February 18 [Sun], 2007, 4:11

私は小学校から中学校にかけていじめを受けていた。
たいてい女相手に虐めるのは同性の女の子ってケースが多い中、私は男子から陰険ないじめにあっていた。
小学生時代は私の高い身長と傲慢な性格が大きな原因だと思われる。男女混合でも私が学年で一番長身だった。
中学時代は中学1年で東京から北関東のド田舎に引っ越したから。向こうの人からみて東京から来た子と見られ、嫌煙されたのがきっかけ。そして私の一つ上の兄が後輩に甘すぎたせいで兄妹揃って私の学年の男子にからかわれるようなことがあった。気の弱かった私にはそれがいじめにまで発展した。
主ないじめは悪口を書いた紙をクラスに回されることや、所有物になんらかのイタズラ、しかもいじめと見られない程度の精神的苦痛を与えるようなことをするのがイジメだった。
あまりの遠まわし具合にムカついてキレ、そのイジメをしている男子の机を思いっきり破壊まではしないが、そいつらの面前で蹴り飛ばしたら、ぱったりとイジメは収まり、その対象は他の女の子に行ったけど・・・そのこは不登校になって卒業まで保健室登校になったりしたのは別の話。

短い高校時代は男子がすっごーーーく少ない高校だったため、男子と接する機会が無かった。予備校は友達未満、知り合い以上の男子しか居なかった。
かといって恋人が居なかったわけでもないんだけど、彼氏となる人は友達という前提ではなく、何となくビビっときたからそういう雰囲気の関係・・・と置いているから、友達ともカウントしないでおく
だから大学に入ってできた男友達が本当の男友達と考えている。
男女関係無く、くっだらない話をゲラゲラとできる男友達が大学で初めてできた。
それは大学生となり、精神の成長の遅い男の子も大人になったからだろうか、男子だから、女子だからと分別して話しをすることが少なくなった。これも大学という場所やそこに集まる人間のおかげかな。



んで、中学時代に私は一度だけイジメをしているといわれた行為をしたことがある。
私は決して他者の意思に従わず、自分の思った行為しかしない人間だった。
今でもそうだけど、中学時代は私がいじめられてたこともあってか、そういう集団でのシカト行為などがどうしても理解できなかったため、「○○さんのことシカトして」と言われても私だけは学年全員が嫌っている子だろうと普通に話しかけられれば話をした。それまで通りに接した。
シカトしないと私もそのシカト対象に入れるといわれても大して気にしなかった。
そんなこんなで私は絶対的な中立的立場の人間で、お人好しで、誰にも絶対シカトはしない人間だと学年の女子の中では一風変わった風に見られていた。
そんな中私はとある一人の子だけ、話をしなかった。
シカトではない。話をしていると苦痛だったから、本人に面と向かって宣言してから会話を遠ざけたまでだ。
中学2年のとき、私の社宅?の隣の家に同い年の女の子が東京から引っ越してきた。
同じ東京からということもあり、結構仲良くなり中学への登下校を半年ばかり毎日一緒にしていた。
だけど一緒に通学しだしてすぐに気づいたことがあった。そのこは自分の自慢と他人の悪口でしか会話を成立することができない子なんだと。
最初はガマンしてそれなりに会話を誘導しようとした。だけど無駄だった。
そしてその悪口はどんどんエスカレートしていき、私の親友にまで至った。
親友はちょっと癖のある子が多く、私の親友に対する悪口がそのこはお気に召したようで、しょっちゅうしていた。
私自身を悪く言うのはいい。だけど、友達の悪口だけは許せなかった。
私は我慢の限界が来たとき、彼女に「貴方と喋ると気分が悪くなるから一緒に登下校しない」と宣言した。
そのこと喋る機会は登下校のときしかなかったから、一緒に登下校をやめるだけで十分だった。
登下校は私と彼女二人だけではなく、他の子も沢山いたのだが、他の子もその子に譲って私はいつも一人で登下校をした。
それを面白がったのが同じ学年の女子達。
誰も嫌わない、シカトしない私が特定の人物を無視している
それが噂になり、真意を問いただされた。私はただ「私が彼女との会話が不快に感じるだけだから、皆に関係無いから気にするな」と答えた。
だが甘かった。
面白いことに飢えている女子達はその不快をすぐに見つけ出し、学年全員が彼女をシカトした。
気がついたらそのリーダーがなぜか私とされてしまっていた。
教唆したつもりはないんだが・・・・

