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菜の花の黄色が溢れかえっている。さわさわと風に揺れて、まるで波のようだ。
その花にうずもれるようにしゃがんでいる少年の顔を覗き込むように、助さんは両膝に手をついて前屈みになった。
「捜したぞ?一太」
「いっちゃん、おっかさんが心配してるよ?さ、帰ろう」
と新助は一太の隣に膝を折った。
一太は動かない。新助を見もしない。泥と涙で汚れた頬をむっと膨らせたまま、眼前いっぱいの黄色を睨んでいる。
母親の話によれば、剣術、そして読み書きにも憧れているらしい一太は野菜を売りに行っては町道場や寺子屋を覗いているという。時おり、武家の子に見つかっていじめられるらしい。今日はそうだったのだろう。
「いっちゃん」
「どうせオイラは百姓の子なんだ。なんにもできない…!」
そう言って少年は、苛立たしげに右手で菜の花を薙いだ。
散った黄色い花びらが舞う。
「そんなことないよ、いっちゃん」
と新助は言った。
「なんでそう思うんだよ?」
挑戦的な目を向けてそう反問した一太に、新助はううっと言葉に詰まる。安請け合いをするものではない。
一太はぷいっと顔を前に戻して、また言った。
「だってオイラは百姓の子なのに」
新助は困る。どういう慰めが適当なのかわからない。
「この蜂の名を知っているかい?」
頭上で、ごく穏やかに、助さんの声が言った。蜂?と新助は首を傾げながら助さんを見上げる。
すこん、と抜けるような気持ちのいい青空を背景にした助さんは、菜の花の海を飛び回わる蜂を見ていた。
助さ〜ん、こんなときに何なんですかぁ、と新助は思う。
「一太」
と、助さんが一太の隣で膝を折った。
「この蜂、なんて名前だと思う?」
「…知らない」
「丸花蜂と云うそうだ。羽が極端に小さく脆弱で、」
「ぜいじゃく?」
鸚鵡返しに、一太が反問した。知らない言葉に反応する。もともと賢い性質なのだろう。助さんの唐突な話にも興味を持ったのか、あどけない瞳に輝きが射していた。
「ああ、すまん」
と、助さんの目が優しく、ふっとほころんだ。
「脆弱というのは、弱くて脆いという意味だ。この蜂の羽は小さくて弱い。ズングリした体の方がはるかに大きく、重いんだ。見てごらん」
菜の花に止まった一匹を、それが飛び立たぬようにだろう、助さんは顎で指した。
一太が目を向ける。
新助もつられて、つい真剣に蜂を見た。
毛の生えた丸っこい体、大きな尻に、透けた小さな羽。不恰好だ。確かに助さんの言うように、体の方がかなり大きい。
「な?小さな羽だろう?」
「うん」
「だからね、なんでも学者先生によると、飛ぶことができない体の作りなんだそうだ」
その助さんの言葉に反抗するかのように、そんなことはない、とでも言うように、蜜を吸っていた蜂が飛んだ。ぶん、と羽を鳴らして。
その蜂の行方を追い、それから助さんに視線を移して、一太が首を傾げる。
「でも、飛んでるよ?」
「ああ、そうだな」
にっこりうなずいて、助さんが視線を蜂にやった。
それに誘われるように、新助も一太も蜂を見る。
蜂は、心地よい羽音をさせてぶんぶんと軽快に飛び回る。急降下に急上昇、舞うように飛ぶかと思えば滞空もし、極めつけに後ろ向きにも飛んだ。
その様子を無心に目で追う一太を、助さんは黙って見ていたが、やがて言った。
「飛べないはずの体で、どうして飛べると思う?」
一太は考えた。
「…わかんない」
新助にもわからなかった。確かに、あの体にあんなに小さな羽では飛べないだろう。それなのにどうして飛んでいるのだろう?
