青森県むつ市 斗南藩史跡1

December 17 [Sat], 2016, 7:00
会津戦争終結後、謹慎を経て会津松平家復興を許され、
陸奥国東部(北郡、三戸郡、五戸郡)に立藩したのが斗南藩

立藩にあたり、旧領の猪苗代旧盛岡領の選択を許され、
家臣らの激論の末に後者に決定されました。
これは同じ3万石ならば、土地が広い方が開墾の延び代があることと、
海に面して貿易に有利な事を考慮されたようです。

藩名を漢詩の「北斗以南皆帝州」にちなんで斗南藩と命名しますが、
南(薩長)と斗(戦う)」という隠れた意味もあったという説があるらしい。

むつ市大湊には、斗南藩士が上陸したことを記念する碑があります。

斗南藩士上陸之地」。
会津若松市の慶山石で造られた記念碑。
説明板には新潟より海路でこの地に上陸したと書かれていますが、
移住第一陣300名は、明治3年4月19日に八戸に上陸となっていますし、
同年10月の藩士家族の移住は陸路であったようですので、
所領決定後の領内調査の際に、旧藩士らが上陸した場所ということでしょう。

大湊は天然の良港で、北前船の風待港として栄えており、
藩庁を設置するに適した場所だった事でしょう。
また下北半島の山々は、日本三大美林「青森ヒバ」で覆われ、
無数の良木が生い茂っていました。
しかし、斗南藩はその良地の特色を生かさなかったようです。

米経済に馴れた旧会津藩は、開墾に力を注ぎますが、
極寒の下北半島は稲作に適しません。
薩摩・長州の経済が、前々から米から金に切り替えて潤っていた事を、
知らなかったのでしょうか?
大湊に寄港する北前船等を相手に商売をし、
ヒバの巨木を伐採して良木を売って財政に当てれば、
飢えで命を落とす藩士もいなかったのではないでしょうか?

大湊から北に向かい「むつ運動公園」の東側にある呑香稲荷神社へ。

ここには柴五郎の住んでいた場所があります。
柴は義和団の乱北京籠城戦実質的総指揮官で、
日本を含む8ヶ国が北京に籠城した際、英、仏、中国語等を話せる柴は、
各国をまとめて約2ヶ月に及ぶ籠城戦に勝利します。
この活躍で各国の称賛を浴び「リュウトナンコロネル・シバ柴中佐)」と称されました。
ちなみに柴は、下関要塞司令官にも任命されています。

細道に入って少し進むと、赤い鳥居が見えます。

呑香稲荷神社」。
移住したばかりの柴家がこの神社で雨露(というより雪)をしのいだ場所です。
俵やムシロにくるまって眠れぬ夜を過ごしたとされます。


斗南藩柴五郎一家居住跡」。
呑香稲荷神社で越冬した一家は、ここに住居を建てたようです。
父の柴佐多蔵は「ここは戦場なるぞ 会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と言ったとか。
案内板には、「斗南士族の胸中には「まこと流罪に他ならず、
挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか
」という
憎悪と怨念が残るのみであった
」と書かれていますが、
ここを選んだのは藩重臣達で、それに関して恨むのは筋違いな気もします。


↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村
Comment
小文字 太字 斜体 下線 取り消し線 左寄せ 中央揃え 右寄せ テキストカラー 絵文字 プレビューON/OFF
利用規約に同意
 X 
禁止事項とご注意
※本名・メールアドレス・住所・電話番号など、個人が特定できる情報の入力は行わないでください。
「ヤプログ!利用規約 第9条 禁止事項」に該当するコメントは禁止します。
「ヤプログ!利用規約」に同意の上、コメントを送信してください。
プロフィール
  • プロフィール画像
  • ニックネーム:kii
  • 性別:男性
  • 誕生日:1973年8月25日
  • 血液型:A型
  • 現住所:山口県
  • 職業:会社員
読者になる
HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
2016年12月
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
P R
http://yaplog.jp/shigekikou/index1_0.rdf