【更新】主張。
2011.11.30 [Wed] 06:00

先週からずっと気になっていた。

人は主張する生き物だ。

それで、主張すると結構な確立で誰かが傷つく。

そこんところ、どうなの?




主張するのって倫理的に大丈夫だろうか?

いやいや、そんなこと言ってたら何も言えないじゃないか。

でも、しばらく前の僕はそうだった。



別に考える必要はない。

考えたってしょうがないことだから。

でも、それを考えてしまう。

しかも、結構深く、論理的に・・・。



主張に関する思考を綜合して総体化する。

主張の思考の体系化・・・。




僕は、考えることは好きだけど

実は、主張するのはすごく苦手。

と言うか、苦手になってしまった。

特に、今は、口で主張するのなんて全然ダメ。

終いには興味無くなってしまった。

「誰か傷つくなら言わないで置こう」

そう思う様になった。



でも、黙っているのは変だよね。

だから、黙っていられないなぁ。

そんなこんなで黙っていることも無くなった。


でも、体系化出来たわけじゃないし、

逆の方向の命題が浮かんだわけでもない。


そんじゃぁ、誰かを傷つけてしまうことについて。

人は生きていれば、必ず誰かを傷つける。

そういう生き物だ。

それで、僕もきっとそうなんだ。

ただこうして生きているだけで

誰かの心をえぐっているのかもしれない。

傷ついた誰かが可愛そうだから

今すぐ死んでしまおう・・・

いやいや、そうは行かないだろう。


生きるか死ぬかは僕の自由じゃないんだ。

それは哲学のこと知っているなら判ると思う。

そこんところの思想で、僕は死ねないね。


じゃぁ、誰かを傷つけながら生きるか。

もし選択肢がそれしかないならしかたないか。


じゃぁこういうのはどうだろう。

傷つけ、傷つけられながら生きている

という結論。

そう言えば、傷つけるばかりじゃなかったね。

傷つけられることもあるわけだ。

もちつ持たれつ?


じゃぁこうしよう。

傷つけられても、大目に見よう。

だって傷つけること(傷つけたこと)が

あるかもしれない(あったかもしれない)から。


うん、それがいいね。

ということで、今回はこのへんで。
 

【更新】戦争をどう捉えるべきか?
2011.11.26 [Sat] 21:50

最近寒くて良く眠れません。

眠るには眠るのですが、変な夢を見て飛び起きる。

それで温かいコーンスープを飲んで

それからまた寝るのですが、同じことの繰り返しです。

だから4時ごろには寝るのをあきらめてしまって

ノートを開くか、本を読み始めるわけです。

そういえば最近のノートの記事で熱い思考が繰り広げられているものがあります。それは「戦争」です。みなさんは戦争を肯定しますか?否定しますか?これを読んでいる人の8割は日本人ですので、何も考えずに「戦争はいけない」と言ってしまえる。でも、残りの2割の人は違うかもしれない。これは、残りの2割の人が「悪い」ということではない。だって、おかしいのは8割の方だからです。

ちなみに僕は「戦争はいけない!」と強く信じています。
でもそれは、大勢の人が死ぬからとか、そういうことではありません。大勢の人が死んだって、戦争を肯定してしまえる人たちはいるのです。大勢の他人が死ぬのと、大勢の知人が死ぬのでは、少し違っているからです。それはこれからのお話で、すこしだけ判るかもしれません。


以前僕は「概念」の話をしました。

概念、つまり頭の中にしかなくて実際にはないもの。物理学的物質ではないものです。たとえばそれは「社会」とか「国家」とか「民族」とかです。概念としては確かにそこに存在するのですが、触れることもできなければ、抽出することもできない。だってそうでしょ?国家ってなんですか?社会ってなんですか?民族ってなんですか?

国家っていうのは、僕らの場合日本です。そして日本人というのは、日本国籍を持っている人のことを表します。だから、「日本人」という「人」は存在しないのです。実際に存在するのは「田中さん」とか「伊藤さん」とかです。

それと同じ様に、日本という物質も存在しないわけです。

日本の領土はどこだ?といって、「ココ」という様に自分の立っている場所を指差した人、今自分が立っている地面をそっくりそのまんまアメリカへ持って行ってしまったら、それでもそこを日本だと言い張りますか?たぶん、そこはもうアメリカです。ということは、日本っていうのはいったいどこのことを指して言っているのか・・・。そう、だから「日本」は「国家」という概念であって、物質としてそこに存在するわけではないのです。

この「概念」というものは困ったもので、その「概念」を考えたり捉えたりする人の、「立場」や「時代」や「思想」によって、その意味が大きく変わってしまうということです。これは非常に恐ろしい事実です。



