伏見稲荷大社(京都市伏見区)20091128  

2009年12月26日(土) 12時32分
金曜の朝のTV(ズームイン)で実相院の紅葉を生中継していましたが、私も床もみじが見たくて京都に出かけました。
朝早く実相院に行きたいと思っていましたが、起きるのが遅くなって結局いつもの京都行きより遅くなってしましました。
京都東インターの出口でかなり詰まっていましたので、予定変更で中心部を避け、南側から迂回して伏見稲荷大社に10時ごろにつきました。

伏見稲荷大社もかなり人出がありました。ここは不思議な空間がいっぱいありいつ行っても飽きることが無いです。

紅葉も身頃の場所がいくつもありました。
特に山の上からは紅葉と京都の街並が一体となって絶景でした。

ただ、残念ながら曇っていたのと私の腕が悪くて写真の写りが暗くなってしまいました。


伏見稲荷大社
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所在地 京都市伏見区深草藪之内町68
位置 北緯34度58分01秒
東経135度46分23秒
主祭神 宇迦之御魂大神
社格等 式内社(名神大)・二十二社・官幣大社
創建 和銅年間(708〜715年)
本殿の様式 流造
札所等 神仏霊場 巡拝の道123番
例祭 5月3日

伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は京都市伏見区にある神社である。稲荷神を祀る全国約4万社の稲荷神社の総本宮とされる。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。

式内社(名神大)、二十二社の上七社の一社で、旧社格は官幣大社。

宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を主祭神とし、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神(しのおおかみ)を配祀して、五柱の神として祀るが、これら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化としている[1][2]。稲荷神が農業の神であるために、五穀豊穰・商売繁盛・交通安全といったご利益がある。

毎年初詣の時期は近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める。

熱田神宮(名古屋市熱田区)20091123  

2009年12月26日(土) 12時24分
モーターショーの帰り、熱田神宮を参拝してきました。
もう暗くなってきていましたので、長居はしませんでした。
本当に久々の熱田神宮でしたが、もう参拝客もそれほどおりませんでしたのゆっくりと参拝できました。



熱田神宮

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熱田神宮

熱田神宮本宮
所在地 愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1
主祭神 熱田大神(天叢雲剣)
社格等 式内社(名神大)
官幣大社
別表神社
創建 不詳
本殿の様式 神明造
例祭 6月5日(熱田祭)
主な神事 歩射神事
御煤納神事

熱田神宮(あつたじんぐう)は、愛知県名古屋市熱田区にある神社である。

概要
祭神は熱田大神であり、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ。天叢雲剣)を神体としている。同項に詳しいが、剣は壇ノ浦の戦いで遺失したとも神宮に保管されたままとも言われている。

相殿に天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命を祀る。

創建は不詳だが、景行天皇朝には、すでに土着の信仰神として存在していたらしい。

官幣大社、式内社(名神大)で、建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、1893年(明治26年)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式であった(氷上姉子神社に尾張造の建築様式が残っている)。社務所に当たる組織は熱田神宮宮庁と呼ぶ。その他施設に、宝物館、熱田神宮会館、能楽殿。熱田神宮の敷地内には愛知県神社庁がある。

東海道名所図会に、熱田大神宮と記載される。

海道記に、熱田の宮の御前を過ぐれば、とある。

東関紀行に、尾張の國熱田の宮に到りぬ、とある。また、

或人の曰く、「この宮は素盞嗚尊(すさのをのみこと)なり、初めは出雲の國に宮造りありけり。八雲立つ〔(*「)八雲たつ出雲八重垣妻籠に八重垣つくる其の八重垣を(*」)(古事記)〕と云へる大和言葉も、これより始まりけり。その後、景行天皇の御代に、この砌(みぎり)に跡を垂れ給へり。」と云へり。又曰く、「この宮の本體は、草薙と號し奉る神劒なり。景行の御子、日本武尊と申す、夷(えみし)を平げて歸りたまふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ、劒(つるぎ)は熱田に止り給ふ。」とも云へり。と記載されている。

