『グレート・ギャツビー』 

January 24 [Wed], 2007, 15:20
米文学の古典とも評される『グレート・ギャツビー(原題:The Great Gatsby)』を、村上春樹が現代における物語として正しく再誕させた、と言っても過言ではない。
村上氏はこの小説を生涯における最も大切なものとして位置づけているが、原書を読んだことのない私ですら、読了後に感じたのは紛れもない『グレート・ギャツビー』への村上氏の愛情であった。
『グレート・ギャツビー』は一夏の物語である。
物語の舞台はニューヨークであるが、ニューヨークには日本と同様に四季がある。
四季を通して種々様々な情緒を肌で感じることのできる我々日本人にとってみれば、ともすればこの物語は、外国文学の中においても比較的感情移入しやすい部類に入るかもしれない。
更に付け加えるならば、夏という季節は、盛衰が極めて明らかな季節でもある。
視覚的観点で言っても、あるいは気温の移ろいという点で言っても。
そして何より、この盛衰を我々の心は哀しいまでに酷く、かつ美しく感じ取ってしまう。
出会いと別れ、憧憬と絶望、誕生と死など、古来夏をテーマとした万巻の物語が内包するのは、常にこの世界が我々に訴えかけるところの“儚さ”と“もののあわれ”に他ならない(もののあわれなんて、全く酷く曖昧かつ抽象的な表現だとは思うが)。
『グレート・ギャツビー』の根底を往くのは、“儚さ”という名の夢を乗せた船である。
一人の青年がその最期まで抱き続けた輝かしいまでの夢と、その夢を阻む幾多もの愛憎劇。
物語の終わりに船は終着点を迎えるが、彼岸へ辿り着いた船に乗っていたのは、表題に燦然と輝くグレート・ギャツビーという男をおいて他になかっただろう。
誰がなんと言おうと(読者にとってみれば異議などはないはずだが)、この物語は『グレート・ギャツビー』である。
これまで、『The Great Gatsby』は、『偉大なギャツビー』や『華麗なるギャツビー』など、いくつかの邦題を冠して世に送り出されたが、読了した今思うのは、やはり『The Great Gatsby』は『グレート・ギャツビー』でしかないということだ。
そして、この“グレート”こそ、我々がギャツビーという“架空”の男に与えることのできる最初で最後の花束であろう。
我々がこの社会・この世界に対してどうしようもなく抱いている不安と嘲り、そして縋りたくなるような絶対的かつ致死的なまでの愛情と憎しみを、グレートという一見すると賛辞に満ちた形容の姿を借りて、かつ秘密裏的にアイロニーを込めて彼に冠することによって(ギャツビーはこの皮肉を知っていただろうか)、初めてギャツビーは我々の隣人となり、友人となり、そして読者である我々自身となることができたのだ。

閉塞感に苛まれている我々現代人にとって、これほどまでに身近に感じられる“古典(米文学における古典それ以上の意味はない)”が他にあっただろうか。
人生のバイブルと謳われる名著は、決まって何かしらの形而上的(神的、精霊的な表現を借りることのない、我々に共通する中心概念的)な理想や観念を、その物語の通念としてひっそりとその根底に横たえているものだ(その通念が、我々にとって可視か不可視かは関係ない)。
この点で言えば、『グレート・ギャツビー』は所謂バイブルではないかもしれない。
しかしながら、『グレート・ギャツビー』の持つ人生の儚さと美しさ、そして愚直なまでの生き様の数々は、我々が人生を考えるに当たっての貴重な指針にはなるはずだ。
人生の道を示す指針は、多いに越したことはないだろう(時に応じて、指針の取捨選択は必要ではあるが)。
故に、私はこう思うのだ。
この『グレート・ギャツビー』を価値ある人生の指針として、我々はこの灰にまみれた現代を生きていくべきなのかもしれないと。
あるいは、これからの未来を。