さて、そこで戦争というキーワードが出てくるわけです。

ちなみに「戦争」も概念です。戦争という物質が存在するわけじゃない。

戦争が善か、悪か?と言う議論は、概念の議論です。さっき確認した様に、概念というのは、それを捉える人の、「立場」や「時代」や「思想」によって、その意味が大きく変わってしまうのです。「戦争」という概念も同じことですね。

戦争をさせる人は、国家を守る為に、または経済を守る為に、または宗教を守る為に、戦争をするかもしれません。その人たちにとっては、国家も、経済も、宗教も大切なものです。それを守ろうとすることが悪いことだなんて思っていないかもしれません。

戦争をする人(兵士)は、故郷を守る為、家族を守る為、恋人を守る為に戦うかもしれません。中には「愛する国の為に働いているんだ!」と自分は良い事をしていると思っている人もいるかもしれません。

戦争へ送り出す人(兵士の家族や恋人)は、戦争なんてやめて!と持っているかもしれません。逆に、勇敢に戦ってこい!と応援するかもしれません。

戦争を受ける人(交戦国)は、責めてくる敵を一刻も早く倒さなければなりません。そうでなければ、自分たちの大切な家族や、恋人、子どもたちを、殺されてしまうかもしれないからです。それを悪いことだなんて考えている暇はありません。

戦争を傍観する人(日本人)は、憲法で決まっているから戦争はしません。でもなんとなく、人が大勢死ぬ戦争をするのは悪いことだと思っています。


ここまで見て行くと、既に矛盾していることに気が付くはずです。

■概念を守る愚かさ。

そもそも、戦争をしている人が、戦争によって守ろうとしているのはなんなのか?実は彼ら、国家とか民族とか、実際には存在しないものの為に必死に人殺しを働いているわけです。特に、一神教を信仰する国の戦争はえげつない。神様は一人だから、他の神様を信じている国が許せないのです。だからアメリカ人はイラク人が嫌いです。

だけど、国家も、民族も、それは単なる協同体としての関係の総体に過ぎないのです。そんなものは実態もはっきりせず、全体像もぼんやりしていて、捉えどころのないものです。もしはっきりと捉えているのであれば、それは勘違いに過ぎない。「勘違いなんかじゃない!」と思う人は、自分の世代をひとくくりにして、誰かに批判してもらってください。そのことで良く判ります。

「最近の若者」は・・・。最近の若者はゲームと携帯電話に夢中で全く勉強しない、学力も低下して本も読まず、ほとんどの人が無気力に陥っている。最近の若者に希望はなく、将来も期待できない。このままでは最近の若者のせいで、日本の社会は衰退を辿る一方である・・・といった具合です。

若い人は、イライラしたと思います。ムカムカするはずです。それはなんででしょうか?

理由は簡単です。「最近の若者」という言葉は、若い個人の総体を無理やり一纏めにしてしまって、その後で一般論を展開しているからです。「若者たち」「老人たち」「主婦たち」というのは、単なる概念であり、「若者」や「主婦」という名前の人がいるわけではないのです。にも関わらず、なんだか自分が思いっきり批判を受けた様な気がする。それが、概念の恐ろしい力なのです。


つまるところ、国家や民族をはっきり捉えた!というのは嘘っぱちだということです。この日本だけでも、1億の人口を抱えているのに、その傾向を知ったからと言って、すべての日本人を把握したことにはならないわけです。


だから「アメリカ人」も「イラク人」も「日本人」もないということです。じゃぁ、アメリカは一体何と戦っているのでしょうか?それは「概念」と戦争をしているのです。こんなバカげたことは世界のどこ探したってない。概念を守る為に戦争をするだなんて・・・。

なぜこんなことが起こるのかと言うと、さっきの「最近の若者」と同じです。若い人は「最近の若者はなっとらん!」と言われれば、なんとなく自分を含めて言われている様な気がしてイライラするわけです。そうして、協同体社会の関係の総体と、自己自身を同一化していしまうことによって根本的な勘違いが発生するのです。それが戦争のはじまりです。

でも本当に守らなければいけないのは、「社会」という概念でもなく、「民族」という概念でもなく、人間です。そのことを、戦争をしていると忘れる様です。

そういう意味で、「戦争」ほどくだらないことはないのです。
戦争は悪だというより、幼稚です。ナンセンスです。
 

【更新】考えること、知ること。
2011.11.26 [Sat] 21:40

ブラインドの隙間から、冬の鋭い光が差し込んで目が覚めた。

最近、思い立って、一気に模様替えをしたので、朝起きて、いつもと違う空間に戸惑う。空間と言えば、カントは空間はそこに存在するのではなく理性の中にこそ存在するのだと言っていたが、それは無理やりな気がする。いや、でも、もし空間が存在しなくて、理性の中にのみ存在するのなら、それはそれでエキサイティングな気がする。