祭神
熱田大神(あつたのおおかみ)とは草薙剣の神霊のこととされるが、明治以降の熱田神宮や明治政府の見解では、熱田大神は草薙剣を御神体とする天照大神のことであるとしている。しかし、創建の経緯などからすると日本武尊と非常にかかわりの深い神社であり、熱田大神は日本武尊のことであるとする説も根強い。

相殿には、天照大神、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命(たけいなだねのみこと)と草薙剣に縁のある神が祀られている。素盞嗚尊は、ヤマタノオロチ退治の際に、ヤマタノオロチの尾の中から草薙剣を発見し、天照大神に献上した。天照大神は、その草薙の剣を天孫降臨の際に迩迩芸命(ににぎのみこと)に授けた。日本武尊は、草薙剣を持って蝦夷征伐を行い活躍したあと、妃の宮簀媛命のもとに預けた。宮簀媛命は、熱田の地を卜定して草薙剣を祀った。建稲種命は宮簀媛命の兄で、日本武尊の蝦夷征伐に副将として従軍した。

歴史
第12代景行天皇の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の帰路に尾張へ滞在した際に、尾張国造乎止与命(おとよのみこと)の娘宮簀媛命(みやすひめのみこと)と結婚した。草薙剣を妃の手許へ留め置いた。日本武尊が能褒野で亡くなると、宮簀媛命は熱田に社地を定め、剣を奉斉鎮守したのが始まりと言われる。そのため、三種の神器のうち草薙剣は熱田に常に置かれるようになり、伊勢神宮に次ぐ権威のある神社として栄えることとなった。

名古屋モーターショー20091123  

2009年11月24日(火) 16時30分
名古屋モーターショーに行きました。

車で名古屋の中心部を抜けて行こうとしたら、ちょうど名古屋シティマラソンの時間のぶつかりました。
交通規制のためぐるぐる回らされてしまいました。
その後は順調に金城ふ頭のポートメッセなごやに到着しました。

10年ぐらい前は凄い渋滞で途中でUターンしたこともありましたが、今は高速でも行けるし、今年はそんなに動員数も多くはないのか、道路はがらがらでした。
前回の07年に比べるとちょっと寂しいモーターショーでした。
国産車では三菱、スバル、マツダの3社が出展を辞退していますし、輸入車ではフォルクスワーゲン、アウディの出展がありませんでした。

経費節減でモデルさんの数も少なく、カメラ小僧やカメラおじさんには寂しく、目玉も前回はGTーRが凄い人気でしたが、今回はレクサスのLFAぐらいでしょうか。

この経済状態ではしょうがないとはいえ、2年に1回のお祭りとしては寂しいですね。

名古屋テレビ塔(名古屋市中区栄)20091121 結婚式 

2009年11月23日(月) 21時51分
名古屋テレビ塔は毎日のように見てはいますが、名古屋の生活は10年以上でもまだ中に入ったことが無かったので、今回入ってみました。

といっても会社関係の結婚式に行ったのですが。
数年前に内部を改装してオシャレになったとは聞いてはいましたが、結婚式もやるとは知りませんでした。

地上90メートルの展望台で式を挙げ、4Fのレストランで披露宴が行われました。

夜景を見ながらの披露宴も良かったし、式や披露宴も手作り感覚で好感が持てました。

新婦の両親への挨拶なんかは、年のせいかぐっときて涙を堪えるのに必死でした。
テレビ塔の結婚式もなかなか良かったです。

名古屋テレビ塔
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用途 電波塔・展望台
設計者 内藤多仲・日建設計
施工 竹中工務店
管理運営 名古屋テレビ塔株式会社
高さ 180m
着工 1953年(昭和28年)9月19日
竣工 1954年(昭和29年)6月19日
所在地 名古屋市中区錦3丁目6-15号先
■(Template:建築物全般)
名古屋テレビ塔(なごやてれびとう)は、愛知県名古屋市中区栄の久屋大通公園に立つ、日本で最初に完成した集約電波塔。名古屋テレビ塔株式会社(Nagoya TV Tower Corporation)が保有・運営している。

概要
1953年9月19日着工、昼夜を通して工事が行われ、1954年6月19日竣工、翌日には開業・電波の発射を開始した。高さ180m。設計者は内藤多仲。名古屋市中心部のシンボルとして親しまれている。

