ、これといって妙な話は耳に入って来ず、比較的平穏なお国柄なのだろうかと思う。そう行く先々で卑劣な悪事にばかり出くわすのは気持ちのいいものではない。
心なしか潮の匂いがした。川を潮が上げているのかもしれない。そういう刻限のはずである。
「格さん」
前方の川面が白くさざめくのを眺めたまま助三郎が呼んだ。
彼と同じように、やはり自分たちと同じ方向へ流れていく川の流れに向けていた視線を、格之進は助三郎に移した。
「今夜は一杯飲みに行かないか?」
助三郎がそう言って、子供の他愛ない駄々に遭った親のように、格之進はそれと知らずに微苦笑を洩らした。小言めいた言葉が喉まで上がってきたのだが、新助が先に口を開いた。
「助さん、オイラは?」
「ええ?」
迷惑そうに助三郎が新助を見る。彼は邪険に言った。
「行きたいのか、お前も」
「当たり前じゃないですかぁ…!」
「どーするかなぁ」
視線を遊ばせて助三郎が言う。からかっているのが格之進にはわかるのだが、当人にはわからないらしく、新助は助三郎の袖を取るようにしてすがった。
「なんでですかぁ、助さん!そりゃないですよ〜」
助三郎が笑った。緩やかに揺れる肩や微笑を浮べる口元、その明るく穏やかで、どこかしら悪戯っぽい眼差しも、なにもかもが格之進を微笑ませる。
「連れてってくださいよー助さん」
「いや、俺は格さんと男の話がしたいんだ」
「オイラも男ですよっ」
と、新助。
お前は男というより犬みたいだよな。
組んだ両腕を着物の袖に入れてのんびりと歩く助三郎の周りを忙しなく右に左に動きながら懇願の眼差しを向けている新助を眺めて、格之進はそう思う。新助はどうにも犬っぽい。
「どうする格さん。新助も連れていくか?」
と、助三郎が格之進を見た。
「俺は行くとは云っていないぞ」
格之進がにべもなく答えると、助三郎は足を止めた。
「格さん」
三歩先へ歩いてしまってから、格之進は立ち止まり、半身振り向いた。
「だいたい、ご隠居をお一人にはできないだろう…!」
「いやしかし格さん、」
と助三郎が格之進に並んで抗弁しかけたとき、背後で、それまでの人びとの賑わいとは明らかに異なる大声が上がった。
反射的に振り返ると、疎らな人垣の向こうで、五人連れの武士が平伏した百姓の母子を怒鳴りつけている。なにやら無礼があったらしい。居合わせた人びとは武士を相手の諍いに助勢できようはずもなく、去りはしないが、遠巻きに固唾を飲んでいた。
「この無礼者が!」
一人の武士が言いざま母親の肩口を蹴り飛ばし、転がった彼女を見下して大刀を抜き放った。
「そこへ直れ!成敗してくれる!」
既に、格之進と助三郎は弾かれたように地を蹴り、走っていた。
が、間に合わなかった。
駆ける二人の目に映ったのは、翻った白刃が、倒れている母親の前に立ちふさがった年端も行かぬ子供の小さな体を薙ぐ光景だった。格之進と助三郎の視界ですべてが奇妙にゆっくりと動き、鮮血がぱっと散った。
全身の血が逆流するような気がした。
「清吉っ!」
母親の悲鳴と同時に、刀を受けて泳ぐように後方へ倒れる子供の体を抱きとめたのは、助三郎。
同じ瞬間格之進は、腰を落とした防御の構えで、助三郎と母子を庇う形で武士たちの前に立ち塞がった。
「な、なんだ、貴様ら!」
武士の一人が言った。
格之進は応えず、彼らの出方を窺いながらも、その意識はむしろ子供と、その子を地面に横たえる助三郎に向いていた。
「清吉!清吉っ!」
「落ち着いて。少し離れてください!」
泣き叫び、すがり付く母親を宥めながら助三郎が手拭いを裂き、止血にかかるのを格之進は背後に聞いていた。
「助さんっ!」
「新助、手拭いを寄越せ!」
ようやく追いついてきた新助に、助三郎が怒鳴った。
「へい!」
滑り込むように助三郎の傍らに両膝をついた新助が、わたわたと従う。
「なんのつもりだ、貴様ら!」
一人の武士が言った。
「出過ぎたマネをするな!」
格之進は応えなかった。武士たちの攻撃に備えていたが、この状況に割り込んできた丸腰の町人に、彼らはむしろ驚き、唖然としている。格之進が、最も後方に立つ男のことが気になったのは、組んだ両手を袖に入れたまま、相手の力量を測るような視線を格之進と助三郎に向けているからだ。
背後で助三郎が言った。
「直ぐ医者に連れて行きなさい」
「でもっ、」
「止血しました。急いで医者にかかれば助かるかもしれない。早く!」
「でもそんなお金は…」
「そんなことは、あとから我々がなんとでもします!急ぎなさい」
母親を急かした助三郎はその返事を待たず、新助に言った。
「お前が背負っていくんだ」
「へい!」
「急げ!」
「へいっ!」
