メーデーに行こう 

April 23 [Sun], 2006, 23:56
メーデーの起源は、1880年代の8時間労働制の運動にさかのぼる。
1884年「労働騎士団」をはじめとするアメリカの各労働団体団体は、毎年5月1日を期して、8時間労働の獲得を目的とするゼネラル・ストライキを行う決議をし、86年の5月1日を最初の示威運動の日に指定した。
この日、一斉に労働を休んだ19万余のアメリカの労働者は、「8時間の労働、8時間の休息、8時間の教育」をスローガンとして、示威運動に参加した。その結果、少なくとも42,000人の労働者が、ストライキによって要求を獲得し、その他にも15万人にのぼる労働者がストライキに訴えることなく労働時間を短縮させた。こうして、全体でおよそ20万の労働者が、この1日で8時間労働制を獲得した。
とくに、この運動の中心であったシカゴでは、5月4日、ヘー・マーケット広場に集まったストライキ団と武装警官の衝突がおこり、多数の死傷者を出し、首謀者とみなされて逮捕された5人は死刑、3人は禁固の宣告をうけた。89年、第二インターナショナルのパリ大会は、このアメリカ労働者の偉大な闘争を世界にひろげることを決定し、5月1日を労働者階級の国際的祭日とした。翼90年以来、メーデーは年とともに全世界にひろまった。このパリにおける第1回のメーデーも、シカゴ同様武装警官の銃火によって、鮮血が流されており、メーデーの歴史は各国ともにたんたんものではなかった。
日本では、1905年(明治38)記念集会をもったが弾圧され、1920年(大正9)はじめて第1回のメーデーが、15労働団体約1万人の参加によって行われ、36年(昭和11)政府によって禁止されるまで、通産16回のメーデーがもたれたが、いずれも政府の弾圧と指導者の検束がつきものであった。このような多くの犠牲をはらって行われる労働者の祭典メーデーに参加しよう。

流鏑馬 

April 17 [Mon], 2006, 22:35
今日鎌倉八幡宮の流鏑馬を見に行った。
流鏑馬の歴史は古く、神事としての流鏑馬は本来「矢馳馬」の訛化によるもので、その起源は古く三韓(古代の朝鮮)に深い関わりを持つことが知られている。2から6世紀頃の朝鮮半島は、半島の東側を辰韓、西側を馬韓、南側を弁韓と称し、これを三韓と呼び、いずれも当初は、我が国と極めて友好的な関係にあった。古書によるとスサノウノミコトが晩年、ソシモリに御座されたことが見えるが、ソシとは朝鮮の古語で「牛」の意、モリとは「頭」という意味から、それは今の高原道の牛頭山のことであろうと推測されスサノウノミコトを「牛頭天皇」と称して祀る祠もある。
 かつて三韓平定に苦心された神功皇后、応神天皇の二柱神を豊前国宇佐の地(現在の宇佐八幡宮所在地)に祀り、天下泰平、五穀豊穣を祈念すると共に、その神事において馬上から、三韓に准えて三個の的を射さしめたのが「流鏑馬神事」の起源となったと伝えられている。
 鎌倉の地に幕府を創めることになった源氏の頭領源頼朝は、嘗て流鏑馬神事について、西行法師に教えを請い、天下泰平を祈念しての流鏑馬奉納を念願としていたが、文治3年(1187年)に至り、ようやくこれが実現するところとなった。子の年の8月15日、頼朝は鶴岡若宮(後の八幡宮)で放生会を催す事になり、この際に流鏑馬を奉納したのが鎌倉期における流鏑馬神事の復活とされている。
 以上がその起源と歴史の概要である。昨夜から降り続いた雨も流鏑馬神事が始まると止み、小生はベストアングルで38枚の写真を撮影することができた。
 これも偏に八幡大菩薩の働きによるところが大きいと確信した。鶴岡八幡宮というと鎌倉期の日蓮が「諌暁八幡抄」という書を著述した事を思い出す。

労働法制を考える 

March 19 [Sun], 2006, 22:56
 最近の労働組合への加入者の減少、いわゆる組合の組織率の低下を懸念するのは、決して小生ひとりではあるまい。その背景にはもちろん労働者の多種多様な雇用形態、いわゆる労働市場の流動化が指摘されている。しかし、労働運動が幾多の試練を経てその法制を確立した歴史を回顧するとき、労働組合の組織率低下はゆゆしき事態であると言わざるを得ない。
 そこで、ドイツの近代史を確認しながら、労働法制を考えてみたい。
 1871年に普仏戦争に勝ったドイツは、帝国を形成して宿願の政治的統一を達成すると同時に、金本位による統一的な通貨・信用制度を樹立するなど、その後の経済的躍進の基盤を強化した。当時ドイツ経済はフランスからの巨額な賠償金の流入に促されて未曾有の活況を呈し、産業・金融の各分野では多数の株式会社が新設・拡張され、重工業を中心に生産は飛躍的な拡大をみた。そして1900年の恐慌後、株式保有その他をつうじて一体化した巨大資本と大銀行は、独占組織を再編成して独自の資本蓄積様式の基盤を強化し、金融資本の段階を確立した。この独占体制下で金融資本は、ダンピングや国家の政策をつうじて国内の過剰な商品と資本の輸出に努め、イギリス等の既存の勢力圏を侵食していった。このようなドイツの積極的進出は、イギリス・ドイツ両国の帝国主義的対立を激化し、1914年に第一次世界大戦を惹起するにいたった。対戦中ドイツは過度の軍需生産のために経済の破綻をまねき、1918年11月の革命によって降服し、社会主義勢力の主導下で共和国となった。その共和国憲法がヴァイマール憲法であり、近代憲法史上はじめて労働法制が規定されるに至ったのである。
 この歴史を踏まえるとき、労働組合の存在意義と労働運動の意味、また今日の労働組合の諸活動があらためてその真価を問われていると考えるのは小生ひとりではなかろう。

昨日は友人と... 

March 18 [Sat], 2006, 17:33
昨日小生は友人二人と酒席。養老の滝にて楽しい歓談後、カラオケパブへ.............................................................................尾崎 行雄(おざき ゆきお、男性、安政5年(戸籍上は翌6年の旧暦11月20日)11月20日(1858年12月24日) - 1954年(昭和29年)10月6日)は、政治家。号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。神奈川県津久井郡中野村(現・津久井町)又野生まれ。学位は工学士(東京大学)。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。

11歳まで中野村で過ごした後、三重県の役人となった父・行正に従い、一家も三重の宇治山田に居を移す。共立学校(現在の開成高校)を経て慶応義塾に入学するが、塾長の福沢諭吉に反抗して退学、東京大学工学部に再入学する。1882年立憲改進党の創立に参加、1890年第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる。1898年大隈重信内閣において40歳の若さで文部大臣に就任するも、所謂共和演説事件で文相を辞任し、ついで大隈内閣も総辞職した。


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