現在はNHK(総合・教育)、中部日本放送(CBC)、東海テレビ放送(THK)、名古屋テレビ放送 通称・メ〜テレ(NBN)のVHF4局がここから地上波アナログテレビの電波を送信している[1]。

名古屋市内の繁華街ということなどもあり、一部放送局の中にはお天気カメラを設置しているところもある。

構造
地上90mにスカイデッキ、100mに金網で囲まれたスカイバルコニーがあり、名古屋市街や御嶽山などの眺望が楽しめる(展望階は有料)。3階にはレストランの他、娯楽コーナーや土産を売るショップもある。夜間にはライトアップが毎日、日没30分前-22時に行われており、ライトアップの中でもセントラルパークからのレーザー光は特に目立つ。

2006年に行われた大改装により、3階に設置されていたレストラン、娯楽コーナーや土産を売るショップは無くなり、現在はレストランが入っている。4階にはギャラリーが設置され、30mの高さからの景色は見られなくなってしまっている。

歴史

久屋大通公園からライトアップされたテレビ塔を望む。1954年 開業。当時はテレビ塔を超える高層建築物はどこにも無かった。
1956年 展望階段を使ったクライミング競争を開催。
1964年 入塔者1,000万人達成。
1968年 地上100メートルの展望バルコン完成。
1989年 ライトアップ開始。
1998年 入塔者3,000万人達成。
2003年 デイトレードで儲けた男性がテレビ塔の展望台から紙幣をばら撒く事件が発生。(名古屋ドル紙幣ばら撒き事件)
2005年 文化庁から「国土の景観に寄与しているもの」として国登録有形文化財に登録。
2006年 レストランや土産売場があったフロアを改装し、名古屋を基盤としたレストラン「ゼットン」が入居。名古屋の名所や放送文化を紹介するコーナーも設置。
2008年 NPO法人地域活性化支援センターが主催する恋人の聖地に認定される。

大徳寺(京都市北区)大仙院・高桐院 20091119 

2009年11月23日(月) 21時44分
鷹峯から近くの大徳寺に行ってみました。

大徳寺は沢庵和尚や一休さんで有名な大寺院ですが、私は今回初めてでした。
大徳寺自体は拝観できないんですね、初めて知りました。
多く塔頭の中で拝観できるのは常時できる4ヶ院と特別拝観が数ヶ所ありましたが、大仙院と高桐院の2ヶ院を拝観しました。
大仙院は写真が全面禁止でした。室内の撮影禁止はよくありますが、すべて禁止はかなり残念でした。

高桐院もあんまり期待しないで拝観しましたが、お庭も室内も紅葉も最高でした。


大徳寺
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所在地 京都府京都市北区紫野大徳寺町53
位置 北緯35度2分38.10秒
東経135度44分45.89秒
山号 龍寶山
宗派 臨済宗大徳寺派
寺格 大本山
本尊 釈迦如来
創建年 正中2年(1325年)
開基 宗峰妙超
正式名 龍寶山 大徳禅寺
文化財 方丈、唐門、絹本墨画淡彩観音猿鶴図ほか(国宝)
勅使門、三門、仏殿、法堂、木造大燈国師坐像ほか(重要文化財)
方丈庭園(非公開)(史跡・特別名勝)

大徳寺(だいとくじ)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある禅宗寺院で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号を龍寶山(りゅうほうざん)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。

京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿、法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭(たっちゅう、本山寺院の境内周辺にある関連寺院)が立ち並び、近世の雰囲気を残している。大徳寺は歴代多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物、庭園、障壁画、茶道具、中国伝来の書画など、多くの文化財を伝えている。

歴史
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)、播磨国(兵庫県)に、同国守護・赤松氏の家臣・浦上(うらのえ)氏の子として生まれた。11歳の時、地元の大寺院である書写山円教寺に入り、天台宗を学ぶが、のち禅宗にめざめ、鎌倉の高峰顕日(こうほうけんにち)、京の南浦紹明(なんぽじょうみん)に参禅。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。

その後数年、京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)(元応元年・1319年とも)、同郷の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源とされる。花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)、大徳寺を祈願所とする院宣を発している。寺院としての形態が整うのはこの頃からと思われる。