偽善とレトリック 

December 11 [Mon], 2006, 21:38
社会の中には、あたかも真実を語るが如く、何かにつけて批判を行う人たちが少なくない。
しかし、彼等の言う真実こそ実は偽善であり(この場合の偽善とは、往々にして自虐的な記述を包含する)、彼等が偽善を語れば語るほど、その言葉は自傷行為に近づく宿命にある。
例えば障害を持つ人をお荷物と言い、例えば本心から吐露したであろう美しい言葉を嘲笑するのは、哀しいまでに醜く歪められた偽善だと私は思う。あるいは、その批判を通して、他者が自らの心情に気付くことを暗に願っているのかもしれない。
この瞬間、その願いは文字通り悲願となる。
悲しい願いだ。
虚構を恐れ、しかし一方で虚構に楽園を見出し、虚構の中へと心身ともに埋没することをも厭わない人間が、社会批判を行う際に用いる基準が虚構以外には存在しないという現実。
虚構の先に現実を見出すのが人間の想像力の偉大なるところだが、虚構を以ってしか現実を把握できないとなると、自らの所在すらも見失いかねない。
我々はどう足掻こうとも現実世界の中でしか生きていけないのだ。

Brain Storming その2 

December 10 [Sun], 2006, 23:06
さて、昨日のBrain Stormingの続き。
繰り返すが、ブレイン・ストーミングとは、あるテーマに関して、様々な学問領域で学んできた各々が、(互いの意見を否定してはいけないという前提条件の下で)、とにかく思いついたことを片端から全て発言していくという集団思考の一手段のことである。
昨晩、NHKにおいて放送された討論番組『日本の、これから』を見て、このブレイン・ストーミングの必要性をより実感するに至った。
5人のゲストコメンテーターと一般参加者数十名が一同に会して、ネット社会について討論をするという番組趣旨だったと思うが、比較的穏健な討論が行われていただけに、ある一般参加者の独善的思考の危うさが目に付く結果となってしまった。
彼は、自らの肥大化した自己顕示欲を、全国民の眼前に醜態という最悪の形で以って露見させた。
自称ミュージシャンの彼にとって、今回の番組出演は果たしてプラスとなったのだろうか。
音楽とは、どの時代においても、少なからず社会に相対するレトリックを内包し得るものであり、この点で言えば、ミュージシャンたる彼の発言も、この現代社会の抱える闇に対する隠喩と捉えれば、なるほど確かに彼の存在がそれ自体を以って我々に訴えかけたレトリックというものは、存外大きいものであったのかもしれない。
ただし、そのレトリックをレトリックとして意訳し、我々が受け止めることができるかどうかは、それこそ情報の受け手たる我々視聴者の判断にのみ委ねられるべきことであった。
これを悲劇(本人にとっては悲劇でも、他人にとっては喜劇でしかない)と断ずることは容易だが、今回のテーマである「ネット社会」を彼の発言に対するフィルターとして掲げれば、実のところ、彼の一見すると独善的な発言も、ネット社会の抱える“情報の正誤判断・取捨選択”の必要性を訴えかけるには充分な生贄であったという点において、彼の発言はあるいは賞賛され得たかもしれないという可能性を、我々は心の片隅にでも留めることができたのかもしれない。
しかし、彼が自己主張にのみ拘泥し、他者の意見を一向に組み入れようとはしなかったあの頑なな姿勢は、やはり批判されこそすれ、あの場所で賞賛の喝采を浴びることは到底不可能であった。
少しでも他者の意見を組み入れ、あるいはそれを元にして意見の汲み上げを行い、細々とした意見を大いなる本流へと注ぐことができていたならば、彼の発言は目に見えて素晴らしいものであったことだろう。
散在する小さな湧水を片端から潰していっては、大河が生まれることは決してないのだ。
ところで、ネット社会にしろ教育問題にしろ、現代社会の抱える諸問題の行き着く先は、結局はたった一つのように思えてならない。
が、その問題を解決する際の我々の姿勢はできることならば常に中庸でありたい。
一方に傾倒した思考は、独善的であり、自己中心的であり、結果として他の思考の持つ可能性の萌芽を枯死させてしまう恐れも往々にしてあるからだ。
そんなことを友人に話したら、友人は「大昔にこのことに気付いていたアリストテレスはやはり天才だったのだ」と言った。
中庸とはGolden Meanのこと。
極端な思考・姿勢は長くは続かず、それが発展へと繋がることはほとんどないと考えて差し支えないだろう。
アリストテレスが生きた時代から二千年余り。
これを以って、人間の思考は未だ進歩せずと断じてしまうのか、あるいは、社会の抱える問題の根の深さに二千年もの間拘束されつつも、それでも思考の高みを信じて歩む努力を続ける我々の勤勉さを讃えるのか(もちろんこれからも実行せねばなるまい)。
「これまでの諸問題」は、転じて「これからの諸課題」とし、まずは前向きに議論しあっていくことが、最初の第一歩として必要であろう。