それが社宅内までやってきた。
隣の家のお父さんとウチの父は課は違えど、彼女のお父さんに比べて私の父はずいぶんと高い位置にいる人間だった。だから奥様同士も、高い位置に居る奥様には敬ってそれなりの態度をとらなければならなかったみたいだ。
だが母は隣の奥さんに屈辱の言葉を浴びせられる毎日だったらしい。
毎日家の階段の前で立ち話をされ、外にも出にくい状況を作られ、話をすると酷い言葉を浴びせられるようになった。
そしてある日私と母が他愛ないことで口論になったときにヒステリーをおこした母が私に言った。
「アンタがお隣の子を虐めるから私がこんな目にあうんでしょ!!!」と
社宅ではそういう風に話が通っているとは思いもしなかった。
私は母に彼女と話しをしない理由をきちんと話したのに、興奮した母は私の首を絞めてかかってきた。
力で勝っていた私は母の手から逃げ出して逃げ込んだ台所で包丁を振り回すということになり、まぁ兄が出てきて私がシメられ、事なきを得たんだが・・・いや、私は兄にリンチされたけど・・・

中学時代、こんなことがあり、私はお人好しだけど、精神を害される相手とは話をしないという性格になった。

ちなみに母は、その騒動以降、毎日習い事を作ってご近所づきあいを止めた結果、ずいぶんと性格も明るくなって近所を気にしなくなった。
大団円とまではいかないが、そこのところはまぁ、こんな感じで落ち着いたのかな。

5 

January 23 [Tue], 2007, 22:12

大学に受かったらやっていい・・・という約束事があった。それはプチ整形。
前にも書いたが、私の化粧1時間という中の30分以上はアイプチの時間だ。
のり状の液体をまぶたに塗って乾かして・・・塗って乾かして・・・3〜4回繰り返すと普通の二重の人と同じような二重になる。まぶた同士を貼り付けるタイプじゃないからソレくらい時間がかかる。
それが億劫で化粧が面倒くさくなり、外に出ないこともあったから、大学に入ってこの化粧をするのはかなりの労働だ。
だから、大学に受かったら自腹でするからしてもいいか?と親に聞いた。
もちろん親は「no」の一言。
まぁ当たり前だ。ピアスをするだけで卒倒し、怒鳴りつけてくる人たちだから。
でも、どうしてもだめと言ったら私は大学に行かない。行かなかったら人生は閉ざされる。そしたら自殺するから。
私の脅し文句はこれだ。「死んでやる。」
小学生の頃、決意したときからいつでも死んでもいいと思っていた。親も私の本気の一面を見ているからしぶしぶyesというしかなかったのだろう。
まぁでもそのおかげで今私がこうしていられて、親もまぁ、、、学費は大変だろうけど、病んだ娘が少しずつ復帰していっているのだから、良いと思っているのだと勝手に解釈しよう。
プチ整形で目を埋没法で二重にした。
2万・・・くらいだったか、かなり安くてびっくりしたし、医師も上手い人だったからか、腫れることなく綺麗な形の二重になった。
翌々日に予備校へ行ってもアイプチの私と整形後の私の違いを誰も気がつかないほどに見事にしてくれた。
あそこの医院のあの医師には本当に感謝したい。
で、大学に入ることにより一人暮らしをすることとなった。

家は昔から出たいと思っていた。
親とよく私は喧嘩をした。母との喧嘩は、私の心の弱さは母のせいだと一番身近な母に当たった。
私が自由に生きることができなかったのは父のせいだと、仕事から帰ってきた父にあたった。
何て親不孝だと私は思う。
そんな家から私は出て、それまで全て親任せだったことを自分でするようになった。
家事、銀行などの振込み、大学への道のりも送りや迎えなどない。
車の生活メインで歩くことなど殆ど無かったが、歩いて駅まで行き、電車に乗ってまた歩いて・・・
辛いときも病院へ薬を貰いに親に頼むこともできない。頑張って自分でいろんなことをしだした。
そしたら私は、実家に帰っても親に当たることは少なくなった。親も私に対してずいぶんとおおらかになってきたと思う。
一人の時間が増えたから、やはり病むときにはかなりどん底まで落ちる。
だけど、大学へ行くと友達が居る。とても良い友達を沢山持った。
それまでは女の子しか居なかったが、男友達もできた。それは後日書くとする。