後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発した。

しかし、建武の新政が終わって足利氏が天下を取ると、後醍醐天皇と関係の深い大徳寺は足利氏から軽んぜられ、五山十刹から除かれてしまった。至徳3年(1386年)には、五山十刹の最下位に近い、十刹の第9位とされている。このため大徳寺は、政府の庇護と統制下にあり世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心する独自の道をとった。五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺、妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。

その後の大徳寺は、貴族、大名、商人、文化人など、幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う人びとが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎、千利休をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。

享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467年 - 77年)で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商らの協力をえて復興。近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けた。

江戸時代初期に幕府の統制を受け、元住持である名僧、沢庵宗彭が紫衣事件と呼ばれる流罪の圧迫を受けたが、幕府との関係ものちに回復した。寺運は栄え今日に至っている。

塔頭寺院
塔頭寺院においては拝観を認めているところと認めていないところが混在するため、訪問者においては注意が必要である。現在、大部分の塔頭で一般参詣を認めておらず、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峰院、大仙院、高桐院の4か院である(2008年現在)。

光悦寺(京都市北区)20091119 

2009年11月23日(月) 21時39分
源光庵から歩いて数分の光悦寺に行ってみました。

光悦寺のお庭の紅葉はちょっとピークは過ぎたかなという感じでしたが、
道路に面した参道はピークでまさに紅葉のトンネルでした。

駐車場のもみじも見ごたえがありました。

光悦寺
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光悦寺

光悦垣
所在地 京都府京都市北区鷹峯光悦町29
位置 北緯35度3分12.19秒
東経135度43分49.26秒
山号 大虚山
宗派 日蓮宗
創建年 明暦2年(1656年)

光悦寺(こうえつじ)は京都市北区鷹ヶ峰にある日蓮宗の寺院。山号は大虚山。親師法縁。


概要
鷹峰三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)を望む景勝地である。

江戸時代の芸術家である本阿弥光悦に元和元年(1615年)に徳川家康がこの地を与えた。『本阿弥行状記』によれば、当時は「辻斬り追い剥ぎ」の出没する物騒な土地であったという。この地に光悦の一族や様々な工芸の職人らが移り住み芸術の集落となった。光悦の死後に屋敷は寺となり、境内には光悦の墓碑がある。

境内
境内には大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の7つの茶室が散在し、庫裏に接して妙秀庵がある。これらはいずれも大正時代以降の建物である。

大虚庵 - 境内に建つ茶室。「大虚庵」は、光悦が鷹ヶ峰に営んだ居室の名称であるが、現在ある大虚庵は大正4年(1915年)に新たに建てられたもので、道具商・土橋嘉兵衛の寄付、速水宗汲の設計である。ただし、建設後に光悦会によって改造されており、正面入口の貴人口(障子3枚立て)がにじり口に変更されたほか、間取りも当初の三畳台目から四畳+二台目に変わっている。大虚庵前の竹の垣根は光悦垣またはその姿から臥牛(ねうし)垣と呼ばれ徐々に高さの変る独特のものである。
三巴亭 - 大正10年(1921年)に建てられた数奇屋建築で、八畳2室、水屋等からなる。北西の八畳は光悦堂と称し、仏壇には光悦の木像を安置する。

源光庵(京都市北区)20091119 

2009年11月23日(月) 21時31分
大原の次に鷹峯に向かいました。

源光庵の紅葉はまさにピークで見頃でした。

駐車場のもみじが特に真赤でした。

悟りの窓、迷いの窓も良かったです。




源光庵

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源光庵

所在地 京都市北区鷹峯北鷹峯町47
位置 北緯35度3分17.33秒
東経135度43分54.2秒
山号 鷹峰山
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏
創建年 1346年(貞和2年)
開基 徹翁義亨
正式名 鷹峰山 寶樹林 源光庵

源光庵(げんこうあん)は、京都市北区鷹峯(たかがみね)にある曹洞宗の寺院。山号は鷹峰山。正式には鷹峰山寶樹林源光庵という。

本尊は釈迦牟尼仏。


歴史
1346年(貞和2年)に臨済宗大徳寺の徹翁義亨の隠居所として開基。当初は復古堂と呼ばれた。その後、1694年(元禄7年)に卍山道白により曹洞宗に改宗された。

