「どうしても解せない一部『キリスト者』による言説(言動)」への
批判的検討を予告したままだったので、
この3カ月を冷静に振り返りながら少しずつ書いてみたい。
まずは、震災直後から被災地に足を運んだ
一人の牧師が、宮城県石巻市渡波町の
避難所での経験を報告したレポートから、
ご本人の許可をいただいて転載する。
そんな避難所でもっとも悪評だったのが、宗教家の布教活動であった。行政がなぜ宗教中立を主張するのか。それ行け、どんどんのように被災地で宣教する無神経さに腹を立てているからである。自分たちの教勢を拡大することに汲々とし、病んでいる人たちに感情移入していないからである。
医療関係者は末期症状の患者に接する宗教者に期待する反面、宗教者に絶望がある。宗教家に危惧すらしている。なぜならば避難場所でトラクトを配り、大きな声で祈り、布教活動をする実態に嫌悪感を抱くからである。場違いな宗教家の近視眼的な独善性に警戒感を強めている。自分たちだけが救われるなどという狭量な押し売りなど言語道断だろう。自分たちの教団、教派に対するだけの互助組合のようなボランティア活動は地元の人々から見れば、異質に映る。まさに宗教家の方が大災害だ。
……信仰者ならば募金をいくらしたとか表に出て目立つな。右の手でしたことを左の手に知らせるなと言いたい。ただ弱っている葦に行動をもって仕えよ。宗教家の売名行為はもうたくさんだ。
今回のボランティアチームの中には数名のキリスト者もいたが、いっさい伝道活動をしなかった。避難生活や、復興に関する不安に対するケアをだれがするのかという命題に対して、宗教家が本来なすべきことがあるだろう。
言うまでもなく、被災地でこれほどあからさまな
布教活動をしているのはごく一部だろう。
しかし、一般の目から見ればそれらも同じ穴のムジナ。
牧師曰く、「地域の復興なくして教会の復興はあり得ない」。
もちろん、「教会の復興こそが地域復興の要」という
考えもあり得るだろうが、それは少なくとも
被災地のニーズとかけ離れたところで教会だけが、
教会員だけが救われればいいという姿勢とは違うはず。
何より、この非常時にあって、
いのちとこころの問題を専門とする宗教者の動向が
一般社会から注目されていることは確かだろう。
以下、5月26日付「中外日報」の社説から
引用して結びに代える。
東日本大震災で支援活動における「宗教性」があらためて論議されている。その活動は「宗教者らしい」か、そこに「宗教的意義」はあるのか、といったことだ。
……読経、供養や「心のケア」といった宗教者としての活動もだが、土木作業などでも宗教者がなす支援に変わりはない。
ただ、医師などと違い宗教者は「職業」ではない。ではそこでの宗教的意義とは何か。それは決して、支援活動の機をとらえた布教といったことではなく、苦があれば行動を起こし、困っている人々に寄り添う、そのこと自体が宗教の「実践」ではないか。たとえ教えを語らなくても、苦に立ち向かう宗教者の姿に接した人々は、例えば「さすがお坊さんだ」と、生きた仏教を実感するであろう。
……この震災で、以前から野宿者や自死問題などに取り組んでいた宗教者が目覚ましい動きをしていることは既に述べた。支援活動における「宗教者性」とは、常からそのように苦に向かい、人々に寄り添う能力、姿勢そのものだろう。
供養や心のケアであれ土木作業であれ、その寄り添いが、神仏と人間との関係、「聖性」の中でとらえられ確信となっていれば、それこそが「宗教性」に違いない。