好きな事を学び、将来のために勉強を今頑張っている。大学2年の終わりが今だ。
ちなみに試験中でもあり、実は明日二つの試験がある。まぁ、当日の朝講義内容をおさらいして把握すればあとは試験中に考えながら文章を書けば単位はもらえるだろう。問題は理解しているかしていないかだ。
暗記するということは私は嫌いだ。
記憶力はかなり良いほうで、中学時代2時間で社会の教科書全てを暗記したことがある。
だけど、大学の勉強は暗記ではない。理解し、どう解釈するか、どう説明するか。
事前に文章を作ってそれを暗記したのでは効率が悪いから私はそれはしない。

大学の二年、つまり今年度はずいぶんと波乱の年だった。一年のときに一番信頼していた友達の裏切りというか、それっぽいことがあった。
その子も精神が不安定な子であり、2年になって性格が一変してしまい、急に超ド級な真面目ちゃんになった彼女から見て、ちゃらんぽらんで不真面目で、言っている事もやっていることも少し変わっていて、授業中寝てるかケータイでゲームをしているかしていて、でも試験でちゃんと単位を取っている私がいやだったのだろう。
というか人を見下して生きて生きたいから努力している子なのだが、自身は努力しているのに努力せずに同等な位置に居る私がいやなのだろうか。
消して私は努力していないわけではない。今でも病院通いはとまらず、ときたま自傷もある。薬なくして眠ることもできない。そんな精神の弱い自身と葛藤しながら生きているから大学もたまにはおろそかになる。
それだけだ。だが大学を休む=サボリ=不真面目に見れるらしい。
一応大学の友人には病気のことは話してあるんだがー・・・まぁ理解は難しいらしい。偏見もあまりない。たまにあるけど。でも大して気にしない。
視界の狭い人間だと思えばいいだけのことだから。

そんな波乱の一年だった。その友人とは今は距離を置いている。話すとこちらが不愉快になるから。
不愉快なものの存在には近づかない。
このことと男友達について次、話したいかな。

4 

January 23 [Tue], 2007, 21:38

車は昔から好きだった。
車の種類を見るのも好きだし、あとは助手席に座って運転見たりするのも好きだった。
ど田舎で車が無いと不便な場所でもあった。
だからどうしても免許が欲しかった。
父親は車の免許を取ることを反対した。女はこんなもの持って無くてもいいと。
だけど、母が珍しく助言をしてくれた。
「田舎じゃ免許も嫁入り道具の一つだし、ここじゃ免許無いと不便でしょう。」
その助言と、私の半分脅迫めいたことで免許の取得を許可貰い、教習所へと入った。
教習所は丁度高校三年が免許を取るのに混雑している時期で、私としては苦痛ではあった。
だけどそれもリハビリの一環だと思って頑張った。
ガマンして、教習所に通って、やっと気がついた。他人は私のことなんて見ていない。
自分のこれまでの恐怖感はただの勘違いだと。

そしたら、教習所程度の人の中だと平気になった。
あとは、昼夜逆転が戻った。戻ったというよりも、それまでは昼間、太陽の出ている時間に起きていると、皆が仕事や勉強をしている時間に何もしないでおきている自分を自己嫌悪し、死にたくなるからあえて昼寝て夜おきていた。
朝5時に起きて教習所に駆け込み、キャンセル待ちを予約し、もう一度家に戻って化粧をし、朝9時にはまた教習所に行き、朝から夕方まで教習所に缶詰状態で通った。
合宿でもないのに、1ヶ月かからずに教習所を終わらせたのはすごいと今からだと思う。
教習所の中でもちょっとしたことが少しあった。
私は自分の顔が究極的に醜いと思っていた。
化粧の時間は1時間、母から言えば化粧前もあともあまり変化は無いとのことらしいが・・・でも顔がブサイクだからみんな私の悪口を言っていると思った。
教習所で実習の最中、コンタクトが目に入らず眼鏡で実習を受けていたとき教官がこういった。「あんたは目が綺麗なんだから、眼鏡なんかしたらもったいないよ」
まぁセクハラの一種だろうけど、オッサンがサラリと言った言葉にウソがあまり感じられなかった。このことで私の醜形恐怖もずいぶんと和らいだ。