現在の宇宙が、あるいはその部分が、こうした状態であることは、過去の一連の現象が条件づけたのであり、未来のいかなる現象も逆流して条件づけることはできないと・・・そのことはすんなり理解できる。つまり、上昇的系列関係にあるということだ。今の状態があるのは、その一つ前の状態が条件づけている。その状態があるのは、その一つ前の状態が条件づけている。上昇というのは、現在から過去へと、記録を遡って(登って)行って考えるので上昇という。系列というのは、平行ではなく、一直線上に登っていけるということ。だから、なぜ僕がここに生きているのかという疑問について、上昇的系列関係で見て行けば、最終的に、現時点で僕が”信じていない者”に行きあたるわけだ。

ただ、時々、どうも無理やりな考え方だなぁと思うことがある。たとえば、上昇的系列関係で空間は広がりを〜というところなんて、もっと簡単に言えばいいのにと思う。思うだけで、過去と現在の関係をうまいように説明できないので、何も言うまい。

そこまで考えてから布団を出る。出てみたのは良いけれど、とても寒いので、足元でまるくなった布団を引っ張ってみる。僕の部屋は北側だから、ちょっと寒いのだ。この寒さをなんとかしない事には、落ち着いて本も読めない。

そんなことを考えていたら、またひと眠りしてしまった。

お昼を過ぎるころ、パスタを湯がいてから学校へむかう。その途中も、空間についてひとしきり考えていたけれど、やっぱりよく判らない。空間1を自分の周りの空間だとして、空間2がその空間の外側の空間で、空間3、空間4という広がりを持っている。そこまではまぁ、良い。それで、その思考の中で逐次に加えられる空間は、常に前の空間の限界(境界線)の条件をなす。だから、その条件の系列の総合とみなさなければならない。それは判る。でも、そのことと、理性との関係がどのように繋がっているのか、誰か判る様に説明してほしい。つまり、その先の文章が難解すぎて、僕みたいなのには理解できない。

あいにく、僕の通っている大学の先生で、そのことを説明できる先生は一人もいないみたいだ。



今日の講義は「老化」に関するもの。

人は誰でも老化する。誰だって老いて、死んでいく。死は必ずやってくる。死後の世界がどうとか、そういうのは理性が考えるのだろうか?それとも悟性が考えるのだろうか?そして僕はいつ死ぬのだろうか?(みんながみんな寿命まで生きるわけではない・・・と言う意味で)

悟性は確か、可能な経験の内の現象の間の因果性しか認めない。でも理性は可能な経験を超えて絶対的無条件者(僕が信じていない者)という理念を許容する。ということは、死後の世界がどうとかいうのは、理性が考えることなのだろう。

この時期の講義室はとても寒いのに、先生は額の汗を一生懸命ぬぐっている。先生にとって今日は暑いのだろう。僕にとっては寒いのだけれど・・・。なぜだろう・・・。

この問いに答えはない。

答えのある問いと、答えのない問いなら、どっちが好きだろうか?

僕は、答えのない問いが好きだ。だって「君の考えは間違っている!」だなんて非科学的な非難を受けることもないだろうから・・・いや、判らないけれど。

人間の人生において、もっとも考えなければならないことは、「何を考えるべきか?」という問いについて考えることであり、正直、それ以外の問いなんて取るに足らないと思う。だけど、自分だけが良ければ良いのかと言うと、それはまた別のお話。でも「社会の為に頑張らなければ!」とは思わない。

先にも書いたけど、社会とは概念であって、輪郭であり、集団であり、総体であるということ。だとするならば、実態のないものの為に頑張るというのは、頑張り方を選ぶことも出来なくて、結局憂鬱な気持ちになる。

だから、もし僕が、自分以外の為に頑張ることがあるとしたら、「社会」じゃなくて、「親しい人たち」の為にがんばりたい。いつもお世話になっている人のために考えたい。その為に実態のない社会を変えようなんて思わない。

社会が変わるのを待っているよりも、自分が変わった方がずっと早いし簡単だから。

そのうえで、不思議なことや、面白いこと、難題、そういうものについて考えていこうと思う。だって、それ以上に面白いことがこの世にあるのだろうか。お金儲けして、大金を手にしても、結局幸せは買えないんだから、だったらもう少し考えていてもいいのではないだろうか。それで幸せになれたら、僕の勝ち・・・とまぁ、勝ち負けの問題ではないのだけれど。


 

【更新】概念。
2011.11.26 [Sat] 21:30

■読書の秋に・・・。

第三次産業に従事する人口の比率が著しく伸び、新中間層が増大する高度産業社会では、他者の期待と好みに敏感である傾向によって、同調性が保証される様な社会的性格が生まれ、その社会の典型的成員へ行き渡ります。

簡単に言えば、周囲に気を使い、動向を見守り、冷静な判断をすることが望ましいとされる社会的性格です。特に最近は「感情商売」とか言われて、介護職なんか、自分の感情を押し殺して仕事しなければなりません。うーん、この表現は違うなぁ(1週間前に書いた文章を、掲載当日にもチェックしているのです)。

冷静な判断が望ましいと・・・思い込んでしまう、と言うべきですかね?