Brain Storming 

December 09 [Sat], 2006, 14:21
20世紀も終盤に差し掛かった頃から、高等教育機関を中心にして静かに勃興してきた「学際」という学問の捉え方は、ただ闇雲に種々の学問領域に手を出すのではなく(これはあくまでも目的達成のための手段)、結果として一学問の枠に捉われることのない柔軟な発想を生み出すための、いわゆるひとつのブレイン・ストーミングにこそ、その真価を発揮する。
ブレイン・ストーミングとは、あるテーマに関して、様々な学問領域で学んできた各々が、互いの意見を否定してはいけないという前提条件の下で、とにかく思いついたことを片端から全て発言していくという集団思考の一手段のこと。
高等教育を受ければ受けるほど、一つの学問に専心すればするほど、どうしても我々の視野は狭くなっていってしまうと言われている。
それは自己の考え・主張こそが、揺らぐことのないたった一つの真実であると思い込んでしまうからであって、この点で言えば、学問への専心は酷く独善的思考を生み出しかねないとも言えなくはない。
ところで、就職活動において、最近の流行として「グループディスカッション」が挙げられる。
これは主に採用段階の下位において行われるわけだが、集団面接と違い、ある種マニュアルに沿うことなく受験生等の考えを深く掘り下げられる可能性があるという点で、本当の思考力や人間性(どちらも非常に胡散臭い言葉であるが)を垣間見ることができるというものらしい。
グループディスカッションには決まって前提条件がある。
事前に明示される場合もあれば、明示されない場合もある。
そんな場合は、とりあえず暗黙の了解として覚えておいた方がいいわけだが、その前提条件とはすなわち「相手の意見を否定しない」、これだけだ。
そんなの簡単じゃないか、と思うかもしれないが、これが実際なかなか難しい。
就職活動とはリクリエーションなどとは違って、いわば競争の世界だ。
競争である以上、相手を負かさなければ自分は生き残れない。
グループディスカッションを口での戦いと位置づけるならば、相手を倒すには論破しなければならず、論破するには相手の発言の弱点や矛盾点をそれこそ重箱の隅を突付くが如く指摘し続けなければならないのだが、しかし採用側はその論破すること自体を事前に禁止するのである。
こうなると、グループディスカッションと聞いて息巻いていた学生ほど困るわけだ。
否定せずに議論するのは大変なことだ。
かと言って、相手の発言全てに頷くだけなら馬鹿でもできる。周囲全てに迎合するような自己主張のない人間は、社会では無能扱いされてしまう(ほとんど実害がないだけましだが)。
ではどうやって議論すべきか。
この答えはそれこそ千差万別、人の数だけ存在するのは間違いないが、一つの答えとして提示できるものがあるとすれば、それこそがブレイン・ストーミングだ。
とにかく思いついたことは全部言う。
どうせ否定されることはないのだから何でも言ってしまう(ただし、他人を中傷するような意見や、公序良俗に反するような負の意見は言ってはいけない。人間性を疑われるからだ)。
そして、それを聞いた相手は、できることならその意見の良いところを見つけて、それを基にして更に意見を昇華させていくことである。
相手の意見に対して、減点方式ではなく、加点方式を採用するのである。
減点方式ならば、どうしても悪いところが最初に目に付いてしまうが、加点方式ならば、自然と良い点を探さなければならないからだ。
議論し合っている同士が、飛び交う意見を集団としての意見として昇華させるためには、やはり相手の意見に対する積極的な肯定の姿勢が必要不可欠ということだろう。