境内
本堂
1694年の建立。

天井板は伏見桃山城から移築したもので、1600年に徳川家家臣鳥居元忠らが石田三成に破れ自刃したときの跡が残り、血天井となっている。その脇に丸窓と角窓がありそれぞれ悟りの窓、迷いの窓と呼ばれている。源光庵


開山堂
1719年(享保4年)建立。

庭園
北山を借景とした枯山水。

寂光院(京都市左京区)20091119 

2009年11月23日(月) 21時27分
三千院のあと大原をぶらぶらしながら、寂光院まで歩いて行きました。

平日なのでかそんなに歩いている観光客はおらず、ありえないのですが、途中道を間違えて引返したりしてかなり歩いてしまいました。
寂光院も紅葉のピークは過ぎた感じでしたが、それでも結構楽しめました。


寂光院
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寂光院

本堂(2005年6月再建)
所在地 京都府京都市左京区大原草生町676
位置 北緯35度7分26.76秒
東経135度49分15.75秒
山号 清香山
宗派 天台宗尼寺
本尊 六万体地蔵菩薩
創建年 伝・推古天皇2年(594年)
開基 伝・聖徳太子
正式名 清香山 玉泉寺 寂光院
文化財 地蔵菩薩立像(国重文)

寂光院(じゃっこういん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。山号を清香山と称する。寺号は玉泉寺。本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は聖徳太子と伝える。平清盛の娘・建礼門院が、平家滅亡後隠棲した所であり、『平家物語』ゆかりの寺として知られる。
起源と歴史
寂光院の草創について、明確なことはわかっていない。寺伝では推古天皇2年(594年)、聖徳太子が父用明天皇の菩提のため開創したとされ、太子の乳母玉照姫(恵善尼)が初代住職であるという。しかし、江戸時代の地誌には空海開基説(『都名所図会』)、11世紀末に大原に隠棲し大原声明を完成させた融通念仏の祖良忍が開いたとの説(『京羽二重』)もある。哲学者梅原猛は、大原が小野妹子の領地であったことなどから、聖徳太子開基もありうるとしている。現在、寂光院はそうした草創伝説よりも、『平家物語』に登場する建礼門院隠棲のゆかりの地として知られている。

建礼門院徳子(1155−1213)は平清盛の娘、高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である。寿永4年(1185年)、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残り、侍女の阿波内侍とともに尼となって寂光院で余生を送った。寂光院や三千院のある大原の里は、念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地であった。平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた建礼門院をたずねて後白河法皇が寂光院を訪れるのは文治2年(1186年)のことで、この故事は『平家物語』の「大原御幸」の段において語られ、物語のテーマである「諸行無常」を象徴するエピソードとして人々に愛読された。

境内
本堂は淀殿の命で片桐且元が慶長年間(1596−1615)再興したものであったが、平成12年(2000年)5月9日の不審火で焼失した。この際、本尊の地蔵菩薩立像(重文)も焼損し、堂内にあった建礼門院と阿波内侍の張り子像(建礼門院の手紙や写経を使用して作ったものという)も焼けてしまった。現在の本堂は平成17年(2005年)6月再建された。同時に新しく作られた本尊や建礼門院と阿波内侍の像も安置されている。

宝物殿は「松智鳳殿」という名称で、平成18年(2006年)10月に開館した。建礼門院の陵墓はもともと境内地にあったが、明治以降は宮内省(現・宮内庁)の管理下に移り、境内から切り離されている。

文化財
地蔵菩薩立像(重文)−当寺の旧本尊である。寛喜元年(1229年)の作で、像高256センチの大作である。像内に3,000体以上の地蔵菩薩の小像ほか、多くの納入品を納めていた。2000年に起きた本堂の火災の際、(2007年5月9日時効成立)本体は焼損したが、像内納入品は無事で、現在も「木造地蔵菩薩立像(焼損)」の名称で、像内納入品ともども重要文化財に継続して指定されている。現在は本堂よりも高台にある収蔵庫に安置され、特定日のみ一般に公開される。
なお、新しい本尊像は財団法人美術院国宝修理所によって3年半をかけて制作され、2005年に完成した。ヒノキ材の寄木造で、旧本尊の新造時の姿を忠実に模している。建礼門院と阿波内侍の像は、もともと張り子像であったが、今回木造で作り直された。