子供を背負った新助と母親が駆け出してゆき、立ち上がった助三郎が格之進に並んだ。その両手が、着物の胸や袖が、子供の血で鮮やかに濡れている。その子を斬った武士を、助三郎は真っ直ぐに見据えた。
彼が発する怒りの空気に、格之進は少なからず動揺を覚えた。
助三郎が、これほどの怒りを露わにしたことがあっただろうか。むしろ無言な分、動きがない分、その怒りの激しさを格之進は感じた。助三郎はいつになく、本気で、怒っている。
「助さん」
武士たちを見たまま、格之進は囁くように彼を呼んだ。
助三郎は反応せず、武士を見据える視線も動かさなかった。瞬きすら忘れているようだ。格之進が五人全員へ注意を注いでいるのに対し、助三郎は子供を斬った武士だけを見ている。
「文句があるのか!」
武士が恫喝した。しかし言葉とは裏腹に、男は明らかに、助三郎に気圧されている。一つの武器も持たず、ただ静かに立って見据えているだけの助三郎に。
「なぜ斬った」
低く、助三郎が言った。格之進が自分の聞き間違いかと思ったほど、彼の声は冷たく響いた。
「貴様らには関わりない!無礼討ちだ!」
「か弱い子供を問答無用で斬り捨てて、無礼討ちですか」
格之進は言いながら、助三郎の前に立とうと、半歩前へ出た。
格之進も怒りで爆発しそうだった。全身を熱く感じるほど、怒りを覚えていた。それでも、助三郎の怒りに触れて、格之進はむしろそのことに気を取られた。助三郎の怒りは、子供を斬った武士へのそれと同時に、それを許した、防げなかった彼自身へも向けられているように感じられた。格之進は助三郎を、抑えたかった。
しかし、二人の感情を逆撫でする言葉を武士の一人がさらに吐いた。
「何の理由が要る。百姓など、何人死んでも問題ではないわ」
どこまでも、不遜な口調だった。
その瞬間の助三郎の感情の変化を、格之進は確かに、感じた。温度の変化として感じたのだ。燃え滾っていたものが、すっと冷えた。だがそれは、怒りが冷めたわけではない。炎は高温なほど赤ではなく、青く滾る。ある臨界を越えたかのように、助三郎はすっと冷えてゆくように見えた。
「それは、」
相手を睨み据えて、格之進は言った。
「聞き捨てなりませんね」
誰が言っても許せる言葉ではない。だが、彼らは浪人でも無頼の者でもなかった。出で立ちからして歴とした藩士だ。それが、百姓など何人死んでもかまわないと公言する。これは尚のこと聞き捨てならない。
そのとき助三郎が呻くように言った。
「許さんぞ、貴様ら」
その声に秘められたものに、格之進は正直、ぎょっとした。
それをわからぬ者、読めぬ者がいる。
「ええ、生意気な!」
子供を斬った武士の隣、助三郎の右斜め前方に立っていた男の刀が鞘を離れ、やおら襲いかかってきた。
別の相手に全身全霊を向けていたにもかかわらず、助三郎は動いた。ごく本能的な反応だ。それができるから、彼も格之進も、他より武術に優れていると言える。
ともかく助三郎は、ごく近距離から討ちかかってきた武士の懐に滑り込み、柄を握る相手の両手首を下から抑え込むと、驚くような鮮やかさで大刀を奪った。そのままの一動作で、彼は奪った刀の柄を男の鳩尾に食い込ませた。
すべてが一瞬の出来事だった。
男が呻きながら膝をついたときには、すでに助三郎は奪った刀を下段に構え、子供を斬った武士と正面に対峙していた。
「町人の分際で、侍と剣を交えようと云うのか!」
上擦った声で武士は言った。
「是非に」
助三郎の声はどこまでも無感情で、そして不敵だった。ぞっとするほど冷たい声だった。
「虫けらのように殺される恐怖を、貴様にも教えてやる」
低く、感情を押し殺した声で助三郎が言った。その切っ先がわずかに、上がった。彼は刃を返していない。
「助さん」
格之進は無意識に、呼んでいた。
斬るはずはない。なにがあろうと、どんなに卑劣な大罪人であろうと、彼らが、彼が、人を殺めることはない。それに、常のように初めから刃を返して峰を向けていては、斬る気はないと相手に告げるようなものだから、「虫けらのように殺される恐怖」を知悉させることはできない。
だが?と、格之進は思った。
着流しの町人と紋付袴の武士が抜き身を手に対峙している。
武士は血のりの付いた刀を中段に構えているが、明らかに、助三郎に気圧されていた。斬りかかろうにも、かかれずにいる。
助三郎は動かない。
やがて相手の武士に焦りが見えはじめた。わずかだが、刀が揺れる。
そのとき、仲間の不利を見かねたのか、ここまで抜刀していなかった三名が鞘を払った。
鞘走る音につづき、悲鳴と驚愕の声がさざ波のように広がった。身を縮めた人びとが後じさったので、騒動を囲む輪が大きくなった。
それが全てを、動かした。