「信じているからだよ」
と、助さんが言った。
びっくりして、一太が助さんを見上げた。
「信じる?」
と、新助も一太と一緒に声を出していた。
二人の驚きを余所に、助さんはごく普通にうなずいた。
「飛べると信じているんだ。だからとにかく、一生懸命羽を動かして、飛べないはずなのに飛んでしまう」
「…信じる」
もう一度その言葉を、一太が口のなかで呟いた。
うん、と助さんが微笑む。
「蜂は自分が飛べないなんて、思ったこともない。とにかく飛ばなくては蜜を集められない。だからとにかく必死に羽ばたくだけだ。理屈ではないんだよ、一太。花に向かって、目標に向かって無我夢中で、我武者羅に羽ばたくことで、不可能を可能にしているんだ」
ああ!と新助は声を上げそうになった。そういうことか、とようやく助さんの言おうとしていることに気づいたのだ。
「ほら、体よりもずっと小さなこの羽で、確かに、この蜂は飛んでいる」
じっ、と少年の目が蜂を見つめる。
その横顔を見つめて、助さんが、言った。
「お百姓の子だから自分にはできないと、どうして一太は決め付けるんだ?」
一太がはっと、助さんを見た。
「…助さん」
優しく、助さんが目を細める。
「自分の小さなこの羽では飛べないと決め付けたら、そのときから、この蜂は飛べなくなるだろう」
少年の目を覗き込んで、助さんは言った。一言一言に温かい心がこもっている。
「わかるか?一太」
「わかる」
と即答した一太はふと付け足した。
「と思う」
「一太はいい子だな」
くすっと、助さんが笑う。その、慈しみと愛情に満ちた優しい微笑に、一太が照れたように笑った。
「お百姓の子だとか侍の子だとか、そんなことは関係ないんだ。できると信じろ。自分で自分の可能性を否定してはいけない」
温かい声で助さんが言った。真摯な口調だった。子供相手ではない真剣さと親身に溢れている。
「一太は利発で聡明だ」
「そうめい?」
もう一度、一太が首を傾げた。
助さんが微笑む。
「聡は耳がよく聞こえること。明は目がよく見えること。聡明、という言葉は、物事の理解が早くて賢いことを云う」
「オイラ、賢いかな?」
「そう思う。言葉一つとっても、一太は知らないこと、新しいことに常に興味を持って、知ろうとしている。素晴らしいことだ。だから、自分の可能性を否定するな。できると信じることだ」
「わかった」
幼い顎をしっかりと引いて、一太がうなずいた。
「信じることが大事なんだね?」
助さんが強くうなずいた。
「そうだ。自分を信じろ。そこから力が生まれる」

(C) 2008 TJ Hendricks
"Aerodynamically the bumblebee shouldn't be able to fly,
but the bumblebee doesn't know it, so it goes on flying anyway."
―― Mary Kay Ash
つまり、『空気力学的にみて、マルハナバチは飛べないはずである。
しかしマルハナバチはそんなことは知らない。だから彼らは、とにかく飛ぶのである』
既成概念に囚われて二進も三進もいかなかった頃の私に、かなり衝撃だった言葉。
マルハナバチ。
飛べないはずの体で、ただ「信じる力」をもってブンブン飛び回る小さな命が
常識に囚われてはじめから出来ないと諦めるな、出来ると信じろ、と教えてくれた。
淋しいことに現在では、彼らが飛べる、そのメカニズムが科学的に解明されている。
菜の花の黄色が溢れかえっている。さわさわと風に揺れて、まるで波のようだ。
その花にうずもれるようにしゃがんでいる少年の顔を覗き込むように、助さんは両膝に手をついて前屈みになった。
「捜したぞ?一太」
「いっちゃん、おっかさんが心配してるよ?さ、帰ろう」
と新助は一太の隣に膝を折った。
一太は動かない。新助を見もしない。泥と涙で汚れた頬をむっと膨らせたまま、眼前いっぱいの黄色を睨んでいる。
母親の話によれば、剣術、そして読み書きにも憧れているらしい一太は野菜を売りに行っては町道場や寺子屋を覗いているという。時おり、武家の子に見つかっていじめられるらしい。今日はそうだったのだろう。
「いっちゃん」
「どうせオイラは百姓の子なんだ。なんにもできない…!」
そう言って少年は、苛立たしげに右手で菜の花を薙いだ。
散った黄色い花びらが舞う。
「そんなことないよ、いっちゃん」
と新助は言った。
「なんでそう思うんだよ?」
挑戦的な目を向けてそう反問した一太に、新助はううっと言葉に詰まる。安請け合いをするものではない。
一太はぷいっと顔を前に戻して、また言った。
「だってオイラは百姓の子なのに」
新助は困る。どういう慰めが適当なのかわからない。
「この蜂の名を知っているかい?」
頭上で、ごく穏やかに、助さんの声が言った。蜂?と新助は首を傾げながら助さんを見上げる。
すこん、と抜けるような気持ちのいい青空を背景にした助さんは、菜の花の海を飛び回わる蜂を見ていた。
助さ〜ん、こんなときに何なんですかぁ、と新助は思う。
「一太」
と、助さんが一太の隣で膝を折った。
「この蜂、なんて名前だと思う?」
「…知らない」
「丸花蜂と云うそうだ。羽が極端に小さく脆弱で、」
「ぜいじゃく?」
鸚鵡返しに、一太が反問した。知らない言葉に反応する。もともと賢い性質なのだろう。助さんの唐突な話にも興味を持ったのか、あどけない瞳に輝きが射していた。
「ああ、すまん」
と、助さんの目が優しく、ふっとほころんだ。
「脆弱というのは、弱くて脆いという意味だ。この蜂の羽は小さくて弱い。ズングリした体の方がはるかに大きく、重いんだ。見てごらん」
菜の花に止まった一匹を、それが飛び立たぬようにだろう、助さんは顎で指した。
一太が目を向ける。
新助もつられて、つい真剣に蜂を見た。
毛の生えた丸っこい体、大きな尻に、透けた小さな羽。不恰好だ。確かに助さんの言うように、体の方がかなり大きい。
「な?小さな羽だろう?」
「うん」
「だからね、なんでも学者先生によると、飛ぶことができない体の作りなんだそうだ」
その助さんの言葉に反抗するかのように、そんなことはない、とでも言うように、蜜を吸っていた蜂が飛んだ。ぶん、と羽を鳴らして。
その蜂の行方を追い、それから助さんに視線を移して、一太が首を傾げる。
「でも、飛んでるよ?」
「ああ、そうだな」
にっこりうなずいて、助さんが視線を蜂にやった。
それに誘われるように、新助も一太も蜂を見る。
蜂は、心地よい羽音をさせてぶんぶんと軽快に飛び回る。急降下に急上昇、舞うように飛ぶかと思えば滞空もし、極めつけに後ろ向きにも飛んだ。
その様子を無心に目で追う一太を、助さんは黙って見ていたが、やがて言った。
「飛べないはずの体で、どうして飛べると思う?」
一太は考えた。
「…わかんない」
新助にもわからなかった。確かに、あの体にあんなに小さな羽では飛べないだろう。それなのにどうして飛んでいるのだろう?