教習所を出て、すぐ免許センターに行き、一発で免許は取れた。これも自信になった。
何をやってもだめだから生きている意味なんて無いって思ってたけど、落ちている人が居る中、私は一発で闇校も行かずに受かってる。

その次の月から私は予備校に通いだした。
丁度3月、予備校側としても大学受験のカリキュラムが一からスタートする時期、タイミングも丁度良く、また担任も変わってもらうことによって気が楽になった。
それまでの予備校の担任はやめた高校の担任に似ており、気分的にいやだった。見たくなかった。

予備校の行き道は私が運転をする。
そして同行させた母に車を乗って帰らせ、帰りは電車で帰宅をするという生活をした。
電車に乗るには駅を通る。駅ビルが沢山ある、人ごみの中。帰りだけ。少しずつ、その人ごみもなれた。
慣れたら駅ビルで買い物をして帰るようにもなった。
予備校でとても良い友達ができた。誰に対しても優しく、おおらかで、気立てがよく面倒見の良い年下の子。
色んな年齢の子が居る予備校だった。
不登校の中学生、30手前の大学受験生。
18というとてもメジャーな年齢の私はすぐにその空気に馴染んだ。

そして、その予備校や、友達、過去の私の苦労を振り返ることがそのときになってやっとできるようになり、将来の方向も何となく定まった。
それまではパソコン関係に進もうとしていたが、急遽それを文系の法学部への道をとったのだ。

私のような心に闇持つ子供を学校で作らせたくない。もし作ってしまったら、その先で受け止めて、太陽のもとへと戻してやりたい。
世界はそんなに悪いもんじゃない。色んな人も居るけど、でもそれを乗り切るコツを教えたい。

そう心に決めて、大学を受験まで至った。19歳の冬、私立大学の法学部に私は受かった。

3 

January 18 [Thu], 2007, 20:25

隣の県に引越し、私は中学、予備校の友達と離れることとなった。
そして一度も足にしたことのない土地に父と母と私、三人暮らしとなった。
兄は大学生となり、一人暮らしのために家から出て行ったため、父の転勤に私と母がついていく形になったのだ。
その引越し先の近くにも通っていた予備校の同系列の予備校があったため、そちらに転校という形で私は予備校生を継続した。
だが、それはうまくいかなかった。

引越しのストレスにより、完全な不眠症に陥ってしまい、また強迫観念や被害妄想が強まり外に出ること、他人と接することができなくなってしまった。
一度頑張って街中に出たことがあった。そのときほど死にたいと思ったことは無い。
通り過ぎる人々がみんな私の悪口を言っているように聞こえた。

私は完全に引きこもりとなった。2週間に1度、精神科に薬を貰いに行く以外は家から出ない。
時には精神科に行くことすらできなかった。
深夜にいきなり吐血してしまったこともある。
ストレスが身体も蝕み始めた。

自殺行為まがいのことも日々エスカレートしていった。処方薬はいくら飲んでも死なない。
そんなことはもう知っていた。ベゲAとかじゃないかぎり何シート飲んでもかまわない。
アモキサンを10シート飲んだこともあった。
それ以降、私は心臓の具合が余りよくない。時折酷い動悸がすることもある。
完全な脱水症状で腸閉塞寸前まで陥ったこともある。