■珈琲のお共に・・・。

現代は「不安」を基盤としている・・・とよく言われます。不安を基盤たらしめるものとはどの様なものでしょうか?
いろいろあると思いますし、学術的にどうだというのも、賛否両論でしょう。特に、哲学の先生に言わせれば、不安なんて、心の持ちようだそうで・・・それも妥当性がある様な気がします。

だけど、近年、若い世代の人や、50代くらいの人に、うつ病が流行っているとか。僕の親友も、うつ病になってしまって、今も精神病院に入院しています。困ったことです。僕にとって彼は、唯一、科学と哲学の判る男だった。そんな彼が精神を病んでしまったのでは、僕の番もそう遠くない。あぁー明日は我が身。気を付けなければ。

でも昨日入院中の彼に「お前は時間を体感できる状況にいるのだから大丈夫だ!」と言われました。
うん、そうだけれど、僕だってやっぱり不安なんだよ。




僕が最も不安を感じているものは、精神的な貧困です。僕じゃありません。僕が知っている範囲の人たちのことを言っています(それ以外は知りません)。

精神・・・つまり「心」が貧しいということですね。

そういうこと言うと、近所のおばさんは言います。



「今の若い人は恵まれているじゃない、どうしてうつ病になるのかしら。考えが甘いのよ。」と。すると、さらに続けます「勉強ばかりして、そもそもあなたの様な考えの若者が多いから、私たち大人は苦労するのよ」と。

なるほど確かに、疲れている様ですね。

「もっと頭を良く使って、要領良く努力することが求められているのよ!」だそうです。

僕には、何を言っているのかさっぱり分からない。でも、これは例外ではないのかもしれない。「もっと頭を良くつかうと良い」という表現や、「要領よく努力する」という言葉を聞いて、なにも疑問を感じないようでは困る。







さて、僕は社会実在論に関しては否定的です。社会はそこに存在するか?僕は、社会は存在しないのではないかと考えています。社会学のお話です。

まず、社会とは人間が集まって共同生活を営む際に、人々の関係の総体がひとつの輪郭となって現れる場合のその集団のことを指して言うわけです。つまりそれはシステムであり、「社会」という、物理学的物体が、そこにそうしてある訳ではないのです。

それでは、僕は今まで、何を指して「社会」と呼んでいたのでしょうか?それは「概念」です。

本当に実在が確かなのは、「社会」でも、「最近の若者」でもなく、自分です。自分がここに存在していることだけは、唯一信じられることです。まぁ、哲学的に考えれば、「本当に存在しているのか?」という疑問もありますが、取り合えず無視します。面倒なことは避けたい。

それで、人は概念という便利な道具を手にしたころから、何か勘違いをする様になりました。そして概念に対して不安や恐れを抱くようになる。またはその概念を、まるで撫でる様に愛せと言うのです。

先にも言った様に、概念は所詮概念に過ぎない。どうしたってそれは、物理学的物質にかなう訳がないのです。なのに人は概念(社会、国家、国境、人種、家族、民族、など)を恐れ、大切にしろという。

そもそも、それが何を意味しているのか、そのことを正確に捉えているのでしょうか?社会とは何か、民族とは何か、国家とは・・・。僕は、どんなに考えたって、それを見ることは出来ないし、触れることは出来ない。所詮、良くわからないものなので、概念という便利な道具を使って表現したに過ぎない。

結局僕らは、人々が集まって生活しているその集団の総体を指差して「社会」だと概念づけているわけで、その内訳は、どんなに綺麗に、またはどんなに雑に分解したって、「人(個人)」なのです。そのことを絶対に忘れてはいけない。

うつ病になったのは、「最近の若者」ではなくて、「僕の親友」です。

だから、最近の若者という一纏めで、「考えが甘いから」とか言われたくない。

彼は彼でしかなくて、人は所詮、人でしかない。社会的な感情を代弁してみたって、それは個人の言葉ではない。ならば、人はその言葉に一切の責任をもてない、もしくは持たないはずだ。なら、軽はずみなことは言わないでほしい。



また本を読みながら居眠りをしてしまいました。

時々、本のページを指で押さえたまま寝てしまうことがある。

そういう時は、目が覚めたと同時に読み始めて、しばらく考えてから寝ることにしています。

取りあえず今日は疲れたのでココまでにします。
 

【更新】意味。
2011.11.24 [Thu] 12:30

今日も外は晴天で、最悪な一日です。
なぜ最悪かといえば、“晴れ”だからです。


最近、ひとしきり悩んでいることがあります。
それは「なぜ人間は意味を求めるのか?」ということです。



多くの場合、ただちょっと考えただけのことを、あたかもずっとそう思っていたかのように主張します。僕も少なからず、そういうところはあります。これはなぜでしょうか?