「信じているからだよ」
と、助さんが言った。
びっくりして、一太が助さんを見上げた。
「信じる?」
と、新助も一太と一緒に声を出していた。
二人の驚きを余所に、助さんはごく普通にうなずいた。
「飛べると信じているんだ。だからとにかく、一生懸命羽を動かして、飛べないはずなのに飛んでしまう」
「…信じる」
もう一度その言葉を、一太が口のなかで呟いた。
うん、と助さんが微笑む。
「蜂は自分が飛べないなんて、思ったこともない。とにかく飛ばなくては蜜を集められない。だからとにかく必死に羽ばたくだけだ。理屈ではないんだよ、一太。花に向かって、目標に向かって無我夢中で、我武者羅に羽ばたくことで、不可能を可能にしているんだ」
ああ!と新助は声を上げそうになった。そういうことか、とようやく助さんの言おうとしていることに気づいたのだ。
「ほら、体よりもずっと小さなこの羽で、確かに、この蜂は飛んでいる」
じっ、と少年の目が蜂を見つめる。
その横顔を見つめて、助さんが、言った。
「お百姓の子だから自分にはできないと、どうして一太は決め付けるんだ?」
一太がはっと、助さんを見た。
「…助さん」
優しく、助さんが目を細める。
「自分の小さなこの羽では飛べないと決め付けたら、そのときから、この蜂は飛べなくなるだろう」
少年の目を覗き込んで、助さんは言った。一言一言に温かい心がこもっている。
「わかるか?一太」
「わかる」
と即答した一太はふと付け足した。
「と思う」
「一太はいい子だな」
くすっと、助さんが笑う。その、慈しみと愛情に満ちた優しい微笑に、一太が照れたように笑った。
「お百姓の子だとか侍の子だとか、そんなことは関係ないんだ。できると信じろ。自分で自分の可能性を否定してはいけない」
温かい声で助さんが言った。真摯な口調だった。子供相手ではない真剣さと親身に溢れている。
「一太は利発で聡明だ」
「そうめい?」
もう一度、一太が首を傾げた。
助さんが微笑む。
「聡は耳がよく聞こえること。明は目がよく見えること。聡明、という言葉は、物事の理解が早くて賢いことを云う」
「オイラ、賢いかな?」
「そう思う。言葉一つとっても、一太は知らないこと、新しいことに常に興味を持って、知ろうとしている。素晴らしいことだ。だから、自分の可能性を否定するな。できると信じることだ」
「わかった」
幼い顎をしっかりと引いて、一太がうなずいた。
「信じることが大事なんだね?」
助さんが強くうなずいた。
「そうだ。自分を信じろ。そこから力が生まれる」

(C) 2008 TJ Hendricks
"Aerodynamically the bumblebee shouldn't be able to fly,
but the bumblebee doesn't know it, so it goes on flying anyway."
―― Mary Kay Ash
つまり、『空気力学的にみて、マルハナバチは飛べないはずである。
しかしマルハナバチはそんなことは知らない。だから彼らは、とにかく飛ぶのである』
既成概念に囚われて二進も三進もいかなかった頃の私に、かなり衝撃だった言葉。
マルハナバチ。
飛べないはずの体で、ただ「信じる力」をもってブンブン飛び回る小さな命が
常識に囚われてはじめから出来ないと諦めるな、出来ると信じろ、と教えてくれた。
淋しいことに現在では、彼らが飛べる、そのメカニズムが科学的に解明されている。
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