首吊りもしたこともあった。まぁ、壁のフックが壊れて終わったんだけど。

その頃から、リストバンドを巻いている私を怪訝に見るようになった母を気にしてカットする場所もリストから足へと移行した。足の付け根。
今でもその傷はどうしても消えない。でも、これは過去の私の苦悩と葛藤を乗り切った勲章として見る度に勇気付けられる。必要に迫られない限り無理に消そうとは思わない。
(温泉に入れないのは厳しいけれど)
あとは自傷の一環としてピアスもすごいこととなっていた。酷いときは15個くらい耳にあいていただろうか。今では8個に収まっているが、そのとき明けたインダストリアルというピアスは今でも外さずに大切にしている。
このピアスが私に力をくれたのかもしれない。
インダストリアルとは、耳の二箇所のホールを一本の長いバーベルで貫通しているピアスのことで、ずいぶんと威圧的な印象を受けるピアスだ。このピアスを開けてから少し自分に自信とまではいかないが、周りの人間が怖いと感じることが少なくなっていった

色んな自傷行為をして、身体を酷使して、完全に精神を病んで1年、私はその状態から脱出できることができた。

きっかけは自動車の免許を取るために教習所に通い始めたことだった

2 

January 18 [Thu], 2007, 5:13

その電話をしてから数日間、私はネットでの鬱病診断などをいくつかやった。
そしたら殆どの結果が今すぐ病院へ・・・という結果だった。
母に「精神科に一度行っておきたい」と告げると母は顔色を変えて私を止めた。
母も以前に精神科にお世話になったことのある人間なのだが、医者に行くのを究極的に嫌がる人だったからだ。
鬱らしき症状は昔からあった。それも小学生の頃から。
その頃は日々死ぬことばかりを考えている程度だった。そして落ち込んで、夜中一人で布団の中で泣いて、それに気づいた母が散歩に連れ出してくれたりして何とかしていた。
中学時代はそれもゆかず、内科で精神的な部分を見てもらっていた。
もう、そのときの私には、家族を信用することすらできなかった。
ただただ、苦しくて、助けてほしくて、精神科に行きたいといったのに、それすらも親はダメだと言い出した。
その頃からだろうか、私はリストカットを始めた。
初めてリスカを行ったときには涙と共になぜか笑みがこぼれた。
赤い血が滴るのを見て、とても安堵できたからだ。

私はまだ生きてるんだ

リスカをするたびに私はどんどん勇気付けられていった。
まだ生きている。まだ生きてる。
私は腕を切った。首にカッターを突き刺した。
沢山血を流したのに生きている。
もう怖いものなんて無い。おびえることなんて無い

私は母の反対を押し切り、母から保険証を奪って病院に行こうとした。すると母は病院まで着いてきてくれた。

初診ということで、私の診察は一番最後の時間となった。
4時から30分ほどの診察予定だったのに、結局6時までかかった。
泣きながら話す私を、お医者さんはなだめながら全てのことを聞いてくれた。
そこで自分で気がついていなかった、いろんなことが判明した。
家庭環境
母のヒステリー
父の単身赴任
兄の絶対的支配と監視、そして暴力
学校環境
特待生としての期待とそれを裏切る高校生活
担任の態度
友達の裏切り
電車内での事件(痴漢、他校の女子高生に喧嘩を売られるなど)

そのほか色々あった。幼い頃からのために溜めたものがこのときになって一気に爆発したのだ。

2時間お医者さんは話を聞いてくれた。そして抗鬱剤と安定剤を処方され、そのときを過ごした。


医者に通って数週間、母がある日こんなことを言い出した
「そろそろ病院いかなくてもいいでしょ?」
私は何を言っているんだと最初は耳を疑った。
その数週間も私は薬を飲みつつ、リスカ、ネックカットを繰り返していた。
そんな中の一声だった。
その一言で私は何かが崩れた。

母は病院を行くことを赦してくれた時点で私のことを理解してくれていると思っていたから、その母の一言で私は一気に落胆した。
母は全然私を理解していてはくれなかった。
その場しのぎで病院にいけば私の機嫌が良くなると思ってたのだろう。
だが、私は本気で治療するつもりで病院にいった。
薬も長期間服用を続けるタイプの薬だった。
こんな時期に薬を絶ったら反動がくるに決まっている。