「本当に正しいこと」というのは、「誰が考えてもそう考えられる」ことだと思います。どんな立場の人が、どんな時代に考えても、やっぱり1+1=2なのです。もっと言えば「多くの人がそう考えていること」だからといって、それが必ず正しいということにはなりません。多くの人が1+1=5だと思っていたって、やっぱりそれは間違いなのです。

「そんなことは当たり前だよ」と思いますか?

そんな当たり前のことが判らない大人が増えているようです。
多くの大人が勘違いしていることがあります。それは「意味」がもつ本質という単純な誤解です。




言葉とは、意味を表すために、口で言ったり字に描いたりするためのものです。では、その「意味」とはなんでしょうか?つまり、あの可愛い耳のある気分屋な動物を「ネコ」と呼ぶことにした、それが普遍的な意味です。そんなこと普通は考えません。考え始めたら止まらなくなるからです。そう、最近、この世界は、考えないことによって回っているようにしか思えない。だから「誰が最初に意味を作ったのか?」なんてことも考えないわけです。

みんなが小学校で習う様な、普遍的な意味は一体だれが作ったのか?
まだ人間に知性の無かったころ、肯定を「うー」とか、否定を「うううううう」とか発音していたのは想像が付きます。でも、その意味がそこに存在するというのは、それが「わかる」というのとは、また別のお話です。だって、それだと「最初に意味ありき」ということになります。でもそんなことはあり得ない。動物の表情がコミュニケーションの一つだとするなら、その表情には意味があるでしょう。でも、その意味とはいったいなんなのか?その意味がわかるというのは、とても神秘的なことなのです。でも、じゃぁその意味ってなんなのか?めぐりめぐって戻ってくる。意味に意味なんてないのです。

物質が先で、意味が後から付与されたのであれば、ちょっとした問題が生じます。僕らは時々「人生に意味はあるか?」と問います。で、もし人生が先で、意味が後から付与されるのであれば、それは後付けの意味で、ほとんど信じられないものです。でも、この世界の多くの人は人生の意味は、きっと生まれる前から決まっていて、何か人間には分かりにくいものなのではないかと信じています。

もし神様ってのが本当にいて、僕らに命を与えているのだとしたら、神様は僕らを創り、僕らの存在を認め、それから「この動物には人間という意味を持たせよう」とやるわけで、僕らの人生に「先天的な意味」なんてものは、全くと言って存在しないことになるのです。恐ろしいことですね。

意味を先に考えてから、そのモノを作ると言うのは、かなり無理があるのです。だって、存在しないものの意味を考えるなんて、ちょっと変でしょう。だから、僕らが生まれるずっと前から、僕らが生まれた意味が決まっているなんてことは絶対にあり得ないことなのです。

ただ、もし先に意味があって、それを理解できる能力があって、それから言葉が生まれたのであれば話は別です。





さて、そもそもなんで「意味」なんて求めるのでしょうか?

人は、常に自分の存在や行い、境遇に、意味を求めます。たとえばこの前の震災を「日本の試練」と言った人がいたり、大御所落語家の死を「落語界の危機」と表した人がいます。そして今の様な世の中を「不安社会」と表現し、現象や事象に意味を上乗せしようと試みるわけです。それはなぜか?それは、人間は良くわからないものを恐れるからです。そして、良くわかる形にしたい。良くわかる意味があって、それをみんなで共有すれば安心するわけです。喫茶店や居酒屋で、大声で怒鳴っているあれは、そういう意味があるのです。

それで、その不安というのは、どこからやってくるのでしょうか?そのことが判って、なんとか出来るのであれば、人生にいちいち意味なんか設けなくても、問題ないでしょう?その問題を解決する方法は、本をいっぱい読んでいる中学生には、判るのかもしれませんね。

今日は疲れたのでココまで。
 

【更新】もしくは、その目的について。
2011.11.22 [Tue] 12:30

■結局何がしたいのか。

それはたぶん「自分の限界」を知るという作業がしたいのだと思う。いろいろ勉強してみて「困ったことになったなぁ」と思うのは、「すべてを知っている様な気分」に陥っていた自分を発見してしまうからで、その発見はとても大切。