子供を斬った武士の左右に位置した二人が、己を奮い立たせるような掛け声と共にそれぞれ、格之進と助三郎に斬りかかってきた。
すっと上体を落とし、上段に振りかざされた剣の下に潜り込んで格之進が肘鉄を食らわせたときには、助三郎の前でも彼の相手が崩れていた。助三郎の剣はそのままの流れで、背後から彼に斬りかかった第二の男の胴を払った。
寸秒で三人の仲間を倒され、子供を斬った武士は怯んだ。それでも、倒した男の上体が崩れるのを背にくるりと振り向いた助三郎の鋭く光る視線が注がれたとき、武士は奇声を発して突きを繰り出した。
恐怖に駆り立てられた猪突など、助三郎には赤子の手を捻るも同然だったろう。彼の動きはごく僅かで、まったく無駄がなく、素早い。軽く切っ先をかわした助三郎は、その刀を繰り出してきた相手の両腕、小手を、打った。それは格之進にすら、斬るように、見えた。
男は恐らく、腕を斬り落とされたと錯覚したに違いない ――それが「峰打ち」の本来の意図である。痛みよりも恐怖による悲鳴を洩らし、男の両膝が、その大刀と共に地に落ちた。だが、彼は腕を失ってはいなかった。
助三郎は斬る寸前に刀を返し、峰で打ったのだ。
それでも、骨を砕かれた激痛に、すでに膝をついている男はそのまま地に蹲るかに思われた。
しかし助三郎はその隙すら与えず、男の喉元に切っ先を突きつけた。
「覚悟しろ」
どこまでも冷徹に、助三郎が言った。その凄みのある声、目つきは、格之進も知らないものだ。
男の顔は苦痛と恐怖に歪み、脂汗に塗れ、それとわかるほど全身で震えている。
助三郎がどうするつもりか、珍しくこのとき、格之進は定かではなかった。恐怖を味あわせているだけなのか、斬るつもりなのか。感情に任せて人を殺める助三郎ではない。しかし、
「助さん…!」
格之進は呼んだ。叫ぶのと、囁くのとを、同時にしていた。
その男を殺してあの子が助かるわけではない。歴とした大名の家中を斬れば、事は水戸藩、あるいはご老公にまで及ぶ。なにより、何があろうと、俺はお前に人を殺させたくない。お前の、強く美しく、誇り高い剣の腕を、こんな男の血で汚したくはない。
そうした思いを、言葉として口に出す必要は、彼らにはなかった。言わなくとも、伝わることはある。言わない方が伝わることも、ある。
「助さん」
もう一度、格之進は名前だけを呼んだ。
助三郎は無言だったが、すっと息を吸った。さらに寸秒の間、彼は動かなかったがやがて一歩退き、それから、刀を退いた。そのままの挙動で、彼は刀を打ち捨てた。
大仰な音を立てて刀が地に落ちる。
それまで膝で立っていた武士の腰が抜け、その場へへたり込もうとするのへ、
「失せろ…!」
声を抑えて、しかし鋭く、格之進は一喝した。
「くそっ!覚えておれっ」
はじめに助三郎に刀を奪われた武士が、残った強がりをどうにか奮い起こして罵倒し、五人の武士はよろよろと立ち上がって踵を返し、人垣を払うように掻き分けて走り出した。
「やれやれ」
格之進は溜め息と一緒に呟いて、退散する武士たちを見送った。
「とんでもない侍だな」
嘆息したが、悲しいかな、あの手の武士がそう少なくないという現実も知っていた。
助三郎は応えない。
手負い故かまだそう遠くへは行っていない、よろよろと走る武士たちを、格之進は目を細めて見た。
「問題になるかな」
知らずと、自問のように呟いていた。
「かまうもんか!」
吐き捨てられた助三郎の言葉の乱暴さに、格之進はどきりとした。見ると、彼の握りしめた拳、まだ乾かない血に汚れたそれが、怒りに震えている。
あの男の喉元に突きつけた切っ先を退くことに、助三郎がどれほどの努力を要したかに思い至り、格之進は苦しくなった。
全身の理性をかき集めて、彼はそうしたに違いない。
「助さん」
格之進は彼の肩に手を置いた。
「町医者を探そう。あの子が心配だ」
「…ああ」
声だけで返事をしたが、助三郎は動かなかった。
「助さん。汚れを落として、着替えねば」
言いながら格之進が、助三郎の肩に置いた手に力を込めると、彼はようやく格之進を見てうなずいた。
「ああ」
と、喘ぐように。目の合った漆黒の双眸は怒りよりも悲しみに、満ちていた。
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怖いくらい怒ってるのが伝わってきますね。TVでは、彼はあんまり怒らないけど、きっと目の前で子供が斬られたら、きっとこんな風になりそう。怒鳴ったりするより、ずっと激しい怒り。情に脆い助さんならでは?痛ましいくらいで、格さんが庇おうとしちゃうのわかる気がする。










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