そんな説明を私は一言も母にせず、その日実行に移した。
余った薬を全部飲んだ。


といっても、今から思えば笑えるほど少量だ。
抗鬱剤や安定剤を3シートほど。
本当に笑えてしまう量だ。
そして翌日脱水症状で苦しんだ。

数日からだのだるさが抜けず、ベッドの中で水だけを飲んで過ごしていた。
そして私はある日、おもむろに立ち上がると部屋のパソコンの電源を入れてヤフーを開いた。

そして母に宣言した
「私高校辞めるから。それで大検とる。その予備校も決めて資料を頼んだから」
母は寝たきりで泣いているか血を流している娘がある日いきなりそんなことを言い出したことに驚いたらしい。
「こんなに自主的行動力がある子だっただろうか?と驚いたよ」と最近になって過去を振り返ると母は毎回これを言う。
そしてすぐ私は高校をやめてその三日後には予備校の面接へ向かい、翌週に予備校に通いだした。
予備校への電車はやはり怖いものがあったが、縛り付けられた世界じゃないと思うと気が楽で、途中下車をして休みつつ予備校へ行き、予備校でも好きに勉強をしていた。
皆がみんな一人で勉強をしていたから一人が苦痛じゃなかった。
高校時代のように、周りの目を気にして無理やり群れに入る必要も無い。
満喫した予備校時代を送っていた。
趣味がいくつもでき、趣味に伴うスキルもできた。
趣味の友達も増えてファッションも、化粧も髪型も、抑えていた自分を解放して楽しんだ。
予備校でも数人の友達ができた。

そんななか私に死刑勧告が言い渡された。


父の転勤で隣の県に引っ越すということだった。

1 

January 18 [Thu], 2007, 5:00

あれは15の秋、私は医者から貰っていた向精神薬を全て飲み干した。
生まれてはじめての、本格的な自殺だった。
本気でこれで死ねるとあの頃の私は信じていた。


その翌日の朝、私は普段より4時間ほど遅く目を覚ました。
そのときの絶望感、そして後悔、身体の不調・・・
体中の粘膜が乾き、胸が痛んだ。
枕元に置いてあるペットボトルに手を伸ばすと、隣の部屋で電話をしている母の声が聞こえた。
あの対応の仕方はあそこからの電話だ。
そう、高校からの電話。



私は高校一年の秋から高校へまったく行っていなかった。
理由は?と問われれば、特に答えられないのが実状だった。
本当に理由が無いわけではない。そのときの私はその理由が理由で休んでいるとは思っても居なかったからだ。
ただただ、高校へ行くのに恐怖を覚えた。
親が駅まで送り届けても、そこから歩いて自宅に帰ったこともあった。
途中の駅で降りてUターンして戻ってくることもあった。
高校の最寄駅まで行って待合室に座り込んで家に帰ったこともある。
それほど学校が怖かった。

そしてある日を境に私はぱったりと高校へとは行かなくなった。

運悪くも私はその高校へとは学業特待生として入学していた。だから先生も期待していたのだろうか、ひっきりなしに電話がかかってくる。
「そろそろこないと単位が危ない」9月の下旬にそれを言い出した。それが私のストレスの一つともなった。
「もう、本当に出てこないと進級できない」そう言われたのが11月下旬だったか、2ヶ月の間ずっと私は脅迫まがいな「出て来い」宣告を受け続けて、その頃にはもう何も考えることさえできずにいた。
たまりに溜まったストレスは限界まで達していたのだから。。。

10月くらいのことだろうか、私は一度先生に電話を変われといわれ、無理やり電話に出されたことがあった。
そのとき私は電話で先生の声を聞いたとたんに号泣しだした。
明らかに先生は引いていた。進学校の進学科、エリートばかりでこんな生徒はこれまでに居なかったのだろう。泣く私を異物でも見るかのような口調で話しを流そうとしていたのを今でも覚えている。
そのとき初めて私は気がついた。そして気がついたことを口にしてみた。
『もしかして私鬱病なのかもしれません』
その言葉を口にしてしまった瞬間、涙が止まらず、電話を続けることが不可能になった。


P R
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21歳女子大生が過去を語る。
あの頃の私があって、今の、そして将来の私がある。
そのことを忘れないためにも、過去の私を覚えておきたい。
そんなことを思いついて私はこのブログを立ち上げた。

未来の私、参考になりますか?21歳の私より。
2007年02月
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