正直、今の僕はあまりにも無知すぎる。何も知らないと言っても過言ではない。

社会学も経済学も環境学(環境経済学)も、もっと突き詰めて考えて、もっと学べば見えてくるものはあるかもしれない。思考が変化してニューロンが活性化するかもしれない。

だけど、限界はある。それはどうしたってあるのだ。

■受け入れる。

人間的で、感情的で、すぐに熱くなりやすくて、そして怒りっぽい思考型をシステム1とするならば、ちょっと深呼吸してから洞察して、目の前で起きていることをありのままに受け取らないで分解してみようと試みる思考型がシステム2だろう。そして、深く深呼吸して1日歩き回ってみて、目の前の不必要なことと必要なことを分けて置いてから、その問題の全体構造を把握しようとする思考型がシステム3だろう。

その3つのシステムがちゃんと働いてくれたらとてもうれしい。

でも、エラーは起きる。エラーを最小限に抑えるために、まず自分がエラーを起こすのだということを受け入れる必要がある。どうしたってエラーは起こる。そして、いくらかナマケモノだ。

【エラーの簡単な例】

ワインボトルが2本あって、どちらを買うかという問題。

・ワインボトルA↓

  5000円

・ワインボトルB↓

  12000円
  5000円

上の二つから選ぶなら、どっちを選ぶかと言ったら、まぁBだと思う。だけど、これは明らかにアンカリング効果。最初に12000円だって言われたら、5000円は安い気がしてくる。これは取引の時の交渉と似ているね、40万で買ってくれ!と言った後に、ひともんちゃくやってみて、「じゃぁ30万で良いよ・・・」と言えば、30万が妥当な気がしてくる。でももしかしたら「初めから30万で売るつもりだったのかもしれない」。

これは単なる経済学的なエラーだけど、実践的な生活の中では、もっと複雑かもしれない。たとえば恋愛とか。

恋愛なんてエラーの塊。むしろエラーで始まり、エラーで終わる様な気がする。これを正当化してしまうこともまた、エラーなのかもしれない。で、そのエラーは罪なのかと言ったら・・・なんとも言えない。

 

【更新】映画鑑賞のすすめ。
2011.11.20 [Sun] 12:30


■COFFEE AND CIGARETTES

先日、JIM JARMUSCH(ジム・ジャームッシュ)の映画COFFEE AND CIGARETTES(珈琲とタバコ)という映画を見ました。これは2003年の映画だと思うのですが、なぜか白黒です。ここで内容を一通り話してしまっても、たぶん「ネタバレ」とかにはならない様な気がするくらい・・・平和な映画です。

一つのテーブルを、二人もしくは三人で囲み、珈琲を飲んだりタバコを吸ったりしながら語り合う。ただそれだけのことです。この作品はショートストーリー集で、11作品の短いお話が収録されています。それぞれの作品に出てくる人々は、とても個性的だし、愛おしいキャラクターばかりです。しかもその会話の内容が「本当にどーでも良い、どっちだって構わない」内容なのです。

それなのに、出演者は豪華です。ケイト・ブランシェット、ロベルト・ベニーニ、ビル・マーレイ、アルフレド・モリーナなどなど、俳優からミュージシャンまでいます。

この映画を世の中に送り出した人、そしてこのプロジェクトに賛同した人には大変な敬意の念を抱きます。

「本当にどーでも良いYO!」

僕のお気に入りは、双子が出演しているシーン。男の子がお兄さんで、女の子が妹らしいのですが、店員さんにいろいろ質問されて、二人とも同時に応える。それは双子だから珍しくないのかもしれないけれど、毎回その回答が「YES」と「NO」ですれ違ってしまう。内容が面白いとかではなくて、そこにちゃんと「人間」がいるんだなぁと実感できるあたりが心地よい。

ただ、エンドロールまで観終わって思ったことは、この映画を好んで見る人は少ないだろうなぁと・・・。
 

【更新】インターネットの普及で・・・。
2011.11.18 [Fri] 12:30

■インターネットの普及で・・・。

インターネットの普及で、僕らの生活は飛躍的に進化して来ました。特に「情報量」が増えたことで「情報の選択の幅」が広がり、さらには「情報を発信する」という側になることも可能になりました。僕はブログを書いているから、これはインターネットを介して、社会に情報を発信していることになる。もしインターネットがなかったら、こんなことが不可能だっただろうし、僕は孤独な6畳で1人、煎餅でも齧っていたのだろうと思うのです。

情報量が増えて、さまざまな発言が飛び交う様になって、政治もさぞかし変わるだろうと、昔の人は期待しました。でも結果はあまり変わらなかった。それは「政治が悪いから」ではなくて、僕らに選択する能力、または選別する能力がないからだと思うのです。自民党と民主党があって、そのどちらが、どのような特徴を持っているのか、僕ははっきりと説明できません。もちろんそれは、それぞれに特徴がないからだと言っても良いかもしれないけれど。



ここでは「政治家だって頑張っているんだ」「だからもっと政治家を大切にしてあげてほしい」という考え方に、批判的な意見を述べるものではありません。優しさとか、情熱とか、必要とか不要とか、そういうことではなくて、単純に論理の話です。システム上に問題が発生している・・・というだけのことです。パソコンのメンテナンスと同じ?


