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ショパンのピアノソナタ

ショパンは,ピアノソナタを生涯では3曲作ったが,最初のソナタのピアノソナタ第 1番 ハ短調を 17,18歳の時に作曲し,ピアノ技法などに凝ったものは見られるが内容的には習作の域で,ショパンは,この作品の未熟さを認識していて彼の名声確立後にこの作品の出版を申し入れられたとき,ショパンは不快感をあらわにしたといわれ,ショパンのソナタというと通常は,2番と 3番を示し,第 1番は,今日でもとりあげて演奏されることは少ない。

ショパンのピアノソナタ第2番 変ロ短調 作品 35は,第 3楽章に有名な葬送行進曲が用いられ 『 葬送 』 か 『 葬送行進曲つき 』 の副題でよく知られていて,ショパンの中期にあたる 1839年にノアンで作曲されたこのソナタは,ショパンの創作意欲の大きさを示すばかりか,ショパンの音楽形式に対する並々ならぬ才能が開花した数少ない傑作で,葬送行進曲は他の楽章に先立ち,1837年には作曲されていたようである。

このソナタに関してシューマンは 『 彼の最も狂気じみた 4人の子供を無理矢理一緒にした 』 と述べ,このソナタは,最初に完成した第 3楽章 『 葬送行進曲 』 の 2種の主題を基に,ほかの楽章のモティーフを生み出すという技法で,全曲が見事にまとめられ,内容も叙情的で力強く,この上なく独創的でもある。

ショパンのピアノソナタ第 3番 ロ短調 作品 58は,1844年に作曲して翌年出版されたピアノソナタだが,前作の 『 無理やりくくりつけた 』 と評された第 2番の 『 葬送ソナタ 』 よりも有機的な形式や壮大な規模で,ショパンの力強く雄大な一面を発揮させた傑作で,ド ペルテュイ伯爵夫人に献呈した。

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ショパンとリスト

1811年 〜 1886年 フランツ リストは,ハンガリーにショパンが生まれた翌年に生まれ,ウィーンで学んでパリの社交界に入り,ジュネーブで暮らし,ワイマールで活躍してローマで修道士となるなど生涯同じところに留まらなかったのが特徴で,リストの音楽はドイツ的,かつフランス的で,イタリア的でもある。だから 『 ハンガリーの作曲家 』 だが,民族音楽による 『 狂詩曲 』 などをのぞけば,ハンガリー的だとは言えない。

リストは,ショパンの 1歳年下の同年代でよく比較されるが,ピアニストとしての技巧性や即興性は高く評価される反面,ピアノ曲の作曲では,ショパンよりも低く見られることがよくあるが,ショパンとリストは同じピアニストでも全く別のタイプの作曲家で,同じ土俵で比較することは出来ない。

今日の 『 ピアノ リサイタル 』 の形式はリストによって完成され,それまでの演奏会は様々な聴衆の欲求をみたすために,独奏。独唱,室内楽,協奏曲,管弦楽曲が学芸会のように入れ替わるごちゃ混ぜの演奏会だった。それをピアニストが一人のソロか二人のデュエットなどのピアノ単独の演奏会を行ったのがリストで,曲をすべて暗譜で弾くという習慣もリストに由来している。

ショパンとリストは,二人とも,ピアノ協奏曲は 2曲だけで,どちらも,最初に作曲したのは 『 第 2番 』 。リストの第 1番は,円熟期の作品で 3度改定され,20歳のころのショパンの作品は古典的で,45歳のころのリストの作品は革命的。ショパンは 39歳でこの世を去ったが,リストは 74歳だった。

ショパンのピアノ協奏曲 『 第 1番ホ短調 』は ,1830年に作曲したが,出版されたのはリストと初共演した1833年で,『 第 2番ヘ短調 』 は前年の作曲だが,出版がリストと 2度目に共演した 1836年だった。この 2曲は,青年時代を過ごした故国ポーランドで創作したものだが,後年の円熟期の作品にみられる内容の深さと,作曲技巧の変化や完璧性に乏しく,後に管弦楽のパートに手を加えられたりもしたが,原作のほうがピアノパートをより生かすため,原曲まま演奏されることが多い。

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ショパン - Frederic Francois Chopin -

1810年 〜 1849年 ポーランドの首都のワルシャワ高等中学校のフランス語教師のフランス人の父とポーランド人の母のもつフレデリック フランソワ ショパンは,ワルシャワ郊外のゼラゾヴァに生まれた。

ショパンの最初の師は,母と姉のルドヴィツカ,次のジブニーはヴァイオリニスト,音楽院での師エルスナーは作曲家だったが,ジヴニーに師事して多くのバッハの作品に触れ,ショパンが 7歳の翌年に初めて作曲したポロネーズト短調がワルシャワで出版された。

『 ピアノの詩人 』 ショパンは,それまでワルシャワではピアノの専門の師匠に師事入りすることはなかったが,幼少時から有能な教師に恵まれて成長し,ワルシャワ音楽院卒業時の評価は 『 音楽の天才 』 だった。

21歳からはパリを中心に活動し,当代一のピアニストと言われたカルクブレンナーに師事。その後独自の方向に進み,人気作曲家として認められるようになり,リスト,シューマン,メンデルスゾーン,画家のドラクロワなどの同時代の有名な音楽家や芸術家と交流をしたが,女流作家ジョルジュ サンドとの共同生活は,ショパンを深く語るときには外すことは出来ない。

ショパンは,マズルカやポロネーズなどの民族的な舞曲や音楽をモチーフとした洗練されたポーランド風の音楽の作曲やワルツなどのフランス風のエスプリに富んだピアノ曲を数多く書き残したが,そのほとんどが広く親しまれ,ピアノ音楽を象徴する存在として受け入れられ,人気も高い。

ショパンが残した作品には管弦楽曲,交響曲,オペラは 曲もなく,歌曲と室内楽曲と協奏曲が数曲づつあるだけで,ほかは全てピアノ曲である。このことは特異な偏りで,この頃のヨーロッパの中流以上の家庭ではピアノが広く普及したこともあり,西洋音楽史に大きな影響をおよぼした。

ピアニストとしてのショパンは体格的には恵まれなかったが,最上級の演奏家としても認められていたが,ショパン自身は公開での演奏は好まなく,ピアノ指導者として上流階級の子女のレッスンを多く行ない,教育者としても評価が高かった。

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