私の履歴 

2006年03月31日(金) 11時04分
1944(昭和19年)12月3日 赤穂で生まれる
母親が体が弱く、お乳も出なかったので、生後100日で釣夫婦に預けられる。
 釣さんは左官を生業とし、腕にいい職人であった。ただ、そのため気位が高く、
気に入らない仕事はしょうとしなかった。子どもも私を含めて7人でまさに貧乏
人の子沢山であった。左官は当時雨のときは休みだったり、冬場はセメントが固
まってしまい、仕事にならなかった。私の小さいころは、雨の日や冬場とりわけ
正月15日までは家が、博打の集まりの場でたくさんの人が集まっていたように
思い出す。
 そういう訳で家計は火の車で、母がいつも苦労をしていた。子ども心に食べ物
については、いつも競争で早く自分のものを取っておかないとうかうかすると食
いはぐれてしまうことになる。親父は贅沢で稼ぎが少ないのに、刺身とか高いも
のが好きで母親を困らせていた。母はいつも金策に追われ、大変苦労していたと
思う。
 思い出の中に親父が競馬や競艇やパチンコで儲けると、私にハムを買ってこい
とか、ホルモンを買ってこいとか言って金を渡され、急いで買いに行ったことを
思い出す。でもそんな景気のいいときはあまりなくて、時には夕食がないときも
あった。
 私は小さいときは冬が嫌いであった。なぜならば、家にお金が入らず、いつも
ひもじい思いおしたし、12月は義士祭、1月は正月と華やかな日が続くのに、家
にお金がないので小遣いがもらえず、苦い思い出ばかりであった。
 しかし、両親は自分の子どもでない私を子どもたちと分け隔てなく扱い、かわ
いがってくれた。特に親父は小さいころ私が小児喘息の気味があったようで、と
りわけ大事にし、風呂屋にも必ず、連れて行ってくれていた。私が預かっている
子どもという責任感もあったかもしれない。兄たちが私をいじめるとかんかんに
怒り、出刃包丁を持ち出して追いまくる光景を思い出す。ただその親父の愛情も
弟英二が生まれると、徐々に弟に移り、やはり私はよその子なのだという思いが
募ってさびしい思いがした。もうその頃には小学校を卒業したら、自分の親のと
ころへ帰らなければならないと観念しだしたころでもあった
P R
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