そう言えば、文明が発展すること、それ自体に対して批判的な考えを持っている人もいますね。不可逆だからですか?いや、単純な疑問です。科学技術が発達する速度と、文化が発達する速度では、後者が遅滞するというのは理解できますが、その先をもうちょっと詳しく教えてくれる算数の先生がいたら・・・。


もしかしたら僕は、面白かったらなんでも良いのかもしれないです。今はね。

 

【更新】短縮語が嫌いだ。
2011.11.16 [Wed] 12:30


■なんでも短くしやがって。

僕は「短縮語」と「ら・抜き言葉」が非常に気になります。「ら・抜き言葉」については嫌いというよりは、ちゃんと「ら」を付けて文章を作るのが好きなのだと思います。そして短縮語は、文学の敵(ルール違反)だと思っています。

文学表現についてとやかく言うつもりはありませんが、もし上の様なことが多用される文章なのであれば、僕はその文章をわざわざ選択して読もうとは思いません。これは「偏見」ですが・・・。

■話言葉と書言葉

ときどき、「話」言葉と「書」言葉を混同している人が見受けられます。特に、ネット用語(2チャンネル用語)というものが非常に目立つ。もちろん、価値観を押し付けることは出来ませんので「ネット用語をやめろ!」とは言えません。

僕は社会学の研究の中で、「若者」にテーマを絞っていた時期があります。具体的には「若者の恣意的行動と社会的要因の解明」の様なものだったと記憶しております。なぜその様な研究をしようと思ったのかというと、僕の親友が「ネットゲーム」にハマってしまって「不登校」になってしまったからです。彼は「もともとそういう人間だった」とは思えないし、元気で明るくて、野球が大好きで、よく一緒にキャッチボールをしました。そんな彼が、他人との関わりを拒む様になってしまって、ネットゲームの世界にのみ自分の居場所を見出すようになった。僕にとっては何よりも大切な親友でしたから、もう、誰を恨んだら良いのか分からなくて。社会を恨むことにしました・・・(笑)それが、僕の社会学のはじまりでした。すべては彼のためにうんぬん。まぁその話はいずれ。

■自由・承認・尊厳

幸福を感じる為の3条件は、「自由」「承認」「尊厳」だと言われています。「自由」とは、そこに選択肢があって、選択する能力があること。「承認」は、自分以外の誰かが、自分に対して、何らかの反応を見せてくれること(いいね!とか、良くないよ!とか)。最後の「尊厳」は自己肯定感の様なものだと思います。詳しく知りたい人は「14歳からの社会学:宮台真司:世界文化社」を読んでください。僕はこの「尊厳」をパスポートだと思っています。もしくはビザ。

さまざまな人からの「承認」を受けることにより、それが「尊厳」に繋がるのです。しかし、その尊厳は地域限定だったりするのではないだろうか?と思う訳です。たとえば、インターネットの世界でも「承認」は得られます。しかも「ネット」の方が素早く承認を得ることが出来るでしょう。そうして集まった「承認」が積み重なれば「尊厳」に繋がります。ところが・・・・。

■そこで得た「尊厳」はそこでしか使えない。

社会は嘘つきかもしれません。こどもの頃「みんな仲良し」と教わったのに、社会に出てみたらそんなことはない。「嘘は泥棒のはじまり」だとも言われましたが、「嘘」をつくのは「政治家」ばかりで、誰も泥棒になんてなっていません。しまいには、国民の心を得る(盗む)ことすらできないでいるのです。

「みんな仲良し」かどうかに関して、たぶん中学生くらいになれば、大抵の人が「嘘だ!」と気が付きます。世の中にはさまざまな格差があって、差別があって、何に対しても優劣を付けられる社会です。そんな社会の中身が「みんな仲良し」な訳がありません。でも中には「信じて疑わない」子どもたちもいます。そういう子は、後になって辛い目に会います。

彼らは「みんな仲良し」の世界で「承認」を得て来た。だから「みんな仲良し」の世界の尊厳(パスポート)を持っている。でも他の友達は、こっそりと「みんな仲良しじゃない世界」のパスポートも発行していて、いつの間にか理不尽な社会にも順応していく。前者は取り残され、後者は先に進むが、そもそも「前者は取り残されたか?」「後者は先へ進んだか?」という逆倒命題の疑問も残ってしまう・・・。

ネットゲームの「尊厳」も同じだと思う。そこで得た尊厳はそこでしか使えない。

 

【更新】かたづけは精神論じゃない!
2011.11.11 [Fri] 12:30

かたづけができないのは「自分はかたづけが苦手だからだ」と思っていませんか?