善意の誤用 

November 27 [Mon], 2006, 17:39
想像力の欠如した姿を垣間見た。
最早哀れむべき段階を通り越し、ただただ滑稽としか思えない。
意思疎通のできない君たちに、意思疎通に基づいた返答を期待した自分が馬鹿だったと気付く。
想像せよ。
本来ならば内に向かうはずの感情を外向に転じるには、君たちの想像しているそれより遥かに純粋な覚悟があったということを。
確かに、君たちは世俗的支配階級者としてそこにいるかもしれない。
だが、尊大なる高みから我々を見下ろす時、君たちは一体何を想像し得るのか。
君たちに我々は見えているのだろうか。
想像し、そして気付くべきである。
君たちのその毒々しくも眩い玉座の足が、いつの間にか折れかかっていることを。
ふてぶてしい態度は君たちの肉体を醜くも肥え太らせ、故にその重さを玉座の足は支え得ない。
更に、君たちが歯牙にもかけなかった小さき命、地を這う無数の醜くも矮小なる生き物たち、彼等の牙は気付かれることなく玉座の足を静かに噛み砕き、ついには君たちの素足すらも侵食してしまうということを、君たちは今この瞬間に想像し、そして恐怖しなければならない。
君たちの使う善意は善意ではない。
相手の立場をまず想像せよ。
「相手の立場になってみなさい」、これは古より父母が幼き我が子らに教え聞かせてきた言葉であるが、幾十幾百幾千もの星霜を経て尚、この教えは未だその身に苔を生さず、むしろこの現代社会においてはより一層その輝きを増すに至るのである。
人間の偉大なるところは、相手を自分と同じく尊い存在として認め、目と言葉を通じて意思疎通を図れることである。
これは大脳新皮質の産物などでは決してない。
我々には心がある。確かな心がある。
心を込めて初めて、善意は善意として相手の心に届けられるということを、君たちは知るべきだろう。

生存確認 

November 23 [Thu], 2006, 19:18
ドッコイ生きてます。

デスノ 

November 03 [Fri], 2006, 16:52
デスノート旋風巻き起こる。
満員御礼ですね。

映画自体はなかなか楽しめました。

時の止まった景色 

October 18 [Wed], 2006, 23:52
年代や性別を問わず、おそらく誰もが、小さい頃に一度は通ったことがあるだろうという場所に、駄菓子屋があるだろう。
下町風情の駄菓子屋でなくとも、趣味で開いているような小さな商店でも良い。
○○商店なんていう店が、きっと諸君等の身近なところにもあるのではないだろうか。

私の実家の近所には、かつての山形藩の盟主・最上氏が築いた霞ヶ城の城跡がある。
廃藩置県の折、江戸末期まで文字通り殿様の御殿だった各地のお城はそのほとんどが取り壊しを余儀なくされ、あるお城はその跡地を公園と変え、またあるお城は鉄道の敷設推進に伴い駅舎へとその姿を変えた。
そんな流れの中、この霞ヶ城も、霞城公園と名を変え、今では全国に何し負う桜の名所でもあり、春には多くの花見客が訪れる、地域住民の憩いの場である。
そんな霞城公園のお堀の一角に、一軒の古びた平屋がある。
私がまだ子供だった頃、そこは所謂駄菓子屋のような場所だった。
正式名称は今では最早知る由もないが、子供たちの間では通称「ばばあ店」の名で通っていた。生きてるんだか死んでるんだか分からないような、やけに動きの遅い皺くちゃのお婆さんが一人で切り盛りしていた店だったのだ。今思うと、なんて失礼な呼び方をしていたんだろうと反省する次第である。
当時、公園内の市民プールで泳いだ帰りに、あるいはお堀で釣りをした帰りに「ばばあ店」でアイスを買って食べるのが好きだった。子供だったからかもしれないが、そのアイスは結構な大きさで、暑い夏にお堀脇の水辺でかぶりつくのが何よりの楽しみだったわけだ。
ところが、そのアイスときたら、一般的な市販のアイスのはずなのだが、何故か他店でそのアイスを見たことは一度もなかった。これは今でも謎である。「ばばあ店」独自の何かしらの物流ルートでもあったのだろうか。

そんな「ばばあ店」も、今では入り口の引き戸にはカーテンが引かれてしまっている。どうも、大分前に閉店してしまったようだ。
亀よりも動きが遅く、本当に生きているのかどうかすら疑わしくなるようなあの名物お婆さんも、今はどうしていることやら。ご健在ならば嬉しいが、何せもう十数年前の話。これもまた、今では知る由もない。
「ばばあ店」の前を通る度、いつもあの大きな謎のアイスのことを思い出す。甘くて冷たいアイスの味、年中薄暗い店内、ほこりを被ったあんぱんの袋、そして情け容赦ない真夏の太陽と鳴き競う蝉の声。
私の知っている「ばばあ店」はもうないが、店の周りには今も釣りをする少年たちの姿がある。
昔も今も変わらない景色だ。

卒業 

October 14 [Sat], 2006, 22:07
大学前期卒業が決定しました。
ついにslip outです。

 

September 30 [Sat], 2006, 1:13
油っこいものを食べると、決まって胃がもたれる。
餃子、回鍋肉、青椒牛肉あたりはかなり胃に来る。
美味しいし好きなんだけど、体が拒否反応を示す。
なんとかならんもんか。
P R
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