三千院(京都市左京区)20091119 

2009年11月23日(月) 21時20分
11月19日に京都に行ってきました。
春日井インターから名神にのって、今回は最初に大原に行こうと栗東インターで降りて琵琶湖大橋を渡って大原に向かいました。
名古屋から大原まで2時間くらいでしょうか。
9時半ごろに着きましたが、平日のせいでしょうか駐車場はまだがらがらでした。
最初に三千院に向かいましたが、大原の紅葉の見ごろは過ぎた様でした。
でもまだそれなりに紅葉は楽しめました。
三千院は学生の頃何回かはきたことがありますが、それ以来なので数十年ぶりです。
どんなものがあったか、ほとんど忘れていましたが、往生極楽院はかすかに思い出しました。
三千院はなかなかいいですね、ゆっくり見て周ってついお昼過ぎまでいてしまいました。
さすが三千院です、お昼ごろには観光客でいっぱいでした、各駐車場も結構混雑していました。


三千院
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三千院

往生極楽院(重要文化財)
所在地 京都府京都市左京区大原来迎院町540
位置 北緯35度7分11.35秒
東経135度50分3.92秒
山号 魚山(ぎょざん)
宗派 天台宗
本尊 薬師如来
創建年 延暦年間(782年 - 806年)
開基 最澄
別称 三千院門跡、梶井門跡
札所等 西国薬師四十九霊場第四十五番
文化財 阿弥陀三尊坐像(国宝)
往生極楽院阿弥陀堂、木造救世観音半跏像ほか(重要文化財)

三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。三千院門跡とも称する。山号は、魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄である。

京都市街の北東山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。
歴史
三千院と往生極楽院
三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものである。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は1871年以降使われるようになったもので、それ以前は「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」などと呼ばれ、「梨本門跡」「円徳院」などの別称もあり、「円融房」が正式の寺名だったようである。一方、往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年に三千院の本坊がこの地に移転してきてから、その境内に取り込まれたものである。

境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物がある。このうち、境内南側の庭園内にある往生極楽院は12世紀に建てられた阿弥陀堂で、内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置している(三千院と往生極楽院は元来は別々の寺院であった)。

智積院(京都市東山区)20091108 

2009年11月15日(日) 21時14分
この日は特別公開の最終日でした。
特別公開という言葉には弱いので、なにが特別公開なのか良くわかりもしないんですが拝観しました。
境内では若い僧侶の方が大勢掃除をしていて、その人数の多さにちょっと驚きました。
このお寺は真言宗智山派の総本山で研修僧の研修の場ともなっているんですね。
収蔵庫には、桃山時代に長谷川等伯らによって描かれた国宝の金碧障壁画の「楓図」「桜図」「松と立葵の図」「松に秋草図」などが多数ありました。それらのレプリカが大書院にあります。レプリカは当時の色鮮やかさを再現しており、本物は色鮮やかさは薄れていますがやさしい落ち着きがありました。
特別公開なのは大書院の脇の宸殿でした。
ここには堂本印象氏の襖絵が飾られています。
お寺の襖絵としては賛否両論があったというパステルカラーの近代女性の襖絵が数点あります。
私も最初はちょっと驚きましたが、これはこれで京都の懐の深さと感じました。
まだ真新しい講堂には田渕俊夫画伯の襖絵があり、こちらも昨年奉納されたばかりの墨の濃淡で表現された襖絵で、見応えがありました。



智積院
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智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥(げんゆう)である。智山派大本山として、成田山として知られる千葉県成田市の成田山新勝寺、「川崎大師」の通称で知られる神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)及び東京都八王子市の高尾山薬王院がある。

起源と歴史
智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。

智積院は、もともと紀州(現在の和歌山県岩出市)根来山(ねごろさん)大伝法院の塔頭(たっちゅう、山内寺院)であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁(かくばん)が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。

近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥(尭性/ぎょうしょう、1529-1605)は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。

関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、復興後の智積院の寺号を「根来寺」、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」とした。

祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。

この客殿は天和2年(1682年)の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。
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プロフィール
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