そして子どもの頃に「ちゃんとかたづけなさい!」と叱られるばかりで、その方法やノウハウについては一切教えられていないのではないでしょうか?

かたづけができないのは「人格的に欠けている部分があるから」では、決してありません。

■かたづけは得意ですか?

とある研究によると、かたづけが出来る人と出来ない人との間には「性格的な差」があるとされています。しかし「こういう性格だから」かたづけが出来るとか出来ないとかの話ではなく、かたづけが出来る様になると、こういう考え方になる!というだけのことです。

かたづけが出来る人には・・・

@人の話をよく聞く。
A平均よりせっかち。
B他人に厳しいことは比較的言わない。
C時間を守る。
D決断が早い。
E持ち物管理ができる。

などの傾向があり、逆にかたづけの出来ない人には・・・

@人の話をあまり聞かない。
A自分の損得だけを考えて行動する。
B時間にルーズで遅刻常習犯。
C決断力が乏しい。
D持ち物管理ができない。

という傾向があるそうです。
(※調査者:ヒューマ/調査方法:アンケート調査 6月1日―8月2日 インターネット上で実施 3621人が回答)



■かたづけの頻度。

かたづけの出来ない人の多くは、かたづけに膨大な時間を費やしている様に思います。たとえば、僕は比較的かたづけが得意な方だと思うのですが、僕の一週間のかたづけに要する時間は約70分(1日10分程度)です。

しかも、基本的にかたづけをしない日はありません。僕の中に、「自室の基本形」というものが存在していて、毎日夕方か寝る前の10分程度で、「基本形へ戻す作業」をします。

かたづけの出来ない人の多くは、それとは対照的な考え方をしているのではないでしょうか?

洋服が散乱していたり、ゴミ箱がいっぱいになっている状態を「基本形」とし、整理整頓されている状態を「派性形」として認識すれば、人は必ず「基本形」の方で安心感を得ます。だから、「ちらかっていないと落ち着かない」という状況が無意識のうちに生まれてしまう。するとかたづけをするのも不定期で、1回に1時間や2時間もかけてしまうことになります。

ですが、「基本形(ちらかっている状態)」と「基本形進化系(もっと汚れた状態)」の境目というのは非常に分かりづらい。だから必然的に、ちらかっている部屋はもっとちらかった部屋へと進化するのだと思います。

■かたづけと情報管理

かたづけとは、情報管理の一環です。身の周りの情報が一括管理できる様にならなければ、基本的な情報はおろか、他者に関する大切な情報を管理することなど出来ません。それは社会的な信用問題に繋がります。書類をなくしてしまったり、携帯を忘れてしまったりしませんか?

では、その様な大切な情報を管理する為にはどんなことをしたら良いのでしょうか??

それはたぶん、「部屋をかたづける」以前の問題だと思います。この際、部屋の事は忘れましょう。ちらかっていても構わないです。


@ちゃんとした手帳を持ちましょう。

そしてその手帳を使って、自分の生活に必要な情報をしっかりと管理していきましょう。(もったいないからって安い手帳つかってませんか?)時間を守り、遅刻をなくすこと。それが基本です。

Aカバンの中身を把握しましょう。

必要なものと不要なものは分けて置きます。また、カバンから出したものや、これからカバンに入れるものの「定位置」をつくりましょう。(カバンから出したものをベッドの上にぽーん!はダメですよ!)カバンを知ることは、生活のパターンを知ることに繋がります。

Bパソコンのファイルを整理しましょう。

パソコンの中にある不要なファイルを整理して、バラバラになっている情報を一か所にまとめます。ファイルのタイトルが英語だったり日本語だったりする時は、必ず統一しましょう。(デスクトップが無数のファイルで埋め尽くされているのはNGです。)この作業が、いつか押し入れを整理整頓する時にすごく役立ちます。



■やっとお部屋のおかたづけ

上記のことが日常生活の中で普通にこなせるようになったら、やっと部屋のかたづけが始まります。部屋というのは意外と大きな空間です(人によってはパソコンの方が大きな空間だったりしますが)からね。いきなり部屋のかたづけをしようなんて、普通は無理なのです。カバンの中が散らかっている人で、部屋がかたづいている人はいません。

まずは小さいところから順番にやって行きます。今かたづけが出来ないからって「俺はかたづけが苦手なんだ!」って思わないでください。それは単純に「かたづけの経験」を積んでいないだけで、一生かたづけが出来ないわけではありません。かたづけにはノウハウが必要で、まず小さいところから経験を積んで下さい。

一ヶ月後には、君もかたづけマスターだ!(/ロ゜)/

「かたづけは精神論じゃない!」